Saturday, November 29, 2008

インドカレーの肉

 車で走っていたら、目をそそる看板が。オレンジ色の背景に茶色の文字で「インドカレー」どうもカフェっぽい。

 カフェのカレーって、なんか本格的ではないイメージもあるが、どうして、意外と本気でやっていることが多い。でも、最近氾濫しているインド人がナンを焼いています的な本格派カレー店に比べるとどうしてもついでの印象が拭えないのが現実のところだろう。

 でも、その看板を見て判ったのだ。カフェであっても美味しそうな第一印象を与えることは出来るのだと。車じゃなかったら、そこにブラリと入って食べたいほどの衝動だった。

 オレンジの看板には印象的な「インドカレー」の文字があったわけだが、じゃあ、インドカレーとはいったいどんな料理なんだろう? ビーフカレーだったら牛のイラストとかが載るだろう。チキンカレーならニワトリのイラストが。で、そのオレンジの看板に載っていたイラストは、、、、ゾウ。だった。
 
 インドカレーって、ゾウの肉入りカレーなのかなあ? 心配だなあ。でも、食べてみたい気持ちが衰えないのはなんでなんだろうなあ?

日馬富士

 新大関の日馬富士のこと、あまり良い印象がない。これはどうしてなんだろうか?なんか朝青龍の手先みたいなイメージがあるのだ。しかしそういうのは非常に少ない情報だけを頭の中で増幅させてしまっているだけで、そんな独断は多いのだろうし、ちょっとしたことでそういう先入観は出来てしまうし、そして覆ることもある。
 
 今朝のテレビでその日馬富士のニュースをやっていて、九州場所のたびに訪れる場所ということで太宰府の幼稚園に向かったときのこと。幼稚園児が「あま〜〜」と叫びながら一斉に走り寄ってきた。やはり子供に好かれるというのは良い人間なんだという、これも先入観というものがあって、それでああこの人はいい人なのかもしれないとか、僕の気持ちもコロッと変わろうとしていた。
 
 でも、ちょっと待てよ、子供が好きなら本当にいい人なのか? 亀田のオヤジは亀田3兄弟という子供たちには大人気だ。だから亀田のオヤジはいい人か? それにテレビのワンカットなんていくらでも演出できる。子供たちは単にでかい生き物として、日馬富士が珍しいだけで、好きでもなんでもないのかもしれない。相撲取りだったら誰でも良いのかもしれない。僕だって国技館に行けばちょっとエキサイトする。駅を降り立って道に出たとき、幕下どころか序の口程度の力士が自分の出番を終えて帰路につくのとすれ違っただけで「うわーっ」となる。もしかしたらそういうのとあまり変わらないシーンに過ぎなかったかもしれない。
 
 それにそもそも「いい人」ってなんなんだろう? 僕自身はいい人なのか? バンドに対して「いいよいいよ、お金も出すからそこそこにリラックスして活動してね」とか言えば、彼らにとっていい人であれるのだろうか? それとも「おまえらふざけんな、もっともっとやれることあるだろう、怠けてると売れないぞ」と叱咤激励するのがいい人なのだろうか? いい人の有り様は人それぞれだし、ある行為もある人には素晴らしく、別のある人には疎ましい。全ての人に「いい人」になることはたぶん無理なのだろう。
 
 そう考えると、僕が日馬富士に良い印象がないからといって、彼が悪い人ということでもないだろうし、逆に別の誰かが彼のことをいい人と賞賛したからといって僕もその人の評価に殉ずる必要もないということだ。もちろんテレビの一コマに意見を変えても変えなくてもいいのだ。その一コマ程度の情報を小さい情報だと切り捨てられるほど、そもそも僕の中には日馬富士に対する情報など在りもしないのだ。
 
 件のテレビでコメンテーターが「あたしももう今日から日馬富士のファンになりました、頑張って欲しいですね〜」とか軽〜く言っていたのをみて、なんか反発したくなる気持ちがムクムクと沸き上がってきたのだ。それはその人のコメントの軽さがたまらなく嫌で、だから今このテレビの情報だけを見て意見を変えるのは、このコメンテーターと基本的に違わないのではないかと思うし、それだけは許せないほど嫌なことだったからだろうとか、思う。

Friday, November 28, 2008

党首討論

 麻生太郎の表情が歪んでいる。口元が歪んでいるのはもうずっと前からのことだが、それにしても表情全体が歪んでいる。
 
 この歪み、おじいちゃんに怒られている孫のような印象を受ける。
 
 おじいちゃんのことは尊敬はしている。しかし本当に恐いのはおとうさんだから、おじいちゃんの怒りはとりあえず聞いているフリをしておけ、この時間だけやり過ごそう。そんな印象なのだ。
 
 一方の小沢一郎の表情は、何故通じぬというジレンマに打ち震える苛立ちの表情。だがそれは与党と野党だからであり、こういう形での自民党との対峙を選択したときから判っているのに、何故この人はこの時点に於いてもこういう表情を見せるのだろうかと不思議に思う。集大成はあと少しで、選挙で自民党の下野を実現させればいいのだし、そのためには足を引っ張ることだけやっていればいい。普通はそれだと批判を浴びるが、今となっては批判の矛先は常に総理に向かっている。だからこの場では当たり障りのない状況批判をすればいいだけのこと。もちろんそれもやってはいたものの、それだけではなく、最後の部分で特に、麻生太郎を諫めるような言葉を吐いた。それが小沢一郎のいいところでもあり、弱いところでもあるだろうと思う。
 
 要するに小沢一郎は頑固オヤジの役割にこそ自分の価値を見出す人なのかもしれない。そして麻生太郎にはそういう頑固なことを言ってくれる側近がいなくて、うわべの笑みと裏での陰口を繰り返す人ばかりに囲まれてしまっていることが悲劇なのだ。本当ならうるさいことを言ってくれる人の意見を聞きながら、重い政治家に成長することも出来たのだろうが、今日の討論を見ている限り、小さな筋論で本筋の信念を覆い隠し、そして覆い隠すことの正当性を探すのに汲々としているように見えてしまうのだ。
 
 そんなふうに見えたのは、最後の方で「政治家の言葉の重みをもっと大事にしなければいけない(小沢)」「不適切な発言については誤解を生んでしまったようだから謝罪撤回させていただいている(麻生)」「そうではなくて、国民に対して言ったこと、政略よりも政策だというのなら、それを実行するために邁進していかなければ国民に対して責任ある政治家とは言えない(小沢)」といった内容の部分。まあ聞き覚えだから多少間違いもあるかもしれない。ただ、この部分で、麻生太郎という人に対して、小沢一郎は(不覚にも)まだまだ期待をしてしまっていて、何らかのサジェスチョンを与えたいと本気で思っているんじゃないだろうかとか感じてしまった。それに対して麻生さんは、小沢さんのことを「参議院で多数を持っているから頭を下げるけれど、本気で頭なんて下げませんよ、俺は総理大臣ですよ」とでも思っているかのように映った。なんか同じ次元での討論ではないように感じてしまったのだった。

Thursday, November 27, 2008

 雨が降ってます。靴が濡れます。気分もさがります。

 でもこんなときこそ張り切っていこうと思います。ブログも書いてみます。書きたいことは沢山あって、それを書いている時間がないのが悩みの種です。

 時間が出来たらいろいろ書きたいと思ってますので、どうぞよろしく。

Wednesday, November 26, 2008

ブログの休日

 ここ数日、日記を書くのをお休み。プライベートな2日間を過ごしていたからだ。普通はプライベートなことを書くのがブログの日記だろうが、この日記はちょっとその辺が違っているのかもしれない。
 
 で、そのプライベートなことのみで2日間を過ごしてそのことを日記に書かないとなると、何を書いていいのやら、妄想でも書くしかないのだが、それもヘンだろう。こういうのをきっかけにしてブログをなかなか書かなくなってしまうのだろう。すでにそうなりかけていたかもしれないと思うので、とりあえず書いてみようと思うのだ。中身が無くても、続けることが大切。
 



 とは言いながら、このところ読んだマンガのことなど。嫁さんが買ってきたマンガを読む。福満しげゆきという作家のマンガで、マンガ家のこの人が毎日同士ながら生活しているかをエッセイ風に描くマンガで、普通だったら隠したくなるようなことまで描いたりしていて、それが面白い。この人の思考の仕方がかなりマイナス思考で閉鎖的で、それが暴発するかのようにこういう暴露的なマンガを描いているのが面白い。出版社の担当者とのやりとりなども描かれていて、だからそれ以降の担当者との打合せのシーンでは担当者が言いたいことを言えなくなってしまったりする。
 
 もちろんいろいろとある日常の中から少ないページ数にエピソードを盛り込むわけだから、ネタチョイスの段階で腹蔵無き真実というわけにはいかないだろう。でも描かれている本当に小さな出来事の積み重ねは面白可笑しく、もしかすると自分なんかの周りにもこういう小さなエンターテインメントの可能性は転がっているのかもしれないなとか思ったりした。
 
 この人の以前の作品の中で、どこまでも落ち込んでいく主人公がホームレスに憧れる場面があり、ホームレスと話す機会をつくった結果、「ホームレスは悪い人ではないがダメな人だ」という感想を持つ。まあそこが、人間が頑張ったり出来るかどうかの境なんだろうという感じがして好感を持った。俺もちょっとだけ頑張りたい。

Saturday, November 22, 2008

事件報道を白けて見ている

 連日トップで報道されるのは元厚生事務次官連続殺人のニュース。正確には連続殺人では無いが。で、このニュースになんか違和感があるのは何故だろう。
 
 言うまでもないことだしそれでも敢えて言っておきたいのは、殺人はよろしくない。これが報道でちょっといわれているように年金問題迷走の報復みたいな動機であったとしても、その動機には殺人を肯定するような正当性などかけらもない。それを許すようだったら民主主義社会ではないし、法治国家ではない。だからこの事件を犯した犯人は一刻も早く検挙されるべきだし、その裁判には一片の情もかける必要はないと思う。
 
 この2つの事件の関連性を早くからマスコミは重視したかのような報道を繰り返している。だがどこにその証拠はあるのだ? 僕が違和感を感じるのは、つまりそういうことだ。
 
 麻生総理が「そう決まった訳じゃないからコメントできない」「もしもテロだということがハッキリしたなら、それは許すことの出来ないことだ」というようなことを言っていると、「なんて煮え切らないコメントなんだ、ことの重要性をまったく判っていない」という野党政治家の批判をさもありなんと載せている。これは政治家の発言として載せているだけで新聞の判断ではないということも出来るのだろうが、事件を、報道を、よりセンセーショナルに持っていこうという流れを感じる。その流れは一体何故作られようとしているのか、そして誰が得をするのか?
 
 いつも報道って不思議だなと思うのだが、例えば小室哲哉容疑者が取り調べの中でどういったことを喋っているという内容が事細かに報道される。これ、警察の発表を垂れ流しにしているのであって、裏を取れているのかというとそんなことはない。一方の当事者である小室容疑者には話は聞けないのだから。それでも何も報じないよりはいいだろうという意見もあるだろう。しかし警察の発表に誤りがあったときに、誤りというよりも意図的な情報操作意図があった場合、報道はどうするつもりなのだろうか。まあ小室哲哉が何を言ったかなんて大したことではないが、今回の報道でいわれている国家に対するテロって、これ、ミスリードだったらどうするつもりだろうかというのがやっぱり拭いきれなくて仕方ないのだ。
 
 当初から思っていたし現実にそうなってきていることとして、なんか被害にあった元厚生事務次官はとてもいい人で、こんな人を殺害するなんてひどいという論調になってきている。しかしそうではないだろうと言いたい。こんないい人でなくとも、どんなに悪い人であっても、法の下の捌き無くして個人の裁量で人を殺すということは絶対にダメなのだ。そこを確認したい。それと被害者を悪く言うのは人情に忍びないという自然のことから、まるで厚生省も社保庁もすべて悪くないというすり替えが行われているし、さらには厚生労働省叩きをしてきたマスコミに責任があるというような論調にまで発展してしまっている。たとえこの殺人事件が報道に煽られた誰かが暴発したものだとしても、だからといって報道にその暴発的殺人の責任があるということになれば、報道なんて出来るはずがない。でもその方向に動いているというのが本当におかしいと思うのだ。しかも、まだ犯人は逮捕されていないし、どこからも犯行声明も出されていないし、その動機がなんだったのかについては単なるゴシップ的な推論だけしかない時点だというのにだ。
 
 先述の麻生総理、政策についての発言は迷走ぶりが目に余るが、この件に関するコメントは実に慎重でいいと思う。もしもその発言を「ことの重大性を判っていない」と声高に叫ぶ人がいるとすると、そういう人はえん罪事件について論評する資格はないし、もっといえば、そういう人に裁判員になどなってもらいたくはないなと思う。
 
 世の中にはもっともっと殺人事件もたくさんあるのだ。交通事故もたくさんあるし、その中でもっともセンセーショナルな要素を持った事件にマスコミが集中したいというのも判らないではないが、そのセンセーショナル性をもって、正義だとかなんとか言っているのはちゃんちゃらおかしくて、テレビのチャンネルを変えたくなってくるのである。

Friday, November 21, 2008

クロスオーバー

 地下鉄の駅で配布されているメトロミニッツというフリーペーパーがある。今朝の高田馬場駅ではほとんど配布終了だったらしく、いつもの箱にはちょっとだけ曲がっていたのが1部だけあった。誰かの読みかけをもらうか? と思ったが、見たかったのでゲット。

 今回の特集は「最後の晩餐にもイブがある」というもので、要するに人生最後の食事、その前の回の食事は何を食べたいかということだった。トップバッターで取り上げられていたのはドリフの高木ブーさん。ブーさんが食べたいのは「クロスオーバーのコーヒーゼリー」。ふーんと思ってページをめくろうとして、んんん、これはあの店かと思った。僕の家からキラキラレコードに歩いていく途中にある喫茶店がこのクロスオーバー。3年くらい前にオープンしたお店で、僕は2回くらいしか行ったことがない。すぐ隣にあるカフェの方がよく行くくらいで、そんなところが紹介されているのでちょっと意外。

 ブーさんも実は近所にお住まいで、キラキラレコード周辺では時々見かけることもある。卓球の愛ちゃんはまだ見たことがないが、エジプトに詳しい吉村教授とか、北朝鮮に詳しい重村教授とかだって時折見かける。ハンカチ王子も見たことあるし、結構有名人ストリートだといっていいんじゃないか? まあ本音を言えば、キラキラレコードのアーチストが有名になって、このストリートの有名人発見頻度を高めてほしいものだと思う。


 今日もあるバンドがやって来て、ミーティング。彼らの活動内容に僕は満足していない。当然その売り上げとか、人気の上昇度合いにも満足は出来ない。もっともっと売れていいはずのバンドだし、人気が出ないはずはないと本気で思う。だが、結果として売れていないのは、まず、彼らに覚悟が出来ていないということ、だから戦略が甘いということ、その甘い考えだから僕のいう言葉も心に響いていないということ。理由はそこに尽きるのだ。じゃあそういうことを早くから言ってあげろよという声もあるだろう。だが、そういうことはなかなか言えないのだ。言えないというのはこちらの躊躇ではなく、彼らに受け入れる準備があるのかという問題。誰しも自分の意見が正しいという思いとか自負があり、それが強いと他人の意見は聞き入れられなくなる。それにも意味や理由はあるのだが、そういう理由がもっともらしい正当性に守られているように彼らは理論武装している。だが、ある行為、例えば宣伝活動なんかを「やる」「やらない」の理由が正論であるかのような説明がされるとき、僕はあることを疑うのだ。

 それは、本当は「やりたくない、面倒だから」というのが真の理由ではないかということ。

 そのことをどのタイミングで言うのか。早すぎると、僕の意見は単なる押しつけになる。押しつけは反発されるだけだ。僕は彼らの保護者でもなければ恋人でもない。押しつける正当な理由があるのかと言われれば、それはビジネスだからという、実にこれ以上ない正当な理由があるのだけれど、ビジネスを理由にした押しつけは、さらに強い反発を生んでしまうことも知っているのだ。

 だから、彼らが僕の意見をちゃんと聞けるような下地が出来るのを待ってみる、そういう時期も必要なのだと思いながら日々の仕事をしているのである。で、彼らの場合、今日がまさにその時だったのではないだろうか。それで冒頭から僕が一方的に喋りまくった。もっとも彼らは口べたなので普通のときだって僕ばかり喋ってしまうのだけれど。時間にして約3時間。彼らもいろいろと感じたりしたのではないだろうか。とりあえず今日のところはなんの結論も出さず、一度バンド内で話をしてみて、後日彼らがどうしたいのかを連絡してくることになった。どういう結論になったとしてもおかしくない。さらに続いて活動し、今よりも上の展開を目指して頑張る決意と覚悟をしてくれるのであれば、こちらも今以上に頑張って彼らをフォローしたいと思う。そうではなく、苦労するのもなんだからということでキラキラレコード以外で活動したいという結論だってあるだろうし、だとすれば関係もこれまでということに成らざるを得ない。そうなったとしても、これも運命であり、結果でしかないのである。

 彼らの音楽は、実はここ数年の中でもっとも売れる可能性を持った音楽だと思っている。彼らをなだめすかして次のリリースをさせることだって出来ないことではない。でもそれでは彼らの成長はないし、成長無くして、もしも機会を与えることが出来たとしても、そこで彼らは失敗するだろう。だから僕は厳しいことも言わざるを得ない。厳しいことを言って憎まれたとしても仕方がないし、逆に伝わって成長してくれれば、リスクを超えられた喜びにもつながるような気がする。そうなってくれることを願うし、それはビジネスでの成功、つまり売れるということによる利益なんかよりもよほど嬉しい、仕事の手応えだと思うのだ。

Thursday, November 20, 2008

怒濤の360分3本勝負

 朝からバンド対応。バンド対応ってなんか事務的な響きがして嫌な言葉だ。僕自身にはバンドと会うことはイヤでもなんでもなく、これこそが自分のやるべきことだと思っている。でもすべてが「バンドとのミーティング」というべき内容でもなく、かといって「バンドとのお話会」という言葉も適切ではないと思うので、事務的で嫌な表現だが、まあ朝からバンド対応をした。
 
 最初のバンドはキラキラ☆ナイトに出演するためのチケットを取りに来て、それで質問に答えたり、逆にこちらからバンドの現状を質問したり、それで約90分間。
 
 続いて正午チョイ前から別のバンドが来社。今度はコンピレーションCDに参加するバンドなのだが、直接持って来てくれたついでにいろいろとお話。バンドといっても現在1人ユニットをやっているソロミュージシャンで、これからメンバーを探した方がいいのか、仕事を転職した方がいいのか、そういったことにまで話は及ぶ。
 
 どんな選択にも功罪共にあるわけで、ひとつの選択をした場合にどんなメリットとデメリットがあるのか、そしてこれまで僕が接してきたバンドマンたちがどういうところで躓いたり、何をきっかけに浮揚していったかということを話す。じゃあ例えばメンバーを探すという選択をした時に、予想されるメリットとデメリットはどんなミュージシャンにとっても同じことだ。だが、そのメリットを生かすも殺すもその後の努力の仕方だし、そのメリットをきちんと理解しているかどうかが大事。地図を渡されて「そこに行け」といわれて、まず地図の見方が解ってないとダメだし、それ以上に大事なことはその地図の場所に行ったら自分に何が起こるのかということを理解していないとダメなのだ。目的というか、現在やっている苦労の報酬が判っていて、それに十分な価値を見出すことが出来れば頑張る意欲も湧くだろうし、メリットを獲得できる可能性も上がっていく。しかしただそこに行けとだけ言われて、疑問を持っていたとしたら行き着くことさえ出来ないかもしれない。
 
 それは学校の先生から宿題を言われた時に、「この勉強は自分のためになる」と思えば取り組めるけれども、「先生に怒られたくないからなあ」と思っているだけでは、取り組みに身が入らない。そういうことに似ている。ましてや「誰かのをカンニングできないかなあ」とか考えてしまうのは、自分のためになることをやりたいという発想ではなく、その場をなんとかしのげさえすればいいという発想から来るものだろう。カンニングを工作するのにもそれなりに労力はいるというのに、その労力もまったく後のためにはつながっていないことが判らないからそんなことを考えたりするのだろう。
 
 音楽の世界でも「どこかで誰かが突然「キミいいよ」と言って、無名の自分に大金をはたいて応援してくれないだろうか」とか考えているミュージシャンは多い。でもそういう考えのミュージシャンの創る音楽はどうしても肝心な苦労を経ていないから、自己満足の世界に留まってしまっているし、そもそも同じような素質のミュージシャンが将来のために苦労を重ねているとしたら、それに勝てるはずがないのだ。
 
 
 話は逸れてきたが、まあ、その正午からのミーティングを終え、先日レコーディングをした天空快のミックス作業と、平行してプロモ制作を行う。別のスタッフたちが別の作業をしてくれていて、本当はそれを手伝いたいのだが、それぞれが抱えている仕事を全部こなしていくには僕がそれを手伝うわけにもいかず。みんな頑張ってくれてありがとうと心から言いたい。
 
 そんな作業の時間を過ぎて、21時半から最後のミーティング。これはミーティングといっていいだろう。来月アルバムをリリースするバンドSEXFACTOR BEAUTY EXPLOSION、略してSFBXのメンバー(上記写真)が来社。仕上がった音を聴きながら、ジャケットなどのデザインの詰めを行う。もうギリギリのスケジュールの作業ではあるが、一方で同時発売の天空快の音源はまだミックス中ということなので、まあギリギリ中のギリギリの中でも、まだ余裕があるといってもいいのかもしれない。本当は明日仕上がりの予定(これも当初の予定から押しているが)のデザインがまだ固まっておらず、彼らのデザインを担当しているデザイナーさんとメンバーの間での意思疎通が完全に詰め切れていないとのこと。そうはいっても発売日というものがあるのでなんとかしないといけないのだが、かといって納得できないデザインではリリースできないという彼らの気持ちも良く判る。要するにいろいろなことが詰まっていないし、最終的に詰め切れない時にはデザイナーさんのアイディアを却下しないといけなくなるのだが、その場合の人間関係とかも当然問題になってくるはずなので、ことはデザインの良し悪しということだけで考えるわけにもいかなくなるという、そういう話。もちろん僕としてもレーベルの大切な商品なので、つまらないデザインではリリースしたくないし、彼ら自身が自信を持って売れない商品ではその後のセールスに大きく影響する。そういうことも全部含めて、今週末にデザイナーさんと彼らとで完全に詰めて進めてもらうということになる。僕の方でもデザインのアイディアを出したりすることになる。もう、俺は結構忙しすぎる状況になったなとちょっと観念する。ミーティングの終了が24時ちょうど。今日はバンドとの話だけでまるまる6時間を費やしたことになる。
 
 まあ、こういうのが毎日ではないけれども、頑張ってやってます。何でもいいからキラキラレコードのCDを買ってください。応援するとか寄付するとかの意味でもいいので。

Wednesday, November 19, 2008

天空快レコーディング

 17日(月)の夜23時から、新宿のライブハウスでシングル用のレコーディング。先月末に急遽リリースが決まったという天空快のシングルだったが、彼らの対応能力が素晴らしいからか、テキパキと録音の準備が可能になったのだった。
 
 実は天空快、昨年半ばにアルバム『小松菜』をリリースしてからここまで1年半もリリースを行っていない。昨年はやったツアーも今年はやっていないし、もしかすると「もう天空快は活動を停止したのでは」と思っている人もいるかもしれないが、そう思われても仕方なかったのかもしれない。しかし、これまでのレコーディングとは違った完成度を目指すために、僕を含めたチーム天空快で、徹底した曲作りの作業を重ねていたのだった。
 
 具体的には彼が曲を作ってくる。そして定期的にキラキラレコードにやって来てはギター弾き語りの形で披露してくれて、それについてかなりのダメ出しをするという作業の繰り返し。これで何曲もボツになったし、原形をとどめないような修正変更をしてきた曲もある。というかほとんどがそうだ。芸術とはそういう合議で創られるものでは本来無いのかもしれない。だが、1人で創っていたのでは自己満足に陥る可能性だってある。だから客観的な意見を聞きながら、最終的には最も素晴らしい形を求めていくというのが、現在やっている作業なのだ。
 
 合議で創るのがダメなのは、意見を言うことで衝突が起き、その衝突を避けるために意見を引いてしまったり、誰も褒めなければ誰も貶さないという作品が出来てしまったりするからである。これを避けるためには、ストレートに意見を言い、それを真っ正面から受け止めるという、参加者の心の通じ方が必要だ。そういう関係をバンドとレーベルが持つというのは実はなかなか難しいことだと思う。レーベルが上から目線で命令口調をしているようではダメだし、逆にバンドマンが過剰に「アーチスト性」を振り回してしまってもダメだ。双方が意見を聞き合う気概がなければダメで、それは要するにお互いの信頼関係が必要だということなのである。それを天空快と持つことが出来たということも、キラキラレコードとしては何よりの財産だなあと思う。
 
 
 今回レコーディングした中に、「三月の下校」という歌がある。これ、内容は詳しくいわないが、僕の中ではとても高い価値のある作品だと思っている曲だ。その価値とは、後悔しない人生ということ。僕らは人生を生きている。もしかしたらああいう人生もあったのではないかとか、他人のそれを羨ましく思うことだってある。では、もしも人生をやり直すことが出来たとすると、その時に自分はどうすればいいのかと考えたりすることは誰にもあるだろう。その時に「今の人生をもう一度」と言える人は、とても幸せな人だ。なぜなら繰り返してもいいほどの素晴らしい境遇にあるからだ。
 
 最近プロ野球選手がFA宣言をたくさんしているけれども、引退同然のところを中日に拾ってもらったにもかかわらずFAしようとするバカは論外だが、ハマの番長がFAをして「他の球団の意見も聞いてみたいし、その最後のチャンスなんだ」といっている映像を見て、ああ、この人は横浜での野球人生が決して幸せではなかったんだろうなあと可哀相になった。
 
 別の可能性、別の人生、別の幸せ。人は現状に至るまでにいろいろな選択をし、そしてその選択の結果今がある。だから単純にキーワードだけを替えたところで別の人生に成り切れるわけではない。しかし、それでも別のものに可能性を見出したいという行為は、要するに現状に不満があるからだ。だからといってハマの番長を卑下しようとは思わない。どんな人にも現状に100%の満足をするなんてことは難しいことだからだ。
 
 そういう現状を見るにつけ、この『三月の下校』という歌には、完全な幸せというものがあるんだなあ、だからこの歌を聴いているととても幸せな気持ちになれるんだなあと、そう思うのだ。
 
 僕は一体どうなんだろうか? そんなに売れまくっているわけではないけれども、キラキラレコードをやっているという人生にはとても満足しているし、20年前に戻ることが出来たとしても、またこの仕事をやってみたいなとか思っている。もちろん現在得たいろいろな経験やノウハウを持って20年前に戻れれば、もっと成功することは間違いないだろう。しかしもしもそういう知識や経験も白紙になるのだとしても、またやってみて悔いはない仕事だと思ったりする。たとえ月曜の深夜にレコーディングしていて、季節外れの蚊に何カ所も刺されて痒かったとしてもだ。

Monday, November 17, 2008

スポーツあれこれ

 まあこの週末のスポーツとして最大の話題はクルム伊達公子のアラフォー優勝だといえるだろう。伊達がすごいのか、他の選手がダメなのか、それはよく判らないし、じゃあ杉山愛はなぜその大会に出ていないのかとか、いろいろと疑問点はあるもののまあ素直に賞賛されるべきだし、素晴らしいことだと思う。世界ランキング4位にまで行きながらもツアー生活に疲れて早めの引退をしてしまった人だというのに、こうして活躍してしまったら、次の全豪へ目標を定めてしまったという。なんかここまでは年齢を超えたチャレンジとして美談だったように思うのだが、そこからツアーへと向かうようになったら、一体何が目的でやっているのか、また混迷の中に落ちてしまうのではないかとか心配してしまう。
 
 で、僕はちょっと注目したかったのが女子マラソンだ。今回の注目は誰がなんといっても渋井陽子だったはずで、ビッグネームに頼らないと視聴率が取れないという番組宣伝上の都合もあったのかもしれないが、それに乗ったかのように前半から飛ばしていった。だが、渋井陽子は果たしてマラソンランナーなのかという疑問が常にあった。トラック競技からマラソンに転向というパターンは多いが、トラックで成功した選手は必ずしも同じような成功をマラソンではしていないことが多い。千葉も渋井も福士も、それなりの結果は出しても、トラック時代ほど輝いている印象にはつながっていない。それでも知名度だけは抜群だから大会の華として持ち上げられるが、それだけに失速した時のダメージも大きいのだろうと思う。4位なら十分に速いと言えるのだけれども、だが期待値に対する結果としては惨敗といわざるを得ない。それはこの週末に2位に終わった浅田真央とも似ていて、2位でも惨敗。可哀相だが、それは勝てば賞賛の度合いも計り知れないという立場だからの宿命でもあって、それをトップアスリートは受け入れなければならないのだろう。
 
 だが、浅田の場合はその競技のトップである。過去の実績もハッキリとしていて、身長が伸びたとかいうことも含めて課題は少なくないだろうが、その競技での勝ちを知っている選手である。だからその期待も順当なものだと思うのだが、渋井陽子の場合は、マラソンの成功者では無いのだ。もちろん優勝も2度しているし、一般的な基準からいえば十二分なマラソンランナーであるはずなのに、やはりどうしても彼女をマラソンの成功者とは思えない。それは僕らが彼女に期待する事前報道に触れ、そして期待の中の敗北を見るという経験を重ねてしまったからだと思うのだ。
 
 その渋井が予想通り苦汁をなめた。もちろん人生にもしもなんてないわけで、マラソンにいかずにトラックのスペシャリストとして続けていたらどうだったかを想像するのはあまり意味がないことである。だが、何故これほどまでにほとんどの長距離ランナーはマラソンを最終目標とするのかが、なんか悲しいことだなと感じざるを得ないレースだったなと、それはここ数年の高橋尚子が失速していた光景とはまったく違った悲しさを禁じ得なかったのである。
 
 それにしても、誰か相撲とか野球の結果に注目したりしてますか? 僕はその辺の情報にはまったく興味が無くなってしまっているなあ。

Sunday, November 16, 2008

池袋にて〜(携帯より)

 池袋で、所属バンド有刺鉄線の写真撮影をおこなう。

有刺鉄線は今年の9月に一旦解散したバンドだ。しかしそもそものオリジナルメンバーの山崎が踏みとどまって新たなメンバーを探し、ようやく来年1月にシングルをリリースすることになったのである。ここに至るまでにもいろいろな事件があった。10月あたまには某携帯会社のCMに抜擢されかけて、その膨大な出校量にビビりながらもやる気を盛り上げたところで敢えなくボツになったりした。ただ、それはダメになったものの、そのことで気合いが改めて入ったのは間違いないところだ。

 で、今日の写真撮影である。これはシングルのプロモーション資料用の写真で、ジャケット用ではないけれど、雨にもかかわらず彼らのいい表情が撮れて良かったなと思った。

 だが、本当に良かったなと思うのは、撮影後のメシの席でいろいろ話が出来たことだった。新ボーカルはモロッコ人で、ブルーハーツに憧れて日本にやって来たという変わり種なのだが、それ故に言葉の壁も含めて大変なこともあるわけだ。一度ミーティングはしたものの、一体大丈夫なのかという一抹の不安は拭えずにいた。

 で、今日メシを食いながら、話は今後の活動に移る。詳細は省くが、僕は彼らの頼もしさを感じたのである。条件とか、文書に箇条書きにできることなら誰でも言える。だが、僕がバンドに伝えたいことというのはそんなことではなくて、なぜあなたは音楽をやっているのかという根源的なことなのだ。結果として、有刺鉄線のみんなはそれが見事に通じたのだった。これ、伝わらない人には絶対に伝わらないことであり、そういう人の音楽はリスナーを感動させることはできないと思っている。そして今日の話の中で一番そのことがわかっているのがモロッコ人のボーカルだったかもしれない。まあモロッコにいながらブルハを愛したというあたりが、気持ちを持った人間だったということの何よりの証拠なのかもしれない。

 その有刺鉄線のCDがでた時にはまた紹介したいと思う。問題は山積みだけれども、来月のレコーディングはきっと魂のこもったものになるだろうと今から期待大になってきた。

朝顔

 ベランダの朝顔がまだ咲いている。というか、咲き乱れている。今朝も10個ほど花を開かせた。このところもう毎日のように平均8個ほどの花を付けているのだ。11月も半ばだというのに。

 この夏はほとんど花を付けなかったのだ。そのかわり葉っぱが生い茂った。すべての栄養を花ではなく葉に吸い取られているような気さえしていた。葉はそこで光合成をするわけだから、葉で作られる栄養を糧に花が咲くのだと思っていたがどうもそうじゃないらしい。結局夏、8月頃にはもう朝顔は終わったんだねと思って、あとちょっとで撤去するところだった。

 ところが、9月頃から急激に葉を落とすようになり、それでいよいよ終末期だな、自然と枯れてくれれば心も痛まなくて済むなと思っていたらその逆で、葉が落ちてきたのと反比例するように蕾が出てきた。花の登場である。一時期、10月の最初の方なんて気温もそんなに低くなかったから、ああ、温暖化でこういうことになっているんだとか思っていたものの、11月に入り、ここ数日はもうジャンバーを着てても寒いというくらいで、さすがに花も元気を無くすだろうと思っているのに、この調子だ。花が咲く勢いは一向に衰えない。

 これが朝顔にとって逆境なのかどうかはよく判らないけれど、気温も下がって来るという逆境にもめげずに咲き続ける朝顔の姿は美しく、なんだか勇気を与えられるし、応援したくもなってくるのだ。

 そう、応援ってそういうものだろう。バンドマンたちの中からは僕が彼らを応援していないという不満を投げかけられることが時々ある。では、僕がすべてのバンドマンを応援していないかというとそうではないわけで、今日もこれから、休日だというのに池袋のスタジオに向かうことになっているし、明日の夜も徹夜のレコーディングに立ち会うことになっている。それが業務なのか応援なのかは別として、僕としては結構やっているつもりで、その中でも力の欠け具合に多少の偏りはあるかもしれない。だがそれは好き嫌いということでもなく、単純にビジネス的な効率ということでもなく、要するに、応援したいなという気持ちにさせてくれるものにより力が入ってしまうということなのだろうと思う。で、それは結局、スタッフとしての気持ちの問題でもあるが、それ以上にファンにそのバンドがどう映っているのかということでもあるのだろうと思う。つまり、割と身近にいるはずの僕の気持ちを「徹夜してでも応援したいな」と思わせてくれるようなバンドだったら、ファンのみなさんも応援したいと思うし、僕の気持ちを動かすことさえ出来ないバンド活動を、一般のファンだって特段応援したいとは思わないだろうということなのである。だから結局、僕自身の動きとしては、僕自身が「応援したい」という気持ちになっていくものを強く押していくことがビジネス的にも最終的にはプラスになるはずだと思うし、そういう頑張っているバンドが伸びていかなければウソだとも思うのである。

Friday, November 14, 2008

パソコンと向き合ってます

 朝からパソコンとずっと向き合っている。新しいソフトの導入のためだが、その際にサーバ設定とか、その中でのCGIの設定とか、初めてやることがたくさんあったもので。まあ要するにデータベースの設置と設定というのが主なのだが、MySQLとか、そんなものを(普通)やったこともなく、でもそういうのを設置しないといけなかったりして、それで大変なのだ。時間がたくさんあるのならそれらの専門書をキチンと読んでから対応するところだが、残念ながらそんなに時間があるわけではない。コンピュータの専門家ではないので、他にやらなければいけないことが山ほどあるのだ。
 
 で、勢いそういうものを曖昧な知識のままで進めていく。これでもパソコン歴は20年近くあるし、コンピュータ言語も3つほど勉強した過去があって、BASICでは簡単なプログラムもいくつか書いたことがある。その後の仕事の中でも簡単なコードを書く機会もあったりして、そういうのには多少の基礎知識があると思っている。基礎がわかっていれば、あとは応用だし、応用の際にその言語や、設定にまつわる用語とかはある程度わかる。あとは使用しているサーバの仕様なんかを、サーバ管理者に問い合わせたりするだけだ。
 
 とはいえ、やはり曖昧なままに進めているとなんとなく気持ち悪い瞬間がある。なんかこれでいいのだろうかとか、このまま進めて全部やり直しとかになってしまいやしないかとか、そんな気持ち悪さだ。先述した通り、時間があればそういうポイントで立ち止まり、振り返り、やっていることを検証しながら着実に前進することも可能だろう。だがそれは出来ないのだ。そうやって時間をかけていたのでは他がダメになる。他がダメになってしまうのであれば、そもそもこういうことをやっていること自体が無駄になってしまうのだから。
 
 そういうことはミュージシャンにも言えることなんじゃないだろうか。先日もあるミュージシャンと話をしていたところ、「今このまま進んでもいいのだろうか」という悩みを抱えていたようなのである。その悩みの出所は非常にピュアで美しい、アーチストはかくあるべきというような理由だった。くわしくは言えないが。で、そういう思いで停滞しているミュージシャンは非常に多い。いや、だったら最初から音楽大学とかに行って基礎を学んでおけばよかったじゃないとか、まあその悩みの種類によって言ってあげられる根本的な対処法はある。でも、楽譜が読めなくってもいいじゃないか。多少批判めいたことを一部の人に言われたっていいじゃないか。そのことで悩んでいたら、先には進めないのだし、先に進まなかったら、そもそもバンド活動なんて意味がないことなのだ。
 
 それは売れるとか売れないとか、僕らが日常的に取り組んでいることだけに限ったことではないと思う。つまり、それぞれの目標があって然るべきだし、その目標に向かって前進していって自分が充実感を得られるのであれば言うことはない。だが、多くの場合、なにかしらの負い目を感じる部分を抱えて、それについてクヨクヨしていることが多い。でもそこでクヨクヨしていたのでは、結局目標には1cmさえも近付いていないということに、みんな気が付いて欲しいと思うのである。
 
 課題はそれぞれ違うとはいえ、まあ僕も今現在分厚いマニュアルに顔を擦るようにして、いろいろな設定を続けている。その設定、自分で進めていけるところは結構進めて、途中でぶち当たった難題もなんとか克服できそうになってきた。なんとかなるものである。ならない時はまったくならないけれど。

Thursday, November 13, 2008

生活リズム

 万歩計と共に歩く生活をこの5年近くやって来て、生活はかなり健康的になってきたと思う。しかしこの数ヶ月、ちょっとばかり太ってきた。結婚して食生活が変わったのもあるかもしれないが、最大の原因は、万歩計の電池が切れたことだと思う。
 
 電池なんて替えればいいじゃないかと言われるかもしれない。もちろん替えることなんて造作ないことだ。しかしその造作ないことをしないのは、もう万歩計なんて無くても健康的な生活は維持できるという思いだ。だがそれは過信に過ぎない。過信だとは判っていても電池切れをそのままにしているのは、最初に万歩計をつけてから半年足らずで18キロ痩せることが出来たことからくる自信で、多少太ってもすぐに戻れると思っているから、万歩計の電池をすぐに替えようとしない。だがそれはすぐに替えるのがおっくうなのではなくて、再び自分の毎日の歩数を確認することがおっくうなのだと思う。つまり、恐いのだ。知らない間にすっかり増えてしまった体重を解消するにはあまりに歩いていないということの現実を知るのが恐いのだ。
 
 そんな時テレビのCMに登場したのが、歩いてわかる生活リズム計という商品。DSが毎日の歩数をチェックしてくれるなんて楽しそうじゃないか!
 
 このパッケージの中にはソフトはもちろん、リズム計が2個付いている。それで5800円なら安い。しかもただ単に1日の歩数を計るだけじゃなく、何時にどれだけ歩いたかということまでチェックできるのである。これは単なる万歩計ではないと思った。もう1個のリズム計は嫁さんにあげよう。それで嫁さんまで健康になるなら最高じゃないか!
 
 というわけで、買って付けてみた。そして約1週間。やはりこういう数字が有ると無いとでは歩く意欲も違ってくるなという実感がする。秋も深くなり、銀杏が黄色に染まってきて、もっともっと歩いて、健康になりたいと強く思うようになった。

Wednesday, November 12, 2008

愚(政)策にて

 昨日のニュースで思うのは、政策とはなにかということ。

 そう思うきっかけは、定額給付金の決着点と、田母神氏の参考人招致。定額給付金の問題はとにかく迷走してきた。これ、景気対策として打ち出したということだが、野党からは「国による票の買収だ」とも言われている。その論の正否はともかく、麻生さんの気持ちの中に緊急景気対策をしなければという思いがあったことは間違いないだろう。しかし、一旦発表してしまってからいろいろな意見が出てきて、それで迷走していったわけだ。ここで思ったのは、どんな政策も出発点は割と純粋なものではないかということ。でも周囲からいろいろな意見が出てくる。それらはほとんどが全体とか根本ではなく、自分の立場からみた木を見るような論だということ。今回だってそうだ。与謝野さんの言っている「高所得者にまで配るというのは法としておかしい」という意見も判らないではない。しかし今回の対策がそもそも法としておかしいことであって、それでも超法規的になにかをやらなければいけないというところから出てきているということを考えた時に、自分の意見がこの政策を足もとからストップさせてしまうということについて判らなかったのか、そしてそうなったら麻生さんの支持率が下がることになって、結局は自分の選挙も危うくなるんだということに気が付かなかったのか、それがすごく不思議である。判らなかったのなら耄碌という言葉しか当たらず、もう引退して欲しいと思う。まあそれだけじゃなくて、意図と違うリークも含めて多くの足引っ張り現象が与党内から出てきていて、これが麻生内閣の脆弱さを示しているし、国民もそれを感じ取っている。もちろん僕もそうだ。
 ではどうすれば良かったのか? どんな意見を言っても批判は出てくる。だとすれば方法論はたった2つ。何も言わないか、さもなくばすべての批判を聞かないか。まあ総理大臣に何も言わないというオプションはそもそもないから、すべての批判を向こうに回しながらも持論を押し通すということしか、政治家のトップには残されていないと思う。小泉さんが人気だったのもそういう態度だったからだと思うのだが、麻生さんはいろいろな意見を聞いてしまうし、聞いてしまって足踏みしているということが誰の目にも明らかなのに、「いや、俺はそもそもこういうことしか言っていないよ」みたいな開き直りをしてしまう。だから「あ〜あ」という感じに映ってしまうのだな。自分の意見に反対するヤツは全部抵抗勢力だと小泉さんの決め台詞をパクって、与謝野さんとかも更迭し、抵抗する官僚も更迭し、自民党議員も次の選挙で公認せずに、推し進めちゃえばいいのになと思う。それがどういう政策であって、世論的に人気か不人気かとかは関係ない。それが独裁政治で悪魔だと言われても耳を貸さない。そういう感じでいかなければダメなんだろうと思うけれど、やはりそれをやるには信念が必要なのだろうし、そういう信念を持っている政治家はそうそう残っていないんだろうなということが、なんとなく将来の不安とかにもつながっているような気がするのだ。
 
 そして、田母神氏の参考人招致。本当は生中継で見たかったが、残念ながらニュースでのダイジェストを見る。この人、言ってることは非常に危険だと思う(説そのものというのではなく、自衛隊幹部という立場で何を言うべきかということについての感覚が危険だと思うのだ)が、しかし信念は持っている人だなと思う。更迭されてもなお言を曲げず、参考人になっても持論をガンガン言う。批判されてなお堂々としている。こういう人は久しぶりに見たなと思う。で、この人を定年退職として更迭した理由が「もめるのが長引くといけないと考えたから」というのも変だし、「自説を生中継で述べられたら困るから」テレビ中継をやらないというのも変だと思う。なにを隠そうとしているのか。韓国や中国、そして逆に国内のタカ派の人たちからいろいろ言われるきっかけを与えたくないというのだとしたら、覚悟のない政治だと言わざるを得ない。そういう人たちはいろいろな方法で内容はチェックするし、それを止める方法など無いのだ。そのあげくに「退職金は返納して欲しいとお願いしたい」とか訳のわからないことを言う始末だし、それに対して「生活が厳しいから有難く使わせてもらう」という田母神氏の言葉はいかにも皮肉っぽいなと感じる。
 僕が思うのは、田母神氏は国家の官僚であり、そういう立場の人が国のトップとは違う意見を堂々と言って、部下の教育でも国の方針と違う内容を平気でやっているということ。これが一体どういうことなのかということである。ある意味、革命行為だ。これを国家反逆罪として取り締まることだって可能だと思う。226事件とあまり変わらない。武力に出るのか、それとも教育の面で行うのかという違いで、言論の自由というものとはまったく違う。ジャイアンツの選手が「子供の頃からのタイガースファンだったんだ。だから決戦の時にわざと三振をしてタイガース優勝を願ったんです」なんていったら、それも自由なのだろうか? いや、自由だ。基本的人権としては自由だ。しかしそういう選手はジャイアンツの選手として明らかに不的確であって、だったら退団してからファンを名乗れよと言うことになるだろう。そもそも乱闘になった時にベンチに残っているだけで、野球では罰金である。それを、日本国家の自衛隊の最高幹部が、政府見解と違った意見を持って、その意見に基づいて教育をしているということが大問題である。
 しかし、そういう人をまともに処罰できない。これは今回の問題だけではなく、政治をバカにして従わない官僚という意味でいうと、もはや日本全体の闇なのだろうと思う。もちろん彼らの中には二世三世やタレントで占められている政治家なんかより官僚の方が賢く、日本をよく導けるという自負があるのだろう。それはある意味そうだ。間違っていないと思う。しかし、だからといって官僚が政治を無視し始めたとしたら、それは民主主義というものを根底から否定することであり、例え政治家がバカであったとしても、民主主義を根底から否定することはあってはならないことだと思う。田母神氏は自衛隊だから特に恐いと思うが、そうでなくても財務省とか経済産業省なんかでも、やはりそういう意識が蔓延するのは非常に恐いことだと思うのだ。
 
 現状では政治が官僚をコントロールするということが出来ていないし、それは結局は政治家、それも政治のトップに持論とか、それに対する覚悟を持っていないということに起因するのだろうと思う。民主党に変わったらバラ色だとか、そんな甘いものではないだろうと思う。しかし、少なくとも政権が交代して、何らかのショックを与えることによって、もっともっと政治家の人たちが与党野党含めて真剣になり、その結果覚悟ある国家運営につながりやしないかというちょっとした希望を持ったりするのである。

Tuesday, November 11, 2008

移行しました

 キラキラレコードの日記を2000年から始めた。当時はブログなんてサービスはなくて、htmlファイルで日記を書いてはFTPソフトでアップするという作業を繰り返すという日々。それでも自分のサイトを持っている人自体が少なかったし、それなりにみてもらえているという実感はあって、仕事と趣味を兼ねて、毎日日記を書いてきた。

 この方法にもメリットとデメリットはある。メリットは、ある日の日記を後日書くことも出来るということだ。これなら忙しくて書けない日だって、後からまとめて書けばいい。じゃあデメリットはというと、これも後から書けてしまうということに尽きる。後から書けてしまうということは、1週間サボったら、7日分を書かなければというプレッシャーに襲われる。記憶も薄れてきた日の出来事を思いだして書くというのは、苦痛だし、そもそも面白いことなど書けやしない。まあ元々面白いことなど書こうとは思っていないのだが。

 そしてしばらくするとブログサービスが盛んになる。FTPとhtmlによる日記は少々時代遅れになってしまった。それでもしばらくそれをとおす日々が続く。やがてmixiとかも始まる。友達に誘われて始めてみると、これが結構面白い。一応公開で、ミュージシャンたちも検索して見に来てくれたりするが、基本的にキラキラレコードの日記とは違い、プライベートな空間と思っているため、mixiではキラキラレコードとはフレンドリーな内容の日々の出来事を書いたりしている。散歩をしながら携帯で書いたりすることもあるので、文章の長さはそんなに長くはしない。一文一文改行するとか、そういうことも気にしてやっている。まあ、キラキラレコードの日記とはまったく違うものが展開されることになる。

 そういうことをやっているうちに、キラキラレコードの日記が疎かになってくる。やはり自分のパソコンからしかアップできないということがネックになってくる。アクセスできればどこからでも更新できるというのはやはり大きい。10月はまるまる、実質的にほぼ2ヶ月の日記更新を怠ってしまい、もうそろそろ日記を書くためのツールとしてブログに移行するということも必要なのかなという気持ちが大きくなってきた。

 それで、キラキラレコード日記をブログに移行することに決めた。でも、一体どの会社のサービスを使えばいいのだろう? 比較してくれるページもいろいろあって、それを見ているだけで日が暮れる。よく判らないけれど、とりあえず始めてみたのがseesaaです。最初はYahooのブログをやろうとしたけど、使い勝手がイマイチよくわからない。よく判らないということは、使いにくいということだろう。次にアメブロというのを検討した。割と流行っているらしい。でもなんか違う。そういうことで、seesaa。正直まだよく判ってないのです。これでいいのか。まあ少なくともFTPシステムよりは広がりがあるんじゃないかとか勝手に思っている次第。いずれまた変わるかもしれないが、それもまあいいだろう。


 ああ、mixiでのですます調ではない文章を久しぶりに書いたような気がする。なんか気分がいい。

 という内容で、seesaaというところでブログをスタートさせたのです。それでこのgoogleのブログも久しぶりにアップしてみました。今後、seesaaのブログの転載みたいな形でこれも更新しようかと思ってます。ひとつよろしく。