Monday, August 31, 2009

会議は踊るか?

 大方の予想通りの結果となった衆議院議員選挙。この期に及んでも「これから日本は大変なことになると強い危惧を持っている」なんて発言する元大臣のただの人が多くて面白い。彼らは落選したということをなんだと思っているのか。俺は否定されたけれど国民の選択は間違ったと言いたいのだろうか。それを言い始めると選挙制度の理念そのもの、国民主権というものを踏み外す。悔しい中での負け惜しみかもしれないが、それが言葉として出てくるというあたりに、偏った選民思想が根深いように思う。民主主義とは、一部の生まれつき優秀で高潔で優れた教育を受けた賢い人たちが愚かな民を導くのではなく、愚かかもしれないが多数の声で国が進んでいくというものなのである。日本の場合間接民主主義で、優秀だと思う人に進路を託すのだ。その託して導かれた結果にうんざりしたから否定して、新たな船頭を雇おうとしたのだから、それを尊重せずにどうする。それを否定するなら、貴族院議院制に変える努力をするべきだ。そんな思想も根性もなくて「民主党だと未来は悲惨だ」なんてことを、選挙中ならともかく、選挙後に口走るのは品性の程度が知れるというものだ。

 で、結果としては308議席という民主党の圧勝。だが、自公政権と較べるとやや少なく、社民とかの力を借りないと、2/3での衆院議決もできなければ、参院での多数も確保できない。だから民主党がマニフェストを断行することにはハードルもあり、簡単な舵取りとは言い切れないわけだが、社民党がすでに浮ついた感じの言動を漏らしているのが面白いところだ。これからの党内の段取りを経て連立に参加するのかを決めるわけだがと断りながらも「連立に参加する可能性は高い」とマスコミに聞かれて口走ってしまう。出口調査で圧勝という予測が出ても「それはあんたたちマスコミが言っているだけのことであって、国民の皆様の票がすべて開いてみないことには軽々なことはいえない」と睨み返した小沢一郎とはちょっと違うところだ。それでも前回の政権奪取の際には社会党をなめてしまって下野に追い込まれた彼のことだから、社民党にも国民新党にも三顧の礼をしてなお丁重に連立を呼びかけることになるのだろう。そうするとどうなるのか。社民党のこだわりポイントをむげに否定できなくなるという状況が予想される。それは本来自民党の基本線を支持していながらも腐敗極まる状況を打破したいと思って民主党に投票した人たちの心を離してしまう危険性につながるのだ。このことを考え、むやみに社民党に迎合するのではなく、かといって社民党に僻のような気持ちを抱かせずという、非常に大変な綱渡りが要求されるのだろう。つまり、決まるような決まらないような、なんとももどかしい政権運営が行われるということだ。それも仕方がないだろう。それでも来るべき参議院議員選挙まで、なんとか分裂することなく、同時に国民の支持も維持しながら行かないといけないのだから大変だなあ。耳障りの良い政策を矢継ぎ早にトントンとやっていければいいけれど、そんなに簡単にはいかないだろう。

Saturday, August 29, 2009

選挙の話も飽きてきた

 新聞には週刊誌の広告が。300超とか320だとか、307で決まりとかいろいろ数字が出てきている。はやる気持ちは解らんでもないし、それが彼らの仕事なんだから当然だが、そこまで既に決まっているとか言われてしまったらこっちもやる気なくなってくるじゃないか。中選挙区の時には選挙区で5人とか当選することになっていて、例えば自民党が2人、公明党と社会党と共産党がそれぞれ1人で合計5人みたいな状態だった。それが自民が3人になることもあったし、社会党が2人になることもあった。だけれども、自民党のドンみたいな人は絶対落ちることがなかったりして、だから「行っても行かなくても同じ」という諦めにもにた気持ちに支配されていたのだ。並立とはいえ小選挙区制になって、大物だって落ちることがある。そんなことになってきたから面白くなってきた。いや、政治屋の人たちからすれば大変な状況なのだろうけれど、政治屋の家系に生まれてしまったおぼっちゃまたちにも大変なんだろうけれど、国民からすれば制度の上にあぐらをかかれてはたまらない。僕のいる東京1区も与謝野さんが落ちて浪人生活をしたこともあったし、一方の海江田さんも4年前の選挙で落ちて浪人の身だ。今でこそ勢いに乗っているけれど、当時は青い顔をして選挙区内を回っていたものだ。だがそれが彼らを真剣にさせるのだと思う。小選挙区で落ちても比例で復活すればいいじゃないか。そんな風にタカをくくっているのだとしたら、やはり国民の声など届かない。あまりにも国民の声ばかり気にして大所高所の考えに頭が至らないのも考えものだが、国民の声を聞かない大所高所が国民を幸せにするかというと、結局土建屋しか幸せにしてこなかったことを考えると、それもやはりダメなのだろうと思う。

 4年前の選挙はやはり画期的なことだった。それは勢いに乗れば300を超えるということが実証されたからだ。そんなことが起こらないように比例が並立されていたわけだが、それでも300を超えたり、比例の候補者が足りなくなるような自体も起きたりして、理屈を超えた政権交代の可能性が実証されたのだ。本来はそれを目指して制度改革に取り組んだ羽田孜や小沢一郎の側が圧勝するべきだったのかもしれないが、それを小泉純一郎が享受したというのが皮肉でもあり面白いところでもある。だが小泉純一郎が森喜朗のようなモチベーションの人だったら巧みに生き残り、今もこんな状況にはなっていないかもしれないが、とにかく流れは変わり、このままいくと民主党がやるようになる。だが、それも一過性の出来事でしかなく、ここが衆愚政治になるのかどうなのかの境目なのだろう。いいことをそれは言うさ。デートとかする時に自分のことを最大限いいように言うのが普通である。それはどんな良い男も悪い男も同じであり、だからそれを見抜く目を各自が持たなければいけないということなのだろう。自民党が鳩山似のキャラクターのアニメで民主党を攻撃しているが、あのアニメの内容は当たり前だろうと僕は思う。あれがダメだとしたら、今度は麻生似のキャラクターが出てきて「オレは超金持ちだから一生心配は要らねえよ」って言わなければ、女性の生活を一生保証することなんて出来ないわけであり、そうなるとやはり金持ちじゃなきゃプロポーズしてはいけないということになってしまう。

 あまり時間がないのでとっとと進むが、中選挙区制時代にあった諦め感を、マスコミの事前調査、予測によって同じような気持ちにさせられているような気がする。もう行かなくても同じ。そんな気分が僕らを襲う。バイトの学生の子も「あんま関係ないような気がするんすよね。」とか言ってたが、大間違いだと思う。そんなことをして若年層の投票率が40%とかの間に老人は70%とか投票して、結果として国債が大量発行されて、将来若者世代が払う借金で老人が豊かになってしまったりしている。後期高齢者とかの問題も確かにあって、老人で不遇の人ももちろんいるが、相対的には老人が豊かだ。だから家を持っている老人の家に若者世代が居候して出て行けないという状況がたくさん生まれてしまっているし、世代で分けた時の失業率は著しい偏りがあるのである。それなのに子供の世代が払う借金をして道路とか何とかいっぱい作ろうとしている。それに対してどうやってNOと言えるのかというと、選挙しかないのだ。

 子育て手当にしても、ばらまきだとか言っているけれど、子供を教育する以外にこの国を良くする方法はないのだ。だって資源がないのだから。知恵を働かせて他国を出し抜いて金を稼がなきゃいけないのに、ゆとりとかなんとかいって教育を緩める。国の教育関連予算が先進国中でも少なく、それで頭のいい子が育つわけがない。教育を施して育った頭が自分の良い暮らしのためにだけ動くわけではなく、その動きは結果としてこの国を豊かにするわけで、そこお金は投資であり、投資は将来彼らが払う税金として帰ってくれば良いのだ。そういう発想がなくてどうする。2万6千円の子育て手当に対して「財源はどうなんだ」とか言っている馬鹿が大勢いるが、そんなことを言う人には、じゃあ将来どうやってこの国は発展すれば良いのかということを問いたい。そんなことを言う人が小手先の理屈で総予算がいくらでどうでこうでどうなんだとか言うだろう。究極の答えはこうだ。「そんなもの、道路一切止めて、箱モノを一切止めて、大人はレジャーなどせず、野草を食って雨水を啜ってでも、子供を教育しろ」と、僕は言いたい。いや確かに今時分がやっている仕事とか大事だし、お盆休みには里帰りとかしたい。海外旅行も行きたいし、美味しいものも食べたい。でもそれをやりながらもこの国の将来とか考えていきたいわけで、それは目先の安寧も確かに必要だが、そればかりで将来のことを考えられないのであればそれは愚かすぎる。金持ちでこの後50年くらいの人生を安心に暮らせるようでなければプロポーズもしては行けないようなそんな国のままで良いわけがない。

 なんか話はどんどん脱線するぞ。最近ブログをさぼっていたから文章力も落ちているんだろう。頑張らねばと反省しきりだ。それはともかく、やっぱり選挙だ。明日は大事な一票を投じたい。

Monday, August 24, 2009

これは決勝戦ではない。準々決勝程度なのだ。

これは決勝戦ではない。準々決勝だと思う。

 天下分け目の決戦だと人はいう。それを誰もが肯定している。だが、これは日本の民主主義への単なる一里塚でしかないと思うのだ。思えば4年前。あの選挙で自民党を応援したのは誰なのか。それは今回民主党を応援しようとしている人たちである。僕を含めたそういう人は何を求めたかというと、自民党がぶっ壊れる、イコール日本の政治が変わるということだった。あの当時は当時の民主党よりも小泉氏の方が自民党をぶっ壊すパワーと意思を持っていたと感じたから、少なくとも僕は入れたのだ。自民党が壊れるということは、とりもなおさず官僚支配の打破である。自民党が力を握っている限り、そこと癒着している官僚は過剰な力を保持してしまう。だから壊さなければいけなかったのである。しかしながら、当時の民主党は愚直な岡田氏の弱さと、次に続くはずの若手たちの弱さから、やはり信頼に足りずという状況だった。

 そして小泉自民党の圧倒的勝利。チルドレンと言われた人たちの我が世の春。だが思いのほかに早く退いてしまった小泉氏のせいで、旧来型の人たちが首を擡げてしまった。背景は森喜朗の院政にあるのだが、除名された人たちが戻り、要職に就く。問題を起こしても責任を取らずに天下りを繰り返してのうのうとしている高官とまったく同じだなと思った。自分たちがそれで官僚の問題を正すことなんて出来るわけがない。

 そして今、そのツケが完全に回り、重鎮たちが自分の選挙で精一杯という地元張り付き状態になり、300議席を超えるだろうと民主圧勝が予想されている。だが、これで終わりということではない。自民がこの先どうなるのか。16年前のようにボロボロと逃げ出すように離党が進み、ただでさえ少ない所属議員がさらに減るということになるのだろうか。そんなことはない。あったとしても、それで自民党が終わるということではない。かつて政治家になりたい人たちが自民党からの公認がもらえず、せっかく松下政経塾なんかに行ったというのに地方議員にしかなれないという人たちの受け皿に民主党(当時は日本新党とか新進党とかだったが)がなったように、今回は次なる議席を求める人たちは民主党に入るのが難しくなり、自民からの乾坤一擲を目指すようになるだろう。また、今回自民党が下野をして、それは史上最強の野党が生まれるのだと思うのだ。彼らは徹底的に民主を攻撃するだろう。それは現在の民主が過去4年間に行って来たものとはまったく違うレベルの攻撃をするのだと思う。それに民主が耐えられるのか。この4年間を海千山千の小沢一郎は健康を保ち続けることが出来るのだろうか。もしも彼が倒れでもしたら、その時はひ弱な民主党に逆戻りする可能性だってある。そうすると今度とはまったく別の政権が4年後に生まれるということになるだろう。

 それでいいのだと思う。要するに政権交代が可能だというのが常識となり、現在自民党が行っているようなネガティブキャンペーンが通用しなくなる世の中になればいいのだ。民主党が過去に政権を取った経験がないから、自民党は「民主党に政権を預けることなど不安だ」ということがいえるのである。だが、一度とってみたらそんなに恐いことなんてないということが、自民党が恐がっているのは自分たちが野党になってしまうことだったんだということが判るだろう。そうなると、単純に政策を問うことが出来るようになるし、今回のように一種ばらまき論が百花繚乱の結果はそれほど良くはないということが国民全体に理解されるだろう。何事もそうだが、理屈のように物事は進まない。つまり今回の選挙でそれほどドラスティックに何かが変わることなどはない。一つ一つ国民が学習する、経験の一過程でしかなく、だとしたら、経験するなら極端に大胆に経験した方がいいのだろうと僕は思う。だから、300議席が320議席になり、それがさらにたとえ400議席になったとしても(そんなに立候補してないと思うが)、それが国に悪い影響を与えるようなことはないのだと思う。もしもそれで一時的にマイナス要因が出たとしても、それも経験だ。今はなんとなく「こうなったら悪いんじゃないか」とか頭の中で考えているだけで、それが、自民のネガティブキャンペーンに付け込まれる隙でもある。だから、ここは一気に大胆に圧勝させようと思う。

Thursday, August 13, 2009

ここしばらく

 いやあ、ここしばらく忙しかったりで、ブログ書けず。情けない。

 話題としては酒井法子の失踪&逮捕が大きくて、まあ僕もかつて勤めたビクターの歌手ということもあって思い入れもあり、同情する気持ちもあるのだが、やはりクスリはダメだ。まず本人の身体がダメになるし、それによって自分のこれまでを支えてきてくれたファンの信頼を裏切ることになる。ファンを裏切るということはそれまでの活動をすべて全否定することでもあるし、だからやはりそれは許されることではないと思う。それでもなお彼女を支持する人たちも少なくない。浮気されてもなお想いを断ち切れない恋人のようで、見ていて切ない。そんな人たちを泣かせているということを、本人も自覚しなければならないだろう。もしもまだそのような理性が脳に残っているのであれば。

 結論から言うと本人の責任なのだが、ダンナがヒドい。金持ちのどら息子が、仕事がうまくいかなくて、それでも遊びを辞めず、こともあろうに社会的立場もある奥さんにクスリをやらせている。たとえ旦那の言うことでも断るべきは断るべきだし、そもそもそんなダンナを選んでしまった見る目のなさが問題だったのだろう。まあ芸能活動はもう難しいだろうが、人間として、もう一度真人間になっていってもらいたい。

 これからまたちゃんとブログ書きます。反省してます。いや、明日から夏休みなのですけれども。

Monday, August 03, 2009

変化

 昨晩放送されたNHKスペシャルのエジプト特集は面白かった。3回シリーズ3回目のテーマは、クレオパトラの謎。妹との権力争いとか、知らなかったことをたくさん紹介してくれて、それ自体も面白かったし、考古学の最前線がすごいんだということもよくわかった。

 エジプトは約3000年もの間繁栄を続け、クレオパトラの頃はローマ帝国の台頭でその繁栄も危うくなる。女王のクレオパトラはローマと結ぶことで平和を維持しようとしたが、それをよく思わない勢力が妹を担いで反乱を起こす。クレオパトラはローマの協力を得て妹を捕らえ、トルコに幽閉し、それだけでは足らずに毒殺を図る。立場が違えば兄弟で殺し合うこともなかったろうに。幸せとはなんなのかって、思わざるを得ない。

 だが、それが歴史だ。どんなに強大な勢力を誇っていても、それが永遠に続くことなどはない。個人としてのリーダーはいずれ死ぬし、リーダーが変われば勢力の本質は変化する。隆盛期に固めたシステムも解釈によってパワーは変わるし、時代の変化と周囲の変化に対応出来ないとすれば、それも没落の契機となる。古代エジプトは3000年続いただろうが、ローマ帝国は500年、江戸幕府は300年だ。まあ諸説あるからその年数は定かではないところがあろうが、人間の情報伝達と移動のスピード、工業力や武器の破壊力が変化するにつけ、変化のスピードも速くなるのだろう。

 今日のニュースの中では、なんといっても大きな変化は裁判員制度だ。良くも悪くも制度がスタートした。そもそもよく知らなかったことだが、裁判員候補として呼ばれた人の中から、当日最終的に裁判員になる人が選ばれるのだそうだ。1時間かかると思われた選任手続きも今日は40分で完了したらしい。テレビでは裁判員に選ばれなかった人がインタビューを受けていたりしていたけれど、意外とあっさりと淡々としていたらしい。

 良いのか悪いのか。これは本当によくわからない。でも、裁判員制度以前の司法制度が完璧だったかというと、それもよくわからないのである。裁判員推進派も裁判員反対派もそれぞれいると思う。ニュースでも「強行しようとしていることに強く抗議する」というグループのことを紹介していた。確かに不安はある。自分が裁判員に選ばれたらという視点でもそうだし、自分が裁かれる立場になったらという視点でもそうだ。やはり素人に死刑とか言われたら、そしてそれが完全に冤罪だったらどうだろうか。その心配は常につきまとう。

 だが、それでも僕は今回の制度変更を支持したいのである。というのは、これでダメならまた変えれば良いからである。その過程で、これがダメ制度だったとして、そのダメ制度の実験の犠牲になってしまう人ももちろん出てくる。だが現在の制度にも欠陥があり、その欠陥の犠牲になっている人も確実にいて、だからこういう制度変更が叫ばれたのだろう。大切なのは現在目の前に存在する犠牲者が出る仕組みが判っていて放置せずに手を差し伸べることだと思うのだ。変化とは修正であり、修正というのは少しずつ、少しずつ微妙に良いと思われる方向に向かっていくものだろう。それが出来るのかどうかが問われるのだろうと思っていて、だから、今回の裁判員制度に多少の欠陥があるとしても、現状の欠陥を是正するということへのトライができないというよりは、社会として僕は安心が出来るなあと思うのである。

 変化を怖れてはいけない。変化を怖れるのは硬直につながり、周囲が変化することを前提に考えれば、硬直こそもっとも愚かな変容になってしまうのである。制度も組織も硬直が弱体化の最大の原因である。だから僕らも変わることに勇敢であるべきなのだが、それでも未来永劫に続く組織などないという歴史の事実が、僕を弱気にさせてしまうのだ。