Saturday, February 16, 2013

Tくんのこと

 Tくんは、高校時代の友人だ。

 正確に言うと、高校時代の友人ではない。同じ高校に3年間通っていたというだけで、そのころにはほとんど面識がなかった。言葉を交わしたことが1度くらいあるだろうか、その程度の関係である。

 そのTくんと僕は昨年秋頃にfacebookでフレンドになった。facebookでは高校の友人とすぐにつながる。芋づる式に。当時から仲のよかった友人も、同じ高校に通っていただけでほぼ他人の同級生も。だが、申請されれば拒否するのもどうかと思う。だって、同級生だよ。同窓生だ。それだけでもフレンドの資格は十分じゃないか。申請されればOKする。で、時々紹介というのもある。それは僕に「こいつは同級生だからフレンドになってつながれよ」ということを示唆する行為だ。でもそれをフレンド申請と勘違いしてクリックすると、僕がフレンド申請をしたことになってしまう。オイオイと思ってももう取り返しがつかない。そいつからは「ああ、大島がおれに申請してきたんだな」という感じに映る。晴れてフレンドが1人増えるわけだが、気分は晴れないね。

 Tくんとはそうではなかった。高校時代に本当に仲のよかった友人がfacebookデビューし、僕のことを発見してフレンドになった。その彼と実際にあった時、彼は「やはり直接会わなきゃだめだ。Tとも今度会うことにしたんだよ」と言っていた。僕はTくんとはそんなに旧知の仲ではなかったけれど、「ああ、そう」などと相づちをうった。すると数週間後に「○○から大島くんと会ったと聞いたのでフレンド申請させてください」とリクエストがきた。なんか不思議な縁だなと思った。もちろん申請に応えた。その後は僕の投稿にも頻繁に「イイね」を押してくれるし、コメントもくれる。僕もTくんの投稿に積極的に絡んでいる。高校の時にはまったく付き合いがなかったけれど、今はすっかり友達気分だ。

 facebookでフレンドになっている多くの高校同級生とは、フレンドになったきり何の交流もない人も多い。それは、かつて高校時代に同じ場所に通っていたというだけの共通項があるだけで、フレンドと呼べるのだろうか甚だ疑問である。Tくんは、同級生であったけれども基本的には他人に等しい存在で、でも共通の友人がいるということで、今回直接の友人になった。正月に東京に行った際にも、共通の友人とTと僕と3人でメシを食った。普段からfacebook上で会話を交わしているからか、久しぶりに会うという気がまったくしなかった。

 僕はfacebookでもTwitterでも、まったく面識のない人と積極的にフレンドやフォロワーになる。実際に知っている人以外とは絡みたくないという人も多いようだが、僕はその考え方がよくわからない。だって、どんな友人も最初は他人なのだ。そういう人と何かのきっかけで知り合って、それほど深い付き合いにならないケースもあれば、一生の腐れ縁になることもある。学校でひとつのクラスに入れられるというのもそれと同じだろう。まったくの他人が、同じ地区に住んでいる同年齢というだけで1年間同じ教室に行くことになっただけのこと。それでも一生付き合っていく友人との出会いには十分なシチュエーションである。それがSNSで偶然に知り合ったということであっても、一生の付き合いに発展することはある。SNSで見知らぬ人とは絡まないと決めるというのは、そんな人たちとの一生の付き合いを自ら放棄するようなものだと思う。

 僕は、facebookで高校の友人とどんどんフレンドになっていくことが今でも嫌いだ。なぜなら、それは単に同級生だったということの確認に過ぎないことが多いからだ。付き合いが現在進行形で深まっていかないのであれば、それは過去の同級生というだけで、友人とはもはや言えまい。フレンドリクエストというのは、フレンドになろう、フレンドであり続けようということの意思表示なのではないだろうか。まったく新しい見知らぬ人との出会いは、学校で同じクラスになるのと同じようなもので、だからそこから急速に仲良くなる場合もあれば、結局疎遠なままでフェイドアウトする場合もある。フェイドアウトの可能性があるからといって、親友になる可能性がゼロというわけではない。だとすれば、親友になる可能性を僕は選びたいし、だから積極的に見知らぬ人とも絡んでいきたいと思う。しかし、高校の同級生という苔の生えたような関係性だけで、30年近く疎遠だった関係がここから復旧するだろうか。それはなかなか難しい。もちろんそれを完全に否定するつもりもないし、閉鎖的なヤツとも思われたくないのでリクエストされれば応じるが、だが3年間同じ所に通い詰めて、それで進展しなかった関係がネット上のやり取りで急に進展するような気はほとんどしないし、実際にほとんどのケースで、関係性はまったく進展していない。

 僕は、Tくんとの出会いは高校の同級生だったからというものでは無いと感じている。それは共通の友人○○から紹介された新たな友人という位置づけだ。たまたま同じ高校を同じ時に卒業していたというだけの他人同士が、○○を通じて引き合わされた。そう考えるととても面白い出会いだったし、これからどんどん仲良くなっていけそうな気がしている。そういう出会いをすることができたというのも、facebookの効能のひとつなんだろうと思う。

Monday, February 11, 2013

フレンド

 友あり遠方より来る。

 一昨日は、高校時代の友人がやって来て、2人で大原の三千院に行った。
京都大原三千院、恋に疲れた女が一人~
ではなくて、仕事に疲れたオッサンが2人~である。楽しかったなあ。

 彼は東京時代のキラキラレコードから徒歩数分のところに住んでいる。それなのに東京時代には20年くらい会わなかった。なんか、きっかけがなかったのだろう。いつでも会えるは、また今度でいいやと同義語である。

 それに較べて、東京から京都は遠い。せっかく関西まで来たのだからついでに会いに行くかとなるのかもしれない。それはそうだ。東京在住の人が「高田馬場にきたからついでに会いに行くか」なんて言ってたら年間何回会いに来ることになるのか。だからみんな来ない。結局年に一度さえも来ない。

 その点、繰り返しになるが京都は遠い。だから別件で来たらついでに会いに行くかとなる。しかも京都には別件となる理由が多い。観光でも仕事でも来る理由に溢れている。どちらがついでなのかは判らないが、いずれであっても、訪ねてくれるのは嬉しいことだ。

 最近はSNSが流行りで、それは人間関係をバーチャルにするとか、だから健全ではないとか、言う人も多い。そういう面もあるだろう。だが、一方で人間関係を密にする効果もあるんだろうと思う。実際に昨日来た友人も、Facebookでこの半年ほどやり取りを続けるようになったのが急速に旧交を温めるきっかけだった。SNSでやり取りをすることで、実際に会う機会が生まれる。もちろんそこまでに至らない関係もたくさんある。しかし、僕の場合は確実にSNSが実際の交流に繋がっていると思えるのだ。

 SNSは単なるきっかけにすぎない。それはリアルの出会いでも同じこと。学校で同じように40人のクラスに放り込まれても、大半の同級生と友達になる人もいれば、無口で誰とも親しくならない人もいる。SNSもそうだ。積極的に発言し、他人の発言にも絡んでいけば知り合いも増えるし、なんの発言もしなければ孤独なままだ。僕は、積極的に発言するぞ。だってその方が楽しいもの。

 何の話だったっけ、ああそうだ、友人が遊びにやってきたということだった。

 こんなブログを読んでいただいている人は、面識のない方が大半だろうけれども、中には面識があって読んでくれている知己もいるだろう。mixiみたいに足跡はつかないし、facebookのイイねやTwitterのお気に入りなんて機能もないし、そもそも読んでることを覚られたくないという人もいるだろう。そういう人は、別に読んでるなんて宣言していただく必要もないけど、まあたまには重い腰を上げて京都にふらりと訪ねてきてもらえればと思う。そして「近くまで来たから」とか「どこかステキなカフェはないかな」とか言ってきてもらえればと思う。そしたら2年足らずの経験からなんとか絞り出してステキなカフェを紹介するだろう。そして万難を排してカフェにお供するだろう。抹茶を飲めるお寺にだって案内するぞ。抹茶のたて方を教えてくれるカフェだって、お喋りするのが憚られるような読書カフェだって案内しちゃうぞ。

 まあそれはともかく、友が訪ねてくるというのはとてもいいものだ(もちろん面識のない方が訪ねてくれるのもいいものだ。そこから親友にだってなれるもの)。京都に来て、わざわざ訪ねてくれるヤツがいるのはとても嬉しい。そいつは本当に友達だなって思えるもの。いや、まだ訪ねてきていない人が友達じゃないって言ってるわけではないのだけれど。