Friday, December 23, 2011

放射能コワイ病という言葉

最近いろいろな人のブログやTwitterの中で「放射能コワイ病」という言葉が使われているのを目にする。「放射脳」というバージョンの時もある。そういうのは大抵、放射能の影響を重大だと考えて行動や発言をしている人に対して使われ、その人の怖がり方はナンセンスであると揶揄するために使われている言葉のようだ。

 こういう言葉を使っている人の脳こそ、狂っている、あるいは常識がないというに相応しい。

 まず、整理をしたい。「放射能の影響を重大に考えて行動することは、実に理にかなったことで、真っ当なものである」というケースがまず考えられる。次に「放射能の影響を重大に考えて行動することは、『現在の研究が進んでないので何ともいえず、かつ現在の汚染状況も正しく把握されていないため、本当に重大か軽微かがわからない』ので、正しい行動とも間違った行動ともいえない」というケースも考えられる。最後に「放射能の影響を重大に考えて行動することが、本当に病に等しいほどの状態である」というケースも考えられる。

 最初のケース。「実に理にかなったこと」だった場合、「放射能コワイ病」という言い方は完全に間違った言い方ということになる。だからこの言葉を使って他人を貶めようという行為は名誉毀損にあたるといえよう。ネットリテラシー以前の問題だ。その言葉を使う人の人間性が疑われて然るべきだ。街を歩きながら行き交う人に向かって「このバカ」「このブス」などとわめき散らしているようなものである。まさに、狂っているとしか言いようがない。まともな人は相手にするべきではない。

 次のケース。「正しいとも間違いともいえない」場合。この場合はどんな行動も否定されるべきではない。要するにまだ評価できない危機に対して個人個人がどのようなリスク管理をするのかということでしかないのであって、放射能を怖がって行動するのも、怖がらずに行動するのもどちらも否定されるべきではない。学者や医者などはそれぞれの立場でそれぞれが知り得る知識の中でいろいろと評価するだろう。その中からどれが信頼できるかを一人一人が決めるしかないのだ。そういう状況の中で自分と同じ考えではなかったり自分と同じ行動をしない人に対して、きちんとした説明をしながら諭すというのならわかるが、そういう説明が出来ないものだから、相手のことを「病」という言葉を使って否定しようとする。それはフェアな人のやることではない。卑怯者のやることだ。説明が出来ない自分を恥じるべきだろう。

 最後のケース。「本当に病に等しい」場合。そういう時に病気の人を「あいつは病気だ」と言って公の場で蔑むのはいかがなものか。考えてみるとすぐに判る。身体障害を負って車椅子を利用している人を「お前は足がないからダメだ」などと公然と言うことは常識的に許されるだろうか。具体的に文字にするのも恥ずかしいくらいの過激な言葉もある。そういうのはすべて放送禁止用語として、公然と言うのはいけないということになっているはず。「放射能コワイ病の人はどうしようもない」などと言うことは、心の底で病気の人を蔑む気持ちを持っているということに他ならない。差別主義者といってもいい。人として最低だ。


 実際には、この「放射能コワイ病」と言って他人を貶めている人も、コワいのだと思う。自分の考え方自身と、その考えに基づいて形成されている世界というものが、自分とは違った考え方によって揺るがされることが。だから自分と違う考えの人を貶めることによって、自分の心の安寧をかろうじて支えようとしているのだ。
 
 しかし、自分と考え方が違うからといって、他人を貶めるようなことをすることは完全な間違いだ。例えば信仰。世の中には「神などいない」と思っている人は少なくないだろう。ではそういう人が正月の神社仏閣に行って、初詣をしている人たちに拡声器で「君たちの行動は間違っている。神などという科学的に証明されないものを信じているのはバカだ。病気だ」と言えるのだろうか。まあ言うのはいいが、きっと怒りを買うだろう。日本の初詣程度ならまだしも、敬虔なキリスト教徒が集まっている教会で、あるいは敬虔なイスラム教徒が集まっているモスクで、同じことが出来る人がいるだろうか。やってもいいが、その後の安全などまったく保証できない。まあ暴力的な反撃を受けるかどうかで正しい行為か間違った行為かを決めるわけではないけれども、自分と考えの違う人のことを貶めるということは、そういうことなのである。

 そして最後に確認しておきたいのは、今起こっている現実というのは、不確定なことがとても多いのである。1年前に電力会社が「ちょっとくらいの放射性物質は漏れるかもしれません」などと言っただろうか?もしも言っていたらたちまち地元の大反対にあって原発建設など不可能だっただろう。今起きているのは、ちょっとくらいの漏れではない。かなりの量の大拡散である。それを恐れずにいる方がどうかしている。仮に放射能の影響について判断できるような過去の治験症例と、現実の汚染状況のデータがあるなら、どこまでが安全でどこからが危険なのかをある程度判断出来るだろう。しかし現実は、なんの治験症例もなく、現実の汚染状況も皆目わからないということでしかない。その中で自らの健康リスクをそれぞれが判断することになんの問題があろうか。それを「放射能コワイ病」などという身勝手なレッテル貼りによって否定し、貶めようとしている人は、はっきり言って無知であるし、人間として最低である。

Friday, December 16, 2011

音楽の届け方

一昨日アップされたchromeのCM、音楽が広がっていく様を1分1秒のクリップに表現してある。1つはレディーガガ、1つはジャスティンビーバー、そして1つは初音ミクだ。







 この映像は素晴らしい。素晴らしいと言っている人もそれなりに見かける。ガガをマドンナの後継とみるのは間違いで、まったく違ったポイントに立っているアーチストなのだと。それはある意味正しい。その正しさを十分に認め、認識した上で、なお僕は多少の否定的な視点も強調したいと思っているのである。

 これらの映像で、多くの人は可能性を感じただろう。ガガの映像では、ガガという巨大なポップアイコンと直接つながるという可能性を。自らのパフォーマンスがポップアイコンの一部となり昇華していけると。ジャスティンの映像では、自分もポップアイコンになれるという可能性を。ちっぽけな自分がある時誰かの目に留まり、注目の存在になれると。そして初音ミクの映像では、別にライブなどやれなくても音楽をやっていいんだという可能性を。そしてその個人的な音楽がつながり、世界に広がっていくんだと。

 それらは、決して間違いではない。インターネットは僕らに可能性を与えてくれた。そしてそれは過去形ではなく、現在進行形の、未来へと続く可能性の波だ。かつて初めてmosaicでインターネットに接した時、NASAのHPを見た。ホワイトハウスのホームページを見た。クリントンのペットの犬の写真を見た。どこぞの大学に置いてあるコーラの販売機にあと何本のコーラが入っているのかを知った。地球の裏側にある何かをリアルタイムに知るということを体験した。当時のそれをネットサーフィンといった。波に乗るのがサーフィンだ。その波は今も絶えることなく押し寄せてくる。そして、その波に乗ることによって、僕らは自分自身が波になっていく可能性だってあることを知った。

 音楽レーベルをやっている者として、宣伝はとても貴重だ。創業当時は、テレビ、ラジオ、雑誌によって知らせることしか方法がなかった。知人にライブ告知をするにも電話かハガキだった。100人にハガキを送ればそれだけで5000円かかる。音を聴かせたいと思ってもその方法が限られる。ラジオで流れても、それをリアルタイムに聴ける人はそう多くない。CDショップの試聴機に入れてもらったとしても、せいぜい1週間から10日ほどで次に代わる。ショップに行ける人以外には絶対に届かない。

 しかし今、ネットによって状況は変わった。誰もが自分のことを発信することが出来るようになった。自分のホームページを作ることも出来る。myspaceに自分の楽曲をアップすることが出来る。ライブのビデオをYouTubeにアップできる。厚い壁に囲まれていたような世界が当たり前と思っていたのに、その壁はいとも簡単に崩壊した。それが、今だ。

 chromeのCMが示しているように、もはや誰もが発信者になれる。そのことは疑いようのない事実だ。だが間違ってはいけないことがある。それは壁が無くなって、壁によって守られていた誰かと、壁によって阻まれていた誰かの立場が逆転可能になったということでしかないということだ。壁があろうがなかろうが、絶対的な価値を持った者にも、逆に絶望的に価値を持たない者にも、その変化は何も意味をなさないということを無視して浮かれるべきことではないのである。

 一部マスコミに出る者だけが発信者だった時代に較べて、ネットにアクセスできる人すべてが発信者になったというのは、数十億単位の人たちが何かを発信するということだ。Facebookでは今年9月の時点で8億人が参加しているらしい。彼らが日々なにかを発信している。そういう中で注目を浴びるというのはどういうことか。Twitterでもっともフォローされているのはやはりレディーガガ(現時点で1699万人)だが、それ以下もすべて有名人が名を連ねている。つまり別のどこかで有名になっている人が注目を浴びて、動向を注目されているということである。無名の一般人がそのランキングに付け入る隙はどこにもない。

 僕と付き合いのある多くのバンドの中には、ただホームページを立ち上げているだけで、そこに情報を載せたからもう告知をした、発信をしたという人たちも少なくない。当然彼らのライブはガラガラだ。CDも売れない。聴くとTwitterもmixiもfacebookもやっていないという。やっていたとしてもマイミクが30人、すべてリアルの世界での知人だけ。それでは発信したうちに入らないだろうと言うが、どうもピンとこないようだ。目の前に可能性が広がっているというのに、それをまったく無駄にしている。とてももったいないと思う。

 ネットなどなくとも、売れる者は売れていく。逆に、本当に売れないものは売れないのである。

 しかし、その中間というのが確実に存在する。インディーズというのが一般的になった時もそうだったのだが、それ以前ではメジャーに属していないことには作品を発表することさえ出来なかった。言い換えれば、メジャーに属するということ自体が特権階級だったのだ。しかしインディーズが登場し、メジャーに属さなくても作品を発表することは可能になった。今回のネットのうねりはそれに似ている。メジャーになれなければテレビやラジオに出ることはかなり難しく、一方メジャーに属していれば無名の新人でもキャンペーンで出演することは普通にあった。その差は絶望的なまでに大きなものだった。しかし、ネットで発信をすることで、インディーズのミュージシャンも自分の音楽を伝える手段を得たのは事実だ。それを使って最大限のアピールをすればいいと思う。別に1000万人のフォロワーを得なければダメということではない。CDセールスが100万枚にならなければダメということでもない。まずは1000人のフォロワーを獲得し、500人のマイミクを獲得し、その人たちに向けて毎日発信をすることから始めればいいのだと思う。そうしてまずは1000枚のCDセールスを実現できれば、世界はちょっとだけ変わるだろう。千里の道も一歩からだ。これまでは、その一歩さえ踏み出すことが許されなかった。それが可能になっただけでも大きな福音だ。

 今回のchromeのCMは、何もしなくてもスターになれるような誤解を生むような気が、僕はしている。だからといってそれがまったくの無意味だとは思わないのである。これは例えば、エステのCMに似ている。どこかのエステで劇的に痩せたという人が登場する。それは、真実だろう。しかし、だからといってそのエステに入会しただけでは絶対に痩せない。劇的に痩せたのはごく一握りに過ぎないのだ。そのことを無視して「痩せなかった」と批判してもまったく意味がない。

 エステは努力によって身体を変えることが可能なんだということを教えてくれる場所だと思う。それが宝くじとは決定的に違うポイントだ。音楽もそう。努力によって状況を変えることは可能なのだ。黙っていたら、発信する何億もの人の中の1人という状況から変わらない。そこから抜け出し、ある程度の反応を得るための努力。それをすることが可能になったんだということを最大限に利用しなければ、このネット社会の中であっても何も変わらないんだということを知っておかなければ、間違えると思う。

Tuesday, December 06, 2011

Twitter

本日、僕のTwitterアカウントが一時凍結になりました。たくさんフォローしすぎたからだそうです。

 1週間、お休みします。場合によってはもうちょっとかかるかもしれません。

 毎日50回以上つぶやいていた僕が突然つぶやかなくなると、みんなどう思うのかなあ。どうも思わないのかなあ。

 iPhone4Sを手に入れて、さあこれからつぶやくぞと思っていた矢先の出来事でした。まあこれも「もう少し仕事に打ち込め」という合図なのかもしれません。と思うしかないです。ハイ。