Saturday, May 30, 2009

ポメラ


 最近やたらとテレビで宣伝しているのを見る。昨年暮れに発売して、当初は3万台が目標とか言っていたのに、今では将来的には100万台を目指すって、目標を上方修正。小さな規模の会社はこういうところが面白い。いや、キングジムってそんなに小さな会社ではないかもしれないけれど。少なくともキラキラレコードとは比べ物にならない。

 このポメラ、実に面白いと思うな。僕は比較的頻繁にノートパソコンを家に持って帰っている。それは思いついた時に文章を書きたいからだ。だが、実際にはそんなに思いつかない。キーボードに向かって「さあ書こう」とか思わなければなかなか書こうという気にはならない。奥さんが仕事に急がしそうにしていたとしても、テレビを見たり本を読んだりと、それだけでけっこう忙しい。ノートパソコンはそれなりに重量があり、リュックに入れて帰るのはそれなりに苦行なのだ。日によっては「もう今日は手ぶらで帰ろう、本だけでいいじゃん」とか思って置いて帰ることもある。だが、そういう時に限って、何か書いておきたいことが浮かぶのである。かといって手元に入力機材は無し。携帯で打ち込むのは面倒だ。ノートに書いて後から入力というのもなんか違う。それで躊躇しているうちに、浮かんだアイディアはすとんと消えていってしまうのだ。

 ポメラがあれば、そんなこともないのだろう。電子辞書を常に入れているように、ポメラを入れておけばいい。それでいざという時に開いて打ち込めばいいのだ。そして後からパソコンにつないで、コピペでブログにアップなんて、いいじゃないか。

 問題は、その「いざという時」のためだけにお金を払えるのはどのくらいの金額までなのかということである。3万円をちょっと切った値段のこの商品、実に微妙だなと思う。これなら携帯電話につなぐ折りたたみキーボードとどちらがいいのかとか思うし、下手するとキーボードと携帯を両方買ってもおつり来るかもとか、選択肢は沢山あるような気がしてならない。i-Phoneでもいいかもしれないし。

 だが、iPhoneの入力機能は使い勝手悪いし、それなら普通の携帯電話の方がいいだろうし、リュウドが出している(いた?)携帯用折り畳みキーボードは所詮外部機器でしかなくて、本体を買い替えた時にそのまま使える保証などない。しかしこのポメラなら、microSDを読み込む機能があるパソコンだったら基本的に大丈夫だし、メーカーは保証していないが、MacでもUSB接続で普通に外部ストレージとして読み込んでくれるらしい。つまり今後これが接続の問題で使えなくなるようなことはほとんどないと思って間違いないだろう。

 思えば、10年以上前だったか、各社が出しているノートパソコンがお世辞にも持ち運びに向いているとは言えず、だからモバイル機を探して探して、Mac派なのにWindowsCSを搭載した簡易マシンをいろいろ物色したりしていた。松井秀喜が宣伝していた富士通のマシンとかあったな。一応電話回線でネットに接続とか出来たので、海外からもそれを使ってメールを送ったりしていたのを思い出す。それでも軽く10万円以上していたりしたのだが、多分機能としてはこのポメラとそんなに変わらないだろう。必要な機能(文章をうてる)だけに特化しているという点では、こっちの方が遥かに使えるのではないかとか、買っていない現時点では想像が膨らんだりする。それを考えると、3万円しない金額というのは、もしかするとすごくお買い得なのかもしれない。

 そう思ってネットで見てみた。すると値段は15000円台からあるのだな。amazonでもそれなりに安い。うーん、買おうかな、どうしようかな。家ではブログとか書かないで読書に勤しむというのも選択肢だなあ。

ポメラ


 最近やたらとテレビで宣伝しているのを見る。昨年暮れに発売して、当初は3万台が目標とか言っていたのに、今では将来的には100万台を目指すって、目標を上方修正。小さな規模の会社はこういうところが面白い。いや、キングジムってそんなに小さな会社ではないかもしれないけれど。少なくともキラキラレコードとは比べ物にならない。

 このポメラ、実に面白いと思うな。僕は比較的頻繁にノートパソコンを家に持って帰っている。それは思いついた時に文章を書きたいからだ。だが、実際にはそんなに思いつかない。キーボードに向かって「さあ書こう」とか思わなければなかなか書こうという気にはならない。奥さんが仕事に急がしそうにしていたとしても、テレビを見たり本を読んだりと、それだけでけっこう忙しい。ノートパソコンはそれなりに重量があり、リュックに入れて帰るのはそれなりに苦行なのだ。日によっては「もう今日は手ぶらで帰ろう、本だけでいいじゃん」とか思って置いて帰ることもある。だが、そういう時に限って、何か書いておきたいことが浮かぶのである。かといって手元に入力機材は無し。携帯で打ち込むのは面倒だ。ノートに書いて後から入力というのもなんか違う。それで躊躇しているうちに、浮かんだアイディアはすとんと消えていってしまうのだ。

 ポメラがあれば、そんなこともないのだろう。電子辞書を常に入れているように、ポメラを入れておけばいい。それでいざという時に開いて打ち込めばいいのだ。そして後からパソコンにつないで、コピペでブログにアップなんて、いいじゃないか。

 問題は、その「いざという時」のためだけにお金を払えるのはどのくらいの金額までなのかということである。3万円をちょっと切った値段のこの商品、実に微妙だなと思う。これなら携帯電話につなぐ折りたたみキーボードとどちらがいいのかとか思うし、下手するとキーボードと携帯を両方買ってもおつり来るかもとか、選択肢は沢山あるような気がしてならない。i-Phoneでもいいかもしれないし。

 だが、iPhoneの入力機能は使い勝手悪いし、それなら普通の携帯電話の方がいいだろうし、リュウドが出している(いた?)携帯用折り畳みキーボードは所詮外部機器でしかなくて、本体を買い替えた時にそのまま使える保証などない。しかしこのポメラなら、microSDを読み込む機能があるパソコンだったら基本的に大丈夫だし、メーカーは保証していないが、MacでもUSB接続で普通に外部ストレージとして読み込んでくれるらしい。つまり今後これが接続の問題で使えなくなるようなことはほとんどないと思って間違いないだろう。

 思えば、10年以上前だったか、各社が出しているノートパソコンがお世辞にも持ち運びに向いているとは言えず、だからモバイル機を探して探して、Mac派なのにWindowsCSを搭載した簡易マシンをいろいろ物色したりしていた。松井秀喜が宣伝していた富士通のマシンとかあったな。一応電話回線でネットに接続とか出来たので、海外からもそれを使ってメールを送ったりしていたのを思い出す。それでも軽く10万円以上していたりしたのだが、多分機能としてはこのポメラとそんなに変わらないだろう。必要な機能(文章をうてる)だけに特化しているという点では、こっちの方が遥かに使えるのではないかとか、買っていない現時点では想像が膨らんだりする。それを考えると、3万円しない金額というのは、もしかするとすごくお買い得なのかもしれない。

 そう思ってネットで見てみた。すると値段は15000円台からあるのだな。amazonでもそれなりに安い。うーん、買おうかな、どうしようかな。家ではブログとか書かないで読書に勤しむというのも選択肢だなあ。

Friday, May 29, 2009

インフル被害

 神戸では安心宣言が出された。安心ってなによ、と思う。成田での水際検疫の時も仰々しいなあと思ったし、それで大して効果はないぞ、すぐに国内感染は広がるぞと思った。

 それで案の定ガンガン広がった。エキセントリックなパフォーマンスは「そんなにひどい病気なんだ」というイメージを振りまき、感染者に対してイジメにも似た過剰な反応が起きたひとつの原因にもなったと思う。つまり感染拡大防止効果のほども疑問だし、それによって生まれる風評被害を拡大させたという意味でも疑問の対応だったと思うのである。

 今回の安心宣言にも、安心できる根拠というものがそれほど感じられない。初めて感染者が出てから数日はかなりの人数で発症者が出たが、その後は数も少なくなってきて、この数日は0人の日も多いんだということが安心の理由ということだが、じゃあ成田で最初の感染者が出た時に何日間隔離したんだということ、万全を考えて潜伏期間以上の日数を成田周辺のホテルに隔離して、家族も窓越しにメモでやり取りしなきゃいけないようなことを強いていたのはなんだったんだとか、思うのである。

 しかし、今回の安心宣言には、根拠はなくとも意味はあると思う。それは、今回のインフル騒動で何が起ころうとしているのかということである。関西地区の経済被害はとても大きかった。商売は日々の資金繰りが生命線で、その中で予定していた売り上げが数日無くなってしまうということは即倒産につながってしまう。そうなってしまうと、そのおかげで自殺に追い込まれる人だって出てくるだろう。経営者もそうだし、失業する従業員だってそうだ。今回のインフルが弱毒性であり、国内の死亡者が皆無だということに較べると、経済混乱を理由とした死亡者が出る可能性の方が高いといえるし、そのバランスを考えて、無理矢理の安心宣言なのだろう。それはとても意味があることだと思うのである。

 もちろん、高齢者や高血圧とか糖尿病などの持病があって、感染すると重症化する危険性を持っている人やその家族などからすると、この安心宣言によって人間の動きが活発となり、自分が感染する危険性が高まるということを意味しているので、もっともっと慎重になって、安心宣言などまだまだ出さないで欲しいという声があったとしても不思議はない。だがそれも結局は、隔離や学校閉鎖などの効果も100%ではないのと同じで、完璧な対応策などは、それこそ戒厳令などを敷く以外にはありえない。それで慎重になって行くことで別の危険性が生まれるということになるのであれば、市長としては、ある程度の危険を覚悟してでも安心宣言を出す必要があったんだろうなと、その立場や心情はとても理解できるのである。


 それと時を同じくして、現役厚労省の検疫官が「今回の成田での水際検疫はパフォーマンスに過ぎない」などと疑問を呈したというニュースもある。この人の態度はどうなんだろうかと思う。ネットでも賛否両論あって、「勇気がある」とか「厚労省で唯一の希望の光」というようなものから「この人は感染症の知識が皆無だ」というようなものまで、見ていて面白い。この人の思想とか態度とか価値観とか、そういういろいろなものは彼女特有のものであり、それはそれで尊重されるべきだと思う。だが、なんか違和感を感じるのである。

 僕がそう感じるのは、基本的に彼女がまだ厚労省職員であるということが理由なんだろうと思う。言うなら外に出て言えば良いと思うのである。元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏は最近メディアで引っ張りだこだが、彼がまだ自衛隊に属している間はやはり彼の発言には違和感を感じていた。なぜなら彼が組織に属して給料をもらいながらも批判をその組織に向けていたからである。一般の会社でもそうだが、国家公務員は特に自らの意見を組織の論理に優越させてはいけない。それが許されたら国家機能はストップしてしまう。どんな政策もアイディアも完璧なものなどないのであって、だから文句をつけようとすればいくらでもつけられるのである。今回の空港検疫がパフォーマンスかどうかの論議は別として、その職にあるものは大臣をはじめとしたトップが決めた政策の実行については絶対として動かなければダメなのだ。現在官僚の天下りが批判されていて、政治の側が頑張ってそれを阻止しようとしているのに一向に止まらないのは、結局国家公務員が政治家の方針に反対しているからなのだと思うが、今回の厚労省職員の疑問表明を是とするならば、田母神氏も自衛隊を辞める必要などなかったということになるし、官僚の天下りも全部OKということになるだろう。彼女の意見を民間人が「確かにパフォーマンスだよね」と同意するのは構わない。それはそれで単なる議論だし意見表明だ。その自由は日本国民に保証されている。問題の木村氏にもその自由はあるのか。当然ある。だが、木村氏がその自由を発揮するのであれば、国家公務員でないという立場にならなければならないはずだし、そうでなければ説得力もなく、単なる新橋飲み屋のサラリーマンの愚痴大会となんら変わらない、無価値な発言に過ぎないと思う。

Thursday, May 28, 2009

党首討論

 いやあ、馬鹿げている。2大政党が15年ほどの時を経てようやく目の前というところまで来ながら、このバカらしさ加減はどうなんだろうか。

 麻生さんは低レベルなワイドショーと同じような追求(しかもその低レベルなワイドショーさえももはや話題として取り上げようとしていない)しかしないし、人の悪口、揚げ足取りしかしようとしない。一方で鳩山さんは友愛社会を築きたいという抽象論でしか未来を語れず。この2人の討論で盛り上がるわけがないと思った。

 党首討論が行われた夜のテレビでは、久米宏の番組に田原総一郎がゲスト出演。いやあ、これは面白かった。一級かどうかは別としても、テレビマンと政治家の喋りの面白さというものが同じ土俵ではないことはわかる。しかしこの稀代のテレビマン対決と2大政党の党首同士の対決との間にこれほどまでも面白さの差があるのかというのは、ちょっとびっくりする。

 だが、僕らは党首討論に面白さを望んではいけないのだ。まずは2大政党での政権交代があるかもしれないという可能性を感じられる状況があるという事実を喜ばなければいけない。交代の危機感があるから第一党の党首が当日の全国新聞で全面広告をうって第二党の政策バッシングという形振り構わずの必死さを見せているのだ。そういう必死さにある人は、本当は公の場での対立なんてしたくないにも関わらず、こうやって党首討論という場が制度として設けられているが故にこうして僕らはそれを見ることが出来るという機会を喜ばなければいけない。

 見るものがエンターテイメントであるかどうかは二の次なのだ。そう、国立公園に設置されたウェブカメラをリアルタイムで見ているようなもので、たまたま動物が現れてくれれば面白くもなるだろうが、木々や野山がただそこに横たわっているだけの映像しか映らないのが普通の状態なのである。画面が動かなくて面白くないからウェブカメラを撤去してしまえというのは間違っている。同じように、党首討論も面白くないのが普通だと考えればいいのかもしれない。毎回毎回面白くない討論(?)が繰り広げられて、みんな飽き飽きしているような時に、ふと面白い論戦が起きることを期待するだけだ。面白くなくとも、その機会が設けられているという事実に感謝してみたい。そのくらい、今日の討論は面白くなかった。

Monday, May 25, 2009

消されたヘッドライン


 ラッセルクロウ主演のクライムサスペンス。クライムサスペンスは普通警察組織が犯人を追うのだが、この作品は新聞記者が真実を追うスタイルで、時に警察とも対立したりするし、取材対象の巨悪が新聞社のオーナーだったりして、思うに任せない追跡環境の中、独自の経験と嗅覚で追いつめていくというところが興味深いところだ。

 全体的に隙がなく、詰まった映画という印象。それは天使と悪魔(後日触れます)のような過度にストーリーを詰め込み過ぎたという意味ではなく、息をつかせぬという意味で、詰まった映画という好印象である。とても面白かった。だが、それだけでは単なる謎解きになるだろう。そうならずに観られたのは、人間模様も十二分に描かれていたからではないだろうか。その中でも僕が面白いなと思ったのは新米女性記者デラフライの成長の過程だ。ウェブ版にコラムを書いていただけの彼女は、コラムのネタが欲しくてカルに話しかけるが、あっさりとかわされてしまう。そのため取材に基づかないコラムを書いてしまい、それが元でカルは彼女に取材を強いるようになる。この過程でカルは彼女を振り回すのだが、勝ち気で野心があるデラとしてはそのやり方が面白くないのだろう、反発をしていく訳だが、カルは意にも介さずに自分のやり方を押し通していく。だがそれはそうする以外にはないギリギリの取材であり、そのことにデラも気付いていく。その過程がとても面白いのだ。

 大手新聞社の社員というのは、一般的に見ればエリートそのものだ。だがこのエリートというものは困ったもので、仕事の結果でエリートになったのであればいいのだろうが、そのポジションがエリートであることが確立したところに就職した人は、中身がまるで出来ていないにも関わらずエリートという立場を享受してしまう。それが勘違いにもなるし、誤った個人主義にも陥る元になる。誤った個人主義というのは社内立身出世につながり、仕事は自分のためという感覚になりやすい。本来はいい仕事をして、結果として自分の評価につながるのだが、自分の評価を目指して仕事をするようになると、他人のいい仕事の上に自分のポイントを稼ぐようになる。僕も実際短い会社勤めの間にそういう体験をしたことがある。先輩が僕の努力でようやくセッティングできたミーティングに出て、いいところを全部持っていかれたことがある。その時はとても悔しい思いをしたのだが、その思いは自分もそういう誤った個人主義に陥ろうとしていたんだなという反省を今ではするが、同時に現在の自分の立場からすると、どちらかというと先輩という立場に立つべきであり、その立場で正しい仕事、そして部下の育成に当たってはどのような態度を取るべきかということについて、教えられるような気がしたのだ。それはつまり、自分だけでは大きな仕事をすることは出来ず、そのためにチームがあるということをきちんと理解するならば、立場が上とか下とかいうことはどうでもいいことで、すべてのチームメイトが能力を発揮できるような環境を整備することが、先輩や上司という立場にある人間にとって大切なのである。

 この映画で問題となっている事件を追及するための取材チームが組まれるわけだが、そこに招集されているのは、見た目だけではとてもエリートとは思えない人間たちばかりで、一種落ちこぼれ集団のような印象なのだが、それぞれがいい仕事をこなしていく。でもそれが本当のエリートというものなんじゃないかとか思ったし、そういう仕事師にデラフライは育てられようとしているのだなということもちょっとだけ思った。いやそれはあくまで結果としてそうなるというだけのものでしかないのだろうけれども。

Sunday, May 24, 2009

グラントリノ


 今月の初めに観た。忙しくてしばらく書けなかったが、これはとてもいい映画だ。

 アメリカという他民族国家において、歴史における優位者と新興の者。この対比が美しく描かれているように思う。その象徴が主人公が持っているグラントリノだ。かつてフォードに勤めていた主人公は古い家に独り住んでいる。子供たちは独立して出て行き、周囲はアジア系の住民ばかりが集まるエリアと化している。時代は変化する。その変化が気に入らない。勝手な理屈で親に接する子供が気に入らない。古き良きアメリカを浸食する新興アジア系住民が気に入らない。だが、変化を止めることは出来ないのだ。

 だが、その見方が間違っているということに主人公は気がつき始める。間違っているのは時代の変化ではない。古いものがよくて新しいものがダメだという思い込みが間違っているのだ。それを気付かせてくれたのが隣人のアジア系住民であり、彼らとの交流に心を開いていく様がコミカルでとても面白い。

 だが映画だからか幸せだけが永遠に続くことも無く、トラブルが起こり、それに立ち向かう。最後は息をのむ展開だ。

 この映画には、誇りが描かれていると思った。たくさんのものを持っていても誇りを持たずに生きている人や、何も持っていないけれども誇りだけは失っていない人。いや、それは違うな。きっと誰もが誇りの意識は持っているのだ。ただ、その誇りを何に持てばいいのかが判らずに過ごしている人が沢山いるのだろうと思う。クリントイーストウッド演じる主人公コワルスキーも、最初はグラントリノをその誇りの象徴としていた。だがそれは誇りではなく固執である。それがやがて誇りとなり、自分自身こそが誇りそのものと昇華していく過程が描かれている。

 最後の方のシーンで隣人のモン族一家が正式な民族衣装を身にまとって家を出てくる場面がある。これには泣けた。凛とした人の、背筋が伸びた生き方を見たような気がした。そういう風に自分も生きていきたいと思った。

Saturday, May 23, 2009

PB:首を絞める向上心

 最近の日経新聞のトップ記事に複数回「PB」という文字を見た。PBとはプライベートブランドの略だ。

 そういえば確かに最近のコンビニではPB商品が目立つようになってきた。お菓子とか、ドリンク類などではもうほとんどのコンビニでPB商品が並んでいる。しかもこれ、お店の中でももっともいい場所を占めているのだ。これ、僕はなんか恐ろしいことだなあと思うのである。なぜなら、コンビニは流通業であり、製造業ではない。しかしPB商品を展開するということは明らかに製造業の領域に手を突っ込んでいることなのだ。

 本来は流通業と製造業は共生する関係である。製造業がいい商品を作り供給することで、流通も売り上げを伸ばすことが出来る。もちろん現場では両者の力関係で立場の優劣がバランスを変えることはある。小さなお店には仕入れの値引きもあまりないし、売れ筋の商品はあまり回してもらえないこともある。一方で販売量の大きな大規模店やチェーン店では、優先的に商品を回してもらったり販促グッズをもらえたり販売応援があったりリベートをもらったりすることもある。それが流通業者同士の不公平につながるという問題はあったとしても、だからこそ小さな店は商売を大きくしようと思うのだろうし、大きくなれば同じような優遇を受けられるようになるわけで、総じて言えばやはり流通業と製造業は共生の関係であり、駆け引きはしても争いはしないのが、原則である。

 しかしこのPBというのは、流通業が製造に手を出すというものであって、店内のいい棚を取り合うという意味で、流通業そのものとの戦いを意味する。それまでの関係性とはまったく違う次元の局面に突入するということに他ならない。PBのお菓子コーナーは、それまでは別の製造業の商品が並んでいた。しかしPBが出てくることによって優先的にその棚を押さえてしまい、それまでその棚にあった商品は閉め出しを食うのだから、当然売り上げは落ちる。まさにPBが一般製造業者のシェアを奪うということが起こっているのである。

 これは結局製造業の力を奪い、新製品開発の力を削ぐ。そうすると「いい商品」が出てこないことになるわけで、魅力的な商品がないお店に人は行かないし、行っても物を買おうと思わなくなる。製造業者がライバル他社のシェアを奪って叩きつぶすというのはいいのだ。それはいい商品を作るということであり、それによって全国的な販売が増えれば経済は活性化する。その競争に敗れる会社には商品開発力や営業力が欠けているという問題があるわけで、力のない企業は消えていくというのは経済の原則であり、その競争をするのは厳しいけれども意味があることだ。しかし流通業、しかも社会的な影響力の強いコンビニチェーンなどでのPBというのは、その商品が他の一般製造業の商品と同じ土俵に乗っていないという意味で、そんな商品によって一般製造業者の商品が叩きつぶされるというのは大きな問題なのだと思う。それが良い商品であろうと良くない商品であろうと、そこに並ぶのは決まっているのだ。普通はいい商品にするために宣伝とか営業の努力が必要となるし、そのために当然経費をかける必要がある。しかしPB商品にはその部分の努力が全くないから、そのコストの違いが価格に反映して安くなる。PBを開発している人たちはそれでも「商品には自信がある」と言うだろう。しかしその商品が関連チェーン以外では販売されていないという事実が、その商品に価値がない、あるいは同じ土俵で勝負していないということの証拠であり、もしも商品として価値があるなら、他のお店からも「それを売りたい」ということになるはずだ。

 僕はこれはある種の談合のようなものだと思う。公共事業を特定の業者に順番に割り振りすることが談合であり、それを実施するためには一般公開入札にしないとか、予定価格を事前に入手するということが必要になってくるわけで、だから贈収賄という犯罪が必要条件になってきて、だから悪いことだと言われるしされている。もちろんその談合で予定価格目一杯の発注を実現することで、国民の血税を特定の業者が食い物にするということもひとつの犯罪性となるわけだが、それは同時に、多くの業者の間で競争するということが起き難くなり、それが日本全体の発展を阻害するというポイントこそが、大きな許しがたい点なのだろうと思う。

 同様に、PBというのは競争の質をゆがめるということで、真っ当な社会競争を阻害していることになってしまうのである。それは製造業者の素晴らしい商品を供給してもらうことによって販売を伸ばし、今日の大きな販売インフラとしての地位を確立してきた流通業にとって、活動のもっとも基盤となる供給サイドの首を絞めることで、結局は自らの首を絞めている行為に他ならない。要するに自殺行為でもあると思うのだ。

 こういうことになっている背景としては、やはり企業の業績拡大神話というか、拡大への飽くなき追求というものがあると思われる。やはり企業である以上売り上げアップは至上命題だ。小さいよりは大きい方がいい。しかし、売上が下がることだって当然あるということも認められて然るべきで、そうなった時に過剰に批判にさらされてしまうという傾向が非常に強いという現状があるのだ。実際にほとんどの企業は銀行からの借り入れや、株式公開による資金だったり、社債発行などでの資金もある。こういうものは売り上げによる手元の現金などとは違い、他者からのお金ということなので、そういった出資者の満足や安心を得るためにも、前年度からの業績マイナスだったり、赤字などは厳禁であって、そういうことが起きると出資者の資金引き上げの要因となってしまう。だから必要以上に業績拡大を求めることになるわけだが、じゃあそんなに業績は毎年上がるかというと、僕はそんなことは妄想に過ぎないと思うのである。なぜなら、需要は国内に限って言えば人口は減少しているのであって、人口が減れば総需要は落ちて当然である。世界的な景気の波にも影響を受けるし、そうなってくると前年と同じ努力をしていても、前年と同じではなくマイナスになることは当然である。前年に空前の拡大をしてしまったらその業績が基準となった次の年は、空前の業績と同じだけの結果を出してもプラスとは言えなくて、だから評価は下がってしまったりする。

 じゃあどうするかというと、コンビニなどは店舗数を増やすことで業績を上げてきた側面がある。1店舗あたりの売り上げが落ちても、店数が増えれば全体の売り上げは上がったりする。だがそれもやがて飽和状態になり、これ以上店舗数を増やすことは難しいということになってくる。そうなってくると、他の手法で業績を上げる必要があるのだが、じゃあどうするか。そのひとつの答えがPBなのだろうと思う。つまり、これまで商品を供給してきた製造業者に、その営業や宣伝にかけるコストやそこの社員の取り分を含めた「製造業が本来受けて然るべき利益」を流通業が奪うということである。そういう動きは、商品を供給してきた製造業を疲弊させることになるし、最終的には我々消費者も不利益を被ることにつながる。しかしそれでも僕らはPB商品がちょっと安かったりすると買ってしまうし、製造業の営業担当の人も、真っ向から反対して喧嘩してしまうと、かろうじて残っている自分たち向けの棚さえも無くなってしまう恐れがあるから何も言えない。でもそんなことは本当はいけないことなんじゃないかなあと思うのだがどうだろうか。

 PBのように不公平な競争をして業績を拡大するという手法にもやがて限界は来るだろう。なぜなら人口は減って需要そのものは全体的に下降するのであり、そういう条件を抱えた市場の中で業績を右肩上がりにしていくことが要求されるのだから。そうなると次の新たな方法が要求される。それが合併吸収である。流通業同士の過当競争から、敗北するコンビニが出てくるだろうし、その時に一方の勝ち組コンビニが負け組を買収して吸収するということだ。実際に今ampmが売りに出されていて、ローソンが買収するような話が出ていたものの条件が合わず白紙に戻ったとか言われている。かつて沢山あった都市銀行がどんどん合併して4グループくらいに集約されてしまったのもその一環だろう。それは保険業界なんかもまったく同じ状況だし、車業界でも古いメーカーがどんどん巨大メーカーに買収されていったりしている。もちろんこれはそう単純な話ではないし、他の要因もたくさん絡み合ってそういう結果になっているわけだが、基本的に「業績を前年比で拡大していかなければならない」という「常識」のもと、普通に営むということが難しくなっているような気がしてならないのだ。そうやってどんどんと業界の境界線を越えた戦いおよび吸収合併が繰り返されることによって、僕らは巨大な企業体だけしか残らないという時代に向かっているのではないだろうかと思う。そうなってくると個人が新しい試みで企業を興すということはますます難しくなっていくだろう。個人商店が郊外型巨大ショッピングセンターに淘汰され、商店主だった人が廃業してショッピングセンターでパートで働くようなことが経済の様々な場面で起こっているのが現在の日本の状況なのだろうと思う。だから希望が持ち難い時代だと言われるのだろうと思う。そのひとつの現れがコンビニのPB商品展開なのであり、それを強いているのが「前年比アップ」というお題目なのだと思ったりしたのだ。

Friday, May 15, 2009

街頭演説会


 夕方、有楽町マリオン前で民主党の代表選候補者による街頭演説が行われた。4年前の夏、小泉首相の演説を見ようと思い、福岡の候補者山崎拓の応援演説に来たのを見に行ったことがある。やはり生で見るのはテレビとはまったく違うなということをその時に感じたのだが、だから今回も見ておきたいと思った。もちろん現時点では両者とも総理候補というには関門がまだまだあるわけだが、それでももっとも近い2人と言っても過言ではないし、その両者のどちらがいいのかなんて、本当のことはわからない。どちらが誰の支持を受けていてとか、数の上ではどちらで、地方組織の応援はどうとか、マスコミから聞こえてくるのは専ら権謀術策的な数合わせであり、それに対して若いとかまじめとかいう程度の反論があるだけである。そんなのは実はどうでもいいことだし、そもそもそういう政治になってはいけないと日頃言っているジャーナリストたちが、そういうことばかり蒸し返す。もしも1人しか立候補しなかったら「話し合いで密室だ」とか言っただろうし、2人立候補することになったら「挙党一致が崩れている、まとまっていない」とか言っている。そんなことを聞いても、本当はどっちがいいのかなんてまったくわからない。

 だから、直接この目で見たいと思った。ちょうど今日は夕刻に約束もなく、ネットで調べて有楽町へ。5時からの予定時刻に到着すると、議員さんがマイクを握っていた。今日の段取りを話していたわけだが、岡田・鳩山両氏の応援として長妻昭と原口一博が演説を、そして岡田・鳩山の両候補が演説するということだった。

 それで、全部の演説をみて思ったのは、両氏ともそんなに違いはないということだ。どちらも政権交代を望み、それが第一だと言っている。人柄もそんなに変わらないのだろう。そんな中で、僕は誰が演説がうまいのかということに着目した。みんなそれなりにうまい中、印象がダントツだったのはやはり長妻昭だと感じたのである。何故か? 演説は屋根の上に演説スペースが設置されたワゴン車で行われたのだが、今回の場所はマリオンと高速道路の間の細い道の脇で、四方を観衆に囲まれる状態になっていたのだった。もちろんマリオン前のスペースが一番広く、その方向に人ももっとも多く、テレビカメラもずらりと並んでいた。必然的にそちらがメインとなるわけだが、長妻氏はメインと反対のスペースにもまんべんなく振り向き、手振りを入れながら演説をしていた。なぜ民主党が政権を取らなければならないのかということにも年金を中心とした具体例を挙げ、共感を得るような話をしていた。話の内容は他の議員もそれなりに具体性を持っていて共感を得ていたと思うが、メインと反対の方向を演説中に見ていたのは長妻氏ただ1人だったのである。メインと逆側にいる人も話を聞きたいのである。話している顔を見たいのである。自分たちがメインじゃない方にいるんだということは判っている。だからずっとこちらを見てもらいたいなんて思ってはいないはずだが、それでも1回でも見てもらいたいとは思っているはずだし、今回のように他の3人が演説中に1度も見なかった中で、長妻氏だけが1度じゃなく3〜4度振り向いてくれたら、逆側にいた人たちには最高の印象になるのは間違いないだろう。

 これは、演説中にどちらを見たかというだけのことで、政策とは全く関係ないことである。しかし、そういうところに「配慮」というものはにじみ出るのだろうと思う。熱く語っても、一方向しか見ないというのでは、本当にその演説の内容を余すとこなく伝えたいと本当に思っているのだろうかと疑いたくなる。

 演説中は残りの3人はメイン方向だけしか見なかった。では、他の人が演説している間にどうしていたのかというと、原口氏と鳩山氏はメインと逆方向を時々振り向いていた。岡田氏は結局他の人(鳩山氏)の演説中一度もメインと逆方向を振り向くことはなかった。

 党内にいろいろとあるだろうということはよくわかるし、世代間の駆け引きなんかもあったりするので、そうそう新しい人が出るなんてことも難しいとは思うが、しかしながら今日の演説を見ていて思ったのは、もう若い世代で十分に力のある人がいるということである。長妻昭氏は国会論戦でも力を発揮しているし、今日の演説でも力があるなという印象を与えていた。こういう人を前面に出していけるようになっていけばもっともっと良くなっていくのだろうという気がする。だがそれも拙速に過ぎるのであれば、そういう人がゆくゆくはちゃんと力を発揮できるような状況が今のうちに出来るということがセカンドベストなのであって、それは、今回民主党が勝利するということに他ならないように思う。

 岡田であれ鳩山であれ、今回の代表選で代表になった人は全力を尽くして前に進んで欲しいし、敗北した方はとにかく裏方に徹して党の躍進のために尽力して欲しいと思う。そして今回負けたから次こそという形になったとしたら、それは自民党と同じだということを認識して欲しい。世代間の争いというものはあるが、基本的には先輩を立てるというのが一般的な常識だと思う。だがそれを通して民主党の代表経験者が全員総理大臣になりたいとか言い始めるととんでもないことが起きる。みんなそれぞれ力量もある人たちだとは思うが、それでも、自分が代表の時に政権奪取が出来なかったのがまずいのであり、そのことを考えても、岡田鳩山のあとには、その次を狙えるような40代50代の人たちが頭角を現していってもらいたいし、それが出来るような環境を生み出せる先輩たちであって欲しいと思ったのである。

Thursday, May 14, 2009

メディアの意思と国民の意思


 一体全体どういうことなんだと思う。毎日新聞の記事には岡田25%、鳩山13%と国民世論調査というのが発表されていた。まあ、それはいい。現在まで報道されているところでは民主党所属の衆参国会議員の投票で決まるといわれている次期代表、しかも国会議員の勢力では鳩山有利となっている。それに対する判官贔屓的心情もあるだろうし、岡田氏の方が若いし、鳩山氏は小沢代表の元で幹事長だったし、この数字が出ることには不思議はない。

 問題なのは、使われている両氏の写真だ。鳩山氏が苦渋に満ちているような写真であるのに対し、岡田氏は満面の笑みをたたえている写真が使われている。このまま選挙用ポスターにも使えるだろうが、鳩山氏がこれを選挙ポスターに使ったとしたら自滅である。そのくらい印象の好悪がはっきりと違った写真を使っているのだ。この写真を見せられて、支持率の違いを見せられたら、あまり定見のない人ならば、どちらかというと岡田氏を好きになるだろう。そしてそんな岡田氏ではなく鳩山氏が代表になった場合、民主党の議員は感覚がおかしいとか感じてしまうだろう。だが、それは世論誘導でしかない。そういう結果になることを判っていて、そういう写真を選んで、良しとしてしまう毎日新聞政治部のトップというのはどういう感覚をしているのだろうかとか不思議で仕方ない。そういうチョイスをすることで何を狙っているのだろうか。そしてそういう狙いを実施することで、どの勢力に組しようとしているのだろうか。

 こういう世論調査というのは世論調査のネタをチョイスする時点で意思というものが働いている。あたかも世論調査がある論説の根拠であるかのような要素として使用されているが、それも使用方法によってはおかしな結果になってしまうケースがある。こういう例えがいいのかどうかは判らないが、ある人が道を聞こうとして「郵便局はどこにありますか」「ローソンの向かいです」と言われ、「では、ローソンはどこですか」と聞き直すと「郵便局の向かいです」と答えられる。これは全く意味がない。同じようなことは世論調査にも現れる。ある政治家の評判を貶めようとするなら、最初は独自の取材によってその政治家のどこかひとつでもおかしなところを探してくる。そしてその点をドーンと報じる。ここまではまだその取材の確かさは確定していない。その直後に「世論調査」を行う。報道を見た人は「この政治家は悪いやつだ」と思う場合が高まり、世論調査で「政治家をやめるべき」とかいう声が挙る。そうするとそれが大義名分になり、「やはりこの政治家に信頼は置けない」という報道がされていく。その報道を見てさらに世論は傾いていき、世論調査第2弾が行われると悪いやつだと思う率もますます上がっていく。悪いやつに思う(思わせたい)スパイラルはどんどん自己増殖を続けていくことになるのだ。

 報道というのは難しいと思う。いや、僕は別に報道する立場なんかではないが、しかし僕を取り巻く社会はこういう報道に多分に影響を受けるわけだから、無視してばかりもいられないと思うのだ。だからその難しい報道に携わる人には、ぜひとも慎重で公平な扱いをして欲しいと思うのである。今回の民主党次期代表問題についても、百歩譲って数字を出すのまではいいけれど、その写真の使い方は明らかに恣意があるだろうと思うし、そんなやり方は公平なメディアとしての在り方を著しく歪曲しているということに気付いて、猛省してもらいたいと思うのだ。

 だったら、「結局捜査が立ち止みになってしまっている二階大臣の問題は集結したと思うのか」とか「鴻池副官房長官の辞任が健康上の理由だけなんだと答えた首相や官房長官の言葉を信頼できると思うか」とか「検察の捜査は偏っていると思うか」というような世論調査もガンガンやって欲しい。

 いや、そういう調査をやった方が日本のためにいいとか思っているわけじゃないですよ。そういう恣意的でどこかの勢力に取って特別に有利になったり不利になったりする可能性のある調査というのは、公平のようで公平ではないし、だからそういうことはすべきではないし、それをどうしてもする必要があると思って、実行する際には、極めて公平な感覚の元で取り扱って欲しいという思いを、逆説的に示しただけのことです。

42000の支持


 清志郎の葬式には行かなかった。それはある意味当然だと思う。そんな資格は僕にはない。20年ほど前のRC時代に熱狂的に聴いていただけで、ソロとかの活動についてはほとんど聴いていない。というより、聴くことを拒絶していた。活動停止の経緯について腑に落ちぬ気持ちがあったからだ。今から思えばバカなことだと思う。漏れ伝わってくる情報なんてどこまで本当のことかわからないし、本当のことを知ったとしても、それはどうしようもない理由があったはず。現在たくさんのバンドたちと仕事をして、真剣だから衝突するということがあることも知った。無名のバンドとRCとを比べるのもおかしいが、しかしいずれにしても、バンドというのはとても微妙なバランスの上に成立している儚い存在で、だからこそそれが輝くのはとても幸せな瞬間なのであり、立ち会えることが幸運そのものなのだ。

 僕の当時の思いこみがどんなに愚かなものだったということを数万行語ったところで、この20年聴かなかったという事実は変わらない。やはり僕に青山に行く資格などないのである。

 では、青山斎場を埋め尽くした人たちにその資格はあったのか。42000という数字。これは正直驚いた。42000。炎天下を並んで粛々と別れを惜しんだ人たち。彼らのいったい何人くらいが最新作のCDを買ったのだろうか。もしも42000枚がコンスタントに売れるのなら、メジャー契約が切れることはなかっただろう。死んで悲しむくらいなら、生きてるうちにCDを買えよ。買わないくらいの自称ファンが行く場所ではないと思う。だけど現実には42000もの人々が集まったわけで、だからやはり行かなくて良かったと思う。ある人のブログには「この場にいられて幸せだった」と書かれていた。葬式だぞ。葬式で幸せって一体なんだよ。復活ライブ第二弾じゃなく、葬式なのだ。悲しくて悲しくてというのならまだしも、幸せって、何? そんな人たちと一緒にいることが僕にはとても苦痛だったはずだ。いや、そもそも僕には行く資格さえ最初から無かったわけだが。

Wednesday, May 13, 2009

前原を取り込め

 小沢代表辞任。会見から2日だが、その後いろいろ論評も出ているし、早くも後任は鳩山か岡田かという構図が取沙汰されている。この鳩山vs岡田というのは、ずっと小沢一郎を支持してきたグループがとりあえず鳩山を担ぐという動きと、それでは小沢色を拭うことが出来ないという反小沢精力が対抗馬として「若く」「清廉潔白」というキャラクターで、かつ特定のグループをもたない岡田を担いでみるという動きである。要するに、小沢的なものか反小沢的なものかのぶつかり合いである。本当は反小沢的な勢力の頂点は前原誠司であり、だったらそれが出てくればいいのに、出てこない(こられない)というところが彼の人徳の足りないところだ。

 代表辞任会見の前後にもいろいろと物を言ってきたし、自分のグループに属する議員にもいろいろ言わせてきた。聞いていて思うのは、ある意味正論であり、これを言っていれば堂々としていられるだろうという論である。しかし、そこには書生的な性格があり、清濁併せ飲むという覚悟は感じられない。「有権者がなにを求めているのかという微妙な空気を感じていかなければ仕事ができない」ということを語っていたが、では書生的な動きをするだけで選挙に勝てるのか。いや、勝てない。それがギリギリの勝負なのである。それを変えなければというのが今の民主党の目指すものだが、書生論というのは、相手が反則武器をパンツの中に仕込んでやってくるというリングの上で、「ルールだから」と言って自分の手足を縛るようなものだと思う。もちろん、ルールに徹するという方法もある。将来政権を取った時に、自分たちがルール違反しているのであれば、結局はダメなんじゃないかという理屈だ。それは判る。だがその理屈が正しくなるのは、あくまで「将来政権を取る」ということが前提であって、書生論に殉じて政権を取り逃がすのであればそもそも意味がない。だから、反則には反則をという覚悟でも、やはり取るべきは取らなければならない。そういうものもある。なぜならこれは革命なのだから。革命は通常血が流れる。それを恐れていては革命などは出来ない。だから、書生論をさも正論のように振りかざす人のことを僕は信じることが出来ないのである。

 だが、だからといって書生を排除するのでは、また同じことの繰り返しである。かつての連立非自民政権が崩壊したのは、当時の社会党が連立を離脱したからだ。社会党は青かった。書生の集まりだった。年寄りのくせに終止青いことを言い続けた。だから、小沢一郎は社会党を見捨てたのだった。その結果連立の数的優位は崩れ、小沢の盟友でもあった羽田孜政権を超短命に終わらせてしまったのである。

 で、離脱した社会党を取り込んだのが自民党である。自民党は社会党のことを直前の選挙で罵倒しまくっていた。「あんな党に政権を渡してしまったら日本は社会主義国家になってしまう。ソ連や中国のような体制になって、本当にいいと皆さんは思っているのか」と言った。当時の宮沢首相がテレビで、それまで見せたことの無いような凄絶な表情でまくしたてた。なのに、政権を取り戻すためにはその社会党と組み、村山富市を首相にしたのだ。

 このときの流れに教訓があるとすれば、目的のためには四の五の言うなである。あるいは、急がば回れである。意見が相容れないとしても、目的のために必要とあれば握手をするのはもちろん、三顧の礼を尽くしてでも協力を要請する。それが出来なければ政治の世界で自分の政策など通すことは出来ないということである。

 だとしたら、小沢グループは鳩山を無理からに押すのではなく、敢えて岡田を支え、挙党一致を作り上げるという策に出た方がいいと思うのである。押している岡田を小沢グループも押しているということになれば、前原誠司も抵抗することは出来なくなる。抵抗する意味もないのだから。そして今回なんとか政権を取り、岡田の4年、そして続くところに前原とか、あるいは長妻の4年というところでやらせればいいのだ。その間に自分たちのグループに「スター」を作り上げて、やがて来る現在の反小沢勢力が雲散霧消するのをしたたかに待てばいいのだ。その方が、政権交代から13年もの野党暮らしを味わうことに較べれば遥かに自己実現に近いと思うのである。もちろん小沢政権も鳩山政権も菅政権も実現しない。だがそんなことは目的実現のためには小さなことでしかない。どちらにしても実現しないのなら、名誉の敗戦よりも実質的な勝利を目指すことにこだわって欲しいと、心から思うのである。

Monday, May 11, 2009

交代

 いろいろな意味での交代表明だという気がした。小沢一郎の民主党代表辞任会見は意外なまでに爽やかな笑顔に満ちていた。

 思えば1年半前にも小沢一郎は代表辞任会見を行った。その時はもう本当に怒りと失望に満ちた表情と声の震えを見せていた。民主党はまだ政権担当能力が無いとまで言い切った。大連立の密約を当時の福田首相としたことに党内から反発を受け、ある意味放り投げるような辞意表明だったのだから、怒りも失望も無理はない。しかしそれに較べて今回の辞任会見はえらく爽やかでさばさばしていた。

 それもそうだろう。説明はとても一貫している。小沢一郎自身大切だと思っているのは政権交代であって、前回の細川政権の時に通した小選挙区制にも「比較的容易な政権交代の可能性」を願っていたし、今回もまた、政権交代によって日本の政治を変えようという思いが最優先課題としてあって、その思いの前には自らの立場などはどうでもいいことなのであった。フジテレビの記者が「3月以降厳しい声も多かったが、その一方で小沢首相を願っている有権者の声も多かったと感じているのだが、その人たちの期待に応えられなかったということについて申し訳ないという気持ちはあるのか」という質問をしたが、「大変ありがたいけれども、何よりも大事なのは政権交代を実現することであって、自分が何に成るということは問題ではない」とバッサリ。

 日テレの記者が「(民主党のイメージを傷つけたことを理由に)代表辞任だけでなく、民主党離党、もしくは議員辞職はしないのか」という質問をしたが、その時だけわずかに怒りの表情を見せながら、「なぜ離党をしなければいけないのか? 私は政治資金に関して一点のやましいところもありません」と返した。今回の会見では秘書逮捕の件については一言も触れられていなくて、今後のメディアの論調ではこの点についても蒸し返すように報道するだろう。しかし同時に新代表選挙が報道の中心になるはずだ。そしてそれまでの間に予算審議があるわけで、予算審議でも徹底的に抵抗する大義や根拠がこの辞任によって民主党にはもたらされたわけで、自民党が混乱する様子も併せて報道の中心になっていくと、比較的秘書逮捕問題が取り上げられる割合は薄まってくることが予想される。

 ネット上の声を見ても、「遅すぎるぜ」みたいな反小沢色が強い意見も「残念で仕方が無い」という小沢支持色の強い意見も両方あった。おそらく、そういう両方の意見を持っている人たちは、辞任してもしなくても投票行動に変化は無かったのだろう。僕自身も小沢支持色が強い側なのだが、辞任しようとしまいとどこに投票するのかは変わらなかった。今回小沢氏の言葉で辞任の理由としては「政権交代に影響が出る」ということが最大かつ唯一の理由だったわけで、だとしたら、支持もしないし嫌悪もしない人たちを考えた辞任だったのだろうと思われる。その人たちは今後の報道次第で投票が揺れ動くのだろう。どちらかというと政治や社会に関心が薄い人たちの動向によって、戦後政治史でも最重要人物の進退が決してしまうということに強い苛立ちは覚えるのだが、そんなことを言っていたら、きっと小沢一郎は「甘い!」というのだろう。そんなことは理想論であって、そんな理想論では物事は動かないんだと。

 これは小沢一郎の民主党代表交代表明であり、政権交代への意思表示であり、自民民主の攻守交代への狼煙であろう。この記者会見の背景にホラ貝と銅鑼の音が聞こえていたのは僕だけではないだろう。

Tuesday, May 05, 2009

伝わる言葉


 言葉をたくさん並べるのは良い。だがそれが心を隠すことにつながったり、心があったかのように振る舞うための免罪符になったりするのでは意味がない。というか逆効果でしかない。時間を埋めるための言葉、スペースを埋めるための言葉。見栄えは良いが、無駄である。そんなものに付き合わされるのは勘弁だなと思うけれども、しかしながら、情報の洪水というのはそういうものであり、その中から意味のある言葉を探すことはもう途方もない重労働のような気がする。

 忌野清志郎の死に際してのニュースについてmixi上で書かれていた日記はあっという間に1万を超えた。ニュースに関連しない日記にしてもとても多かった。周囲にはミュージシャンたちが沢山いるが、彼らの日記にもお悔やみの言葉が並べられていた。悲しいと、残念だと、心の叫びがたくさん連なっていた。

 だが、どれもこれもクソだと思う。そんなに衝撃か。そんなに悲劇か。レコード店には清志郎コーナーが作られるだろう。連休初日の死だったから、どのくらいのお店でコーナーは出来ているのだろう。金曜日の午前中に発注がかけられて、なおかつ在庫が倉庫にあれば、土曜日にはお店に着く。しかし土曜日の未明に亡くなった清志郎の商品を発注できるのは早くても7日の午前中。お店に着くのは8日。それからのコーナー作りでどれだけの意味があるのだろう。お別れの会が9日に開催されるというから10日のワイドショーまでは話題になるだろう。だからギリギリ間に合うかもしれない。一部のお店では既存の在庫だけでコーナー展開も出来るだろうが、ほとんどのお店ではスカスカなコーナーしか作れないだろう。

 悼んだとしても、せいぜいその程度の関心でしかないと思うのだ。RCのCDとかLPを持ってもいないやつらになんの悼みだ。もちろん、もう20年くらい彼の活動を注視していない僕の悼みだってその程度だ。僕の日記だって同じようにクソだ。意味がない。

 それでも書かずにはいられないのだね。たとえそれが免罪符だと中傷されたとしても。出来ることならクソ情報の洪水の中に埋没して、誰の目にも触れることなく漂流して欲しいと思った。

Sunday, May 03, 2009

おわかれ

 僕はもう眠っていた。うつろな意識の僕を奥さんの声が呼んでいた。けっこう激しい声だった。

 なんだろうと思った。何事が起きたかと思った。どうしたどうしたと目をこすっているところに、「清志郎が死んだらしいよ」という言葉。一気に目が覚めた。

 ネットのニュースを見たらしい。今現実進行形で起こっている事件ではなく、すでに結果が出た出来事のニュース。眠っている僕を深夜に起こす意味があるのか。その判断は奥さんの判断だ。重要なニュースなら起こすだろう。無関係なニュースなら起こさないだろう。奥さんはそのニュースを僕にとって重要なニュースだと判断したわけだ。起きてから知るのではなく、眠っているのをたたき起されてでも知った方がいいニュースだと判断したわけだ。起きてから知ったのではダメだと思ったわけだ。だから、すでに眠っていた僕を起こしたのだ。

 僕が今インディーズレーベルなんてのをやっていることに、清志郎は一定以上の影響を与えていると思う。フェイバリットアーチストはなんといってもRCサクセションだ。忌野清志郎ではなく、RCサクセション。RCの活動停止以降の彼の活動にはあまり興味がないし、CDも買うどころか聴いてもいない。でも、彼はRCサクセションの主要構成メンバーだ。というかRCそのものだ。だからいつでも無視は出来ないし、存在が貴重だ。影響力の規模は比較できないだろうが、ジョンやポールのソロ活動とビートルズとの関係にも似ているように思う。好きなのはビートルズであってソロのアルバムは聴いていないという人は多いだろう。RCに関していえば僕はそういうタイプだし、今回のニュースはジョンが暗殺された時にビートルズファンに与えたような衝撃を、僕に与えた。

 そんなニュースだから、奥さんが僕を起こした判断はとても正しいと思う。起こされて、目が覚めて、そこからしばらく夜更かしすることになったが、そうなって良かったと思った。嬉しいことではない。だがそれは近親者の死に目に会うことが出来たような、倒錯した安堵である。そういう安堵を与えてくれた奥さんに感謝だ。20年以上も前に活動停止したバンドに対する想いを認識してくれていたことに感謝したい。

 悲しい時には涙は出ない。ええっという驚きで感覚が一瞬麻痺する。清志郎はその感情をかつて歌で表現した。お別れのあと、地下鉄の駅で降りて30分泣くという描写。僕も父親の葬儀に際して泣いた。まさに息を引き取る瞬間は何も感じなかった。瞬間はいろいろな出来事が目の前を駆け巡る。告別式はどうするのか、葬儀はどうするのか、病院に駆けつけた親族たちがうろたえているけれど、そんな中で僕はどうすれば良いのか。事務である。処理である。やらなければいけない事があまりにも多く、感情に身を委ねる余裕なんてなかった。病院の紹介などもあって葬儀屋さんが決まり、告別式の会場も決まった。その告別式の間に、葬儀屋さんと親族で、葬儀についてのミーティングが開かれた。その席上、誰かのある言葉に僕は父との記憶を甦らせた。父の気持ちが僕にどう向けられていたのかということに関する記憶。その父がもういないのだという事をあらためて知った。涙があふれるというのはこういうことかと思った。止まらなかった。

 もちろん、そういう体験と今回のニュースは比較にならない。フェイバリットアーチストではあっても、近親者などではない。それでもやはり僕の生き方に大きな影響を与えた人の死は決して小さな事ではない。闘病生活をしていたことは知っていたのだから、事故死なんかとは違って受け入れる気持ちがなかったわけではないが、やはり大きなショックではある。だが、まだ涙は出てきたりはしていない。

 今日、僕は涙を流したりするのだろうか。流したりはしないようにも思う。どちらでもいい。僕は僕の人生を送る。今日もいつもの休日のように過ごす。僕の事をよくわかってくれている奥さんと散歩したりして過ごすのだ。