Sunday, November 20, 2011

夢の中の親父

めずらしく親父の夢を見た。といっても、親父そのものは出てきてはいない。

 まだ日も高い福岡の自宅。自宅の1階は自営の眼鏡屋で、兄が店を切り盛りしていた。その兄に「あれ、お父さんは?」と聞いてみたところ、「出かけたぜ、スクーターで」と答えたのだった。

 そういえばむかし家にはカブのようなスクーターがあった。そんなことはもうすっかり忘れていた。僕の記憶の中にいる親父といえば、夜の町内を飲み歩く後ろ姿だ。大学4年の夏だったか、帰省した僕は友人と居酒屋に行った帰り、自宅に帰る途中に親父を発見したのだった。親父も家の方に向かっていた。僕と友人も同じ方向に向かっていて、てっきり親父は家に戻る途中だと思っていたのだが、あっさりと家を通り過ぎて、また夜の街へと歩いて行った。強烈な印象だった。それ以来、僕がはっきり覚えている親父といえば、ふらふらと夜の町をさまよい歩く姿なのだ。スクーターに乗っていたことはもう覚えていない。スクーターに本当に乗っていたのかさえ定かではない。だから夢の中でスクーターに乗っていってしまったのは、かなり若い親父の姿だと思う。その頃に兄が店で働いているはずは無いのだが、まあ夢というのはそういうものなのだろう。

 夢の中の兄は「映画を観にいくとか言っとったぜ」と言っていた。

 夢は僕らに何を見せようとしているのだろうか。他に持っている親父の記憶はというと、川ではしゃいでいて足を滑らせて溺れかけた時に助けてくれたこと、店で転んでストーブの上に倒れた時にすばやく動いて助けてくれたこと、母親の財布から500円札をくすねようとしたのを見つかって激しく怒られてビンタされたときのこと。いずれの記憶でも、親父がどんな表情だったのか、もうあまり覚えていない。

 夢の中の親父はどんな映画を観に行ったのだろうか。それがすごく気になった。そもそも親父が映画を観にいったなんて話は聞いたことがない。でも若い頃には観に行ったりしたのだろうか。身近な人のはずなのに、知らないことが沢山あるんだなと今頃になって考えてみたりする。

 親父が死んでから、もう17年が経過してしまった。

Wednesday, November 09, 2011

音楽の価格について

 Twitterで「今の音楽業界の価格設定等は公正なものであるとお考えですか?」という質問を受けた。当然140文字では答えきれないと思うので、ブログに書くことにした。

 で、いろいろ書いたけれど説明的に過ぎて余計分かりにくくなったから一度全部削除した。

 結論からいうと、公正というのが何を指しているのかはよくわからないけれども、価格設定は妥当であると思う。

 CDの価格は、弊社はアルバムで2400円(税抜)、メジャーだと3000円近辺というのが一般的だ。それが高いのか安いのか?牛丼1杯250円も珍しくない時代に、10曲で3000円というのがどうなのか。多分そういうところを質問されているのだろうと思う。

 まず、音楽は食事とはまったく違うものだ。メシは1日3回食わなければいけない。一方で音楽は聴きたくなければ聴かなくても済む。だが、心の栄養だと僕は考える。極めて趣味性の高い存在であり、それを安くしなければならない道理はないし、そもそも安く手に入れた心の栄養などで、リスナーの心が高められる満たされるなどとはまったく考えていない。

 次に、音楽制作にはお金がかかる。録音機器の進化によってかかる経費は抑えられるようになってきたが、それでもお金はかかるのだ。それを捻出するための収益は絶対に回収しなければならない。それはうちだけの話ではなく、音楽表現をするすべての人にいえることだろう。そうじゃなければただの趣味だ。趣味では音楽の質の向上も望めない。音楽の質が向上しなければ、結局損をするのはリスナーだ。その論理に納得できないリスナーは無料の音楽をmyspaceで聴きあさればいいと思う。

 売れているスターたちはともかく、まだこれからというバンドマンたちの日々の活動というのは過酷である。バイトをして生計を立て、疲れた身体でスタジオに入って練習をする。レコーディングにも金がかかる。ライブだって客が入らなければ赤字になる。CDも売れなければ赤字だ。ツアーをしようと計画を立てたって、移動の交通費は自腹で、行った先でギャラがもらえることは稀だ。それでも自分たちの音を届けようと懸命にやっている。そんな彼らが売っているCDRが1000円だとして、「パソコンで焼くだけでしょ、CDR代なんて100円もしないでしょ」という人が時々いる。アホかと言いたい。なぜにそんなに叩く必要があるのか。100円もしないような音楽がそんなに欲しいのか。欲しいという気持ちが強いなら1000円払ってやれ。そんなに欲しくないのなら、そもそも叩くなといいたい。

 CDの値段を半分にしたとして、同じ利益をあげるためには倍売ればいいという話にはならない。たくさん儲けたいとまで思っていなくとも、せめてかかった経費は早めに回収したいと思うのが普通だ。しかし値段を半分にすることで回収がはるか遠くになってしまう。それを強いるのはもはや音楽ファンではないと思う。そんな人の願いを、ミュージシャンもレーベルも含めて、聞く義理も必要も一切ないはずだ。

 もちろん、学生など可処分所得が少ない人たちの実情というのもあるだろう。だが僕らだって学生の頃に好きなだけレコードを買えたわけではない。だから大切にしたし、何度も繰り返して聴いた。それが心の栄養になったという実感もある。それは今の学生にも同じことがいえるのではないだろうか。昔と違ってゲームや携帯代にお金を使ってしまって音楽にまでお金が回らないとしたら、それはその人の選択がそうなのだというに過ぎない。携帯で話やメールをしたいから音楽の値段を下げてくれというのはおかしな話だ。それによって音楽の売上げが落ちているというのなら、音楽を創る側の努力が足りないということになるだろう。猛省して一層努力しなければならないと思う。

 しかしその努力は決して安値競争への努力であってはならない。より良いものを創る努力だ。携帯電話との競争という観点であれば、むしろスマホの中で何度も再生されるようなものを生み出す努力、リスナーがその曲を再生中に電話がかかってくると「いい曲を聴いている時に電話なんてかけてくるなよ」とイライラしてくれるような、そんな曲をどうやったら生み出せるかに意識も資本も才能も集中させるべきだ。

 牛丼の話だが、都内の牛丼屋は外国人従業員の比率がかなり高いと実感している。コストカットを突き詰めると、そういう雇用にならざるを得ないのだろう。外国人が悪いという訳ではない。しかし音楽では金を稼げないとなると、国内で音楽をやろうと思う人たちがどんどん減ってしまう。それがいいのか? K-POPばかりがチャートに入るようになってしまっている原因にそういう要素はないのだろうかとさえ思う。決して日本純血主義を唱えるつもりはないが、そうなったらいい音楽を気軽に手に出来なくなる訳で、やはりリスナーが被る損害は大きいのではないかと思う。

 ただ、現在の音楽の流通については少々危惧しているところがある。CDだとamazon、配信だとiTunesがかなりの割合になってしまっている。これは国内のIT業者が思うように活躍できていないからなのだが、結果、国内で創造された音楽による利益が、海外へと持っていかれてしまっているのが悲しいところだ。彼らが持っていく金額の比率も然ることながら、それによって国内のレコード店がどんどん閉店に追い込まれているのはとても残念だ。それだけ音楽に触れる機会が減るということでもあるからだ。もちろん、つぶれて当然というようなレコード店も少なくない。ただ単にチャートに載るCDだけを置いていたというお店は、もはや単に流通のチャンネルでしかないわけで中継ポイントがネットに移れば取って代わられるのは必然だし、仕方がないと思う。しかし一方でお店からの提案がきちんとなされているようなお店までもが苦境に立たされているのは悲しいことだ。それはCDの売上げが減ったメジャーメーカーが返品率や掛け率という取引条件をお店に厳しく変更しているからなのだが、そういうところは一般のリスナーに見えにくいところである。発信のないお店が淘汰されるのは仕方ないにしても、発信のある、リスナーに取って意義あるお店までもがまとめて苦境に立たされるのは大きな損失であるといえよう。

 また、amazonやブックオフの台頭で、中古CDがかなり安く流通しているのも危惧するところだ。特にamazonのマーケットプレイスでは1円のCDなども珍しくない。あれはどうしてかというと、1円で売りながらも340円の送料を取って90円のメール便で送ることで、その利ざやを稼いでいるのだ。中古だから当然アーチストやメーカーへの還元はないが、それにしても儲かるのはヤマト運輸と佐川急便だけというのは、なんともおかしな話だと思う。

 話は逸れたが、CDの定価については、個人的にはもっと高くてもいいと思うくらいだ。だからといって値上げはしないけれども、かといってダンピングもするつもりはない。その値段に見合うと思う人が多ければ売れるし、少なければ売れないというだけのこと。「オレはたいした音楽を創ってないから、CDの値段安くしていいと思うんだ」というアーチストのCDなど売りたいとは思わないし、第一リスナーに失礼だ。もちろんリスナーはそういうダンピングアーチストのCDなど買うべきではないと思う。もっとも「オレの音楽には価値があるから」といって、CD1枚に5万円の値段を付けるのはどうかと思うが、少なくとも「アルバムで2500円〜3000円という価格帯で出す価値はあるぞ、オレの音楽」という自負のあるアーチストと一緒に誇りある仕事をしたいし、そういうアーチストでなければ、そもそも自分の音楽にお金出してもらおうと考えてはいけないと思う。

Sunday, November 06, 2011

TPP〜準備不足であることを無視した論議

 昨今話題のTPPだ。来週にも野田総理は交渉参加を表明すると言われているが、それでも賛成反対の意見がそれぞれ激しくなっている。現時点で政府は推進一色のようだが、自民の大多数と民主の約半分が反対しているようだ。その他の野党もほとんど反対で、だから民主党が党議拘束をかけさえしなければ、議会では否決されるはずだ。だが、民主は党議拘束をかけるだろう。そうなると民主の反対議員はどうするのか。今回は離党してでも反対だと主張する人も多く、だから新たな政界再編のきっかけになるかとも言われている。

 僕個人はというと、今回のTPPには反対だ。しかしだからといって多くのTPP反対論者とまったく同じかというとそうではない。むしろ気分としては賛成論者の方に近いというのが本音である。

 どういうことか?

 日本は現時点で完成している社会ではない。当然だ。世界規模で社会は変化している中で、社会が完成するなど有り得ないことだからだ。繁栄を極めたローマ帝国だって崩壊するのだ。変わらなければ滅びるというのは歴史の最大の教訓である。その前提に立って日本を見た時、世界の変化にまったく対応していない、極めて危うい国家であることは明白だと思う。

 社会が硬直するのは、身分が固定し、率いるものが肥え、学ぶことを止め、自らにのみ安住の社会を変えようとしないところから起きる。変えないためには、率いられるものが現状に疑問を持つのを阻害することが必須である。そうしないと世の中の矛盾に気付き、不満を覚え、革命を起こそうとするからである。今の日本はまさにそういう状況にあると思う。戦後は国家として立ち上がる必要があったため、全員で学び、頑張った。しかし今は戦後に権力を持ったものがその立場を盤石にするために他者の学びや頑張りを阻害するような動きに走る。これで国力が上がるはずがない。創業したワンマン社長がカリスマ性を持ってみんなを率いている間は成長するものの、初代が退き番頭さんが社長になった時、社内政治の駆け引きが始まり、業績が低迷をはじめる。それと同じだ。駆け引きでトップに立つことだけに汲々とし、自らの墓穴を掘るような失点を回避するために冒険的なことはやらない。そういう政治が、今の日本で行なわれている。

 だから、高度成長期を過ぎてバブルに浮かれて以降の日本は、変化に対応する準備が出来ていなかった。

 今回のTPPにおいて、農業が崩壊すると言われている。それは補助金付けにして競争力を失わせてきたからだ。TPPによって崩壊するのではなく、政治や制度によって既に崩壊しているというのが正しい。関税率778%で守られなければ対抗できない産業はやはり産業とは呼べないと思う。もちろん主食を自給するというのは国として正しい方策だが、778%はやり過ぎだ。ウルグアイラウンド農業合意でミニマムアクセスとして米の輸入を開始したあとも、その米は国内消費には使われていない。関税の問題以上に農業は幾重にも守られている。いや、守られすぎている。

 守ることがよくないというのではない。過剰に守ることで、進歩も意欲も失われてしまうということなのだ。

 今回のTPP参加推進派の論理として、日本はなかなか変わらないのだから、TPPによって外圧で変わっていけばいいのだというものがある。僕の気持ちもかなりそれに近いものがある。だが、今回のTPPはどうやらかなりの劇薬のようだ。その劇薬を投与すれば、準備のないこの社会はかなりのダメージを受ける。だから、賛成か反対かと問われれば僕は反対する以外にないと答える。しかしそれは今回のTPPを回避すればすべて万歳ということではまったくない。今回、変化への準備がまったくできていないということが判ったのだとすれば当然自ら変わるための準備も努力もしなければならないということになる。そう、変わらないといけないのだ。世界はどんどん変化する。経済はすべて連動している。鎖国でもしようというならともかく、それは絶対にできないのだ。

 現在TPP反対の議員さんたちはどういう思いなのだろうか。議員さんだけじゃなく一般の人たちもどのような思いで反対しているのだろうか。もし、今回TPP参加を回避できれば「ああよかったよかった、これで日本も安心だ」と思っているのであれば、それは僕の思いとはまったく違う。劇薬を投与するには体力も乏しく、だから今劇薬を投与するのは阻止しなければというところまではいい。が、阻止できたあと、劇薬にも耐えられるような体力を付ける必要があるし、そのための努力は苦しくともやり遂げなければならないという思いが、反対派の人たちにどのくらいあるのだろうか。僕は極めてその点が心配なのだ。なぜなら、劇薬投与を避け得たからといって相変わらずの不摂生を続けているようでは、結局早かれ遅かれこの社会は死に絶える以外に道は無くなってしまうからだ。