Saturday, October 30, 2010

20周年ベスト解説〜「風にのれない天使」Southside Mama


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20周年を記念した3枚組ベストアルバムをリリースすることになった。毎日、1曲ずつ紹介しています。1日限定で楽曲をアップしていきますので、よろしければお聴き下さい。(曲は毎日変わります。次の解説ブログがアップすると、このページの楽曲も新しいものに変わってしまいますのでご了承下さい。)

10. 「風にのれない天使」Southside Mama(1994年「Forever Blue」KRCL-4)
 僕がビクターを辞めてキラキラに専念し始めてすぐに出会ったロックバンドSouthside Mama。新人発掘をしないといけないから、まずはオムニバスアルバムを作ろうということでバンドを募集して、武蔵小山の喫茶店でミーティングをしたのが最初。そんじょそこらの女子よりも長い髪をした菅野くんと谷口くんが小さなテーブル席には似合わなかったのが今も目に焼き付いている。アンバランスだったなあ。
 当時は僕もレーベル業とは何なのかがあまりよく分かってなくて、でもなんか迫力あるし、年間80本くらいライブをやっているという勢いに惚れて「やろう」ということになった。ビクターを辞める直前に導入したMacでいわゆるDTPをやった最初だった。沢山写真を撮ってスキャンし、ごみ取りをし、レイアウトした。彼らのジャケットが2色印刷なのは、単にお金が無かったからである。それでも彼らのアメリカンロックな佇まいのおかげで、モノクロっぽいデザインもさまになった。今では自由に生成出来るバーコードのデータも、データ出力会社に頼んでフィルムで出して、それを印刷会社で入れてもらったりした。なつかしい話だ。
 当時の僕はヒマだったのと機動力があったのとで、大阪のライブにも同行したりした。突然神戸のライブハウスの楽屋に顔を出し、メンバーもビックリしながらも歓迎してくれたりで、そういうのがバンドとレーベルの絆を深めていくんだなあということも実感した。現在とは状況も違っているし、同じようなことをすることも難しいが、それでも直接の触れ合いが大切なのは変わっていないと思う。激しいライブが信条だった彼らだが、泣かせるバラードなど幅広いレパートリーで、ファンは多かった。後に音楽評論の世界でちょっとだけ頭角を現すイノマー氏が吉祥寺曼荼羅に現れて「ファンです」って言って来た時には、なんかヤバい人が来たなあと思ったけれど、要するにロックを愛する人に愛されていたバンドだったのだ。売れたかというとそんなに売れなかったけれど、彼らと一緒に動いた2年間で、キラキラレコードの活動ペースとか、方向性とかが少しずつ固まっていったような気がする。

Thursday, October 28, 2010

20周年ベスト解説〜「ベイベ」大正九年


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09. 「ベイベ」大正九年(1998年「最新式ひるね百科」KRCL-18)
 大正九年。キラキラレコードの歴史を語る上で絶対に外せないアーチストの筆頭。最初の出会いは彼女がまだ19歳の頃。初めて雇ったスタッフ岡野さんが偶然新宿で発見し、撮影してきたビデオには着ぐるみをまとって歌って踊っている彼女がいた。キュートなのに不思議でずっこけな、それなのにきちんとスジのあるまとまり方をしていて、これは天才だと確信した。その証拠にジャケットなども当時珍しい12ページフルカラーの印刷に踏み切った。要は彼女の才能を信じて、僕も賭けたみたいなものだった。
 当時のキャッチフレーズは「一人テクノ」。よくよく考えてみるとテクノやってるアーチストはたいてい一人であって、別に特別なことを意味しているわけじゃないのに、なんか彼女の不思議なテイストをよく現したコピーだった。
 ファーストアルバムを出したあと、3枚のマキシを連発し、25曲入りの怒濤のアルバム「九階に在る食堂」を出した頃、彼女の人気が一気に沸騰した。その直後、フジパシフィック音楽出版の人から連絡があり「是非一緒に大正九年を育てたい」と。一般には馴染みが無いかもしれないが、音楽出版会社というのは著作権を管理する仕事をする会社で、音楽業界には欠かせないものだ。このフジパシフィック音楽出版はフジテレビなどのタイアップを主に行っていて、音楽出版業界ではある意味横綱的な存在だった。こっちも突然降って湧いた話に驚きながらも、これはひとつのチャンスかもしれないと、フジパシの人と大正九年を会わせ、条件などについて話を詰めた。
 そんな時、大正九年が突然「ソニーの人から電話があった」と切りだしてきた。フジパシとの書面も出来上がって、あとはサインをするだけという段階である。ソニーの話もチャンスかもしれないが、フジパシだって力のある会社なのだ。ソニーから話が来たからといっておいそれと不義理をしていい相手ではない。だが彼女には音楽出版社とレコード会社ではリアリティが違っていた。これは厄介なことになったぞと、とても困った。
 困ったものの、実はすごく充実感のあった瞬間でもあった。なぜなら2年前に僕らが発掘して力を入れて頑張ってきた才能が、音楽出版社の横綱と、メジャーレーベルの横綱から引き合いが来て、綱引きをしているのだ。引き合われてどちらかに決めなきゃいけないのは辛いけれど、どこからも引き合われないのに較べるとはるかに贅沢で、はるかに充実した状況だなと感じたのである。結果的にはソニーからの話も社を挙げての決定ということまでには至ってなくて、フジパシと一緒に仕事をすることになった。それが良かったのか悪かったのかは判らないけれども、その後キラキラレコードからは1枚のアルバムをリリースし、フジパシの橋渡しでメジャーデビューも決まった。その時点で既に彼女の体調は良くなくて、メジャーデビューしてからも思い切った活動をすることが出来ず、大きな結果を出せずに今に至っている。
 この曲「ベイベ」は1stアルバムに収録の、地味だけど優しくて切なくて、大正九年のピュアな部分をもっとも体現した、個人的にはベストの名曲。

Wednesday, October 27, 2010

20周年ベスト解説〜「愛の花」STONE FREE


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08. 「愛の花」STONE FREE(2008年「The World」KRCL-120)
 STONE FREEは、POPソング満載のファーストは鳴かず飛ばずな感じだったものの、2ndアルバムで人が変わったかのような怒濤の活動を見せた。ファンを増やしライブの規模を拡大し、ワンマンライブも成功させ、3rdアルバムでは遂にRockin'on Japanのインタビューを勝ち取ったという、バンドマンど根性サクセスストーリーを地で行った。
 僕はいつも「100万枚はセンスとチャンスと運が必要だけれど、1000枚くらいなら誰だって実現出来る」と言っている。もちろん1000枚が最終目標ではないけれど、1000枚を通過しないとその先には絶対に行けない。だからまずそれを目指すのだが、それには当然努力が必要だ。逆にいえば努力さえすればどんなバンドだってそれは可能なのだが、ほとんどのバンドは努力することを嫌い、出来ない理由を並べ立てる。しかしSTONE FREEはやるべきことを着実に徹底的に実践していって、結果を出した。すべてのバンドの鑑だと思う。
 3rdアルバム発売時の資料作成のために行ったインタビューで、田舎の高校から東京に出てくる時の波瀾万丈のエピソードを聞かせてくれた。ベースの加藤くんは東京で音楽をやるため、高校の卒業式の夜に家出をし、山形からベースギターを背に自転車で東京に向かった。3月終わりの山形から栃木にかけて雪も降り、寝ずに自転車を3日間漕ぎ続けたという。あらためて彼らのガッツを再認識した。東京では3人で1軒家に住みながらバンド中心のストイックな生活をしている、そんなSTONE FREEの、世界平和を訴えるという壮大なこの曲。聴けば聴くほど滲み出るものが感じられるようになる。

Tuesday, October 26, 2010

20周年ベスト解説〜「走り出せ若者よ」金谷ヒデユキ


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07. 「走り出せ若者よ」金谷ヒデユキ(1997年「走り出せ若者よ」KRDL-1)
 キラキラレコードにとっていろいろな意味で転機となったアーチスト、金谷ヒデユキの代表作。当時金谷ヒデユキはフジテレビの「ボキャブラ天国」という人気番組のレギュラーで、全国的に大人気だった。それまでCDの卸屋さんにも「キラキラ?」って感じで扱われていたのに、これを出すと明らかに扱いが変わった。売上げが3桁になって、それまで理屈では解っていたものの、実感として「売れれば儲かる」ということを理解した瞬間だった。
 彼との出会いはビクターの先輩と偶然に吉野家で会った時に「知り合いの事務所のタレントのCDを作りたいんだけど、プレス屋さん知らない?」と言われ「じゃあウチでやりましょうよ」と答えたら、そのまま事務所に連れて行かれ、そこに彼がいたというものだった。翌週にはもうレコーディングに突入し、あまりの展開の早さに驚かされた。
 金谷ヒデユキは毎週土日には全国のイベントに営業で回っていて、僕もCD即売のために常に同行していた。あんなに飛行機と新幹線に乗ったことはなかったくらいだった。夏のある土曜日、函館のボキャブライベントに出演して、翌日昼にはテレビ出演のため金沢入りする必要があった。しかし函館の始発に乗っても昼の金沢には着かないということが判り、函館のイベント終了後レンタカーを借りて千歳に移動。途中霧が発生して時速15kmで走るなどして、千歳のホテルには午前3時に到着、翌日6時台の飛行機に乗るという超過密移動を経験した。売れっ子ってすごいなあと呆れるやら感心するやら。
 この曲ではキラキラ初のプロモーションビデオを作ることになり、しかも撮影を兼ねて2人でロスに渡るという、やはりそれまでになかった展開。といっても事務所から金が出たわけでもなく、それぞれが自腹で渡米という、まあインディーズらしい珍道中だった。ロスとラスベガスの間にある砂漠地帯で撮影したビデオは僕にとってもいい思い出だ。

Monday, October 25, 2010

20周年ベスト解説〜「恋はレモン」U.K. a la mode


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06. 「恋はレモン」U.K. a la mode(2010年「Love me? Hate you!」KRCL-146)
 キラキラの歴史では比較的新しい楽曲。三重県で活動しているU.K. a la modeは、平素は丁寧で気弱な感じのお兄さんなんだが、その音楽は怪しさ満点のサウンド。グラムロックのような気もするが、とにかくUKサウンド大好きの乙女チックなバンドマンなのだ。
 三重県はバンドが活動するには環境的に不利な土地である。まずライブハウスが少ない。しかも土日しか営業してないところがほとんど。だから三重のバンドは名古屋に行って活動をすることになるわけだが、名古屋に住んでいる人から較べるとかなり不利だと言える。友人を呼ぶというバンド初期の常套手段も使えない。移動にお金も時間もかかるし、踏んだり蹴ったりだ。
 そんな三重県でよくもまあこんなにぶっ飛んだ音楽をやってる人がいるなあと、最初にデモを聴いた時には僕自身もぶっ飛んだものだ。そのデモにはライブ音源も数曲入っていて、その音質が悪い分だけさらに怪しさ倍増だった。でもその怪しさは普通にCDを買うと絶対に聴けないものだし、そんなのを聴けるだけでも、この仕事やってて良かったなと思う。2週間くらいは他のデモ聴かずにヘビーローテーションしてた。スタッフからはちょっと呆れられてた、そんなフェイバリットバンドなのである。

Sunday, October 24, 2010

20周年ベスト解説〜「メッセージ」PUBLOSTAR


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05. 「メッセージ」PUBLOSTAR(2003年「雨天順延」KRCL-60)
 キラキラからはアルバムを2枚リリースしたPUBLOSTAR。ドラムの田村くんが特に熱心で、キラキラとの連絡もすべて彼がやっていた。当時で年齢が30直前ということもあって、ある意味土俵際という意識もあったんだと思う。このアルバムと2005年の『ナポリタンポップ』ですべてを出し尽くそうという感じでとにかく必死に取り組んでいた。
 ある日田村くんが「相談があります」って会社にやってきて、「僕はCDをもう200枚売ったんですけれど、あとの2人は合わせて50枚も売ってないんです。どうやったらもっと売らせることができますかね」という。僕は「メンバーが全員同じ枚数売ることが大切じゃないし、売るのが苦手な人を教育するより、売れる人がガンガン売った方が良いよ。田村くんがさらに500枚売る方が、彼らに200枚売らせるよりも100倍早いと、僕は思う」って言ったら、とても複雑な顔をしてた。悪いことを言ったかなあ。でもそれは本心だったし、最後にはそれに本気で取り組んで、田村くんには完全燃焼の手応えが得られたんだと思う。やがて田村くんは脱退し、音楽でプロという夢を諦めることができた。残りの2人はその後もPUBLOSTARを続けて、結果として今年3月に活動停止してしまった。
 この「メッセージ」という曲には、胸を張って生きていくために頑張っていかないといけないよっていうメッセージがあった。作詞作曲はボーカルベースの三浦くんが担当していて、今となってはどのくらいの想いでこの歌詞を書いたんだろうかと不思議でしょうがないけれど、歌に罪はないし、歌自身は今でも良いと思う。日頃は礼儀正しくおとなしい印象の田村くんが、ライブになると激しく首を振りながら荒々しくドラムを叩く姿をついつい思い出す。

Saturday, October 23, 2010

20周年ベスト解説〜「雲の上よりもまだむこう〜そこまで〜」Minx Zone


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04. 「雲の上よりもまだむこう〜そこまで〜」Minx Zone(2001年「みんくすワールド」KRCL-39)
 ある日大阪の専門学校の先生がやってきて「彼らをよろしく」って熱心にプレゼン。それで大阪まで観に行って、南港にある貿易センタービル(みたいな名前だった)でライブを見る。まだ20歳くらいの彼らとの最初の出会いだった。当時の僕は車で下道を走って大阪に行ったりを繰り返していた。車中泊とかは当たり前。我ながら元気だったと思う。
 その後彼らの大阪での活動が行き詰まり、ベースが脱退することになった。それを機に残ったメンバーで東京に来るということになって、上京後は1年くらいボーカルのゆかりちゃんがキラキラカフェでバイトしてくれた。そういう意味でも忘れられないバンド。そもそも東京に出てくるきっかけも、彼らを面倒見るという事務所を頼ってというもので、キラキラカフェでバイトをしていながらも活動そのものの面倒を見るということではなく、そういう意味では音楽の仕事としては関係ないのだが、彼らの活動は常に気になった。その後新宿駅南口を中心にストリートライブで人気を集めるようになるが、それも徹底した取り組みがあってのことであり、多くのバンドに「彼らを見習え」みたいなことを言っていたのを思い出す。
 彼らには底抜けに明るい曲とか、切ない曲とかいろいろあるけれど、どれにも共通して言えるのはピュアということ。ある程度大人になったら世の中のしがらみを考えるようになったり、つまらない知恵が回るようになったりしてしまって、純粋な気持ちが薄れてきてしまう。でも彼らはそんなことが全然無くて、聴いていると背筋が伸びてくる。自分ももっと正直に生きようと思わせてくれる、そんな力を持っていて、時々聴き返したくなる。
 そんな彼ら、キラキラから活動の場を移して9年、どうやら秋に本+CDという形でメジャーデビューすることが決定したらしい。このベストの頃には出てるのかな?おめでとう。キラキラ20周年と併せて祝いたい出来事。

Friday, October 22, 2010

20周年ベスト解説〜「星のスピード」カノープス


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03. 「星のスピード」カノープス(2010年「レインボウメーカー」KRCL-139)
 現在のキラキラレコードで活躍するバンドの一つ。2010.12.21にはニューアルバムが出るし、勢いがある。とっても期待しているバンドだ。
 ボーカルでリーダーの安斉くんは2001年に隼というバンドでデモ応募してくれていたのだが、その時は何故かスルーしてしまった。今思うと申し訳ないなとか思う。その後カノープスを結成し、今年1月にミニアルバムをリリース。クオリティの良さとセールスの好調さ、そして本人たちのガッツもあって、今はレーベルの主力アーチスト。
 スピッツみたいな正統派ポップロックを奏でるバンドで、ある意味キラキラレコードの中では異端かもしれない。この『星のスピード』のようにノリのいいポップナンバーだけではなく、泣かせるナンバーもバラエティ感一杯で才能を感じさせる。こんな正統派をプッシュしてていいんだろうかとか思うこともあるが、基本ノンジャンルで「いいものはいい」ってやってるわけだから、これやらないのはウソだよねって気が強くする。というか、こういうのをやることが実はレーベルにとっても王道なんだろうと思う。売れる期待値も非常に大だし。
 カノープスとしてデモを送ってきた時には4人編成だったのが、リリースの際にはメンバー2人になっていた。その後ベーシストが戻ってきたりして、現在では4人バンドに。まあいろいろと山あり谷ありだったわけだけれども、それを乗り越えてさらに前向きになっていけているのも、安斉くんの誠実さと頑張りがあるからだと思う。僕もすっかり応援したいモードになっているし、引き続き大プッシュのバンドだと改めて思います。

Thursday, October 21, 2010

20周年ベスト解説〜「LIFE」ドックオブベイ


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02. 「LIFE」ドックオブベイ(2000年「高田馬場13人斬り」KRCL-30)
 このバンド、とにかくカッコ良かった。ロックって感じだった。彼らのカッコ良さを強調したかったから、キラキラレコードの中にロック専門レーベルとしてPaddlingというのを設立したくらい。その後彼らを含めて3アーチスト分しかこのレーベルは機能しなかったけれど。
 知ってる人は知ってるだろうが、このバンドには現在サンボマスターのギターボーカルとして活躍している山口隆がギターで参加していた。率直というか天然というか彼独特のキャラクターは当時からそのままだった。しかしこのバンドでは山口くんはリーダーではなく、先輩の渡辺悟が率いて歌うというバンドだった。感想は人それぞれだし現状の評価が確立している者とそうではない者では単純に比較はしにくいのだが、渡辺くんはボーカリストとしても山口くんよりも優れていたのではないかと個人的には思う。多少贔屓目もあるかもしれないが。当時のキラキラスタッフ松枝さんがかなり気に入って「早くしないと他でデビューしてしまいますよ」とか脅された。それで渋谷ラママまでライブを見にいって、「やろうぜ!」ということでCDリリースが決定した。
 後日アルバムジャケットを撮影するために幕張まで行って、1日中撮影をしていた。最終的にジャケットに使われた写真は海のあたりで撮影したのだが、途中で僕の三脚が海に落ちてしまうという事故が起こった。「ああっ」という僕の叫びで一瞬思い空気が流れたのだが、山口くんは「しょうがないっすね」って他人事のように言ってて、なんかとても切ない気持ちになったのが忘れられない。今思えば彼のキャラクターがもっとも出た瞬間だったなあと思う。もちろん事故は彼の責任じゃないし、カメラまで落ちなかったからいいんだけど。

Wednesday, October 20, 2010

20周年ベスト解説〜「はじまりの詩」ラヂカセライダース


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 2010年12月14日にキラキラレコードは20周年を迎える。自分でやってきたこの20年は、言葉の重みほどには長かったとは感じていない。だが先日の日経新聞によるとEMIグループ(すでに東芝EMIではない)が50周年、ワーナーミュージックが40周年だということだ。そう考えると、キラキラレコードの20周年も結構な歴史ではないかと思う。僕がビクターに入社した時、ワーナーはまだ20年経っていなかったということなのだから。

 ともかく、その日に20周年を記念した3枚組ベストアルバムをリリースすることになった。そこで今日から(基本的に)毎日、1曲ずつ紹介していきます。1日限定で楽曲をアップしていきますので、よろしければお聴き下さい。(曲は毎日変わります。次の解説ブログがアップすると、このページの楽曲も新しいものに変わってしまいますのでご了承下さい。)

01. 「はじまりの詩」ラヂカセライダース(2000年「冬の朝陽」KRCL-10010)
 大阪のバンド、ラヂカセライダースはデモがカッコ良かった。メロディーにもインパクトあったし、ボーカルもしゃがれたというか、クセのある声質で、一度聴いたら耳に残る、そういう感じだった。情熱を感じさせる楽曲とそのボーカルとがベストマッチで、将来に期待が出来るなと、そんな印象を強く持った。
 大阪のバンドなので気軽にコミュニケーションするというわけにもいかず、でも電話やメールでのやり取りだけというのとはちょっと違って、もっときちんと話をしたいと思った。それで大正九年が東京・大阪・名古屋でインストアライブツアーをやる際に、宿泊先のホテルに来てもらい、いろいろと話をしたりした。そこまで期待してたんだけれど、バンドの中での活動方針とかいろいろあったらしく、オムニバスに2曲参加しただけでキラキラレコードとの関係は終わってしまった。彼らはその後上京し、東京で活動したのだけれど、2年間でその活動に終止符を打つことになる。
 しかしその後老舗ライブハウスRUIDOでばったりギターの小澤くんと再開。渋谷や新宿の店で店長をやった後、大阪RUIDOオープンを機に大阪に戻った。バンドとしてではないが、今も大阪でのイベントに便宜を図ってもらったりと、交流が続いている。

Saturday, October 16, 2010

スニーカーズ、復活のワンマン at新宿LOFT



 スニーカーズは1998年にキラキラレコードのオフィスが西早稲田に移ってきた頃からの付き合いだ。だからもうかれこれ12年以上ということになる。当時新人発掘の一環として毎月ライブイベントを行っていた。そこに出演してくれていたのだ。リーゼントを決めてロカビリーを歌う。その姿は昔風にいうところの「不良」だ。実際はそういう外見を維持しながら仕事をしたりと社会生活を送るわけで、だから風当たりも強いのか、外見が不良っぽいバンドマンほど内面は腰が低くていいヤツというのがほとんどだ。スニーカーズのリーダー、コータローくんも喋ってみると実に好青年のナイスガイなのだ。

 しかしやはり12年前は今よりも尖っていて、少しばかり険悪になった局面も無かったわけではないが、概ねいい関係を続けさせてもらって、キラキラレコードからは1枚のオムニバス参加と2枚のアルバムをリリースしてくれた。3枚目からは別のレーベルに移ったし、そうなると普通は過去のCDはあまり売ろうとしなくなり、レーベルとの関係も疎遠になっていく。だが彼らはキラキラレコードを離れても過去の作品を大切にして売り続けてくれたし、だから商品のやり取りなどで常に連絡を取り合っていた。

 だが、そんなスニーカーズとの連絡もここ数年ほとんど無くなっていた。風の噂ではメンバーも脱退し、コータローくん一人でスニーカーズを名乗るというような状態になっているということだった。ライブも見ないし、本人とも会わない。そもそもライブを続けているかさえも僕には知る由もなかった。

 今年12月にキラキラレコードの20周年を迎える僕は、20周年記念のベストアルバムの編成に没頭していた。過去の約2500曲から3枚組のベストを作るのだ。物理的に入れられるのは80分×3枚で、計4時間。長いようだが2500曲からの4時間、結果的に56曲という選曲はかなり少ない。でもここにスニーカーズを入れないという選択肢は無かった。そういうわけでここしばらく、彼らの曲も何度と無く聴いていて、そんな矢先だった。スニーカーズのスタッフからメールが来たのは。「15日にワンマンライブをやります。オリジナルメンバーが揃っての復活なんです。是非お越し下さい。」もうこれは行くしかないだろう。スケジュール調整などやりくりしながら、10月15日、新宿LOFTに足を運んだのだった。

 結果から言おう。とても良かった。会場が満員とまではいかなかったものの、場内の観客はみんなスニーカーズが好きなんだなというのが手に取るように判る。キラキラレコードと出会って12年、彼ら自身は結成15年になるそうだ。ファンだってそれなりに歳を重ねている。MCで「ライブ来てねって連絡したら「妊娠しました」とか「子供がいるので」とかみんな言うんだよね〜」って言ってた。まあ当然だろう。そんな中これだけ来てくれただけでも、彼らがいかに愛されているかの証明なのではないだろうか。



 ファンだけではない。メンバーにもそれぞれの生活がある。いつまでも20歳前後と同じというわけにはいかない。リハしてライブ、仕事を懸命にやって、音楽活動にすべてを注ぎ込む。メンバー間の衝突は、真剣であればあるほど厳しいものになってくる。詳しい事情は判らないけれど、2007年の川崎クラブチッタでのライブを最後にオリジナルメンバーは袂を分かったそうだ。そして今回、いろいろな事情を乗り越えてオリジナルメンバーでの復活。全25曲、3時間超。僕もメンバーも観客のほとんどだってみんないい歳だ。長丁場のオールスタンディングライブで体力的に疲れないはずはないものの、少なくとも僕にはとても幸せな瞬間だった。最後の挨拶でドラムの米倉くんが「やっぱり、コータローですよ。コータローが僕をここに迎えてくれて、そしてこのライブでドラムが叩けて、幸せです」と。

 レーベルをやっていて思うのは、音楽のことを好きじゃないバンドマンが意外と多いということだ。もちろんやっている瞬間は好きなんだろう。自分こそアーチストだと思っているのだろう。だが、自称アーチストには誰でもなれるが、本当のアーチストにはなかなかなれない。アーチストの定義は人によって様々だろう。だから僕の考えとは違う人がいても不思議ではないが、僕はどういうのがアーチストだと考えているのかというと、2つのポイントがあると考えている。

 1つめは、お客のことをちゃんと考えているということ。考えるというのは理屈を持っているということでなくともいい。大切に思っているということでもいいのだ。では大切に思うとどうなるのか、どうあるべきか。まず、止めないこと。自分で自分の音楽や活動を否定しないこと。お客さんはその音楽や活動にお金を支払うのだ。自分たちの音楽に支払わなければ、もっと他のことに使うことも出来たはず。おいしいご飯を食べられただろうし、別のアーチストのCDを買えたかもしれない。それをやめて、自分の音楽にお金を支払っているのである。その行為に対して誠実にあるということは、要するにそのお客さんの判断を正しいものだったと証明する必要があるということだ。売れるという結果も、ひとつの証明になる。だが頑張れば必ず売れるというものでもない。いくら頑張っても売れないということだってある。それでも「自分たちの音楽はたいしたことなかったな」などとは決して言ってはいけないと思う。売れなかったら規模は小さくなるだろう。年に1回のライブでもいいし、極端にいえば自宅からのUst中継だって構わない。とにかく止めない、自分の音楽は素晴らしいと主張し続ける。それなら頑張れば出来ることだ。でもそれをやり続けるアーチストは意外に少ない。それは要するに、本物のアーチストは意外と少ないということの現れでもあると、僕は思う。

 2つめは、道標のような存在でいること。ただそこにいて、いるのが当たり前の状態になるということ。天性のアーチストなら、多分他のことなんて出来やしない。言ってみれば他に取り柄のない木偶の坊だ。だから人生を音楽に捧げる以外にないのである。流行ろうが流行るまいがだ。雨が降ろうと陽がカンカンに照ろうと、自分のアイデンティティが存在する場所にただ立ち尽くし、そこを動かない。動かないからそこが自分だけの場所になっていくし、唯一無二の存在になっていく。もちろんそこが繁華街の目抜き通りであることもあるだろうし、山奥の獣道であるかもしれない。目抜き通りの道標ならば多くの人の目に触れて役に立つだろうし、山奥の道標ならば誰も見向きもしないで時が過ぎるだろう。しかし、そこに居座り続けることでそこは自分の場所となる。そこより他がよく見えたりすることもあるだろう。だからといって居場所を転々としたなら、自分が誰なのかも判らなくなる。自分では判っているつもりでも、他人からは常に初対面の、誰でもない誰かでしかない。そういうものをリスナーは応援しない。応援したくとも出来ないのだ。

 スニーカーズとは、そういう2つのポイントをしっかりと押さえた、というか不器用だからそれしか出来ない、そういうバンドだと思う。だからいろいろと苦しい局面にもぶつかってきたはずだ。でも、そんな彼らの12年前とほとんど変わらないステージを見て、彼らのファンは幸せだなあと思った。なぜならファンで居続けることが可能だからだ。簡単に解散したりせずに、スニーカーズという看板をコータローくんは背負って生きている。袂を分かったかつてのメンバーと何故復活しようとするのか。分かれるには理由があったわけで、それを埋めるのは並大抵であるはずがない。一度離婚した相手と再び結婚するようなものだ。しないで済むならそれが楽に決まっている。だが、ずっと昔から応援してくれるファンにとってなにが嬉しいことなのかを考えたら、オリジナルメンバーが復活することがなによりである。だから、3年別れていたメンバーに連絡を取り、もう一度やろうよと頼んだのである。そのことで、昔からのファンたちは喜んだし、僕も懐かしい思い出を蘇らせながら、自分にとっての12年間の意義を感じることができたのである。

 僕のこのブログを読んでくれている多くの皆さんにとって、スニーカーズのことは特に何の思い出でもないはずだ。だから僕が感じていることをそのまま追体験することは難しいだろうし、僕もそれを期待したりはしていない。貼付けたYouTubeの映像も、「そんなに言うほどのバンドなの?」と思うかもしれない。でもそれでいいと思う。世の中には支持したことが後になって自分の宝になるようなバンド(それはバンドに限らないと思う)がいるし、スニーカーズは僕や昔からのファンにとっては確実にそういう価値あるバンドなのである。スニーカーズのことを知らない皆さんがスニーカーズのことを好きになるも良し、別に好きにならないも良し。それぞれが、自分にとって価値あるバンドに、既に出会っていればなによりだし、まだ出会ってないのであれば、今後そういうチャンスに恵まれればいいなと思う次第である。



YouTubeには3曲をアップさせてもらった。『Liberty』『恋のハッピーパレード』『I'm Seventeen She's Sixteen』の3曲。それぞれキラキラレコードでの1stアルバム、2ndアルバム、そしてオムニバスに収録した記念すべき初音源である。レーベル在籍の頃からは時間が経過したものの、この『I'm Seventeen She's Sixteen』を復活ライブの最後の曲に選んでもらって、少々誇らしい思いだった。