Friday, July 31, 2009

スピード違反

 日経新聞の朝刊にあった「寸言」という記事。

 「運転手が交代した後に酔っぱらい運転をしないかどうか、スピード違反をしないかどうか。十分に見極めることが大切ではないか」(自民党の伊吹文明元幹事長)

 まあ、よく言うわ。こういう根拠のないたとえ話をして恐怖を煽ることがそんなに楽しいのか。今の運転手がラリっていることがハッキリしているなら、そこに免許を持った運転手がやってくればそれが酔っぱらい運転をしてもスピード違反をしても、ともかく乗り換えること以外に選択肢はない。そういう選択肢が無いような状態に国民を追い込んだのは一体どこの政党だと逆に聞きたい。本当なら自民党にずっと任せておきたかった。しかし相次ぐ不祥事に政権投げ出し、社会不安と不景気と治安悪化。こういう事態に直面して、もはやこのままではマズいんだという国民の危機感に何故気がつかないんだろうこの人たちはとつくづく愛想が尽きる。火事のホテルからは人は飛び降りるのだ。飛び降りる人たちに「危険だよ」といって首元をつかんで押さえる暇があったら、火を消すことに懸命になって欲しい。飛ぶ危険と火事の危険がどちらが大きいのかは、それぞれが判断する。それをどうこう言う前に、することあるだろうし、もっと以前にあっただろうと、心から思う。

Wednesday, July 29, 2009

残ったものがすべて

 川村カオリという人の死はとても切ない。

 この人のことを特に思い入れを持って追ってきたという経験は無い。ファンではない。むしろそこそこの知名度を持ってインディーズ情報誌などに大露出していた時期があって、苦々しい気持ちになっていたという記憶の方が強い。おまけにその露出を計っていたスタッフが知人だったりしていたから、その点で複雑な思いを抱えていたりした。もちろん一瞬の思い出しかないけれども。

 そんな大した思い入れの無い人の死が切なく感じるのはなぜか。それは結局彼女が最後までアーチストを貫いたからである。それは貫いたという主体的な意思によるのか、貫くしか道がなかったという結果なのか。おそらく両方なのだろう。ほぼ同世代の(元)アーチストたちは、ある者は落ちぶれて引退し、ある者はバラエティタレントとして華麗なる転身をしている。またある者は今もライブハウスで売れないミュージシャンを続け、ある者はママとして育児に専念していたりする。

 人生は、それぞれだ。今関わっていることがすべてではない。若い頃の衝動は時に熱に浮かされただけのものだったり、乏しい知識の中での選択に過ぎなかったりする。経験を重ねると、主義思想が変わることも当たり前で、だから10代に情熱を燃やし続けたものをいとも簡単に捨て去ることだってあるだろう。それは悪いことではない。人間として、方向転換が必要な時もある。それを人間の一生の問題としては他人がとやかく言うことはできない。だが、自分が一時信じたものを信じ続けるということはそれだけで価値である。特にその活動が他者の評価に支えられる種類のものであればなおさら、信じ続けて行動し続けるということが、他者の信頼に応える唯一の誠意だと思う。だからこそ、続けてくれるアーチストこそ、ファンを本当に大切にしているし、ファンの応援を本質的に理解し感謝しているのだといえるのだ。

 そういう意味で、川村カオリの晩年はまさにファンへの感謝だったのではないかと思うのだ。それが本人の主体的意思なのか、それ以外の道を選ぶ器用さが無かったからかはわからない。それを判定するほど彼女の活動に注目して来たわけではない。だが、病気と戦い、容姿も若い頃の溌剌としたものとは変化して目の下に激しいクマが露になり、それでもステージに上がる。声にかつての力強さはなく、時にテレビに映る楽曲もZOOなど、20年ほど昔のかつての名曲でしかない。それでもそれをやり続けて来た。もう闘病に専念すればいいじゃん。生きてるだけでいいじゃん。1日でも長く生きるために、体力をそんなに使わないようにすればいいじゃん。だが、それはアーチストには通じない。なぜならアーチストにとって生きるというのは表現するということであり、それ抜きに長らえることに意味は無い。こう書くとまるで生き延びようとするのがまるで悪いことなのかと反論されるかもしれないが、そうではない。それはその人の生き方だし、哲学だし、価値観だ。先日逝去した忌野清志郎も、喉頭がんに際して手術を拒否。シンガーにとって喉の手術は致命的だと思ったか、それはそれで一つの選択だ。その結果治療に専念し、復活を遂げ、数度のテレビ出演と、いくつかのライブ出演と、単独としては武道館での復活祭。歌えたのはそれだけだ。そのために命を削ったのが果たして正しい選択だったのか、それはいろいろと意見はあるだろう。命とアーチスト生命。どちらにより重きを置くのかが、最後には問われる。一種のチキンレースだ。そこには普段の覚悟が現れる。ファンは何もない時にそのアーチストの覚悟を感じ、人生にとって重要な表現なのかそうではないのかを量り、応援したり見限ったりする。その判断が正しいものなのかどうかは誰にも判らない。ただ、それを証明することが出来る唯一の存在がアーチストその人なのだ。だとしたら、その選択判断というものはとても重いものとなる。それが命懸けの選択となったとしても、時にそこから逃げてはいけないのではないかと、日頃アーチストと称する若者とともに仕事をしている僕としては思わざるを得ないのだ。いや、誰もが命をかけろと言うつもりはない。だが、もう少し軽い選択の時くらいには、強い意志を持って行動を決めろよと思う瞬間は多々あったりするのである。

 死去の報に際して流される若き日の映像。世の中はいくらでも変えられるという希望に満ちあふれた目をしている。ガンにむしばまれた後の目は、ただ現状を維持することへの希望に変わっていた。それは弱くなったということではないのだろう。ドラスティックな変化などない。だけれども、どんな状態であっても希望は持てるのだ。その希望がたとえ実現しなくとも、希望だけが生きるエネルギーなんだなと、ちょっと思った。自分より若い人の死亡のニュースは、いろいろと考えさせられる。

Tuesday, July 28, 2009

マニフェストというのは何なのか

 昨日の報道ステーションで解説者が「マニフェストというものを見て政党が約束をするのがルールになって来た。これで消費税をいつ頃何%に上げますということを書いていないのなら上げてはいけない。」みたいなことを言っていた。ちゃんちゃらおかしいと思う。なぜならそれこそ衆愚政治に陥る元だからだ。

 政治とは何なのか。現実との戦いである。現実は大変なのだ。時に国民に苦しいことを押し付けることさえ必要な場面はある。消費税を上げることは必要なことだし、責任政党はそれを国民にお願いしなければならない。そうか? それで国民はハイハイと納得するのか。それほどに国民は聞き分けが良いのだろうか。ありえない。そんな理想論をさも当たり前のように解説しているのはよほどの楽観論者としか言いようが無い。

 国民の耳に痛い政策を実行するのは、それを可能にする政治実行力を持った政治家や政権が、その立場を賭して行う国家的一大事である。竹下政権もそれで倒れた。その後のキングメーカーとして絶大な力を持った竹下総理であっても、国民を裏切ったという汚名にまみれて国民全体を敵に回して行ったことなのである。それでもやるのは意味があるからだ。政策の結果がどう作用するのかが国民に判るのには時間がかかる。反対されるのは当然だろう。それでもやらなければというのが、政治家の判断なのであり、数十年かけて手にした地位をかなぐり捨てる覚悟が無ければ出来ない。やらなければ立場は安泰なのだ。それでもやるというところに、意味があるし、政治家の覚悟がある。それは、騙し討ちでなければ成し得ない決断である。それを、痛みを怖れる国民の前に予め提示して、それで国民に選んでもらおうなんていうのは、教科書の中の理屈に過ぎない。だから今度の選挙でも消費税を上げるということを言ったとたんに負けである。だから言わない。議論はするぞと鳩山さんが言ってしまったのは、彼がやはりオボッちゃまであるということの証でもあるだろう。小沢一郎ならば絶対に言わなかっただろう。いずれにしても、この4年の間に消費税を上げるなんてことまでは踏み込んでいない。それで、政権を取ったら、やるのである。やらなければ国が持たないならば、躊躇せずにやればいいのだ。それで批判を受け、退陣すれば良い。晩節をけがすことになったとしても、政治家としては国家の方向を決める一大事業を行ったということで歴史に残る。それで良いではないか。そして別の政権、それは同じ政党の別勢力であるかもしれないし、別の政党であるかもしれない。そしてその新しい政権が同じように、約束を破るのだ。

 大切なのは約束を守る破るということではなく、国の在り方を正しい方向にもっていくために、自分の立場を顧みずに批判に曝されながらも突き進むということである。それが官僚政治では有り得ないことであって、政治家が政治を取り戻すということの意味だろう。組織を守るためにはなんでもやる官僚たちとどれだけ対立出来るか、そして、自分のことだけを考えている国民をいかに欺くことが出来るか。それが鍵だと思う。現在各党から次々と発表されているマニフェストなんて、欺くための舞台装置に過ぎない。そしてそれでいいのだろうと思う。もちろんそこには哲学が存在している。なにがこの国にとって優先順位が高いのか。それを示すことが大切である。政治家や政党には夢を語って欲しい。この国がどうあるべきなのか、幸せとはなんなのか、安心とは何なのか。そのために何をすれば良いと思っているのか。それもないところに政策も無ければ財源論もない。あるはずが無い。誰が、どの政党が、そういう夢を語っているのか。それを見抜ければいいのだし、マニフェストはそのためにあると思う。

そのための財源論を喧しく叫んでいるメディアや政治家が沢山いるが、そんなものはどうでも良い。無ければ、徴収するに決まっている。それは後からの話だろうと思う。自民党が民主党のマニフェストでは財源が無いと言っているけれども、では自分たちの作って来た予算とは一体なんなのか。国債発行を重ねて、もはや国債の方が税収よりも多いということになってしまっている。つまり、現在の国民からでは足りずに将来の国民の財布に手を突っ込んでしまっているわけだ。それで国民全員にお金を配って、そこには何の哲学も無いと思うし、財源論を言える知性のかけらも無い。小泉さんの政策では財政を立て直すことをうたっていて、実際にシーリングなどで痛みをお願いした。数年後、つまり現時点になれば不満がわき起こるのは当然の政策を実施したのである。それがまるでこの不況の根本原因になったかのようなことを言っている人も多いが、それは違うと思う。だが、思う以上に小泉政策を否定する意見は多い。そういう姿を見ると、やはり正論を言って政権を取れるほど日本の政治状況は成熟していないのだと思わざるを得ない。だから、マニフェストで政策論をというのは、正しいようで正しくないのだ。本当にやらなきゃいけない政策とは、基本的に苦しいことであるはずで、それをやるのであれば国民全員を騙し通すくらいの根性で進まなければダメなのだと思う。

Wednesday, July 22, 2009

さあ解散

 さあ解散だ。

 数日前に書いた中では、自民の中の騒動は茶番だと書いた。おおむね間違ってはいないと思うが、それでも思ったのは、これは茶番というより、子供のケンカだったんだなということ。お芝居のような書き方をしていたが、どうやら本気で争っていたような形跡だ。だがそのケンカの根拠も薄く、こだわりもないから、ちょっと締め付ければすぐにおとなしくなる。子供はつまらないことでケンカをする。だが親や先生などの強い立場から怒られたらすぐにシュンとする。それに抵抗する力も大義もないからである。中川氏も武部氏も見事に変節し、「総理の今日のあいさつはすばらしかった。総理と握手したい」などと発言。和解をアピールする格好となった。一言「すまん」と言って欲しかっただけなのか? それとも郵政選挙の時に抵抗勢力が除名されたことを思い出して恐くて従順になったのか? はたまた党として結束しないと選挙に勝てないと思ったのか? いずれにしても「党の顔を変えなければ」という思いはそれほど重くなく、その重くないことで騒いでいただけということに、結果からすればそういわざるを得ないように思う。

 解散したわけで、戦いは既に始まっている。既にネガティブキャンペーンの嵐となっている。それは自民も民主も同じことだ。麻生総理は安心社会実現選挙と銘打った。国民との三つの約束として「景気を回復させる」「雇用や子育ての不安がない“安心社会”を実現させる」「できなかった場合責任を取る」ことを表明した上で「日本の未来に責任が持てるのは自民党だけだ」と宣った。僕は思うのだが、約束というのは明確なゴール設定が必要だ。数値的なものと期限的なもの。この2つの目安がないものは目標とかではなくて、単なる希望である。どういう状態が景気回復なのか。その設定の仕方はいろいろだろう。例えば日経株価平均が13000円というのならそれもよかろう。あるいは完全失業率が2%というのならそれもいいだろう。他にも景気回復を象徴するような基準はあるはずで、その併せ技でもいい。基準を決めるのはあくまで宣言する人であり、それを見て、国民一人一人がそれを目標設定として正しいと思うかどうかを決めればいいのだ。そうでなければ、「かつて株価は40000円台とかだったのだからそこまで回復しなければ」という攻撃に曝されるかもしれないので、それを避ける意味でも効果的だし、逆に「今が9000円前後なのだから9500円でもう回復といえるよ」ということを後からいわれたら、国民はたまったものではない。雇用の不安がないとはなんなのか、子育ての不安がないとはなんなのか。そのことも明確にすべきだと思う。そうしないと完全失業率0%になるまで不安があると言われるかもしれないし、逆に約束しておきながら「オレは不安なんてないですよ。気持ちの問題でしょう」とか言われたらかなわない。なにせ「郵政解散の時に私は賛成ではなかった」と後になってぬけぬけと言い放つ人なのだから。そういう明確な目標を、いつまでにやり遂げるということを言わなければだめだろう。それに党則を改正しなくても総裁の任期は目前に迫っており、麻生さんが総裁を辞めることになったら、次の総裁は「それは麻生さんが言ったことであり、自分の約束ではない」ということも簡単に言うのではないだろうか。

 ネガティブキャンペーンは、1993年の選挙の時も街には「安定か、混乱か」というキャッチフレーズをデカデカと印刷したポスターが溢れた。そのことを思い出す。宮沢総理はテレビに出演して、「社会党などにこの国を任せるつもりなのか、それでいいのか」と連呼した。結局中選挙区制だったあの時でさえ政権は交代し、野党状態から脱するために社会党の委員長を首相に指名したのだった。今回の「政権担当能力があるのは自民党しかないんだ。民主党に任せると混乱するだけだ」などと言っている言葉がいったいどのくらいの信憑性を持つのか。それも国民一人一人が見極めることなのだろうが、脅かしには人は弱い。だからついついその言葉を鵜呑みにしてしまう。

 未来を明確に予測することは出来ない。だけど僕らはそれを選ばなければならない。その指針となるのは他国の経験だし、歴史の経験である。260年続いた江戸幕府の時代を終わらせた明治維新。それは決して選挙で国民の意思を反映したものではない。だがそれによって日本は正しい方向に向かったのか。その問いに対する答えが、1つの指針となるのだと思う。その当時徳川政権が行ってきた統治システムを前提に考えれば、それを維持出来るのは徳川家だけだということになるだろう。しかしそれではダメなのだという世界の流れがあり、そのうねりが、維新となった。維新を行った者たちに新しい時代の政治というものがどういうものなのかについての明確なビジョンも方法論もなかっただろう。だから維新後にたくさんの日本人がヨーロッパに赴いた。イギリスだのフランスだのドイツだの、各国の法律や議会や社会の在り方などを学んで取り入れた。真似たと言ってもいいだろう。だが、そこには意志があった。だからやれたのだと思う。

 この文脈から、僕は民主党に意志があると言いたいのではない。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは判らないことなのだ。だが、自民党と官僚組織の癒着体制であれば、それは一種の徳川幕府末期のような状態になっているように思う。それでも混乱よりはマシだというのなら、そういう選択をすればいいだろうし、多少混乱する可能性も否定出来ないかもしれないけれど、末期的な自民党政治よりはマシだというのなら、そういう選択をすればいい。現状をどう見るのかということが、個々の人によって違うわけであり、そこに国民の見識が問われるのだと思う。もしも国民が間違った判断をすれば国は悪くなるだろうし、正しい判断をすれば国は良くなる。この国の行く末を決めるのは、遠くの政治家が勝手にやるのではなく、国民一人一人がやることなのである。だから、何があろうと選挙には行くべきだし、行かない人に何かものを言う資格はないと言ってもいいのではないだろうかと思うのである。

 そんな解散のニュースを見ていて、個人的に印象に残ったのは杉村太蔵氏の本会議場天井を見上げる姿であった。いや、杉村太蔵氏の品位や人格についてはいろいろ問題もあるだろう。まだまだ勉強不足という点もあるだろう。前回比例の最下位で当選してしまったわけだから、今回もせいぜい南関東ブロックの最下位でいいじゃないかという意見も特に理不尽とは言えない。だが、そんな彼のことをけっこう利用してきたぞ。それで必要なくなったらあっさりお払い箱である。北海道に転出したいと頑張っていたがそれも叶わず。解散と同時に失職となってしまう。彼はどうなるのだろうか。自民党に党籍は残すということだが、じゃあ党職員とかで雇用は確保されるのだろうか。一方で津島雄二氏の突然の引退。今回の次からは世襲が禁止と言っている自民党で、今回を逃せば息子に地盤を譲ることが出来なくなってしまう。それでギリギリまで待って、いよいよ解散まで数日という段階で突然発表する。青森の地元も津島氏立候補で固まっていたところで、そんなに突然に引退宣言されたら、いくら公募といっても息子がやる以外に選択肢は無くなってしまう。それを見越してのこのタイミングなのであり、「私の理念哲学を受け継いでくれる人に立ってもらいたい」とかいけしゃあしゃあとよく言うよと心から呆れる。世襲はいかんとあれほど言われて、今回からの導入は難しかったというわけか、今回の次の選挙からということになったわけだが、その抜け道を利用して、しかも言葉上は「世襲ではない、公募によるものだ」という言い訳をして。何のしがらみもなかった若者は放り出され、ご子息は地盤を引き継ぎ有利な選挙戦に臨もうとする。

 要するに、この党の考え方はそういう人事を容認するというものだ。天下りを容認する時には「やはり優秀な人材を企業団体が役に立てたいということだ」とかもっともらしい説明をする。で、しがらみのない若者を簡単に放り出す。まだまだかも知れないが、人は立場によって成長するものだ。杉村太蔵氏の将来に期待して頑張らせるという姿勢がないのでは、若者たちの危機的な就職事情を改善することなど出来るわけがないし、その先に広がる未来こそ、混乱と不安の世界なのではないかと、僕は個人的に思うのだ。

 変えるなら。そして維持するなら。いずれであっても選挙だ。投票に是非行こう。

Monday, July 20, 2009

「それは増税か」という人の政治観

 税とは何か。それは富の再配分である。

 富の再配分というとなにか奪ったり奪われたりするような印象があるが、僕はこう思うのだ。例えば会社に入るとどこかの部署に配属される。営業部に行く人もいるだろうし、総務部に行く人もいるだろう。営業部の人はお金を稼ぐのが仕事である。しかし総務部の人はお金を稼がない。企業というのは利益の追求が大命題であるから、営業の人がその命運を左右する。営業成績(売り上げ)が悪ければ会社は傾くし、営業成績が伸びれば会社は躍進する。成績がいい営業マンは言うだろう。「誰がこの会社に貢献しているんだ。成績がいいオレの給料を上げてくれ」と。だがこの論法に乗ってしまうと、お金を稼がない総務部の人には給料など要らぬということになってしまう。だが、総務の人がいろいろなことを仕切ってくれるから営業マンは営業にだけ打ち込むことが出来るのである。開発や製造の人たちがいるから売るべき商品があるのだし、宣伝の人が効果的な宣伝をすることでその商品の魅力が高まるのである。決して営業の人だけの努力で会社が動いているのではない。だから、営業マンの稼いだお金が一旦会社の金庫に入り、それを各社員に配分するということになる。

 税というのはそれの国家版の再配分なのだ。稼いだお金を全国民が安寧に暮らせるように再配分する。それは個々への直接的な配分もあるだろうし、社会基盤のインフラを整備するということもあるだろう。稼いでくれる者(個人法人)へは徴収するだけではなく、さらに稼げるような手助けもしていいだろう。ただ単に稼げない人へ哀れみを施すのではなく、自立して稼げるようになるために教育もするだろうし、まあいろいろだ。その配分の仕方によって、国は良くもなるし悪くもなる。そこには政治や官の国家観や哲学というものが如実に現れるのだと、僕は思うのである。

 日曜日のテレビを見ていて、自公の幹事長が民主党の子育て手当政策に対して 「(配偶者がいて)子どもがいない世帯は、増税になるんじゃないですか」と激しく詰め寄った。これに対して民主の幹事長は「それはそうです」と答えた。自公はしてやったりという顔をして「詰めが甘いんですよ、詰めが」と畳みかけた。

 だが、この討論を見てすごく虚しい気分に僕はなる。なぜなら、それこそ当事者たちの国家観が出ているなと思うからである。

 自公の攻撃のポイントは「子育て手当によって増税の家庭が出る→ほら、民主党の政策は増税ですよ」というものだろう。それによって民主党が増税を意図しているというように印象付けたい考えがにじみ出ている。というより前面に現れている。だが、それではどういう政策ならばいいのだろうか。子供のいる家庭には手当を上げて、子供のいない家庭の税制は現行通りというものか、あるいは子育て手当などやらずに現行通りかのどちらかであろう。もちろんその手当というものをどう呼ぶのか、幾らにするのかは細かい話で、その可能性をすべてここで挙げることなど不可能だ。簡略に説明すると、A(子供家庭への配分)、B(子供のいない家庭への配分)として、
(1)「Aを増やす、Bを増やす」、
(2)「Aを増やす、Bをそのまま」、
(3)「Aを増やす、Bを減らす」、
(4)「Aをそのまま、Bを増やす」、
(5)「Aをそのまま、Bをそのまま」、
(6)「Aをそのまま、Bを減らす」、
(7)「Aを減らす、Bを増やす」、
(8)「Aを減らす、Bをそのまま」、
(9)「Aを減らす、Bを減らす」、
の9通りしかない。
自公の説明によると、民主の政策は(3)にあたるのだろう。Bが増税にあたるんじゃないかということで攻撃しているわけだから、(3)(6)(9)は有り得ないことになる。では、その他の6つの中ではどうなのか。同じように誰かの配分を減らすことは良くないことになるのだとすれば、(7)(8)もダメだということになる。では、「どちらかがそのままでどちらかが配分増える」という(2)(4)と「どちらも配分増える」の(1)ではどうだろうか。これなら自公の攻撃にも曝されないということになるが、ではその配分増はどこから来るのか。しきりに「民主の政策は財源が不明確」というのが自公の主張だが、配分増にはどこかからの徴収が必要になる。それは結局同時代のどこかから徴収するか、どこかを削るか、未来の世代から借りてくるかしか有り得ない。それがいいのかということになる。結局、自公の主張というのは(5)の両方そのままということになる(だから現状そうなっている)はずで、それが良いのかどうかということが政策の上で問われるのだ。単なるばらまき政策だと、批判される。実際にそれには策といえるほどの哲学も国家観もない。だから麻生さんの経済政策は評価されていないのだ。

 民主党の政策が自公のいうように、子供がいる世帯には配分増で、子供がいない世帯には配分減だとすれば、それはひとつの哲学だといえる。少子高齢化という現状があり、それを変えたいという考えがある。子供がいる方が得だと思うのであればそういう流れになるだろう。しかし将来の不安が増大すれば、子育て手当があったとしてもなおその程度の金額では子供を増やそうという流れにはつながらないかもしれない。僕は個人的には子育て手当が月額26000円というのは安すぎるし、それにあわせて高校までの教育費を無料化するとか、さらに優秀な教師が公立に行くような制度を予算面も含めて手当てする必要があると思っているが、そこまで一気に行くことはなくとも、現在の状況を変えるという意味では、民主の子育て手当には意味があるし、その財源が子供のいない世帯の配分減によってまかなわれる(当然そんなに単純な話ではないが)のだとしたら、それは国家観に基づく哲学といえるものであり、単なるばらまきとは違うということになるといえる。有権者はそういう哲学の違いを吟味した上で、「いや、子育て手当を実施すると日本は悪くなる」と思えば自公に入れればいいし、「いや、それで日本は良くなる」と思えば民主に入れればいいのだ。争点はそれだけではなくて他にもいろいろな問題がある。自衛隊に属する人とシングルマザーとではどの争点に重要性を感じるのかが違って当然だし、それぞれの人がそれぞれの価値観に基づいてもっとも重要な争点を決めて、その争点でもっとも国の将来に資する政策を掲げている政党を応援すればいいのだ。応援の程度も、一緒にボランティアになって手伝うレベルもあるし、一票を投じるだけというのもあるだろう。いずれにしても、いろいろな争点でいろいろな価値観で、自らの一票を行使していくのが大切なのだろう。

 話は逸れたが、民主の子育て手当に「増税もあるんじゃないか」と激しく詰め寄る姿には正直呆れた。それは国民は哲学に寄る選択をするのではなく、甘い言葉や甘い政策に流れ、厳しいことを言われると萎縮して嫌悪すると本当に思っているように見えたからだ。今の制度がすべて正しいという観点に立てば今よりも負担増になることすべてが不利で悪ということになるのかもしれないが、実はそうではない。政権が変わるということ、政策が変わるということは、単に現在の制度と新しい制度の比較ということに過ぎず、「自公の政策に較べて、民主は子供がいない世帯には増税」ということを主張する裏には、「民主の政策に較べて、自公は子供がいる世帯には増税」ということに他ならない。その選択をどうするかを言えばいいのに、自分たちのやっていることを基準にして「変化は恐いだろう」というのは、93年の選挙とまったく同じことでしかない。

 もちろん民主が完璧だということではない。まだまだ突っ込まれるべきポイントは沢山ある。だが、突っ込むべきところはもっと別のところであるべきだと思うし、突っ込み方というものもある。だが、自公の現在の突っ込みというのは、政策選択の背景にあるべきものについての認識が「比較選択」ではなくて「危機感拡大と恐怖」であるという本音をのぞかせてしまっているという点で、やはりマズいし、哀れにさえ思わざるを得ないのである。

Saturday, July 18, 2009

富士登山


 キラキラレコードの隣にある文房具屋さんの社長から「富士山に登らない?」と誘われ、向かったのはキラキラの裏にある神社。神社の裏山に高田富士というのがあるそうな。昔からその名前は知っていたものの、どこにあるのか見当もつかず、箱根山(山手線の内側でもっとも標高が高いといわれている場所)よりも低くて富士ってどういうことだよと思っていた。

 しかし今日誘われて行くと、いろいろな看板に説明があった。どうやらここに登ることで、本物の富士山に登ったのと同じご利益があるという素晴らしい場所だということが判った。いや、富士山に登ったらどんなご利益があるのかは今でもよくわからないが。

 山頂(?)にある鐘を鳴らして、無病息災をお祈りするそうな。僕も家族の健康を祈った。独身時代とは違い奥さんもいるし、故郷では母親が最近膝の手術を受けたりしたし、家族が健康であって欲しいと昔に較べて強く願うようになっている。もちろん僕自身の健康も、もはや僕独りの問題ではないのだ。あまり無茶とかしないように慎重に生きていきたい。

 高田富士には縁日が並び、焼きそばとかがうまそうだ。だが寄らずに帰る。家で食べる飯が一番だ。

Thursday, July 16, 2009

出来レースと梯子外し

 自民党のゴタゴタは出来レースだと思う。本気で党を割る気の人がいるのであればとうに内閣不審案に賛成票を投じているはずだ。しかしながら誰一人として賛成せずに粛々と否決された。小泉チルドレンの長崎議員は離党したが、これは山梨で刺客として立てられ、その結果選挙区では負けて復活当選した人であり、刺客の相手である堀内氏が復党して、自分の立場がなくなっているということに起因する行動であり、今の党内抗争もどきとはまったく違った話である。

 今の自民党内抗争というものは、小泉的構造改革派か非小泉的旧来体制派かというところで争っているように喧伝されているが、実はどうすれば政権から離れずに済むのかということでの動きに過ぎない。それぞれが今自説を主張しているように思われているが、結局は党を割ることも出来ないのはそうすることで下野が確実になるからであり、自説の究極は自民党維持に向けて確実に収束してしまう。何故そんなことが言えるかというと、今の問題は自民党の両院議員総会というものの開催に向けた署名の問題になっているわけで、それは全議員の1/3の署名があれば開催にこぎ着けられるということになっている。しかし、それが開催された時にどうやれば党則が変更出来るのか? 細かい党則を読んでいるわけではないが、まさか1/3の意見で党則が変更されて総裁選前倒しが起こるのか? 常識的に考えてもそれは有り得ないだろう。そして今1/3の開催に向けた署名が集まったとかいう段階であって、過半数には到底及ばない。しかもその1/3についても、「意見を聞きたい」とか「都議選敗北の総括を」という議員も含まれている。麻生降ろしを騒いでいる人たちだってそんなことは百も承知だろう。つまり、来週火曜日にも解散が予定されているこの期に及んで、総裁は麻生でという意外に道は無いということなど判っているのだ。

 だったらなんでこんなゴタゴタが起きているのか。それは一種の猫騙しだろう。このまま解散したら都議選のまますべてが進む。これが最悪のシナリオだった。しかしここでゴタゴタを利用して盛り上がる。この数日の麻生さんの言動はそれなりに腹が据わった印象がある。今日も「会議が開催されたら堂々と出て行って自分の考えを堂々と述べる。逃げも隠れもしない」と発言し、なんとなく毅然としたイメージが醸し出されている。「意外と麻生さんやるな」という気持ちに傾く有権者が出てきても不思議ではない。

 中川氏がいろいろと言っているが、彼ら「反麻生」と言われている人たちの役割はというと、アンチテーゼであり、敵役なのだ。もちろん政策的な距離というものはある。だが、所詮自民党なのである。復党のために謝罪しなかった平沼氏や啖呵を切って離党した渡辺氏とは根本的に違う。彼らは敵役として麻生さんとの対決を演出するための駒である。そして両院議員総会を開催して、麻生さんはそれなりのことを言うだろう。そして反対する人は罷免したり、公認取り消しなどをするだろう。選挙対策役員だった古賀さんが辞意を表明した今、それを麻生さんが兼務すればなんだってやれる。麻生さんに恐いものなんてないだろう。政治を引退しても大富豪であることは変わりない。切れれば何でも出来る人は恐い。その脅しがあるから、最終的に反対を貫いたりはしない。出来ないのだ。派閥の幹部もすでに反麻生の動きに対して圧力をかけ始めた。

 結局、これは出来レースである。中川氏の敗北。勝った麻生氏。それでメディアをジャックし、そのイメージでムードを盛り上げようとしているだけの茶番だ。挙党一致体制はいともあっさりとまとまるだろう。劇が終われば楽屋では手を取り合う。劇だとわかっていれば問題無いが、それが真実だと思って見ていた人からすれば、とても許されない茶番だといえるだろう。だが、そういう危険性を押しても、こういうひと盛り上がりを起こさないことには国民の目先を変えられないからやっているのである。もしかするとこれによって麻生さんの信頼も地に落ちる可能性だってある。だが、もしかすると「麻生さん意外といいかも」という方向に向くかもしれない。そもそも日本人というのは判官贔屓だったりするのだから。

 今回のドタバタのキーパーソンといわれている人たちがそれぞれ面白い。加藤元幹事長はあの加藤の乱の際に土壇場で折れた人。今も発言が途切れないが、初めて閣僚になって将来のホープといわれた頃の無口ぶりとはまったく違っている。それは立場も将来も無くなったからだ。そんな人が決然として何かをやるといっても、それは誰も信用しないだろう。石破大臣はかつて一度自民党を出て再び自民党に戻った人。その時に「やっぱり政権の1つの極というのは自民党なのだ」と宣言した過去がある。出戻りであるということもその発言もあり、個人的には一目置いている有能な政治家ではあるが、やはり再び離党などは全く有り得ない政治家である。その石破氏も所属する派閥の長の津島雄二も同じく離党組で、やはり再度の離党など有り得ない人で、今回は「津島派の議員の署名は全部撤回する」なんて発言も飛び出して、なんかよほど党が割れることを怖れているんだなあと感じる。与謝野大臣は一度選挙に落ちて浪人時代を経験している。今回の都議選での自民敗北はその時のことを強く思い出させたのだろう。なにせ自分の選挙区で、都議会の重鎮が公示直前に立候補を決めた若造に負けてしまったのだから。与謝野氏の今回の相手は捲土重来を期している海江田万里であり、いくら自分が財務大臣だとはいえ、容易に勝てる相手ではない。落選をした都議たちの怒りを収めないことには彼らの強力も得られないだろう。まあ若造にぼろ負けした都議の力を借りたところで大した力ではないかもしれないが、無いよりマシなのが彼らの力である。ここは麻生さんに一矢報いるポーズだけでも取らないわけにはいかないというのが本音なのではないだろうか。

 こういう人たちが巧みな世渡りを見せている中、後藤田氏などの動きがとても気になる。彼などはまだまだ青いと思う。かなり筋論を言ったりしているし、それが彼の本音なのだろう。しかし、ここで勢い良く屋根に上ってしまったら、はしごを外されてしまう可能性も無きにしもあらずだ。渡辺喜美もはしごを外されたクチで、同じように離党する以外に無いようなところに追いやられるかもしれない。しかしここに至っては民主党に鞍替えするわけにもいかないだろう。まあ後藤田氏くらいになれば地盤も強力だったりするし、落ちる心配はしなくてもいいのかもしれないが。

 すでに民主党の動きとしては対自民党の戦略を終了したと見え、兵庫8区に田中康夫氏を投入することが決まったらしい。東国原氏の起用に失敗したのとは対照的に、田中氏を公明党の大物冬柴氏に当てるという奇策を示した。あとは最大の空白区といわれる東京12区に誰を持ってくるのか。公明党も自民に協力している場合では無いというところに追い込まれてしまうのかもしれない。もちろんそれは窮鼠猫を噛む的な逆襲にあう可能性だってあるし、危険な賭けなのかもしれないが。

シェリルとサラ

 大リーグのオールスターを観る。一昨年に引っ越したマンションの方角の関係でBSが入らなくなってからすっかり大リーグ中継を観なくなってしまったが、オールスターは地上波で放送だ。観れて嬉しい。だけど、日頃から観ていないとオールスターなのに選手のことがほとんど判らない。アメリカンリーグの4番をまかされたのはヤンキースの選手だったが、誰だ、マークテシェイラって。ヤンキースの25番ってジアンビーじゃなかったの?

 そんな程度の僕が注目したのは歌だ。オープニングで国歌(?)歌ったのがシェリルクロウ。新作を試聴機で聴いたけれどパワーがなかったのにがっかりしたことを思い出す。グラミー9回かどうかは知らんが、やはり歌手は今現在が大事だ。マイケルのように死んでしまっては何にもならないが、生きていたって死んでいるようなものという歌手もいる。グラウンドのシェリルクロウはやはり声量が不足していた。アメリカ国歌は入りが静かなので、サビでグワーンって来るかなって思ったけれども、それもなかった。彼女は少々やせ過ぎなんじゃないだろうか。マライヤみたいに太るのもどうかとは思うが、歌手だったら容姿よりも声量だ。シェリルの売りはやはり声量にこそあったように僕は今でも思う。

 7回を迎えて、やはり歌を歌うコーナーがやってくる。出てきたのはサラエバンス。この人のことは全然知らなかった。でも、すごい声量だ。歌唱力だ。こんな人がごろごろいるのか。きっとその世界では有名な人なのだろうけれど、世界のスターというにはまだまだ無名だろう。でも、いい歌だ。いや、歌じゃないね。歌唱だ。僕はファンになった。amazonで早速注文した。歌がうまい人の歌はそれだけで聴く価値がある。





 調べてみるとどうやらカントリーのジャンルに入る人らしい。カントリーってあまり馴染みがない。そりゃあシャナイアトゥエインもガースブルックスも知ってるし好きだしCDも持ってるし、でもそれだけで僕がカントリーに詳しいとはいえないだろう。ウィキによるとフェイスヒルとかもカントリーなんだって。へえ〜。面白いな。でもそこにサラエバンスの名前は出てこない。

 でも、サラの歌はいいぞ。適度にオーソドックスで、全力で歌って。音楽業界の片隅で仕事をしていると、新しい流れとは一体なんなのかとかに気を回し過ぎたりするけれど、本当はオーソドックスな音楽に心癒される。そういう音楽性向をオヤジ臭いといわれるのが恐くて、エレクトロニカとかPerfumeとかも一応耳にはするけれどもな。

 しかし最近のレコーディング技術の発達は、こういう本当に歌がうまい人の実力を隠してしまうと思った。上手いが、このくらい上手いレコーディング音源はざらにある。それは多少の実力の無さなんて機械が技術が押し上げてしまうからだ。だから僕はこういう人の音源を聴き、加工されまくった音の氾濫の中で素の音というものを探り探り聴いている。そういうところで想像力が育まれるというのはそんなに悪くないように思う。もちろん、ライブなどの生の機会があればその方がいいし、実力がある人の本物というものは、デジタル時代でも絶対にコピー劣化されない絶対的なものであると信じられる価値である。そのことに僕らは希望を見いだすのだろう。



 YouTubeで検索してみたら、サラの大リーグでの映像はいくつか見つかった。それに較べてシェリルのものは未だ見つかっていない。権利的な壁があるのか、僕の検索能力に問題があるのか。いや、そうではなくて、シェリルの歌はアップする価値もないとユーチューバー(そんな呼び名があるかどうかは不明だが)たちの誰もが思ったのだと僕は信じたい。

Tuesday, July 14, 2009

力を合わせて頑張りましょう

 笑っていいともでタモリ欠席。治療だか検査だか、健康上のケアのため今週1週間お休みだということらしい。今日のオープニング、中居くんを先頭に出てくるレギュラー陣は、他の番組だったら豪華キャストといってもおかしくない面子なのだが、何かが足りないって印象は拭えない。フジのアナウンサーが「タモさんがいない分、みんなで力を合わせて頑張りましょう」っていうけれど、あんまり頑張らないユル系の雰囲気がいいともの持ち味なんだから、頑張っちゃダメだろうって思うのだけれども、思えばタモリただ1人がユルく進行していただけで、他の出演者たちはいつだって緊張していたんだった。そのことを感じさせないくらい、主役で看板のタモリの存在感が大きかったということを、お休みしてはじめて理解するというのは、人の生き死にとも似た感覚だ。

 中居くんだってさま〜ずだって、自分で仕切る冠番組をたくさん持っている。十分に実力を持ったタレントさんだ。それなのにいいともの仕切りをやるとなると不安なオ−ラに包まれてしまうというのは、やはりそこが自分の場所だという感覚が、本人も周囲にもないからなのだろう。彼らに司会の力はあっても、いいともの司会が出来るわけではない。それは例えば、どんなに歌がうまくともSMAPで中居くんの代わりが出来る人などいないのと同じだ。別グループとして台頭して、SMAPを人気で超えることは出来ても、その人がSMAPにメンバーとして参加出来るわけではない。

 タモリだって人間だ。いつかは司会を務める体力を失う日もくるだろう。その時には誰かがいいともを継いだりするのだろうか。徹子の部屋を継ぐタレントは現れるのだろうか。それはかなり難しい。やはりその枠は一旦終了して、別番組を新たにスタートさせるしかないだろう。それが歴史の移り変わりというものなのだろう。

Monday, July 13, 2009

解散へ

 ここで解散するだろう。でなければ、解散は難しくなる。話題という点でも麻生さんが生き残るにはこのタイミング以外にない。もっとも政党内での生き残りと、国民の意識の中での生き残りは全く別の話だが。

 それぞれの人がそれぞれに自説を述べる。それをすべて聞くことなんて無理だ。公明党も「都議会選前はやめてくれ」から「同時選挙はやめてくれ」と言っていた。それが今は「都議会選から1ヶ月以内なんて無理」に変わってきている。変わるのは自由だが、それを全部聞いていたら、次は「2ヶ月以内はやめてくれ」に変わるだろう。そうすると任期満了ではないか。解散なんてとても無理だ。

 体制の立て直しを行うべきという論もある。立て直せると思っているのか。ここまで支持率が下がったのは判断先送りを続けてきたからだ。麻生さんのやりたい事がことごとく潰されて、それで「ブレた」と言われて下がってきたのだ。別に政策が否定されたわけではない。もちろん政策が支持されたわけでもないが、支持率低下の主な原因は「頼りない」であり、頼りないのは、決断が出来ないからだ。その麻生さんの決断を先延ばしさせて、自民党の体制立て直しができると思っているとしたら、それは先を見通す力どころか、現状を分析する力さえもまるでないということを露呈するだけである。

 麻生さんに名誉ある退陣をと言っている人もいる。つまり、麻生降ろしだ。麻生降ろしは要するに10ヶ月前に決めた自民党の顔を否定するということに他ならない。それを何回繰り返せば気が済むのだ。本来は小泉人気で獲得した議席であり、それが「本来郵政民営化には賛成じゃなかった」という人の政策をごり押しするための2/3として利用し続けるのは、違法ではないが欺きだ。欺かれたことにも国民は怒る。麻生さんに人気が無くなったからといって顔を変えてなんとかなると思っている人は、要するにその国民の怒りを理解出来ない人なのだろう。

 人気が落ちたすべての責任が麻生さんにあるわけではない。決断が出来ないのは党内基盤が弱いからであり、それでこれまで我慢を続けた。だが、もう我慢する必要なんてないのだ。総理総裁であっても意見が通らないのに、退陣して得られる影響力って一体なんなんだ。今後の影響力を保持するために退陣した方がいいって言う人もいるだろうけれど、安倍さんや福田さんが「政権投げ出し総理」と言われてしまった汚名を一生拭えないことを考えると、ここで筋を通した方が、国民の中での影響力は維持出来て、いいように思う。

 そういうことをいろいろ考えると、解散は自分の手で。そうなると今日か明日しかタイミングはないだろう。民主党が内閣不信任案を提出する。与党がそれを否決したら、麻生降ろしは理屈上封じられる。万が一可決したら、解散か総辞職になる。総辞職した瞬間に政治家としてはピークが終わる。もちろん解散したところでピークはそこで終わるわけだけれども。人は志があって政治家になるのだろうが、いろいろなしがらみとか仁義とかあって、思い通りのことを実行することがなかなかできない。だが、せめて最後くらいは志に筋を通して頑張って欲しい。そういう政治家を国民は求めているように、僕は思う。

Thursday, July 09, 2009

言葉の真相

 ニュースステーション時代からの習慣で、今も毎日報道ステーションを見ている。オンタイムに見られない時はビデオで見たりもしている。ある意味習慣だ。報道ステーションになってからは古館さんのキャスターぶりを見ているわけだが、古館さんといえばやはりプロレスアナだし、F!中継が強く印象に残っている。彼の真骨頂は、フレーズの切り方であり、印象的な言葉をどうやって捻り出すかというところにある。その言葉には中身がなくても構わないのだ。だがニュースではどうしても内容をまとめるような役割が求められ、ニュースの終わりに感情移入をしたような一言二言を述べるのだが、うちでは「なんか古館さんの言葉には中身がないよね」という会話が繰り返される。なんか情緒的な言葉を並べることで終わっている。そもそも古館さんというのはそういう部分で伸びてきた人なのだし、それを変えようとしなくてもいいと思うけれども。

 で、昨日マイケルの葬儀(?)のニュースの後に毎日新聞に載っていたコラムを引用して話をまとめようとした。そのコラムで紹介されていたエピソードでは、行われる予定だったイギリスでのライブにドクターを同行させて欲しいというマイケルの主張があり、その理由としてマイケルは「僕はマシーンなんだ、だからオイルを差してもらわないと踊れない」といったらしい。その言葉をとらえて古館さんが「なんか、うーんと思いましたね」的なことを話したのである。だが、その話を見て決定的な違和感を感じたのだ。なぜなら、僕も偶然にそのコラムを読んでいて、そのコラム自体をクソだと思っていたからである。

 何故僕がそう思ったのかというと、そのコラムではマイケルは既に過去の人だと断じられていた。今回の死亡についてミュージシャンたちにコメントを求めたのだけれどほとんど断られて、執拗に断る理由を聞いてみたところ、「だってマイケルに影響は受けていないから」と言われたのだという。確かにマイケルの全盛は80年代後半だ。ジャクソン5の時代を含めても70年代から80年代にかけての時代であり、90年代に入ってからは主立った活動をしているわけではない。人生後半はスキャンダルにまみれたといっても過言ではないだろう。つまり、20代の人たちに取ってはマイケルとは過去の人であり、彼の影響など受けていないというのが、筆者の論拠であった。

 だが、そうなのか? 僕は40代半ばで、彼のライブも生で4回も観た。その衝撃は大きくて、だからもちろん20代の人たちが僕と同じ印象を持っているとか言ったら、それは違うだろうとか思う。だが、だからといってミュージシャンがマイケルの影響を受けていないなんてことはないし、もしもそういうことを本当に口にしたのであれば、それはあまりにも無知すぎるとしか言いようがない。つまり、コラム筆者の論拠なんてクズミュージシャンの戯言に基づいているに過ぎず、そんなコラムに「感じた」なんて言っている古館さんは一体何を読んだんだろうかと首を傾げずにいられないのである。

 では、なぜ20代のミュージシャンが影響を受けていないとはいえないのだろうか。それは彼が20世紀最大級のポップアイコンであり、彼の音楽の決定的な部分はミュージックビデオの革命というところにあったということである。彼が大きな注目を受けたのはムーンウォークだし、スリラーのビデオだった。今のようにYouTubeですぐに見たい映像を見られる時代ではない当時、その映像を見るのは決して簡単ではなかった。しかし、当時の若者は見た。それ以降PV番組が盛んに作られ、 PVそのものも盛んに作られた。それ以前にもPVはあった。だがそれは今でも演歌歌手のビデオによくあるような、スタジオで単一トーンの照明をバックに撮影された一発撮りのようなものが多くて、マイケルのスリラーのようなビデオは正直衝撃だった。その後彼が主立った音楽活動をしなかったからといって、それで忘れ去られるようなものなんかではない。例えばビートルズなども活動は実際に60年代で終わっている。しかし、今もって若いミュージシャンはビートルズに影響を受けまくっている。音楽的な部分で言えば、ビートルズとはまったく違う音楽をやっているバンドたちもいるだろう。しかし、ビートルズがそれまでの音楽シーンというものを根本的に変え、リスナーと音楽との関係を変えたという事実があり、ジャンル的に違った音楽をやっているミュージシャンであっても、ビートルズと無関係というのはあまりにも表面的だと言わざるを得ない。同じように、マイケルも音楽とリスナーとの関係を大きく変えた希有な存在である。マイケルの音楽を聴いたことがない(考えにくいが)ような人がいたとしても、彼がミュージシャンであるのなら、その影響を完全に排除するなどは所詮不可能なことである。

 だから、マイケルの後年の人生がたとえ華々しい音楽活動と離れていたとしても、それで彼の人生そのものを卑下したりすることは間違っているし、同じように今になって娘の一言で彼の人生に対する見方が変わったりすることも間違っていると思う。音楽を多少なりとも志した人間にとって、一瞬であってもその影響が世界に及ぶということはそれだけで他のものに代え難い幸福であり、そのために人生の他の部分を犠牲にしても構わないと思えるほどの奇跡である。いや、もちろん人生を通して成功の連続の方がいいのだろうが、しかし、それを実現させるためには自分の信じる音楽そのものを裏切る必要があったりもするし、だったら、その一瞬のためにすべてを捧げようというミュージシャンこそ本物であるし、そういう本物を本物として評価するようなことが、少なくとも音楽に関わって生きている人間ならば、取るべき態度だし姿勢だと思うのである。そのことを考えても、コラムの筆者は本物の音楽関係者などではなく、所詮音楽ビジネス関係者に過ぎないのだなあと思ったのである。

Tuesday, July 07, 2009

大食いの人

 テレビ東京で大食い選手権をやっていた。ほんのさっきまで単純作業を3時間ほど、テレビをつけながらこなしていたのだが、その画面に映っているのを見てちょっと驚いた。

 大食いの女性は沢山いるが、人気のギャル曽根、実力の菅原さんというのが衆目の一致するところではないだろうか。ちょっとググってみたら、魔女菅原と呼ばれているそうで、自身のブログには魔女を連想させるようなとんがり帽子をかぶりホウキを持った写真を掲載している。ギャル曽根はタレントであって大食いの選手ではないとおっしゃっているらしいが、その魔女コスプレも十分にタレントのような気がするが。

 で、今日のテレビに映っていた菅原さんはいつものイメージとは全然別人だった。いつもは化粧っけのない普通のおばさんって感じで、それが少々不気味で魔女っぽい印象につながるのだが、今日は髪もメチャ気合い入れてセットしていたし、そのセットの仕方がまた普通ではない。メイクも入念にしていて、それがいつもの菅原さんという感じではなくて違和感を感じたわけだが、それなのに、違和感を感じるのに、魔女というイメージは倍増した。

 こわい.......。

 世の中には、多少お金があるからかなんなのか知らないけれど、全然似合っていませんというような特殊メイクを施して街を堂々と歩いたり、高級外車から颯爽と降りてこられるセレブ的なコワモテおばさんがたまにいる。そういう人も質素な服を着てスッピンに近いナチュラルメイクだったらもっと普通にキレイだったりするんだろうと思うことは多いが、このメイク菅原さんをみていると、その感をさらに強くした。しかもあろうことか菅原さんの表情は自身に満ちあふれ、口の両端には笑みさえ浮かんでいた。いや、いつもの方がまだいいですよ、今日のメイクとヘアはイケてないですよといいたい。誰かスタッフ、教えてやれと言いたい。しかし誰もそういうことを彼女に伝える勇気ある人はいなくて、逆に「今日は決めてますね」とか言ってしまったりして、菅原さんも勘違いの中で自信を深め、笑みを見せたりしているのだろう。

 僕も自分への理解を誤らないように、地道に生きていきたいとか思った。

The Bwoken Window / Jeffery Deaver



 『ボーンコレクター』などで有名な著者ジェフリー・ディーバーによるリンカーン・ライムシリーズの最新作『The Bwoken Window』を読む。クライムサスペンスは純文学とは違ってストーリー展開最優先の文章なので英語でも比較的読みやすい。とはいえ、やはり箇条書きの羅列ではないのでそれなりに苦労しながら594ページを読破。読破するだけでも達成感はあるけれど、中身が面白いというのがいいな。中学生の頃は赤川次郎とか読んでる場合かとか思って三島由紀夫とか読んだりしていたけれど、別に赤川次郎をバカにする必要もないし、三島由紀夫が好きとか言っているのも、なんか単なる見栄だったような気が今はする。特に最近は若者は本を読まなくなったとか言われていて、ミステリーでいいから読めばと思うね。読めばなんか、プラスになるはずだ。まあ僕の幼少期も全員が全員読んでいたわけじゃなかったけれども。

 話を戻そう。以前同シリーズの『The Stone Monkey』を読んだことがある。アメリカのミステリーは名探偵みたいなキャラクターが登場すると、その人でのシリーズ化が多いような気がする。トムクランシーのジャックライアンシリーズとか、サラパレツキーのウォシャウスキーシリーズとか、いろいろだ。このリンカーンライムというキャラクターは、脊髄損傷かなにかで車いす(かなり特殊なもの)に乗っている科学捜査官で、映画ではデンゼルワシントンが演じている。彼の相棒というか恋人のアメリアサックスはアンジェリーナジョリーが演じていて、だから読んでいてもどうしてもその二人が頭に浮かんでしまうが、文章から想像する人間性とかはどうにもその2人には結びつかなくて、読んでいてとても困惑してしまう。アメリアサックスは赤毛でカマロを乗り回しているという設定だから、アンジーでもいいような気もするが、なんか違うのだ。それはこの映画が作られた1999年当時からアンジー自身がけっこう変わってしまっているので、それで違和感がどうしても出てしまうのだろうと思う。

 

 この『The Bwoken Window』ではデータマイニングをしている会社を巡ってのトラブルが発生し、いろいろと展開していく。データマイニングとは、世の中にあるさまざまなデータを蓄積していくことのようで、例えばクレジットカードの利用状況とか、監視カメラに写った画像とか、その画像から誰がいつどこにいたとか、もちろん学歴とか仕事歴とか、犯罪歴とかなんかがどんどん蓄積されていく。僕らが日頃インターネットでどこにアクセスしたかなんかも遠隔のそういった会社がデータとして蓄積していく。犯罪者はそういう蓄積されたデータを改竄することによって被害者の生活そのものを破壊したりする。普通に使って支払も滞っていないのに、データが改竄されると使用不能になる。アメリカで生まれ育った人が不法移民であると改竄されることで逮捕されてしまう。自分が犯した犯罪のデータを他人のデータとすり替えることで、自分は捕まらず、すり替えられた他人が突然逮捕される。まあそういう犯罪は小説の中だけだろうが、個人情報の蓄積のようなことが本当に起こっているのかなあとか恐ろしくなった。こんなのが現実になれば、国民総背番号制みたいな制度が出来なくてもプライバシーなんてまったくないじゃないかと思う。だが主人公たちのピンチを救ったのも個人情報データを利用した結果だし、そういう意味ではものすごく力のあるシステムであることは間違いなく、それを正義のために利用するか悪のために利用するかによって結果が変わってくるだけなのだということに気づく。核兵器を持ったというお隣の悪の枢軸国家と、持つことだけでなく持つことを検討することも悪なのだとして核を拒絶する我が国と、正義の御旗の下に核武装や核攻撃経験もある大国と、いったいどれが正しいのかまったくわからんという気になる。いや、多分どれも正しく、どれも間違っているのだとも思う。人間は開発してしまった能力を完全に封印してしまうことは出来ない。たとえその結果迎える未来が人類の滅亡だとしても、手にした能力を使わずにいることは難しい。特にその能力がパワフルであればあるほど、それを使うことによってより悪いことも出来るということだし、人間の正義の心だけで抵抗するのは難しいのではないかと思う。

 しかしまあ、この小説の中ではパワフルなデータ力を駆使する犯罪者とそれに翻弄される捜査官たちとの戦いで、結局正義が勝つということになり、だからこそ読者は「ああ、よかったな」とか溜飲を下げられるのかもしれない。

Monday, July 06, 2009

都議選

 先週末から都議選が始まった。だが以外にも街は静かな印象がある。この週末に主立った繁華街にはそれほど行っていないからかもしれないが。

 それでも都議選が始まったなということを感じさせる出来事にはいくつか遭遇した。金曜日、所用あって新宿まで向かったのだが、途中歌舞伎町に異様な選挙カーがあった。車体には純粋無所属と書いてあって、選挙っぽくない若い女性の顔がドーンと。おいおい、あなたはどこかのお店に所属してるだろう、都議選期間中の一種のコスプレかと、ゆかた祭りとかみたいなイベントの宣伝なのかなあ、これは。しかし最近は美人政治家が流行りだから、そういう立候補者なのかなあ、でもそれだったら歌舞伎町に選挙カーを停めていたらいろいろ間違われるぞ、お店の人だって間違われるぞ、そして得票の妨げになるぞ、それでもいいのか。

 でも、選挙カーの窓には「選」の文字がついた布切れが貼られていた。この人はれっきとした都議会議員立候補者だったのだ。選挙区分のことはよく知らないが、新宿区の候補者ポスター掲示板にもその顔はアップで貼られている。元AV嬢とかなんとか、ネットのニュースでも派手に取り上げられていた。まあ、基本的には泡沫候補だ。歌舞伎町にはシングルマザーも多いので、保育施設を充実させるというのが選挙公約らしく、国政の傀儡になってしまっているような大風呂敷の公約を掲げている本命よりもよほど弱者の意見を代表してくれそうなまともな公約ではあるが、しかし50人の議席に対して70人が立候補するという区議会議員選挙ならともかく、都議会議員選挙というのは少々無鉄砲にも思ったりするが、どうなんだろう。それなりに健闘したりするのだろうか。だが、歌舞伎町にやってくるのは新宿区民だけじゃないからな。彼らが全員この地区の投票権を持っていたら若干話は違ってくるのかもしれないけれどな。

 そしてまた新宿から西早稲田の事務所まで歩いていると、あるポスター掲示板の前で不審な動きをしている人を発見。早速ポスターにいたずらでもしているのだろうか。Tシャツにジーパンという男は、隣に彼女とおぼしい女性を引き連れ、ポスターに巨大なホッチキスのような機械でガチャンと針を突き刺した。こ、こ、これは、公職選挙法違反行為の現行犯ではないか! でもなあ、やつの手には針を尽きさせるような機械があるわけだし、争って勝てる保証はない。しかも女性とはいえ2対1では明らかに不利だ。これは通り過ぎてしまおう。見なかったことにしよう。その時、男が振り返った。目が合った。しまった。が、それは候補者本人だった。

 なんか僕の方に軽い会釈をして、男女2人はチャリに乗ってつーっと行ってしまった。おそらく次の掲示板に向かっているのだろう。候補者本人は地図を見て「これから下っていきまーす」とか言っている。女性は「たいへんねー」とか言っている。いや、候補者本人がポスター貼らなきゃいけないんだったらきっと手が足りていないのだろうから、女性もただ一緒に回るんじゃなくて二手に分かれて貼り回った方が効率的なんじゃないかい。その辺が素人だなあと思った。やはり泡沫だと思う。泡沫であって欲しい。

 昨日の静岡県知事選挙では民主が応援する候補が勝利した。この地方選挙を国政のリトマス試験紙とするような報道の在り方はどうなのかとか思う。だって静岡の選挙が行われるようになった経緯はというと、例の静岡空港開港に巡る立ち木伐採問題だったわけであって、前知事が意地をはったりなんかしていた様が、県民にどう映ったのかということを考えると至極当然の結果だと思うし、それにしてはけっこう接戦だったように僕には見える。これをもって民主に風がというのは間違いであり、むしろ世にいわれている国政としての政党支持率の数字ほどの差がついていないということに、民主支持派は危機感を抱くべきだろう。また、都議選でも民主が圧勝だとか予想されたりしているが、そもそも民主候補が全員当選したところで議会の過半数は取れない人数しか立候補していないわけで、そういう意味では、都議選の結果はマスコミ的に民主圧勝という言葉にはつながらないということを考えると、1週間後のマスコミ報道がどうなるのかはまったくわからないと言えよう。

 それにしても週末の報道討論番組などでは自民が鳩山さんの故人献金問題をことさらに攻撃していて、とてもみっともないという気がする。というより底の浅さを自ら露呈しまくっているように思う。それで「あなたも次期総裁候補なんだから」とか言われて目尻を下げているようでは話にならない。この問題を取り上げまくるのは、法的にどう決着を付けるかではなくワイドショー的にわあわあ言っていればいいというものであって、国民の印象を操作しようというものにすぎない。だが、大半の国民は「自民の方が怪しい献金いっぱいあるじゃないか」ということは既に知っているのだ。それなのにこうやって自分のことは棚に上げているということは印象として深まっていくだけであろう。もちろん自民の人たちは法的に起訴とか逮捕されているわけではない。だとすれば鳩山さんの問題も逮捕なり起訴ということがあって初めて問題視すべきであって、そうならないうちに徹底的に問題にするなら、また起訴も逮捕もされていない大臣のことも徹底的に問題にすべきなのだが、それをしないのは明らかに不公平だし、そういう不公平なことをする人たちの集まり何だということを天下に曝しているようなものだと、気付いて欲しいのだ。そしてそれ以前に、やはり自分たちの語る未来を示すことが出来ない政党に、僕らは何も託せないのがとても寂しい気がする。

Saturday, July 04, 2009

007



 DVDで007を観る。ボンド役がダニエル・クレイグに替わってからの『カジノロワイヤル』と『慰めの報酬』の2本。新作の『慰め』を観たくてTSUTAYAに行ったら借りられなくて、仕方なく前作の『カジノ』を借りたのだった。

 いやあ、面白かった。すぐにTSUTAYAに行き、『慰め』を借りて観た。これも面白かった。

 2本通して観たのだが、2本続けて観ないと話が通じないような作りになっている。いや、『慰め』からいきなり観ても十分に面白い。だが2作を通じて登場する悪(?)の組織や、ボンドに味方する脇役がいるので、やはり通した方がいいと思う。だが映画館で新作の時に観たのであれば、どれくらい前作の内容を覚えているのだろうか。僕にはまったく自信がない。あれ、このオッサン何言ってるんだっけ? とか、この女の人は誰なんだろうとか、せいぜいそのくらいの記憶しかないと思う。それだと本当に楽しめるのだろうかとかすごく疑問だ。

 最近送られてくるデモテープ(いや、すでにテープで送られることは稀だが)を聴いていて思うのは、サウンドも歌もかなりレベルが高いバンドは沢山いるということ。しかし、その実力を十分に活かしきれていないケースがほとんどである。どうしてかというと、彼らはリスナーのことを本当に考えてはいないからである。主に歌詞などで言えることだが、とても個人的な体験を、その体験の具体性にはほとんど触れずにその体験に即して感じた自分の感情を抽象的な言葉で綴ったようなものが多いのだ。それではなかなか情景を思い浮かべることが出来ないし、だから感情移入も当然のように出来なかったりする。作り手の頭の中にはその言葉をひねり出した根拠となっている情景が頭の中にあるから、そういう抽象的な歌詞でも感情たっぷりに歌うことが出来るけれども、聴いている方としてはチンプンカンプンだ。

 しかしそれでも大ファンになってCDの歌詞カードを見ながら聴いているような人なら理解もしてくれるかもしれない。そういう人だけを相手にしてもビジネスになるのならいいけれど、キラキラレコードにデモを送ってくるバンドはまだまだこれからのバンドであり、見ず知らずの人たちを新たにファンにしていかなければいけない立場のはず。だとしたら、歌詞カードを見ながら聴くのではなく、むしろ1曲通して聴いてくれることさえ期待出来ない人を相手に魅力を伝えていかなければならない。そうすると、サビだけとか、下手するとAメロだけで引きつけるような歌を意図的に用意すべきなのである。それがエンターテインメントというものなのだ。

 007を観て、さすがはエンターテインメントの極致という気がした。それは登場人物について前作からのつながりが判らずに『慰め』だけを観ても十二分に楽しめるからである。アクションも恋愛感情も友情も全部入っているし、当然スパイものだから犯人探しや裏切りといった要素も、ウイットのある会話もふんだんに盛り込まれている。それでいて前作『カジノ』と続けて観ればさらにそのつながりが判って、深くなっていく。『カジノ』のエンディングで『カジノ』が完結し、ボンドがボンドになったんだなと納得させてくれたのだが、それが『慰め』へのプロローグになっていたなんてビックリだし、『慰め』のエンディングでも、『カジノ』で出てきた小道具が重要な役割を果たす形で登場する。連続して観る人にはまた発見がある。この2段構えでの楽しみを提供しているところが、エンターテインメントなのだ。それに対して売れないバンド(エンターテインメント全般とも言える)は、深みもないし、単純に判りやすいという正確も失って、結局それは独り善がりというものになってしまっているのである。それが芸術だと言い訳のような反論をする人も沢山いるかもしれない。だが人に好きになってもらうということがエンターテインメントビジネスの必要条件である以上、そこを外すようではまったくダメだし、それを押さえつつも芸術的深みを備えることは可能であることを考えれば、まずは基本的なエンターテインメント性を実現するように努力してもらいたいと思うのである。

 話が逸れたな。007役のダニエル・クレイグは無感情な風情で、サスペンス映画の主役としてはとてもイケてると思う。人それぞれだろうが、僕にとっては歴代007俳優の中でも最高だ。『慰め』で炎に包まれるアクションシーンの後、顔に無数の傷を作って、それがクリンゴン(スタートレックに登場するエイリアン)にそっくりに見えて笑えた。ボンドガールも一時期はそれなりに有名な女優さんが登場したりしていたが、この2作についていえばほぼ無名な女優さんが起用されていて、それが見事にハマっていて、いい。有名な女優の集客力に期待するのではなく、ここからスター女優を生み出すんだという気概が復活してきたようで、ちょっと嬉しい気持ちになった。

Friday, July 03, 2009

全国民に捧げる読売巨人軍展



 今発売中のBRUTUSの特集はジャイアンツだ。

 昔は毎号BRUTUSを買っていたが、最近はもう年に2〜3号しか買わない。面白くないからだ。コンビニで新しいのを見てもパラパラと見て、棚に戻す。その繰り返しだ。ところが今号の表紙に麗しのYGマーク。どんなブランド品のマークよりも強力な吸引力だ。それでも、買わなかった。その日、7月1日はなんか急いでいたのだ。




 それで今日、所用で新宿に朝から向かう。買い物を済ませてから、会社に電車とバスと徒歩のどれで戻ろうかと迷ったあげく、歩いて戻ることにした。用事があったのは三越で、地下街を通って伊勢丹に入り、エスカレーターで1階に上がってから外に出ようとしたら、その催しはあったのだ。『全国民に捧げる読売巨人軍』展。それはそれはちょっとしたブースで、いつもは1階向けのアクセサリーとかの特設をやったりしているところだ。そこになぜかジャイアンツ。原監督の笑顔のアップや、ジャイアンツの選手スタッフの集合写真、昔の後楽園球場のパノラマ写真などが貼られ、その間に怪しげなユニフォームが展示されている。ジャイアンツファンのデザイナーが考えたおしゃれユニフォームということらしい。BRUTUSと伊勢丹のコラボでの展示らしく、なんか面白かった。ああ、これは最新号のBRUTUSを買えということなんだなと、諦めのような、わくわくのような、そんな気持ちでその場に売っていたBRUTUSを購入。BRUTUSをデパートで買うという体験はこれが最初で最後だろうなと思った。もちろん伊勢丹の紙袋に入れてもらうことは固辞したけれども。

 読んでみた。まあ近年のBRUTUSらしく、内容は少々薄い。だが、面白い。渡辺恒雄、ナベツネのインタビューが面白い。江川の空白の一日事件で犠牲となった小林繁がもう野球を辞めてタレントになるなどと言い、それを説得に行ったあたりのくだりが面白い。それをきっかけにジャイアンツに携わるようになったというナベツネはなんとジャイアンツのエース小林繁の顔を知らなかったという。それで臨席していた代理人に向かって説教を続けたというのだ。ナベツネらしいといえばらしい話だ。

 この特集をザッと見るだけでも、いまでもジャイアンツはONのチームであるということがよくわかる。それはジャイアンツ人気が絶頂の時代でもあり、V9という最強時代でもあり、そんな中の主軸の2人がいつまでもジャイアンツ伝説の中心であるというのは当たり前といえば当たり前なのだが、しかしそれを超える選手がついぞ出てこないというのが寂しいばかりだ。怪我をして明日をも知れぬ上原浩治、ヤンキースでのレギュラーさえ確定出来ぬ松井秀喜、やはり怪我に苦しみ出場さえ遠くなってしまった高橋由伸。彼らがジャイアンツの伝説に成れないのは、怪我のためなのか、それとも大リーグ挑戦という甘い罠のためなのか。そういうことを考えるにつけ、清原がドラフトでジャイアンツに指名されていて、生え抜きとして生涯ジャイアンツであったならばと思わずにはいられない。

 BRUTUSの特集で、唯一スポットを当てられていた現役選手が坂本勇人だ。やはり坂本がこれからのジャイアンツを支えるスター候補の最右翼といっていいだろう。そんな彼はどのような道を歩むのだろうか。やはり大成したらメジャーとか言い始めるのだろうか。それも人生かもしれない。そして有力な選手が世界に目を向けたくなるというのも避けられない時代ということだろう。だが、だからこそそれとは違う伝説への道というものもあって良いような気がするし、そういう選手が坂本に限らず、今後出てきてもらいたいものだと思う。




 写真を撮った伊勢丹での原監督写真の下にあるのは、ホームランを打った後の選手を原監督が迎える時の「グータッチ」を再現する腕の人形だ。これにグータッチをすると原監督が「○○○○!」と言ってくれる。ジャイアンツファンは、ぜひ現場に行ってグータッチして欲しい。アクセサリー売り場のど真ん中で原監督の声が響くというのはとても愉快だ。もちろん場違いな雰囲気に怖じ気づいたりもするのだけれども。

Thursday, July 02, 2009

たまには仕事の話〜渋谷でライブ


 7月になった。2009年ももう半分が過ぎたということ。めまぐるしく変わる日々。流されるように過ごして、本当にものごとをやれているのか、自分にひとつ筋は通っているのか。そんなことを考えたりする。

 そんな7月のはじめ、僕は夕刻より渋谷のライブハウスDeSeOにいた。5月にミニアルバムをリリースした仙台のミュージシャン石川晃次が東京で初めてのライブを行うのだった。というか、今の活動をスタートしてからは初めてのライブだったのだ。

 石川くんはロス留学を経てフィリピンのミュージックシーンで活動してきたという異色の経歴を持つ。フィリピンでは日本で言えばサザンのような国民的ミュージシャンたちの集団と一緒に仕事をこなしてきた。筋金入りのプロである。しかしながら日本での活動歴は特に目立ったものもない。昨年日本に生活の基盤を移したばかりだから当然といえば当然なのだが、それではいけないという気持ちも強い。それはやはり彼がプロだからなのだろう。インディーズであれメジャーであれ、スタッフにすべてを任せっきりで自分は何もしない、ただ神輿に乗っていればOKなんじゃないのって思っているミュージシャンもいるが、それは結局はアマチュアなのだろうと思う。しかし石川くんのように、音楽のクオリティも音楽に賭ける誠意も優れているものは、もうプロといっていいのだと思う。ただ、日本での活動経歴も基盤もまだ乏しいというだけでしかないのだ。

 で、そんな彼だから、きちんとした活動基盤を作ってからライブをしたいと当初は語っていた。活動基盤というのは、バンドを組んで、CDの音源と同じサウンドを表現出来るようになってからということを意味していて、だが、それはそう簡単なことではない。昨年日本に戻ってきた状況ではまだまだ横のつながりもなく、サポートを入れるとしたらギャラを払ってということになるわけだが、それもなかなか簡単ではない。ではダメなのか、ライブは出来ないのか、してはいけないのか? 僕の答えは違う。やればいいのだ。やれば何かが見えてくる。そして、見せることが出来る。見せられるものは完璧ではないかもしれない。しかし、完璧などというものはそもそも存在しない。あるのはその場にある空気と、偶然の連続である。だがそんな偶然であっても、意思が空気をコントロールすることは出来る。大事なのはそのコントロールであり、意思なのだ。そろえられた形ばかりの音色ではない。一期一会でしかない出会いを、ハプニングを、お客は期待しているのだ。客の期待に飲み込まれ、緊張で思うままに出来ないうちに持ち時間が終われば、そこに感動など生まれない。しかし自分の意志が緊張を打ち壊し、客の想像を超える気を吐き出すことが出来たなら、それは名ステージとしていつまでも観客の心に残るだろう。大切なのは会場の広さや権威やステージ上で鳴っている楽器の数ではない。気合いなのだ。と、僕は思う。

 石川くんの東京初ライブは完成とはとても言えない。だが、一人で弾き語りという形でもいいからまずはライブをやってみるんだという境地に踏み込んだということが進歩だと思った。なんの葛藤もなくライブをやっているのではなく、やるべきことを考えながらやっている彼の表現者としての進化を期待したい。少なくとも、いい声をしているじゃないか。歌がうまいじゃないか。それがすべての基本だし、そこが既に確立しているだけで、僕の期待は裏切られることはないだろうなとか感じたりしたのだ。

Wednesday, July 01, 2009

知事の反乱について

 知事の反乱が先週くらいから話題になっている。メディアも面白可笑しく取り上げていて、まるで平成維新だといわんばかりの持ち上げようだ。だが、非常にくだらない。そのくだらなさを明確にしようと思っていろいろと書いていたらどんどん書き続けていて、さすがに僕も、こりゃブログの文量じゃないと思って、アップするのを止めた。

 だが、書いてまったく黙ってしまうのもなんだなあと思って、その文章を書いていてなんとなく僕なりに至った結論についてのみ、書き直すことにした。

 今回の動きを大雑把に言うと、主に東国原宮崎県知事が「私を自民党総裁候補として戦う覚悟があるのか」と古賀誠氏に言ったことと、橋元大阪府知事が全国の首長と連携して支持政党を明確にすると言ったことの2つがある。東国原氏は、「自民党が言ってきたからそういう問いかけをしただけだが、そういう問いをした以上もう自民党であり、民主党からの立候補はありません」と言っている。一方橋元氏はこれから支持政党を決めていくと言っている。この両者のやろうとしていることはまったく別の立場だし別の方法論であって、これらを一緒に論じるのは無理があると思う。だが、メディアは基本的にまとめて同じ動きであるかのようにまとめてしまっている。

 東国原氏の動きがくだらないのは、国会に色気がある東国原氏と自民の窮状をなんとかしたい古賀氏の思惑を最大に活かすためによく練られた出来レースであるということだ。これが出来レースではないと思わせるために自民のいろいろな人たちが反発のポーズを示している。「くだらない」「顔を洗って出直せ」とか、この人たちが憎まれ役を買うことで、東国原氏の立候補受け入れが自民党の変化を演出するという一役を担っているのだ。こういう発言をして、東国原氏が立候補して当選したらしこりが残るだろうとか思う人もいるだろうが、自民党は党を除名されるほど対立した人を復党させ、大臣につけるほどの節操のない政党なのだ。このくらいの発言がしこりになるなんて思うのは青年のような純粋さと言わざるを得ないし、そんなに純粋さだけで動く程自民党はピュアではない。そして、東国原氏を総裁候補にするくらいのことは、村山富市氏を首相にしたことに較べれば遥かに軽い出来事でしかなく、今彼の人気を最大限に利用することさえ出来れば、あとはどうにでもなるとくらいにしか思っていないはずである。

 橋元氏の動きがくだらないのは、彼が立場を鮮明にしていないということだ。国政を語るのであれば、国政に転身しなければ意味がない。そうしないのであれば、単なる圧力団体に過ぎない。国全体のことを考えての動きではなく、自分たちが身を置く地方自治体にとってもっとも都合のいい政党を押すんだというだけであれば、それは医師会や農協や労働組合などが自己の利益のために特定政党を支持しているのとまったく同じなのである。つまり、それは結局は国の政治を歪めるだけのことになるのであって、決して地方にいいことがイコール国の幸せではないということを、有権者は理解しなければならないのだろう。

 橋元氏は「特定政党を応援すると、その政党が破れた時には冷や飯を食わされることを覚悟しなければならない。」とか言っているが、何を今更言ってるんだと思う。というのは、これは革命に口を出すということであり、負けたら殺される覚悟でなければダメなのだ。もちろん実際に殺されるはずはないが、しかし特定政党を応援している以上、現在の自分の立場などに拘泥していてはだめなのだ。それでもし、自分が応援した政党が負けたとして、それでも知事を続けていることで大阪が冷や飯を食わされるのだとすれば、政党を支持したことと知事の座に居座ることのミックスによって、大阪府民が不利益を受けるということになるのだから、なにをおいてもその時点で辞任すること以外に道はないだろう。それが府民の最大の利益を追求する結果になるのだと思う。逆に、「もしこの次の選挙で支持政党が負けるようでは自分も辞任することになるんだ」ということを宣言することによって、橋元氏そのものを応援しようという気持ちのある人たちは、国政のことはどうでもいいけれど橋元さんは応援したいのだからということで、応援する政党の票を伸ばすことにもつながるだろうし、そういうことを考えても、今の橋元氏の立場はいかにも不鮮明、かついい加減だなあと感じるのである。

 今回のことを平成維新とかいう人もいるが、では明治維新はどういう勢力によってなし得たのかということを見る必要があるし、それを考えれば、彼らの動きがいかにバカらしいかということが判る。まず、明治維新を動かしてきたのは、中央政府たる江戸幕府から遠ざけられて冷や飯を食わされていた薩摩長州の2藩であり、地方大名の藩を脱藩した武士たちである。全国の知事はどうなのか。冷や飯は基本的には食わされていない。彼らが担当している自治体が冷や飯食わされているだけで、しかもその原因は国からの甘いささやきを鵜呑みにして、土建屋に無理な発注を繰り返してきて締まったことのつけに過ぎない。それを改善するために国政に口を出すというのはそもそもがお門違いなのである。

 これまで民主党が民主党でなかった頃から、政権交代を掲げて頑張ってきた人たちがいる。そういう人でなければ、この一大国家事業は完成されないのだと思う。今まさにそういう流れがでてきていて次の選挙では民主党が政権を取るかもというところに来て、突然のように「俺は国のことを考えていて、まさに千載一遇のチャンス」とかいいながら、自分で作った流れではないものに勝手に乗り込んできているのも厚かましいと思うし、厚かましいだけならまだしも、彼らが聖人面して「我々の正義をどちらが飲むのか」みたいなロジックで世論をミスリードしてしまうことは、この大きな流れを逆行させたり、混乱させたりするだけでしかない。そんなことは簡単に判ることだと思うのに、何故この動きをメディアは取り上げているのかが正直判らない。くだらない。迷惑だ。そんな気持ちを純粋に抱く、不愉快な動きだと思う。