Friday, January 30, 2009

液晶回復


 数日前、MacBookProに6時間くらいかかる作業をさせたまま帰宅。翌日出社するとその仕事は無事終えていたものの、なんだかおかしな様子。画面の左2/5がかなり薄暗くなってしまっていたのだ。
 
 そういえばこの液晶モニタ、どことなく周辺部分の輝度が落ちているような気がしていた。でも使用に支障があるほどではなく、これまでずっと使っていたのだ。もう3年くらい使っているのだろうか? 調べていないので確実ではないがきっとそのくらいだ。MacBookProが出て最初の型である。買ってすぐにマイナーチェンジでCPUなどがランクアップしたのを悔しがった覚えがある。でも本来それでやりたいと思っていた仕事には十分なパワーで、これまで活躍してきてくれた。日常の文章やメールに平面のデザインなんかは未だにその前のPowerBookG4でやっている。だからこのMacBookProは目的となる映像や音楽の仕事の時しか使われない。もしかするともっと活躍したいと思っているのかもしれないが、僕としては大切に大切に使っているつもりなのだ。
 
 そんなMacBookProが異常な画面になった。これはマズイ。マズイといってもどうすることも出来ない。デスクトップ型だったら壊れたパーツだけを取り替えればいい。自分にだって出来る。でもノート型はそうはいかない。HDの換装くらいだったらマニュアル見ながらなんとか出来るけれど、液晶の換装をやってのける自信はない。
 
 ネットを見てみる。HDの換装なんかだったら写真付きでの手順解説してあるマニアのページが沢山見つかる。でも液晶となると、業者のページしか出てこない。7万円くらいするとか、12万するとか、見積もりだけで2万円取られるとか、なんか頭がクラクラするような文字ばかりが躍っている。
 
 もちろん、買い換えという選択だってある。今ならProじゃなくても普通のMacBookで機能的には上だ。でもそんなことはなかなか考えにくい。当時だって頑張って買ったのだ。そんなに短期間に買い換えるなんて、感覚として有り得ない。最悪の場合、ノートとしては使えなくとも、デスクトップ用の外部モニタに接続して使ったっていい。15インチが17インチのモニタに接続されれば、むしろバージョンアップということではないか。ワハハハハっ!
 
 そんな開き直りのような思考をしていながらも、できるだけ負担をかけないようにしようと、こまめにシステム終了をするようにしていた。機械も液晶も疲れているのだ。少しは休ませよう。僕らだってそうじゃないか。若い頃のように徹夜の連続なんて出来やしない。やったら次の日はボロボロなんだから。そうしていたら、昨日モニタに輝きが戻った。以前よりもハッキリと全画面がクッキリとしてきた。どういうことだ? 理由がわからない回復というのは少々落ち着かないが、この現実はとても嬉しい。病気の子供が元気になったときのようだ。いや、僕に子供はいないのだけれど。
 
 思うに、症状が出てきたときに僕があたふたしながらも、「買い換えよう」という気持ちに傾かなかったことが通じたんじゃないかと思うのだ。これまでも歴代のMacは、気持ちが「新しいの欲しいなあ」とか思ったときにダメになってきた。密かにゾウの墓場に向かっていくような、自らの命を終わらせるかのごとく、そして僕が買い換えようという踏ん切りを付けさせるかのごとく、あちらこちらにガタがきたのだ。こいつらには気持ちが通じるんじゃないか、持ち主の気持ちを察する洞察力さえ持っているんじゃないかと思わされることが少なくないのである。
 
 幸か不幸か、今回は僕の気持ちを察してか、自らの力で回復してくれた。こんな感想を笑わば笑え。しかし僕の仕事机には、ノート2台とデスクトップが2台、今も現役で活躍してくれている。これ以上買い換えるなんて、予算的にも心情的にも、スペース的にもまったく不可能なことなのである。

立場と役割の変化


 民主党の代表質問で無所属の田中眞紀子が登場。いやあ、なんかつまらなかったな。今朝のワイドショーでも精彩を欠いていると言われていた。その理由は彼女もキレがなくなったとか、発言の機会が少なくなったとか、コメンテーターたちが語っていたが、僕はそうではないと思う。昔からこういうことを同じように庶民にわかりやすい比喩でもって喋っていた、というか叫んでいたのだ。それが昨日の代表質問でつまらなかったように感じられたのは、それは田中眞紀子氏の攻撃のスタイルがTPOに合わなかったということだろう。端的に言うと「おおお、歯に衣を着せずにそこまで言うか」というのが、見てて爽快に感じられていたのである。今太閤といわれた田中角栄の娘であるという立場があり、その田中家を裏切ったという負い目を感じていた人たちが長く自民党の中枢にいて、その中で田中眞紀子は泳いでいた。地元の絶大な支持を背景に、党幹部へ媚びる必要もなかった。幹部たちはみんなオヤジに頭を下げまくっていた人たちだ。だから媚びる必要がたとえあったとしても、彼女の中の上下関係からいえばむしろ媚びるのは彼らの方だという意識があってできなかったのだろう。
 
 だから、彼女は毒舌を吐いた。それが橋本龍太郎であろうと、梶山静六であろうと屁でもない。一般的には党の幹部だ。絶大な権力を持っているのは誰もが認めるところである。誰もが彼らに跪いた。自民党員ならなおさらだ。でも、彼らの行動に一点の曇りもないのかといえばそうではない。でも誰もそれを言えない。そこで田中眞紀子の登場だ。ガンガンハッキリものを言う。わりと正論をベースに毒舌を吐いた。それは多くの人たちが心のどこかで感じていたことだった。人々は心の代弁者として、ハッキリと言う田中眞紀子に親しみを覚えた。
 
 だが、今回の代表質問で攻撃の対象となったのは麻生さんだし、それに伴い安倍さんと福田さんを攻撃した。ここではかつての発言と構図がまったく違う。「強大な権力者に対して、権力者のグループ内にいながら、悪口雑言を言う」というのがこれまでの田中眞紀子の発言だったのに対し、今回は「既に力を失っている名ばかりの権力者に対して、彼らと敵対するグループにいて、悪口雑言を言う」というものに変化していた。それなら誰もが言うし、普通なのである。日々マスコミは麻生さんの政権運営を非難している。野党議員も誰しもが言う。そんな中で田中眞紀子は同じようなことを口にしたに過ぎない。いくら表現がユニークであっても、それを言うという行為にスリルも意外性もない。だからつまらないのだ。敵を攻撃するだけならば辻元清美の方が論拠もあって切れが良い。田中眞紀子という名前には期待もあり、それだからこそ余計につまらない気持ちが増大したのだろう。

Thursday, January 29, 2009

俺聴きー2009年1月26日@秋葉原タワーレコード


相対性理論/『ハイファイ新書』
「コレが非現実的現実」
 これはバンドか?ポップには一応バンドと歌ってあるが、軽いタッチの女性Vo。メディア露出なしでとか言っているけれども、タワレコ店頭というのが既にメディアだと思う。で、この軽いタッチのボーカルが、最初は珍しくて新鮮だが、やがて飽きてくる。だがはっぴいえんどなんかも最初はこんな感じだったのではないだろうか。評価が定まってしまえば誰もが抵抗なく賞賛するが、未だ評価されていないものには素直に肯くのは難しいものだ。これにノンフィクションのドキュメンタリー番組BGMなんかに使用して意味性を加えると化けたりする可能性はないとは言えない。音楽としてそのくらいのクオリティはある。メロとかリフレイン感、アレンジに切ない感じとか、プロが集まって作ったモノという気がする。
 ジャケがアニメ風の女の子のイラストなんかになっていて、秋葉原で試聴したということもふくめて、なんかオタクではない人には手を出すのに抵抗感がある。もしも普通にバンドをやっているミュージシャンのCDだったとしたら、本人たちにとってはこのアートワークは結構マイナスかもしれない。だがジャケが効果的なデザインになっていることなんて稀だし、そういう意味ではどんなジャケやコンセプトであっても、こうして店頭で大きく展開されているだけで結果オーライといえるのではないだろうか。純粋に音楽として買っても損はないとは思うが、今日買うのは止めておく。
 
 
 

School of Seven Bells/『Alpinisms』
 洋楽インディー担当のT氏のコメントによると、2008年でダントツに心地よかったということらしい。ジャンルなんて軽く飛び越えちゃうと言っているが、僕は逆に「これはなんてジャンルだ?」と問いたい。こういう音楽に造詣が深くないので、ワールドという言葉でお茶を濁すが、そんな感じに「さわやか」というフレーズを足した、そんな感じなのだ。心地良いのは確かだけれど、個人的にはもっとパッションを感じられるような音楽が好きです。僕はこれ、聴きません。というかこれを聴くシチュエーションを想像できないのです。
 
 
 

GaliLeo GaliLei/『雨のちガリレオ』
 閃光ライオット08のグランプリバンドの1st.。まあ、有り体に言えばポップなバンプオブチキンという感じ。才能はあると思う。でも、何故今そこ(バンプ的な音楽)を目指すのかよって感じで残念に思う。つまり、誰かのフォロワーになるのではなくて、自らがパイオニアになるという気概を持って欲しいと思うのだ。でもこんなバンドはすごく多い。今だったらミスチルもどきのバンドとバンプもどき、くるりもどきとエルレもどき。もうそんな柳の下には何も残ってないと思うのだけれど。
 ここまで言って良いのかどうかはわからないけれど、バンプに憧れて音楽を始めたのはいいけれど、じゃあ自分たちが何を表現したかったのかはよくわからないまま、なんちゃってバンプな音楽を作ってきてしまったということなのだろうか。しかも無意識のうちに。それを賞賛して舞台に上げてしまう大人も悪いね。まあ大人には大人の事情というモノがあって、やむなくそれをグランプリにしているだけのことかもしれないしだからこそ、ミュージシャンは自分というモノを確立してぶれないでいられる強さが求められるのだと思う。
 内容について触れると、ハスキーな声質のボーカルなのだが、ある瞬間にハスキーさが消えて太くたくましいボーカルになったりする。この太い声質というのはある程度力を込めた状態でしか実現できない部分なのだろうと思う。だとすると、全編を通してハスキーさを押し出していくのがいいのではないかと思う。というのは、Aメロとサビで違う人が歌っているような印象になってしまうからだ。そうなってしまうと彼らの音楽が露出していった場合に、リスナーの印象が個々で違ってきてしまうのである。そういうことを誰か彼らに教えてやって欲しい。
 
 

埋火(うずみび)/『わたしのふね』
 オビのコピーには「近頃甘口の「うた」が多いとお嘆きの貴兄に.../辛口の『埋火』をどうぞ」というのがある。見汐麻衣という女性ボーカルのフォーキーな歌声がウリなのだろう。悪くない。実に丁寧に歌っている。でもこれを「辛口」といって喧伝されると、ちょっと違うよねという違和感が残ってしまうと思う。まあ、作り手のエゴと私小説的世界を受け入れられるかということが、買うかどうかのポイントだろう。僕はまだ受け入れられていません。

Sunday, January 25, 2009

白鵬コール


 いやあ、復活したね、朝青龍。いろいろなプレッシャーがあって、実際に左腕も痛かっただろうに、それでも気力で頑張った結果が出て、良かったなあと思う。

 でも、優勝したことよりも「復活」したなあと思ったのは、結びの一番で沸き起こった白鵬コールだった。これまでの朝青龍はあくまでヒールという立場であり、それはあまりに強いから「負けてしまえ」という一種の期待が彼をヒールにしたのだ。もちろん自分勝手な性格とかが喧伝されて、それで「あまり好きじゃない」と思っている人も多いだろう。しかしそれも彼が強いから嫌っている人たちが声高にマイナス要素を取り上げているからであって、もし朝青龍が弱ければ、敢えて彼の性格のマイナス面を非難することそのものに意味がないのである。

 同じように強すぎた横綱で憎まれたのが北の湖。30年くらい前なのか、当時は本当に強くて、負けたらみんなが喜んだものだ。それは心の底から北の湖が嫌いだったのではなくて、最初から決まっているような結果になるのが面白くなかっただけで、波乱を期待したかっただけだったのだろう。勝ち続ける、他を圧倒するというのはそういうことなのだ。だから彼は「勝ったら拍手をもらうようになった。これは潮時なのだな」と思って、引退を決意したという。つまり、真に強いものは、応援されるようになったらおしまいなのである。

 朝青龍も強すぎる横綱だ。だから嫌われる。しかし今場所は事前の報道で準備不足が指摘されていた。勝てないのではないかと。そして3場所連続で休場しているという事情から、今場所もし休場することがあれば即引退だと囁かれていた。というよりガンガン言われていた。だから序盤は朝青龍の勝利に歓声が沸いた。それは北の湖が引退を決意したのと同じような状況だなと感じていた。だからといって朝青龍負けろとは思ってはいない。やはり勝ってほしい。だが、その「勝ってほしい」という思いそれ自身が本来の朝青龍の状況ではないというジレンマに満ちていた。

 だが予想に反する活躍。連勝に継ぐ連勝に、今度は白鵬が星を追う状況に。今場所は朝青龍に注目が集まっているとはいえ、白鵬を応援する人たちもいるのだ。というか数でいったら白鵬ファンの方が多いはず。だから、千秋楽の結びの一番では白鵬コールが起きたのだろう。それはなんか朝青龍がアウェイでの戦いに挑んでいるようだった。うわっ、人って現金だなあと思ったが、でもそのアンチ朝青龍の声がとても心地よかった。今場所は朝青龍に優勝してほしい。でもそれはいたわられての優勝ではなく、白鵬コールの中での憎まれながらの優勝であるべきだ。それが実現して、ああ、復活したんだなあと感じたのである。

 ここで優勝させてはいけない。白鵬にはそういう思いもあっただろう。だが、勝てないのが現実だ。そういう壁のような存在があって、乗り越えようという気持ちも高まる。それが精進というものなのだろう。これからの大相撲が面白くなるような気がしてきた。朝青龍が慢心さえしなければであるが。




 表彰式で総理大臣杯を授与しに麻生太郎総理が土俵に登場。なんか一言コメントを言ったりして、なんか絵にならなかった。貴乃花に賜杯を渡して「感動したっ」と叫んだ小泉純一郎にあやかりたかったのだろうが、なぜこんなに絵にならなかったのだろうか。よくわからない。これが没落寸前の勢いのなさというものなのだろうか。

 もしも麻生さんにユーモアと度胸があったら、こう言えば良かったんじゃないかと勝手に思う。
「平成21年1月25日、総理大臣、あさしおたろう! あ、読み間違えた、あそうたろうだね、この漢字。」

バッテリー



 金曜。仕事で新宿まで車で行こうとしたところ、駐車場から出る事が出来なかった。バッテリーが上がっていたのだ。

 最初にバッテリー上がりを体験したのはもう十数年前のこと。当時乗っていた軽自動車がうんともすんともいわなくなった時は目の前が真っ暗になった。あの時どうやってその凹みから立ち直ったのかはもう覚えていないが、バッテリーは消耗品だということをその時に学んだ。カー用品店やガソリンスタンドでバッテリーを買って取り替えればまた動くのだ。ノートパソコンとか携帯電話、ビデオカメラなんかと基本的には同じことである。
 
 車はどういう部品で構成されているのか。それが普通のユーザーにはわかりにくい。大きなブラックボックスだ。キーを挿して(最近はボタンを押すという種類もあるらしい)回せば動くし、ブレーキとハンドルさえ間違えなければ、まあ動く。程度の差こそあれ、すべての機械について内部構造を知り尽くすのは一般人には不可能なことである。だが、それにしても普通のレベルで知らなすぎだと思う。乾電池で動くラジオが鳴らなくなったとき、目の前が真っ暗になるとしたら滑稽に過ぎるだろう。
 
 その後車にトラブル(というほどでもないものばかりだが)が起きるとディーラーやカー用品店に持っていき、修理しているのを側で見るようにしている。バッテリーも何度も換えた。取り替え方はだいたいわかっているつもりだ。96年に今の車に乗り換えてからバッテリーは5個目だが、最初にダメになったときには驚いた。工賃も含めて4万円くらいした。軽自動車のバッテリーは数千円だったのだから、一体何が起きたのかと信じられなかった。本当に目の前が真っ暗になった。大きい車に乗り換えたのがいけなかったのだろうが、だからといって車を換えることは今さら出来ず、仕方なくその金額を払うことに。
 
 次にバッテリーが上がったのは夏の駐車場で。スタートさせようとしたら動かなかった。近くのガソリンスタンドに行くと、駐車場まで持ってきて、取り付けてくれるということに。何故そんなに親切なのか。それは、形が適したバッテリーがそのお店の在庫に無かったからである。どういうことかというと、電圧的に問題のない国産社用のバッテリーを取り付けようというのだ。バッテリーの形が違うから、取り付ける位置の空間によっては入らないことがある。そんなものをパーツとして売ったら、「取り付けられないよ」ということで返品になるのがオチだ。なので、在庫を売らんとしたお店が、店員を派遣してまで文句のでない取付を目指したのだった。結局、うまく(?)付いた。国産社用のバッテリーだったから安かった。それで数年は何の問題もなかった。
 
 次に交換したのは、再び駐車場で。しかし引越の後で駐車場はタワーパーキングだ。他の車とケーブルで接続するということも出来ず、仕方なくオートバックスで買ってきて取り付けることに。前のバッテリーが国産社用の安いヤツで、それでも問題なかったとはいえ、自分で付ける自信はなく、ダメだったときに返品できないと困るので、結局BOSCHのバッテリーを購入。やはり3万円以上して凹む。そもそも車が動かなくて予定が狂ってしまうだけで凹むのに、対処にお金がドーンと出てしまう、しかも選択の余地がないというのがダブルで凹むことなのだ。
 
 で、金曜日。駐車場から戻って、対処を考える。まずはネットだ。調べてみるといろいろある。激安の文字が並ぶ。通販だったらバッテリーはほぼ半額なのだ。適合するバッテリーも約15000円。注文したら即日発送してくれるという。時刻は午後4時。慌てて電話をしてみる。「まだ即日発送は間に合いますか?」すると即日発送の締切は3時であって、既に受付は終了しているとのこと。しかし、即日発送してもらえなければ意味がないのだ。なぜなら、本来は金曜日中に手に入れておきたいものがあって、それを買うために車が必要だったのだ。その日の入手はあきらめるとしても、土曜日の昼過ぎにはそれを手に入れて、作業を開始しなければならない。金曜日の即日発送をしてもらい、土曜の午前中にはバッテリーの取付をしなければならない事情があったのだ。たとえ料金が高くなったとしても、即日発送をしてくれる業者に発注しなければならない。
 
 それで無理を承知でお願いしてみた。「何ともならないですか? 明日の午前中に必要なので、即日発送出来ないとしたらおたくから買うことは出来なくなってしまうんですけれど。」ある意味脅迫だ。だがそれで相手に不利益を及ぼすようなものではない。ルールをちょっとだけ超えて、商品を発送してもらうだけのこと。本当に出来ないのならば頑として断わるだろうし、出来るならばやってくれるに違いない。すると「5分くらいで注文できますか?」電話ではなく、注文はあくまでネットからとのこと。それはクレジット決済と連動しているからなのだろう。一も二もなく「出来ます」と答え、電話を切り、ネットへ。初めてのサイトでの注文&決済は慎重にもなるし結構手間もかかる。「同意しますか」とかいう文面を読まなければいけないし、個人データをいちいち打ち込まなければならない。大変といえば大変だが、遅れたらもっと大変だ。結局12分くらいかかってしまったのだが、画面上では無事に手続き完了。すかさず電話して、「ちょっと遅れましたが、大丈夫ですよねっ!」比較的明るい口調で「ありがとうございます。決済も完了しておりますので本日発送しておきます。」良かった。これで明日の仕事の展望が開けた。本来は今日(金曜日)には始められていた仕事ではあるけれど。
 
 翌土曜日、出社すると既にヤマトの不在票が入っていた。10分前に入れられたらしい。それでドライバーさん直通の番号に電話をかけ、会社から徒歩8分のところに行ってしまっていた車まで取りに行く。ちょっと迷惑そうだがなんとか対応してくれた。いつも馴染みのドライバーさんで良かった。その足で駐車場に行き、取り付け作業。何とか取り付けてキーをまわす。動く。良かった。しかしなんかパワーが弱いのか、アイドリング状態で維持できず、アクセルを軽く押しておかないとエンジンが止まる状況に。しばらくその状態を続けないといけないのだけれど、タワーパーキングでそれをやり続けるのはちょっと迷惑をかけてしまうだろうなあ。しかしそんなことで遠慮しているわけにもいかない。約5分程度車庫内でアクセルをかけ続ける。やがてパワーが戻るような感覚になり、アイドリングも維持できるようになり、出庫し、出かけることができた。
 
 何事も経験だ。経験によってスキルが上がる。別に車屋さんになるつもりなど更々ないけれど、知っていて損はない。何も知らないですべてディーラー任せにしていたら、毎回4万円以上かかったわけだし、そもそも土曜日の昼過ぎに車を動かすことはまず無理だっただろう。ネット通販で安く買えるというのも、今回得た経験のひとつだ。そういう経済の流れがいいのかどうかはわからないけれど、自分の懐を自衛するためには、そういうものを利用することには意味があることだし、時代の流れというのはそういうものだ。逆らっても仕方がない。
 
 バッテリーを交換していて思ったのは、自作パソコンのことだ。パソコンは普通の人にはまったくのブラックボックスで、CD-Rを入れたりダウンロードしてソフトをインストールすれば機能が増える。マウスとキーボードでいろいろと操作をするということはわかっているものの、では中身がどうなっているのかについては知らない人が殆どだろう。だが、自作パソコンにトライした人だったら、構成パーツを別々に買ってきて組み合わせたらパソコンが出来るということを知っているし、それで同じ機能のパソコンを安く手に入れることもできるのだ。まあパソコンメーカーも同じことをやっているだけだし、安くなるという以上に、自分で作っているという行為そのものに感動とか興奮を覚えるものなのだ。バッテリー交換も初めてではなかったけれども、やはり自分で車をメンテナンスできるという事実が、なんか感動したりするのだった。
 
 ネットにあった激安バッテリーの中には、再生バッテリーというものもあった。新品の99%くらいのクオリティがあるとうたっていて、値段も5000円を切っていた。それはそれで魅力があるし、耐用年数に多少の問題があっても、新品が3年もつとすれば、それが1年以上もてばいいということになる。そもそも96年式の車にあとどのくらい乗るのかという問題もあって、耐用年数が長いことも逆に問題だったりする。だが翌日には絶対に動かないと困るという事情もあり、今回は再生バッテリーにトライするのは見送った。次回は是非トライしたいと心底思うのだけれども。

Saturday, January 24, 2009

泥船政治

 呉越同舟とは、同じ舟に敵同士が乗っていることの故事である。今にも転覆しそうな舟に乗れば、仇敵であっても敵対心を忘れてその危機を乗り越えようとするというという例えで、そもそもは孫子の、死地であっても兵士の心を固め、生きる道を探れという教えである。
 
 それはまさに今の自民党の状況だといえるかもしれない。右派左派、改革派守旧派、派閥を軸とした人脈の対立などなど、様々な対立が入り組んだ敵対関係のセンセイ様たちが入り乱れながら、何とかひとつの政党に留まっている。だが自分たちがそもそも敵同士だと思っていないふしがある。だからこの同舟によって自分たちが生きる道を本気で探ってはいないようなんだな。
 
 消費税増税問題で造反懸念を乗り越えて、党がひとつにまとまろうとした。その手法は玉虫色の妥協である。その妥協を妥協であるとして隠そうとせずに、ある極は「当初の方針の通りに党が決定をした」と自慢げに語り、もう一方の極は「これで11年度までに成立は無理なんですから」と断言してしまう。両者が言っているのはまったく反対のことであるにもかかわらず、それを強調する余地を残したことで双方が堂々としていられるらしい。彼らは一体誰に向かってその強弁を通そうとしていて、誰に対して胸を張っているのだろうか。まったく見えない。しかもどうするのが国のため、そして国民のためになるのかという視点がまるでない。そういうことがわからない国民だと思っているのだろうとしか思えない。要するに、一方は「今は苦しくても何とか財政を立て直そう」としていて、もう一方は「今苦しい人にモルヒネを打って痛みを和らげよう」としているのだろうと思う。だとすれば、それを通すために懸命になるべきで、今回こういう妥協に至ったことについて、それでも最も近い道なのだと説明してほしいと思うのだ。妥協をせずに青年のような猪突をすればいいとは思っていない。それは愚か者の行動でしかない。世の中は理性だけで動いていないというのも承知しているし、だから、妥協であっても時としてそれが必要だということも判る。
 
 だが、今回の妥協はそれぞれの立場を肯定するための妥協でしかなく、どういう趣旨でその結論で合意したのかということがまるで説明されない。これでは「官僚たちの意見を取り入れてまとめたのであって、自分たちはよく解っていないのです」と言っていると言っているのとほぼ同じではないか。ある人など「私は離党するなんてことは一言も言っていない」とか平然と言っている。確かにそうだろう。だが言ったも同然の空気を作っていたのは事実である。それをもし、マスコミが勝手に言っただけだと言うのだとしたら、その人の感覚というのはあまりにも国民を無視しているとしかいいようがないのではないかと思うし、そういう人が想い描く国の未来とは一体誰にとって意味のあるものなのだろうかと、首をかしげざるを得ないのだ。
 
 呉越同舟がいうところの危機乗り越えとは、転覆しようという危機に立場や怨念を乗り越えて協力することで力を発揮するということである。しかし今回の妥協はそういうものではなく、上半身は穏やかな表情を湛えていて、下半身で足の蹴り合いをしているようなものでしかない。これでは転覆を避けることが出来ないのではないかと、アンチ自民の僕でさえ「おいおい」と気遣いたくなる状況である。
 
 僕は、彼らは呉越が同じ舟に乗ったということでは無いのだと思う。なぜなら協力などまるでしていないのだから。それどころか、現状の自民党という舟がどういうものなのかということも理解していないのだろうと思う。それはもはや既に泥船なのだ。ある者はそれが泥船だということに気付き、なんとか瓦解してしまわないように策を講じようとしている。それに対してある者は泥船だとは気付かず、策を講じようとしているものの行動を邪魔しようとしている。そして別の者は泥船だと知ったから、舟の外は激流だということを知りつつも、敢えてその激流に飛び出している。
 
 これ、すべてが政治家のことだということでもないし、そして策を講じようとしているのが首相の側だという単純な図式でもない。なぜなら、首相はやはり守旧派であり、改革には消極的な姿勢を示しているからだ。僕自身の立場を誤解されたくないので敢えてこれだけは言っておきたい。
 
 
 さて、その泥船で、確信的になにかを行おうとしている者もいる。それは、もはや後がない人たちだ。彼らは実際の生命という意味でも、政治生命という意味でも、それほど残り時間は無いということを自覚しているのだろう。そういう人は頑固だ。頑迷といってもいいだろう。そういう頑迷な人たちの行動は、ある意味サッパリしていて爽やかだ。だが、だからこそ自分の行動は正しいのだと思い込んで邁進してしまって、周囲の柔軟な決定に対して障害となることも多い。見ていて歯がゆい思いをしてしまうのだが、それを選挙で取り除こうとしてもそう簡単ではないだろうし、だからこそ、僕らは状況を正視して、正しい判断をしなければいけないと思うのだ。

Friday, January 23, 2009

ソラニン


 青春マンガ、ソラニンを読む。ソラニンというのは主人公たちがやっているバンドの代表曲のタイトル。その歌詞はページの中で紹介されている。意味があるようだが、そこまで丁寧には読まないで進むことももちろん可。僕だって噛み砕くような解釈はしていない。まあマンガとはそういうものだと思うし、流れるような中でその歌詞にまで注意を向けられないとしたら、それはそのマンガの力ということになるのかもしれないし、単に僕自身の姿勢の問題かもしれない。映画とかだったら、そこで主人公が時間をそれなりにかけて歌うシーンを作ることで意識に植え込むことも可能だし、そこに字幕まで入れたりすればもっと印象を強めることが出来る。なんたって読み飛ばすことが不可能なのだから。
 
 そもそもこのマンガでは、それほど意味のないカットと心情モノローグみたいな黒バックに白抜き文字などを駆使した、どちらかというと文章に力を入れた表現が散見される。それはある意味小説的でもあり、読者は一定レベル以上の読み込みを要求されていたりするのだが、だからといってそのすべてを読み込む必要はない。きっと編集者とのやりとりの中でギリギリこのネームに至ったのだろうと思うが、きっと作者としてはもっともっと深く文章を読ませたかったのだろうとは思う。
 
 で、この歌詞が別れの歌になっていると登場人物が2度語る。何との別れなのかはネタバレになってしまうから触れないでおくが、歌詞についての触れ方としては2種類の別れだと定義されていて、しかしながら全編を通じて他の種類の別れとも通じたりする。人は一般的に別れを繰り返して成長するものだし、そういうものが青春でもある。このマンガ自体はやはり別れというものを根底のテーマにしているし、それは同時に現実というものをどう見ようとするのかということについて触れているようにも思うのだ。
 
 好意的にみれば。
 
 全体の流れとしてはグングン読めるし、悪くない。だが読み終えてスッキリしないのは事実だ。本のオビにはいろいろなところで大絶賛されているとか書かれている(まあ出版社が作るオビだから割り引いて見なければならんのだろうが)けれど、それはどうしてそんなに絶賛するのだろうかという気が正直するのだ。
 
 それはいくつか理由がある。まず、このマンガの重要なモチーフにバンドが使われていて、主人公たちのバンドに対する取り組みというものが非常に逃避的であり、言い訳の材料にされているようで、インディーズレーベルを主宰している立場からすればどうにも我慢できないのである。ただ練習するだけでライブをしようとしない。ライブに否定的なのではなく、ライブをやらなければと思っているにもかかわらず、やらない。録音した音源をレコード会社に送って1ヶ月で結論が出ると本当に思っている。結論が出なければバンドを辞めるとか言う。そして結論が出なくても、辞めない。人生賭けるとかいってすぐに仕事を辞める。そして簡単に復職しようと思うし、会社もそれを受け入れる。
 
 すべてがご都合主義で、成り行き任せだ。成り行き任せが悪いのではない。生きていてそんなに思う通りにことが進むばかりではない。だから思う通りに進まないのは悪だと思っていたら精神的に行き詰まるし、ある程度成り行き任せにしておかなければいけない面も確かにある。だが、それは目標や戦略を設定することを放棄して良いということとイコールではないはずだ。戦略を立て、実行してみて、予想と違う結果が出たときに機敏に方向修正をする。その方向修正が正しい成り行き任せであり、その時の感情にまかせて行動をしていくことはただの無鉄砲であり、無軌道であり、無責任なのだ。
 
 だがこのマンガの主人公たちはそういう後者の成り行き任せを実践している。もちろんいつの時代も親の世代から言われることに反発しては上の世代が若い頃に犯した間違いを再び繰り返す、それが若い世代の標準的な姿である。だからそれ自体を非難することにたいした意味があるとは思わないし、誰が言おうと言うまいとそういうことを繰り返していくことを止めることなんて出来ない。しかしこのマンガではそういう青春群像を過剰に美化し、肯定している。そういう作品があること自体はいいのだが、それが書評などで絶賛されてしまうということに、「こういう生き方で良いのだ」という誤解を与えてしまいはしないかとか危惧したりするのだが、まあそれも自分がオッサンになってしまったということの証なのだろうか。
 
 この中で僕が嫌いな点が、本筋とは別のところで2ヶ所ある。ひとつは、主人公たちの近くにいるミュージシャン(?)が、あっさりとプロデビューしてしまうという点。それはあっさりとしすぎだろうという気が心の底からする。僕がこのマンガをご都合主義だと断じる理由の一端はそこにもある。もうひとつは、主人公の彼氏の父親が、主人公に生きる意味を仮託するシーンがあるが、それはないだろうと思うのである。それはあまりにも自分勝手な意味であり、その瞬間には美談のような雰囲気も漂うが、しかしながらそれを是とするのであれば、結婚さえしていない人に対して過剰すぎる重荷であるし、そういう重荷を託すには、主人公たちの結びつきは強いものではないし、強いものにするためには彼氏自身が自らの責任と引き替えにしながら宣言するという過程が必要なはずで、そういう過程を経ることなく、その親が主人公にその言葉を軽々に言うなどとは、まともな責任感を持った大人の行動としては絶対に是認出来ないものであり、非道い話だと思わざるを得なかったのである。

Thursday, January 22, 2009

お休み

 朝からダルくてお休みをいただく。ボーッと夕方まで寝ている。普通だったらもうそろそろ寝てることがダルくて起き上がりたくなるところだろうが、起きなくても平気。というか、まだ眠い。とりあえず起きてメールチェックなどするが、携帯電話を会社に忘れてきているので、連絡出来ない人も多数。まあ、急いで連絡しなければならないということも特にないけれども。

 メールチェックをして、書類作成仕事なんかもちょっとやる。だがやはりダウンしてて家で出来ることというのは、本格的なことには至らないのだな。集中しようとすると眠くなる。

 今日は眠ろう。そして明日、朝から頑張ろう。

Wednesday, January 21, 2009

オバマさんの演説はそれほどイケてなかったと思う


 就任演説を見る。見なきゃいかんだろうと思っていた。だが、期待ほどに胸を打つ内容ではなかったと思う。明らかに勝利宣言の方が感動的だった。いろいろと理由はあるだろう。同時通訳もあまり上手くなかった。それよりなにより、NHKの中継はオバマ自身の声をあまりにも小さくし、同時通訳のみをドーンと前面に出していた。もっと声を直接聞きたいと思ったし、世界で今行われている歴史的な出来事に接したいから生中継を見たのに、通訳の声にかき消された。もちろん通訳を介した方が意味はわかりやすい。聴いてすぐ判るほどの英語力は持ち合わせていない。だけどそれでも、演説を同時刻に見たいと思ったりして、夜遅く(それほどでもないけれど)までテレビ中継を待っていたのだった。
 
 だがやっぱり一番大きな要因は、僕らは既に慣れていたということなのだろう。当選が決まってから随分と時間が経過している。その間に僕らはその事実に慣れてしまっている。慣れというのは怖い。その瞬間にはまさかと思ったことも、いつともしれずに当たり前のことになる。

 アメリカ史上初の黒人大統領というと、それはたしかに大きな出来事だ。だが、911の時に飛行機がビルに突っ込んでいった衝撃映像とどちらがといわれれば、それほど驚く出来事ではない。ワシントンの広場(広場というにはあまりにも広すぎるが)を埋めつくしていた200万人(ここだけで200万人ではないと思うが)の映像もすごいなと思ったが、それも既にどこかで見たことのある映像だった。そういう意味でも、なにか本当に大きなことなんだろうかという、どこかに疑問を持ちながら見ていた。
 
 演説の中身を較べてみた。そして僕なりに判ったことは、勝利演説と就任演説との間には、その内容に於いて決定的な違いがあったのだ。それは勝利演説の時には、黒人がここまで地位を向上させたのだということについての言及が強く、何かを達成したのだなという感慨を与えていた。それに較べると、就任演説では視点は黒人というものを特に大きく取り上げることなく、すべての人種、すべての宗教的背景などの違いを超え、トータルアメリカ合衆国というものを代表する人の宣言としての色合いが濃くなっていたのである。
 
 これを端的に言うと、前者は「現在が到達点で、そこに至るサクセスの結果解説」であり、後者は「現在からスタートする未来の展望宣言」なのである。当然そこにある「現在」というものの質は違う。前者の「現在」とは、黒人にとっての勝利を意味し、後者の「現在」とは、アメリカ合衆国が抱えている困難(経済的困窮であり、社会不安であり、国際政治及び地球環境での失政である)を意味している。
 
 その困難から脱却するために、みんな希望と意志を持とうと、オバマ氏は訴えた。その力は、現時点でオバマ氏にかけられている期待そのものだ。ワシントンに集まった200万人の熱気だ。だが一方でこれからの道が楽なものでは決してないということもみんなが知っている。だから、「希望を持とう、やり抜こう」といわれても、それが単なるスローガンに終わってしまうだろうという不安も消え去らない。人間の行動は気分によって大きく左右される。だから誰かリーダーが鼓舞するような過剰な発言をするということは必要であり、不可欠なことである。しかし既に眼前に示された勝利という動かし難い事実と較べると、鼓舞された希望というものは不確かに過ぎるものであり、だからこそ、聴く者を激しく高揚させるような力は伝わらなかったのかもしれないと思う。
 
 たしかにこの演説はイケてなかった。だが、それこそが期待できる鍵なのではないかとか思う。なぜかというと、彼は既にチェンジしているということの証でもあったからである。選挙に勝ったという栄光はすでに過去のものとなり、視線の先には人種や宗教などの立場を超えた、オールアメリカ合衆国としての団結と幸福を目指そうとしていることがハッキリと判った。だからといって成功するという保証はない。が、保証された未来などは最初から存在しないのであり、誰もが「まさか」と思って疑わなかった黒人大統領というものをブレずに目指して実現させてしまった男になら、期待しても悪くないのではないかという、そんな気がしたのである。


就任演説(前半)


就任演説(後半)

Monday, January 19, 2009

『ペンギンの憂鬱』 by アンドレイ・クルコフ


 ウクライナ出身の作家アンドレイ・クルコフのベストセラー小説。サスペンス小説の要素を持ちながらも、焦点は主人公の内面に当てられる。起こる事件が時として思考を停止させ、対応に追われるが、やがて落ち着くと状況分析に意識は向かう。そして鬱々とした気持ちの時間の中で生活をしていくことになってしまうのである。
 
 これは、もしかしたら遠い国に住む僕らとも共通することであるかもしれない。自分ではどうしようもない出来事に囲まれて、どうしようもないのにどうすればいいのかとかを思い悩み、結局どうしようもないものだから、微妙にそこから逃避するのだ。逃避し続けた結果が、今の自分だということに、気付いたとしても気付かないふりをする。ふりをするというよりも、気付いていない自分を演じる。思い込む。思いこみに成功すれば、現状を受け止めなくてもいいのだから、誰か他人のせいにして生きていくことが出来る。それが人生の秘訣でもあるのだろうが、その人生に彩られる幸せというものの形は、どこか空虚で隙間風に満ちているものでしかない。
 
 ペンギンは何故主人公の元にいるのか。それはペンギン自身の選択ではない。同じように主人公の元にいる数人の登場人物がそこにいる理由も、100%その人の選択ではない。同じように主人公の人生も翻弄されて今があるのであり、決してその生き方は本意ではない。逃げられないだけなのだ。そして主人公をその状況に追いやっている人物もまた、理想的な安寧に囲まれているわけでは決してないのだ。
 
 喋らないペンギン。文筆を生業とする主人公。言葉を操っても操らなくても、そう大差はない。同じような存在である憂鬱な二人が、近くにいることでなんとなくの安寧のようなものを手に入れ、生存していくことができる。それもまた僕らと共通するところだ。ストーリーは淡々と進んでいく。事件は起こるが、それは列車の窓の外の景色のようなもので、そこを主人公は通過するものの、結局淡々と進んでいってしまうのである。事件の大きさに較べて感情の起伏は極めて少なく、じつはこの起伏の少なさこそが、憂鬱の根本なのであり、重大な問題であるように、僕は感じたのである。
 
 物語の終わりで、ある運命と主人公の絡み具合とすれ違い具合が面白い。まるで古典落語のさげのようだ。それをネタばらしするわけにはいかないところだが、面白さとしても十分だし、やはり人生とはそうなっていってしまうのかという感慨もまた生まれてきたりする。延々とした流転の繰り返しだし、逃避の結果掴んでしまった現実の中では最も重要なものは安寧ではなく、安寧のようなものでしかなかったのだなあ。僕の場合はどうなんだろうかとか、ちょっとだけ思う。

経験と感慨


 土曜日に友人の結婚式で横浜へ。歴史あるホテルだがチャペルは最上階の近代的な雰囲気でオシャレな感じ。海や街が一望出来る眺めも清々しい。チャペルの隣に「中庭がありますので皆さんこちらに」と呼ばれ、列席する人たちが移動する。中庭ってどういうことだよと思っていたら、そのスペースだけ屋根がないのだ。これが風呂だったら露天ということか。粋な造りになっているなと思った。晴れたのは2人の日頃の行いが良かったからだろう。だが季節が季節なので「外」を予期していない格好からするとちょっと肌寒かった。だが肌寒いとか、そんなことを言っている場合ではないし、列席した人たちも写真とったりフラワーシャワーを浴びせたりしていた。

 ホテル内の別会場に移動しての披露宴はうってかわって歴史を感じさせる厳かな場所で、こういうのが歴史あるホテルの格というものかなと思った。出てくるフランス料理も日頃は絶対に目にしないようなものばかりで十分に満足。写真は最初に出てきた「モッツァレラチーズ、旬野菜、魚介類のジュレ仕立て」というやつだ。携帯の写真でちょっとピンぼけだったのがちょっと残念だ。

 自分自身昨年3月に結婚式をして、準備とかもそれなりに大変だったし、それだけに招待した人たちが全員来てくれたのが嬉しかったし、料理とかもおいしかったよと言ってもらえて、全体的に楽しんでもらったのを実感出来て、それでホッとしたというか、やってよかったなという感慨を持ったのだ。結婚式は、基本は結婚する2人のためのものであるが、本人にとっては来てくれる人たちがどう思ってくれるのかということが非常に重要だと思う。例えていうならば、自宅でパーティーをやったとしよう。その時に手料理を振る舞ったりして、その料理がどう評価されるのか。本当に美味いといってもらえるのか。美味いからといって、準備している量が足りなくって満腹ではないという感じの物足りなさが残ると困るし、逆に残ってしまうようでもガッカリする。みんなに満足してもらえるのかどうかが、やはり招待する側としては非常に気になるところだ。結婚の披露宴なんかだと普通は手料理ではないし、プロの料理とはいえ、それをチョイスしたのは自分だと思うと、満足してもらえるのだろうかということなんかはやはり気になるところだ。

 もちろん料理だけではなく、進行なんかでも心配はある。プログラム内容は大丈夫なんだろうか、スピーチがつまらなかったらどうしよう。まあスピーチは誰でもいいということはないし、招待客の並びからすればこの人にお願いするしかなかったりするし、その人の話がつまらないことまで責任は負えんが、それでも結果として「話が長かったね」とかいうことになれば、なんか自分に責任があるような気にもなってくる。

 引き出物だってチョイスは結構難しい。こんなものでいいのだろうか? センスがないとか思われたりするんじゃないだろうか? 予算だって当然ある。馬鹿みたいに高いものを選べば喜んでもらえる確率は上がるのだろうが、無闇に予算を上げるわけにもいかない。限られた条件の中で選ばなければいけないのだが、若い人や年配の人、家族持ちの人に独身者、生活レベルの違いや、男女によっても好みや使い勝手は違うし、そんなものは既に持っているということになれば「こんなのいらない」とか思われてしまうだろうし、それはセンスとか予算とはまったく違うファクターとして厳然とあるのだ。だったらカタログで選んでもらうやつにしたらとかいう手もあるものの、それだとそもそもセンスを放棄するようで、面白くなかったりする。

 そんなことをいろいろ考えていると、楽しいけれども面倒だったりして、結局、すべてのセレモニーをやって、よかったと感じるのは、自分たちが楽しいというプラスの喜びというより、クレームもなく概ね好評だったという、マイナスを避けられたという安堵の方が強かったんじゃないかと思う。

 そんなことを体験すると、友人の結婚式に出る時の気持ちも全然違ったものになったような気がする。イベントを開く。それは彼らの勝手である。出席するもしないもこちらの自由だし、ご祝儀をいくら包むのかもこちらの裁量ひとつだ。常識的に自分の年齢と相手との関係性だといくらくらいというある種のルールめいたものはあるが、それに従わないといけない理由なんてどこにもない。で、そのルールに従った額を包む時に、「ルールだから」と思うとなんかお金を出すのが嫌な感じになる。実際これまでに出席した結婚式ではそうだったように思う。もちろん僕の懐具合にもよるのだろうが、じゃあ現時点での懐具合が今までにも増して良好かというとそんなことはまったくない。それでも、昨日の僕は友人の結婚式に当たって、「出来ることをしてあげたい」という気持ちがつよく、裕福でもなんでもないのに、なけなしの現ナマを快く祝儀袋の中に突っ込んだのであった。

 
 一緒に出席した友人は二次会に出るかどうかを迷っていた。でも僕は二次会に出るのに何の躊躇もない。飲みたいわけではもちろんなく、そこでのメシを食いたいわけでもない。だが彼らが新しい船出をする時に企画したいくつかのイベントには出たいと思ったのである。それは僕自身が出るということについて僕自身の側に価値があるのではなく、彼らが企画した催しが企画意図通りの首尾よいことになるということで、スムーズなスタートを切ってもらいたいという、いわば彼らサイドの価値に協力したいというものなのである。

 だからといって、二次会に出なかった友人を非難しようということではない。僕が持っていたことがエラいということでもないし、そういう優劣の問題なんかではまったくない。その友人は独身で、したがって結婚式をしたこともない。僕だって数年前の独身時代には「二次会、面倒だなあ」とか思っていたわけで、それは経験の違いが生む価値観の違いということにすぎないのだ。人間が違えば人生も違うし、通過してきた経験もまったく違う。その結果身に付く価値観も当然違っていて、それでどちらがエラいということはまったくなくて、僕が体験していない経験を彼もしてるし、その結果導かれる感覚が僕と同じであるはずもなく、僕の考えが彼にはわからないこともあるのと同時に、彼の考えが僕にはわからないということもある。それはどちらがいいとか悪いということではない。友人が自分とまったく同じだなんてつまらないし、彼や他の友人たちとも、ケンケンガクガクの話をしたりしながら、それを結構楽しんできて、それで20年来の友人として続いているのだろうと思う。

 そういう彼が披露宴のひな壇にいる新郎新婦を見ていて、どのような感慨を持っているのだろうとか、想像してみた。僕はというと、自分が結婚をして、今の生活に満足しているから、ああ、ひな壇にいる友人はこれから幸せになっていくだろうなあとか思った。それは、自分自身が結構理屈っぽくて、頑固だったりする性格でこれまでやってきたのだが、結婚して、僕とは結構違う考え方や価値観を持っている奥さんと一緒にいることで、違うことの衝突がマイナスにいくのではなくて、むしろ自分を見つめ直す機会になったりするし、それによって自分の気持ちがより穏やかになっていったりするのが判るからだ。今日結婚した友人もどちらかというと僕に似ていて、頑固だし変わった性格で、それはそれで孤高の生き方も出来る人ではあるのだが、違った人格との生活の中で、いろいろな意味で幅が出てくるだろうと思うのである。だからこれから幸せになるんじゃないかとか思うのだ。でもそんなことを独身時代に考えたかというと、そんなことはまったくない。だから当然、一緒に列席した友人もそんなことは感じていないだろう。同じものを見ても、経験とかバックグラウンドの違いで感慨だって変わってくる。そう思うとすごく不思議だし、その人によって、街並の景色とか、野に咲く花の一輪さえも見え方は違うのだ。結婚していても幸せな人はいるし不幸せな人もいる。独身だからといって幸せになることが許されないわけではなくて、その状況に応じた種類の幸せを、つかむことも出来れば、つかみ損なうこともある。僕が結婚する友人を見て、幸せになるだろうと思っているその隣で、友人がどう思っているのか。それは、結婚するということから「不幸になればいい」なんてことはもちろん思ってはいないだろうけれど、自分はそれとは違う形であっても、幸せをゲットするぞと思っているのかもしれないし、オレも結婚したいなあと思っているのかもしれない。まあデリケートなことなので直裁に聞くことは出来ないから結論等はないのだが、それぞれがそれぞれの価値観で、見るものをまったく別の色や形で見ているのかとか思って、なんかそれもまた感慨深くて面白かった。

 ともかく、結婚した友達よおめでとう。お幸せに。近いうちに遊びにいくよ。これからもよろしく。

Friday, January 16, 2009

価格設定

 我が家は日経新聞を取っている。というか、奥さんが取っているのだが、それを僕も読ませてもらっているというのが正しい。この文字面からは多少分け与えてもらっているというような悲壮感も漂うかもしれないが、そんな感じはまったくなく、朝起きて真っ先に玄関に向かい、誰よりも早くドーンと構えて読んでいるのだ。
 
 日経新聞は面白い。昼食でよく行く会社近所の中華屋さんではもっぱら朝日新聞を読んでいるが、書いてある内容がまったく違う。まあ経済新聞だから当然ではある。時々読むというのなら、朝日の方が圧倒的に面白い。でも継続的に読んでいると、日経新聞の記事も身体に滲透してくるのか、それぞれの記事の関連性が見えてくるようで、面白さも増してくる。
 
 だが、最近の記事はやはりダメダメな不況話ばかりで多少気が滅入る。今朝も減益に転じるとかのニュースが目白押しだ。でも最後のページのコラムにちょっと面白い記事があった。海外文学の翻訳本が売れないのは価格設定が高すぎるからじゃないかという内容の文章だった。それによると海外文学で売れているのはその殆どが過去の名作の新翻訳だったり、そうでなければハリーポッターだという。確かに翻訳物の価格は高い。2000円とか普通にする。日本の文学新作は1000円程度のものもあるし、それと較べると少々高いような気もするのは当然だ。
 
 これに対して、映画は1800円するし、CDは3000円とかする。どちらも楽しめるのはせいぜい1〜2時間なんだし、1週間くらい楽しめる本の2000円はそんなに高くないだろうということも理屈としては言えなくもない。だが、値段というのはお客にとっては相場感であって、本当にその原材料がいくらくらいなのかということとは関係なく、このくらいで手に入るんじゃないかという感覚が「手頃」とか「高い」という判断を導くのである。だから翻訳文学を安く買いたいという人は文庫本を待つだろうし、実際ミステリーなどでは最初から文庫というケースも少なくない。ハードカバーではペイしないと思えば文庫からしか出版できないのだろうし、逆にハードカバーでも稼げると思えばいきなり文庫にはしないだろう。出版社もバカじゃないし、2000円の本でもいけると思うから、2000円にしているのだろう。要するにそういう価格帯の本には「価値」があると思われているのだ。
 
 それに対してコラムニストが「価格が高いよ」と言うのは勝手だ。しかしどんな価格設定にしても高いと言う人は言うし、それでも買う人は買う。問題はそのバランスと損益の問題であり、今のところ、なんとかプラスに展開できているということなのだろう。誰かから「高いよ」と言われて値下げをしなければということではない。もっと言えば、これは生鮮産品のような類似品代替可能な商品ではないのである。やはり今日の日経新聞には4月にもパンなどが値下げという記事があったけれども、政府の小麦売り渡し価格が値下げされることが確実で、それを受けてパンなどの値段も下がるのは確実だということらしい。これは、A社のパンが高ければB社のパンを買うということが出来るから、やはりA社も下げたらどうだいという意見が正しくなるわけだが、一方でC社のパンはスーパープレミアムパンとして味が全然違うスペシャルなもの、しかも1日に製造できるのはごく僅かということになってくると、値段がA社の2倍したって多くの人が争ってでも買おうとするし、そうなると、勝負のポイントは価格だけではないということになってくる。そう、人が何かを購買しようというとき、価格は決して無視できない重要なファクターではあるけれども、それだけが唯一絶対の要因ではないということを忘れてはならないし、書籍のような文化に属するものの場合、そもそも内容が違うわけだから、値段なんて本来要素としては低いポジションであるはずなのだ。
 
 コラムの内容にもあるように、ハリポタは売れるのだ。映画化での話題ももう落ち着いているのに、やはり本は売れる。読んだことはないが、はまっている人からすればこんなに面白くて次が待ち遠しい本はないらしい。蟹工船だって何故か今売れる。不況だから売れるのだというが、誰かが話題作りをしなければ売れるはずはない。カラマーゾフも売れたが、これにしても別に新訳だから売れたというだけではない。書店での展開方法、カバーのデザインも含めて、売れるべき仕掛けをちゃんとやってのことである。新潮クレストブックなども作品チョイスの面白さとデザインの統一で、シリーズとして興味深いものに仕上がっているし、そういう努力を無視して、「高いから売れない」という人には「じゃあ、安くすれば売れるのか?」と反論したくなる。
 
 問題は、そこにそういう面白いものがあるんだということを知らせることが出来ていないということなのだろうと思う。本の値段が学生には高いというが、じゃあみんな貧困にあえいでいるかというと、合コンでは居酒屋で数千円払うし、iPodなんてみんな持っているし、ノートパソコンだって必携だ。携帯もまだ使えるのに平気で新機種に換えたりする。高い本だって生協で買えば割引になるのが普通だし、コンピュータゲームなんて、最低でも3500円くらいはするし、プレステ用のゲームだと6000円を超えるようなものだって決して珍しくない。それでも売れるものは売れる。
 
 それに、そもそも本を読まない若者が増えているのだ。これは教育の問題もあるだろう。「本を読む=学問=難しいこと」みたいな構図が出来ているのではないだろうか? 本を読むというのは本来面白いことなのだ。そして海外文学で日本に来るようなものはどれもそれなりの面白さを持っているレベルにあるといえる。僕はそれを知らずにいるのは勿体ないと思う。もちろん、それを含めてすべてのエンターテイメントを体感することなんて短い人生の中では不可能なことだが、そんな中で自分なりのチョイスをして、ある時は期待はずれだったとガッカリすることもあるだろうが、こんなに面白い世界があったんだろうかと興奮するひとときを過ごすことで、人生が豊かになったり、自分の人格を形成する一助になったりすることを、もっと大人は子供に教えたりしたほうがいいと思うし、そもそも大人自身も理解した方がいいと思うのだ。
 
 まあそのために入り口としての低価格ということがあるのかもしれない。そういう意味ではコラムニスト氏の意見にも肯く点はあるが、価格設定論というのはその他の「ダメな点」を覆い隠すために問題を矮小化するために用いられることが多いので、僕らは気をつけなければいけないなと思うのである。
 
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 僕がこれまで読んで、面白かったなあと思う海外文学作品を3つ紹介。

 ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」。インド系女流作家の作品。アメリカに移住して生きていく人々やその子供たち(2世)の家族の物語。


 大好きな作家ポール・オースターの代表作「ムーンパレス」。絶望した主人公が放浪する中で展開される青春小説。


 現代サスペンス小説の大家トム・クランシーの作品「容赦なく」。「今そこにある危機」など映画化された"ジャック・ライアン"シリーズが有名だが、これはサブキャラに焦点を当てた作品。だがクランシーの最高傑作との評価も多い。
 
 
 気温も下がって家を出たくない昨今、読書に耽るのもいいものです。そんな時間があったらですけどね。

Thursday, January 15, 2009

俺聴き:2009年1月12日新宿タワレコ(Vol.3)


シリアルTVドラマ/『シリアルキラー』
「次世代を担うギターロックバンドの大本命!!!!」

 いやあ、これはイイ。でも普通。タワレコもこれを25連の試聴機の21番目とかに入れるのではなくて、1〜3番目くらいに出してもっと大きなポップとかつければいいのにと思う。声質にパンチが乏しい。彼らがスピッツくらいになるかどうかは、もう少しトゲのある楽曲を作ったり活動をしたりして一般に対して引っかかりを作り、それで注目を浴びたところで彼らの哲学のようなものを発揮できるかにかかっていると思う。今はその可能性は秘めているものの、トゲとか哲学といったものを出しているとまでは言えない状態だと思われる。
買うにはまだまだだ。




THE NOVEMBERS/『THE NOVEMBERS』
「始まった瞬間に吸い込まれる音・世界」

 JAPANにも取り上げられているということだが、割と普通。僕は日本のバンドに、これからの「種」のようなものを期待していて、でも種よりも枝葉を先に欲していて、それを先に実現させているような感じ。ギターはカッコイイし、非の打ち所はないのだけれど、この程度ならたくさんいると思う。
 
 

MASS OF THE FERMENTING DREGS/『MASS OF THE FERMENTING DREGS』
「各方面で絶賛!! 轟音♀3ピースバンド」
 神戸で結成した女性3ピースバンド。たしかに轟音で気持ちが良い。もっと声が太ければいいのになと思ってちょっと残念。というのは、基本的に言葉数が少なく、音符的に白玉的な長い音で伸ばしているのが多く、声の太さが無いとこの轟音ギターに負けてしまうからだ。この声質とバランスでいくなら、言葉を詰め込んで、畳み掛けるようにしたらもっとカッコよくなると思う。それにしても6曲入りでインスト2曲って、問題あるんじゃないかと思う。買いたいと思ってもちょっと引くと思うのだよ。
 それにこれ、印刷されているところによると2008年の1月発売ということになっていて、だとすると1年前のCDをレコメンドしていることになっていて、なんか羨ましいなとか思った。発売してしばらくが店頭での勝負なんじゃないだろうか。そうではなくて、年間を通して売れ続けているということなのだろうか。そういう売れ方をして、こういう取り上げられ方をしているのなら素晴らしいと思う。
 
 

嘘つきバービー/『問題のセカンド』

 確かに問題児ですな。アクが強い。現代に「アンダーグラウンドシーン」というものがあるのなら、確実に支持を集めるだろう。彼らの場合、1度ライブを見てからCDを買うかを決めたいものだと思う。音楽的な力もあるし、ジャンルは微妙に違うが、昔のレピッシュが与えたようなインパクトは持っている。乗れるし踊れるし、楽しめるが何度も聴きたいかというとちょっと疑問だ。多分だが、彼らにとって必要なのは判りやすいキーワードなのだろうと思う。現時点ではとにかく混沌とした溢れるエネルギーなのだ。しかし、エネルギーというのは非常に漠然として掴みにくいものでもあり、だからそれを具体的に判りやすい形に抽出するという作業こそが大切なのだ。これまた古い話だが、泉谷しげるが「黒いカバン」という歌を歌って、彼の過激さを判りやすくイメージさせたのであって、あれが無ければただのうるさい歌唄いでしかなかったかもしれない。同じように、現在はただの「問題児」でしかない彼らも、そういう具体的なシンボルのような楽曲をどう出せるのかというところに将来がかかっているように思う。ただ、見ている限りでは常識とか形というものをいかに裏切るのかということに執着しているようであり、それこそが彼らの存在意義であると考えているようにさえ思われる。しかしそれはリスナーの想像を超える裏切りのようであって、実はそのルールに縛られているということもいえるのだ。要は、売れたものが勝ちであって、その先にしか、真の自由は無いのだということに気づきさえすれば、彼らの反骨精神をベースにどんどん自由に成長していってくれるかもしれないなとか、ちょっと期待したくなるような、そんなアルバムであった。

私達以外の人にとってちっぽけな空間



 最初はmyspaceかと思った。myspaceは自分のページデザインをカスタマイズすることが出来るから、なんかこれはイケてるアイディアだなあ、キラキラレコードのmyspaceもそんなふうにしようかなあとか、思った。
 
 しかし、違うのだ。これはmyspaceではなく、MyAppleSpace。文字通りApple好きな人たちのためのwebサイトなのである。まだあまり知られていないのか、現在の参加者数は1506人だと書いてある。早速サインアップしよう。そしてプロフィールとかいろいろと書き込む欄があって、いくつかの質問に選択肢で答えることになっているのだが、この選択肢がまたかなりイケている。要するにここはMyAppleSpaceなのだ。そのことを改めて思い知らされるような仕組みになっていて、ああ、自分がApple製品を使っていて良かったな、でも愛し方はまだまだ足りないんだなあ、ゴメンよゴメンよ、とか思わされる。
 
 サインアップして、自分が参加したということがトップ画面の脇に表示される。それなのにメンバー数は変わっていない。見間違えたかなとか思ったりする。まあいいや。17時間前にjoinして、その後joinしたのはたった1人だし。もし1506人というのが変化しないただの画像だったとしても、そんなことはどうでもいいではないかとか思えるように、なんか気分がおおらかでいい加減になってきた。これもApple的な感覚だとか思うのだが、ヘンだろうか?
 
 
 折からのニュースではジョブスが健康状態の理由で6月まで休養すると。
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(米国時間1/14)Appleの全従業員宛にSteve Jobsから送られたメールの全文。
(TechCrunch Japaneseから)
従業員諸君、

私とAppleコミュニティーとのきわめて個人的なことを書いた先週のレターを読んでくれたことと思います。残念なことに、私の健康状態に対する好奇の目は、私や家族だけでなく、Apple社全員の気を散らし続けています。先週には私の健康に関する問題が当初考えていた以上に複雑なものであることもわかりました。

私が表舞台を降りて治療に専念し、Appleの誰もがすばらしい製品を届けることができるよう、6月末まで療養休暇をとることにしました。

Appleの日々の業務はTim Cookに任せたので、経営チームともども立派に仕事をこなしてくれるはずです。私はCEOとして、休暇中も重要な戦略決定に関わり続けます。取締役会はこの案を全面的に支持してくれました。

この夏、みなさんにまたお会いするのを楽しみにしています。

Steve
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 Mac歴がもう18年にもなる僕としては、ジョブスがAppleから追われ、そして立て直すために再び戻ってきたことなどを思い、それからすると休養もまたよしと思う。もしかするとこれがジョブスからの最後のメッセージになる可能性もあるだろうが、時代の変遷とはそういうものだ。ジョブスはAppleのチームが立派に仕事をこなしてくれると言っている。確かに仕事はするだろう。もう個人経営の企業ではないのだから。だが、チームの仕事に才能はない。ソニーの凋落が端的に示している現実だし、Appleでさえもかつてスカリーたちの時代という不幸期があった。これからのApple製品がジョブス不在だった時期の陳腐なモデルになってしまうかもしれないが、だからこそ、今手に入れられるものが貴重なのだということに気付くのだろうし、それを享受できていることに感謝したいと思うのだ。

Wednesday, January 14, 2009

フィクサー


「マイケルが自分で、アーサーがあいつなのだ」

 ジョージクルーニー主演の映画『フィクサー』をDVDで観る。大企業の集団訴訟に携わる大手弁護士事務所を舞台にした人間ドラマ。多くの映画評ではこれを社会派サスペンスと断じているが、僕はそうではないと思う。これはごく個人的な人間ドラマなのだ。
 
 人は誰しも完全なる自由に浸ってはいない。否応なしに現実の問題やプレッシャーに曝される。その中でいろいろな選択を迫られるし、その選択の積み重ねが人間そのものなのだし、人生そのものなのだ。なぜなら、その選択の結果の中に、その人の価値観というものが如実に現れるからである。多くの人は正義を大事なことだと言うだろう。もちろんだ。偽悪をうそぶく人であっても、その人の中の正義というものが周囲から悪だと断定されるだけのことであって、選ぶものがその人の中の正義なのだ。
 
 だが、正義とはなんなんだろう。平和とか、慈愛とか、そんな言葉で語られるあいだはまだまだ本物の選択とはいえない。一般論なんてクソくらえだ。金とか、家族とか、友情とか、自己保身とか、名誉とかプライドとか、いろいろなものがあったりする。単に金だけをとっても、今裕福にしていてさらにもうちょっとの贅沢のためのお金が欲しいということと、この金がなければ自殺するしかないというようなものとはまったく意味が違う。普通だったら自分の命が大切なのだが、それを上回る価値、すなわち正義というものもある。この映画の主人公は、まさにそういう追いつめられた「正義」の条件が一時に身に降りかかり、どれもが大事だと思えるいくつかの、しかもそれらが全部対立するという中で、何を選択するのか。それがこの映画が優れた人間ドラマだと思えるポイントなのであった。
 
 ジョージクルーニー演じるマイケルは強い人間だ。周囲からはそう思われている。だが、いろいろなトラブルの前では弱い人間でしかない。でも、選ばなければならないのだ。どんな選択肢を選んだところで、他の道を断ったという事実は残るし、それが後悔につながる。ではどれを選べばもっとも後悔が少ないのか。そういう選択をしていくと、どんどんと立場を失っていくことになる。それは自明だ。生き方としては損なのかもしれない。だが、それが弱い人間の選択という形なのであり、誠実な人生というのはそもそもそういうものなのかもしれないとか思わされてしまう。
 
 だからこそ、観ていて僕は引き込まれるのだ。感情移入もする。「マイケルはまさに俺自身だ。だとするとアーサーはあいつか。自分はそういう状況になったときに、どういう選択をすることができるのだろうか」と。
 
 このドラマの中には「強い」生き方をする人間と「弱い」生き方をする人間が登場する。上手く立ち回る人間もいれば不器用に堕ちていく人間もいる。そういう人間模様が最後にはどうなるのか。それが見事に描かれていて面白かった。エンドロールにかかる最後のシーンで、一言も発しないジョージクルーニーが表情だけでいい演技をする。それを観るだけでもこの映画の価値があるといえるだろう。もっとも、全編を観ないことにはこのシーンの意味も入ってこないのだろうが。

俺聴き:2009年1月12日新宿タワレコ(Vol.2)


PLAY RADIO PLAY!/『TEXAS』
「メロディが素敵な歌ものエレポップが聴きたいなら」

 胸を締め付けるような音があるとしたらこんな音楽だと思う。テンポとかに関係なく、疾走感のある音楽。音程なんだろうか? 声質なのだろうか? そういった要素も併せてトータルなのだが、やっぱり肝心な要素はアレンジなのだろう。メリハリもとても効いている。全体的にキックによるリズムが多用されすぎの感もあるが、それを気にする以上に音楽の世界に引き込まれていく感じがして、心地よい。英語なのだが、ロシア語とかドイツ語のような響きがするのも面白いところだ。買いです。
 
 

Spangle call Lilli line/『ISOLATION』

 ジャケはとてもキレイだが、1曲目、ノイズを入れすぎ。タワレコプッシュは#2、#3、#4、#6らしい。一応聴いてみるが、なんかよく判らない。全体的に環境音楽のよう。しかもVoが小さくて、リバーブがかかってて、どう評していいのか判らない。ある種のポリシーがあるのは判るけど、僕はどちらかというとキライです。
 
 

note native/『Silence & Motion』
「より深く。よりエモーショナルに。」

 ということで、1stでハウスシーンに躍り出たというが、そんなシーンを知らない人にはとんと感じられない。一応Voが入ってるのだけど、Voの必要性が感じられない。というか下手にVoを入れてるおかげで、聴くべきポイントがぼやけてしまっているようにも思うのである。紙ジャケに厚いブックレットが付いているけど、金あるのかなあと思わざるを得ない。どのくらい売れているのかよく判らないけれどね。

Tuesday, January 13, 2009

西新宿界隈雑感

 西新宿に行く。いろいろと訪れたいところもある。
 
 西新宿の安床屋は混んでいた。3連休の最終日の午後、疲れた顔のオッサンやニーサンたちが自分の順番を待っていた。僕もチケットを買って列の最後尾に席を占める。席で持参の本を読む。ロシア作家の現代文学。待つこと約25分。けっこうなページ数を読んだぞ。いよいよ自分の番が来たかと思い本をカバンにしまい込む。だが前の客の散髪を済ませた理容師はなぜか着替えて店の外へ。休憩の時間らしい。てっきり自分の番だと思っていたのにしばらく待たされることになる。どのくらい待つことになるのだろうか? もう一度本を出した方がいいのだろうか。手持ち無沙汰で腕組みなどする。僕の後ろにももう列が出来ている。やはりオッサンとニーサンたち。一様に腕組みをしている。待つことが判っているだろうに、本とか持ってこなかったのだろうか。いや別にロシア文学を読めとかいっている訳じゃなくて、マンガでも雑誌でも、フリーペーパーだっていいし、DSとかのゲーム機でもいいじゃないか。ただこうして腕組みをして自分の番が来るのを待つだけの時間。こんな退屈な時間をただ過ごすことを甘受しているのだろうか。それとも本を読むとかの時間の使い方を知らないのだろうか。彼らの人生のどのくらいの時間が、こうやって何もすることなくただ待つだけに費やされているのだろうか。その時間をかけて待った先に、死以外の一体なにが待っているというのだろうか?
 
 散髪をしてサッパリしたが、どうも短すぎるような気がしてちょっと凹む。でも気を取り直して新宿タワーへ。既に書いたように俺聴きをする。見知らぬ洋楽と、見知らぬ邦楽インディーズ。やはり新宿タワーは凄いな。いろいろとある。文化と触れ合うというのは、特に知らないものを知るというのはとてもワクワクすることだ。往々にして日々の忙しさにかまけてこういうところから遠ざかったりするものだが、やはりこまめに来て、いろいろなものを見たり聴いたりしたいと思う。
 
 南口からぐるっと回って西口へ。いつもの電気屋ではなくて西口に出来たヘンな建物に向かう。ブックファーストの新しい店舗がオープンしているそうな。前々から行きたかったけど、今回ようやく時間が出来た。本屋って基本的に同じものを置いているはずだし、どの店だって他の店と同じものを仕入れることは出来るはずだ。でもやはりどの店も違っていて、それぞれの個性があって面白い。ブックファースト新宿店はそのヘンな建物の地下にある。背の高いシェルフが整然とはいえない形で設置されている雑誌コーナーで混乱し、今度は図書館のように区割りされた文庫本コーナーで呆然とする。こんなに本ってあるんだなとか思うし、でもきっとこれも出版される本のごく一部なのだろう。amazonの倉庫はもっと凄いことになっているはずだし、国立国会図書館はさらにおかしなことになっているはずだ。でももうブックファースト新宿店で十分に膨大で、全部を見るなんてとても無理。眺めるだけなら大好きな洋書コーナーに行こうとして、店内地図を何度も見るが辿り着けず。よくよく確認して、それは一度店の外に出て行かなければいけないということに気が付く。洋書コーナー、たいした在庫ではない。紀ノ国屋新宿高島屋店の方が断然充実している。ちょっとガッカリしていたところに児童書コーナーがあって、ここは在庫はともかく展示の仕方とかがとても面白かった。ぬいぐるみのようなグッズが並んでいて楽しい。これから絵本とか買う必要が出てきたときはここだな。子供も西新宿の雑多な雰囲気を嗅ぎとってくれるだろうか。
 
 小滝橋通りを通って北へ。一路自宅へと向かう。職安通りを超えるとき、道が広くなっているのを感じた。数年前まではここは超細くて、拡幅工事がずっと続いていて、いろいろな建物が立ち退きしていて、全部立ち退くまでは駐車場とかになっていたものだが、最後まで立ち退こうとしなかった一角があった。そこの象徴が、スナック巨泉だ。スナックかどうか、定食屋だったかもしれない。当然入ったことなどなく、一度自治体が拡幅道路用地と指定したらリフォームも含めて建築許可なんて下ろさないし、反対するならただ朽ち果てていくのをじっと待つ以外に道はない。巨泉の人たちは待ち疲れたのだろうか? それとも本当に朽ち果ててしまったのだろうか? いずれにしてももう昨年から巨泉の姿はそこにはなく、でもかつて巨泉があったところが工事中である限り、僕らの記憶には巨泉が残る。でも今回、そこに工事中の雰囲気はまるでなく、北新宿から中野坂上までの広い道がズドーンと通っていた。その新しい雰囲気の向こうに旧い記憶はかき消されていってしまう。これがノスタルジーというものなのだろうか。ただそこの通りを毎月1度以上8年間も通い詰めていただけの僕ですらそんな感慨を持つのだから、住んでいた人たちにとってはなおさらだろう。朽ち果ててしまった住民などは、もう記憶しか頼る術はないのだ。

俺聴き:2009年1月12日新宿タワレコ(Vol.1)


JUANA MOLINA/『UN DIA』
「南米アルゼンチンの音響歌姫」

 ジャケの人形がキモくてキャッチー。こんなジャケを見せられたら聴いてみないわけにはいかない。しかも10連の試聴機の1枚目だし。で、音もキモイ。「音響の〜」と書いてある時点でそうだなと思うべきだったかもしれないが、環境音楽的なものを意図的に志向しつつも、いろいろなジャンルに手を出しまくって、とりあえず並べてみましたという感じが色濃い、アルバムの柱があるとは思えない出来。僕の心にこの音響ははまったく響いてこないし、もう1度聴きたいとはまったく思いません。
 
 

The Red Button/『She's about to cross my mind』
「60年代ロックに詳しい方なら思わずニヤリのニューカマー」

 確かにそんな感じだね。なんか全体的にスローテンポすぎるように思う。でもこれ、テンポ上げたら良くなるのかは微妙だ。しかし、やはりこのテンポでは若者にはちょっとダルいと思う。かといってオッサンの僕にも十分ダルイのだが。なんとなくだけれど、テイストを60年代風にするというプロジェクトなんじゃないかとも思う。そのくらい巧妙に作られているような気もする。タイトル曲の#2とか#7は特にそんな感じがするぞ。#9のイントロのストリングスアレンジなどもビートルズ後期に似せようとしている感じがする。唯一#5の「i could get used to you」が、自分たちらしさを出そうと抵抗しているようで好感が持てる。まあ、これなら古いホンモノを買った方がいいと思います。
 
 

ELI "PAPERBOY" REED & THE TRUE LOVES/『ROLL WITH YOU』
「オーティスレディングやサムクックの霊が乗り移ったかのようだよ!!」

 白人で、ソウルフル。これカッコイイです。コメントにも「ソウルトレインに乗ってタイムスリップの旅を」って書いてるけれど、ホント、そんな感じ。iPodで聴いてもイイだろうし、友人とか恋人と一緒にそれなりの音量でスピーカーで聴いても盛り上がると思う。RCサクセションとか好きな人も絶対好きだと思う。音楽が自然に泣いている感じがする。かなりオススメです。買いです。

Monday, January 12, 2009

だから?

 報道2001という番組がある。フジテレビの報道番組なのだが、ここに黒岩さんという人が出ている。以前は竹村健一がメイン司会だったのだが、黒岩さんが司会の座を占めるようになり、竹村健一はレギュラーコメンテイターという立場に追いやられた。まあ、それはいい。どこの世界にも世代交代とかはある。ニュースステーションも報道ステーションになって久米宏は古舘伊知郎に代わった。死ぬまで代われなかったニュース23の筑紫さんなどはある意味悲劇だと思うくらいだ。
 
 しかし、交代はある程度レベルが同じ人でなければダメのような気がする。昨年4月の番組リニューアルで竹村健一はようやく番組レギュラーの役目を終えた。黒岩氏はメイン司会を須田アナに譲り、かつて竹村健一がやっていたレギュラーコメンテイターになった。この番組では竹村健一の頃から番組終了間際に1〜2分程度の時間をもらい、1ネタ自由に話すのが恒例になっているのだが、黒岩氏も「黒岩の手帳」というコーナーを持っている。昨日の放送でのこのコーナーを見て、ああ、この人にずっと感じていた違和感はこういうことだったのだなと思った。それはこういうネタだったのである。
 
 「新幹線の中で急患が出て、ドクターコールに応じて機敏に対処したドクターのことを先日このコーナーで紹介したんですけれど、それを見て偶然その新幹線に乗り合わせていた女性からお手紙をいただいた。『今の医療現場は何かあったときに叩かれることが当たり前で心地よい言葉を聞くことは殆どありません。そんな中、人道的な行為を当たり前とせず、心に留めていただいたことに感謝いたします。』緊急対応に応えるというドクターはアンケートによると約4割ということなのですが、この数字を増やすことが出来るのか。そのためにはこういう人道的行為に対して私達が感謝の気持ちを伝える、これが一番大切なんではないでしょうか」
 
 だから? で、どうしろと? 要約すると「オレは新幹線の中で見たことをテレビで伝えたぞ、それに対して感謝の手紙をもらったぞ」ということになるかと思う。感謝の気持ちを伝えるって、誰が誰に対して? 市井の人が周囲の医者に対してということか? そんなの、普通の人は世間話出来る関係の医者を知らないだろうし、もし知っていたとして、その人は別に緊急対応した人ではないので、「エライ医者がいるもんだ、おまえはどうなの?」という話は単なるプレッシャーか、場合によっては嫌味にしかならない。つまり、感謝の気持ちを伝えるのはメディアで発言できる人ということになるし、しかも自由に話を出来る時間を数分でも持っている人ということになるだろう。要するに自己礼賛にこそなれ、視聴者にとってはまったく意味のないネタでしかなかった。もし黒岩氏がそういうことを心に刻んだのならば、同じようなネタ、エライ医者を讃えられるようなネタを探して、それをこのコーナーで紹介するということをすべきだったのだろうが、そうではなくて、「オレは褒められたよ」ということを自慢げに紹介しただけだったのだ。
 
 黒岩氏はそれが自分の仕事だと思っているのだろうが、やたらと番組を仕切りたがる。だがそれはゲストの話の腰を折り、流れを奪い、結果として見ている人の興味を削ぐことになってしまう。もちろんゲストだって自分のいいたいことだけをワアワア言っているだけのことが多いから、そういうのを阻止することも必要なのだが、彼の仕切りはそうではない。彼が思っているある種の結論をゲストの口から言わせたいというだけのことであり、ゲストが彼の意図する結論を言わなそうだと、強引に「そうじゃないですか?」と聞き直し、それでもそうだと言わないと流れを奪って他のゲストに振ったりするだけなのだ。そういうやり方は基本的に良くないと思うのだが、まあ田原総一朗なども基本的にはそういうやり方だし、百歩譲ってそういうやり方もあるのだと仮定しよう。でもその場合は、仕切る人が導こうとするある種の結論が、ある程度引き出すべき意味のあるものでなければならない。だが、黒岩氏の目指す結論は、要するに「自分は何でも知っている、エラいんだ」ということでしかないのだろう。なにかそれを象徴するような昨日の「黒岩の手帳」だった。芸能人相手のゴシップ報道だったらそれでもいいが、政治経済を論じる番組でそんなことをやられても困るというのが正直な感想だ。でも、もしかすると今のテレビに出てくる政治家たちというのは、ゴシップに曝される芸能人と同じ程度の能力とか影響力でしかなくなっているのかもしれない。
 
 竹村健一の一言を聞きたくてずっと見ていた報道2001をビデオで録って見ていて、そのまま惰性で予約録画を続けていたが、もう予約を外すことにした。見るだけ無駄だと思ったからだ。

世界遺産





 HDビデオでおまかせ録画予約というのがあるが、僕はそこに「世界遺産」というキーワードを入れている。おかげで世界遺産に関連する番組は見放題だ。しかしながら世界遺産が好きな人は多いらしく、ちょっとした旅番組もどんどん録画されてしまい、消去するのが面倒だったりする。そんな面倒をおしてもなおこのキーワードで録画を止めないのは、NHKの世界遺産番組を見たいからなのだ。いくつかシリーズがあるのだが、中でも見たいのはシリーズ世界遺産100というもの。約5分のミニ番組で、文字通り様々な世界遺産を毎回1ヶ所紹介してくれるのだ。
 
 毎日のように録画されていくので、HDの中にはどんどん溜まっていく。最初は溜まっていくのを恐れてどんどんDVR-Rに保存していたのだが、ある時、どうせ5分の番組がいくら溜まったところで大したことではないということに気付いた。この番組は2004年から放送されているもので、基本的には再放送。最近放送されているプログラムの中には既にDVD-Rに保存しているものが含まれていたりして、ということは、いずれ全プログラムをGETしてしまい、いつまでも録画を続けていることが無駄になってくる時期が早晩来るのではないかと思うようになった。番組のタイトルがシリーズ世界遺産100なので、きっと100本のプログラムで完結なのだろう。だったらそろそろHDの中に100本近くが保存されている。全プログラムをGETできるのもあと僅かだ。
 
 でも、どうも録画が100本を超えてしまったようである。それでNHKのページをチェックしてみたら、この100という数字は、世界遺産を100ヶ所というのではなく、100%を網羅したいという意味の数字だという。なるほど。で、すでにDVDが小学館から発売されているらしい。20本収録のDVDが10巻。ということはそれだけで既に200本あるということではないか! 
 
 というわけで、そのタイトルリストをエクセルに書き出した。そして現在HDに保存されているプログラムの題名を併せて書き出した。なんと、リストに上がったのが全部で264本。そのうち保存されているのが103本。つまりDVDに収録されているうち160本程度がまだGET出来ていないということになってしまうのだ。すでにDVD-Rに保存しているものまでは書き出していないが、それでもDVD化されている200本を網羅しているとはとても思えない。いずれは全プログラムをGETしてみたいと思うのだが、それにはどのくらいの時間がかかることやら。
 
 まあ300本とか400本とかあるだろうし、今も新しいプログラムが作られている可能性も高いと思う。可能かどうかは判らないが、全部録画する感じで頑張ってみたいものだ。というのも、世界遺産の番組を見るのが楽しいからだ。世の中にはまだまだ知らないことも多く、知って損のないことはさらに多いのだということを、こういう番組を見ているとつくづく思う。だがそれをすべて現地に行ってこの目で見ることは不可能だ。それは世の中にある本をすべて読むことが不可能だというのと同じだろう。だからといって絶望して読書を止めてしまう必要もないし、世界を見聞しに旅に出ることにもやはり意味があると思う。だとしたら、その中でも行くべき価値がより高い場所を知る上でも、こういう番組を見るのはいいことだと思うし、たとえ一生行けない場所だとしても、せめて画面の中で見るだけでも面白いことだと思うのだ。

Saturday, January 10, 2009

地方へ


   

 天空快が5日からツアーに出ている。5日の名古屋から始まり、今日10日は大阪でのライブだ。(以下、ツアー日程)

「初恋という名の喫茶店」レコ発tour
◆01.05(mon)名古屋Tight Rope
◆01.06(tue)京都MUSE
◆01.08(thu)京都 都雅都雅
◆01.09(fri)広島NAMIKI JUNCTION
◆01.10(sat)大阪RUIDO
◆01.11(sun)神戸チューリップハット
◆01.12(mon祝)大阪HARD RAIN
◆01.13(tue)神戸MERSEY BEAT
◆01.14(wed)神戸Art House
◆01.15(thu)岡山CRAZY MAMA 2nd room
◆01.16(fri)心斎橋FAN J
◆01.17(sat)心斎橋AtlantiQs
◆01.18(sun)京都VOXhall
◆01.19(mon)名古屋DAYTRIP
◆01.22(thu)新宿HEAD POWER

 2007年の夏ツアー39箇所に較べると軽めの日程だが、それでも青春18きっぷで移動するという大変さは変わらない。のんびり気ままな旅ならばそれもいいだろうけれど、ほぼ毎日、次の会場への入り時間が決まっているわけだから、そこに行くためには時刻表との戦いであり、綱渡りでもある。そうまでしても行かなければならないのは、ミュージシャンとしての性でもあるし、昨年末にリリースしたニューシングル『初恋という名の喫茶店』を売らなければという切迫感もある。これが「売る」ということだけでいえば、ツアーを回るよりももっと確実で効率的な方法もあるし、それは彼らも十分承知ではある(さんざん言ってきたから)が、やはり自分で歌って、それを気に入ってもらうということは、イメージとして直感的でもあるし、だから無理をしても行こう、そして行った先で頑張って支持者を増やそうとする彼らの気持ちは良く判る。そしてやはり、彼らがそうやって足で動いて直接接し、ダイレクトにメッセージを伝えていって築いたファンというのは貴重で重要だ。結果的にもネットを通じて彼らを知った全国の人たちとも直接会える機会を作ることになっているし、そういうことをやっていないバンドと較べるとアドバンテージになるのは間違いないだろう。また、なにより彼らの強い気持ちというのがその無茶な行動に出ている。
 
 アルバイトで日々の生計を立てていることを考えると、ツアーに行っている間は出費がかかるだけでなく、収入も途絶えてしまうのだ。ツアー先でCDが売れれば多少は補填されるが、シングルが多少売れても2人分のバイト代をカバーするにはなかなか及ばないのが現実だ。
 
 バンドの価値はあくまで音楽にある。だから音楽に魅力がなければ買う意味はない。それは重々承知ではあるが、それでもなお、まだ売れていないバンドたちのそういう思いと頑張りを是非知ってもらいたいと思うし、もし何らかの形で聴いたりして、「素晴らしい」とまではいかなかったとしても、「まあ悪くない」くらいの感想を持ってもらえたら、ちょっとの寄付という気持ちも含めて購入とかしてもらえればと切に願ったりするのだ。
 

天空快『初恋という名の喫茶店』です。@YouTube
 
 



 昨日、有刺鉄線のメンバーが来社。彼らも本日群馬県でのライブに向かうことになっている。桐生市はメンバーの出身地でもあり、完全アウェイということではないが、普段応援してくれるファンではない人たちがいない場所でのライブというのは、やはりバンドマンにとってチャレンジなのである。彼らはドラムがまだサポートでもあり、そういう意味でも地方にライブに行くというのは簡単ではないのだ。
 
 そのライブで売るための新譜、今月21日に発売するニューシングル『忘れな草』が完成したのでそれを会社まで取りに来たというのが来社の目的だった。そこで来月と再来月にも日帰り圏内でのライブへの計画を練った。日帰り圏内を北は仙台、西は名古屋と想定して、その中でどういう動きが取れるのかということを検討した。メンバーは正社員もいるし、契約社員もフリーもいて、その他にサポートドラマーがいる。名古屋までツアーに行って日帰りだと、僕の経験上けっこう大変だ。僕もそれを承知の上で「日帰りだと、名古屋くらいまでか?」とか言っている。キラキラとの話し合いの窓口になっているギタリスト山崎は、メンバー内での調整の大変さを一手に引き受けながらも「そ、そ、そうですね」と言って、グッと飲み込む。調整の大変さを口にすれば僕が「じゃあ規模を縮小しよう」と言うしかなくなるのは彼も判っているし、だからグッと飲み込んで、目的実現に向けて努力しようとするのだ。そもそも音楽で成功しようなんてのは大変な目標に決まっているのだ。普通の難しいこと程度に音を上げている場合ではないのだ、本来は。かといっていきなり「来月武道館ライブを実現しよう」なんてことにチャレンジしようと言っているのではないのだから、山崎がグッと飲み込んで先に進もうとしている姿勢は正しい。それによって周囲を調整する大変さを抱えるくらいのことでへこたれている場合ではないのだから。
 

有刺鉄線『忘れな草』です。@YouTube

Thursday, January 08, 2009

始動

 帰省先の福岡から13:10分発の飛行機に乗って東京に戻る。荷物を一旦家に置いて、早速出勤。たまっている作業とか、いろいろやって今に至る。
 
 やらなきゃいけないことは山のようにあるが、まあ一度にと思っていると足元が揺らぐので、出来ることからコツコツと、確実に進んでいく2009年にしたいと思う。こうしている間も多くのバンドマンたちが動いている。5日から天空快のツアーは始動しているし、有刺鉄線のメンバーとは明日会う予定になっている。他にもレコーディング中のバンドマンもいるし、既にリリースしたCDを懸命に売ろうとしているやつらは数知れずだ。そういう頑張っているやつらと、大きな果実を分かち合えれば、きっと幸せがそこにあるに違いないと思うのだ。
 
 みなさん、よろしく。

Sunday, January 04, 2009

正月

 今となってはもはやかつての出来事だが、大晦日の日が暮れる頃まで仕事をし、渋谷で食事をして帰宅。一夜を越す。目が覚めるとベランダからはすでに初日の強い光が射していた。12階からは富士山がくっきりと姿を見せている。こりゃあ今年は縁起が良い。そうに違いない。と思いたい。思った者勝ちなのだ、気分なんて。
 
 午前中の新幹線に乗って名古屋へ。ホームからはかつて生活創庫があった場所に別の大店舗が見える。生活創庫には昔HMVがあって、インストアライブとかでお世話になったなあ、とか感慨にふける。でもふけってばっかりいるわけにもいかず、急いでホームを移り、快速みえに乗り換える。奥さんの実家の三重県へと向かうのだった。
 
 奥さんの実家では本当に良くしてもらって、何の緊張も遠慮もなく過ごすことができている。仮に仲良くできずにいたとしても、別にそれで命を取られるような問題ではないだろうが、どうせなら仲良くできた方がいいに決まっている。良いに決まっている小さなことの積み重ねが僕らの普通の生活を豊かにするのだろうと思うし、そういう観点からすると、これは小さなことの中でも大きなことだ。感謝の気持ちを持ちつつ、勝手気ままに3日を過ごした。
 
 お義母さんが持っているデジカメがもう撮影できないという。見れば、原因はメモリカードの容量一杯に写真データが詰まっているのが原因だ。これをパソコンにつないでハードディスクに入れたり、CD-Rに焼いたりすればいいことだ。そうしてメモリを初期化すればそれでいい。だがそれをどう説明すればいいのだろうか。まずは今あるデータを保存し、メモリの空きを増やせばいいのだ。ということで、まずはパソコンと接続するケーブルをヤマダ電機でゲットし、持参しているノートパソコンでCD-Rに焼く。見るとカメラに入っているSDカードは128メガなので、これを大容量のカードに換える。マニュアルを見たわけではないのでこのカメラがどのくらい大きなSDカードを認識するかよく判らず、とりあえず1ギガのカードを導入することに。それでほぼ1000枚くらい保存できるはずなので、次に来るときくらいまでは持つだろう。
 
 そうしてCD-Rと容量アップしたカメラを渡して「もう大丈夫」と伝えると、横にいたお義父さんがカメラの箱をどこからか出してきて、マニュアルを見始めた。マニュアルの下から「これはなんや?」と引っ張り出したのがパソコンと接続するケーブル。あったのか。まあでもヤマダで買ったので580円くらいだし、ケーブルが2本あってもいいじゃないか。まあ僕の意図としてはデータが保存できればいいのだというところまでやりたかったのだが、お義父さんは「これをプリンタで印刷するにはどうしたらいいんだ」ということが目下の悩み。そういわれてもプリンタの種類もよく知らないし、僕の通常の考えだと、データをパソコンに取り込んで、フォトショとかイラレでレイアウトしてから印刷をするのだが、それをすっ飛ばしてプリンタでダイレクト印刷をするということをしたいらしい。まあ最近のプリンタはそういう機能で売ってたりするのだし、実家のプリンタはそのためのUSBの端子も付いているようだ。とりあえず接続して、カメラの方をいじってプリントのコマンドを発見。実行を押すと印刷が開始された。どうも落ち着かず、お義父さんのパソコン(Windows Vista)にカメラをUSB接続する。するとリムーバブルディスクとして認識され、クリックにクリックを重ねるとさっき取った写真が画面に。プリンタのコマンドを押すとプリンタがガガガと音を立ててやはり印刷。最初にカメラからのダイレクト印刷をしたときはハガキサイズ程度の印刷だったのが、今回はA4サイズに前面印刷。どうしてそうなんだろうか。そう問いかけるお義父さんに対して明確な回答はまだ出来ず。そりゃそうだ。だってWindows Vistaに触れるのはこれが初めてなのだから。もうちょっといじれば適切な答えも見つかるはずだろうが。それなのにA4サイズのプリントに出来た一定間隔の筋上の薄い部分を指摘して、「これはどうしてだ?」と問いかけるお義父さん。エコノミープリント的な設定になっているからだということは判るのだが、じゃあどうすればいいという質問に答えるには、もうちょっと待ってくれよお義父さん。ダイレクト印刷のところで止めておけば良かった。
 
 まあそんなこんなで、まだまだ完璧ではないにしても、まずは最初の目的は達成した。お義母さんも「もっとバンバン写真を撮ろう」とか言って喜んでくれている。御馳走で歓待してくれることと対等とは思わないけれど、出来る範囲のお返しは出来たかなとホッとする。
 
 今朝、車で駅まで送ってもらったのだが、お義母さんの手には件のデジカメ。僕らの写真を撮るのだという。家族の絆は無形のものだが、何か形が残るということは決して悪いことではないし、そのお手伝いが出来たのなら、年の初めとしては上出来だ。
 
 
初詣に行った、瀧原宮
 

神戸北野の異人館、うろこの家
 

神戸のベーカリーカフェ、フロインドリーブ

三重県を出て、今神戸。明日福岡入りする予定。