Thursday, August 26, 2010

音楽と金

 ニューヨークに住むあるミュージシャンのブログがアップされたとmyspaceからメールが来た。見てみるとツアーの日程が発表されている。全米ツアー。9月頭から10月半ばまでのスケジュールが載っていた。ああ、11月ならアメリカに行く可能性があるのに。一度直接見てみたいなあ。生ライブを見てみたいなあ。

 なぜ全米ツアーに惹かれるのか?彼女は日本にはやってこないからである。

 そのミュージシャンは前作アルバムから注目している。あのトーレヨハンソンがプロデュースしていたのだ。だがそのアルバム以降もう3年以上も新作をリリースしていない。思うように売れなかったからなのか。レコード会社との契約が切れたりしたのだろうか。しかし、だからといって音楽活動を休止しているわけではない。ライブは積極的にやっている。その様子はYouTubeなどで手に取るように判る。小さなライブハウスだ。それでも活き活きとしたライブを展開している。エネルギーはまったく衰えていないという感じがする。

 オフィシャルサイトではCDとTシャツを売っていた。15ドルのTシャツはmensなのにサイズはsmallしかなく、送料は最低でも12ドルするらしい。きっとCDも同じような感じだろう。それなら日本のamazonで買うよ。日本未発売の6曲入りミニアルバムだって、USAのamazonから買えば送料は400円くらいだ。iTunesへのリンクも貼られていて、飛んでいってみるものの残念ながら新作の登録はない。あるのはアーチスト名で検索された、コンピレーションに含まれている曲が数曲。しかも曲単位で買うことができない設定で、他のアーチストの曲も買わなきゃいけないのかよって感じで、買う気になれない。USAamazonではMP3の楽曲は売っていた。だがamazonのMP3はアメリカ国内でないと売ってくれない仕組みになっている。なんかいろいろ法律とか契約内容とかがあるんだろうな。まあmyspaceにアップしている曲だけを聴くとするよ。

 彼女は一般的にいえば売れていないアーチストだ。だから規模がアメリカ以外に広がっていかない。それでもmyspaceやYouTubeなどを通じて僕らにその音楽は届く。彼女が音楽活動をやめない限り、僕はその活動を知ることが出来る。これは昔だったら考えられないことだ。音楽の世界は確実に広がっている。素晴らしいことだ。昔なら本当に売れるごく少数の音楽だけしか僕ら消費者の手には届かなかった。日本でリリースされず、雑誌にも載らず、全米トップ100に入らない音楽を知ることなどあっただろうか。マイケルやマドンナは確かに素晴らしい。だが価値はそこだけにあるのではなくて、本当に個人的なレベルでの音楽にも素晴らしいものはあるのだ。キラキラレコードがリリースしているような音楽もそういうもので、「そんな音楽があったのか」というものでも、個人的に好きになることがあれば、それでマイケルと何ら変わらない。もっといえば、諸条件が合わずにリリースにまで至らないデモにも素晴らしい音楽は沢山あるのだ。そういう音楽に出会えたことの幸せを、誰もが味わうチャンスに現代は溢れている。当然表現者として成立する裾野が広がっていく分、頂点の高さは相対的に下がってくる。それでもいいじゃないかと思う。多くの表現者がテレビなど一部独占の供給インフラによって排除されてしまう中で少数がスターとして誕生するより、インターネットの情報の渦の中で少数の理解者にちゃんと届くという音楽シーンの方が、供給側にとっても受益者側にとっても有益なんだと心から思う。

 だが、こうやって広がっているという現実はなにによって実現しているのだろうか。もちろん、インフラとしてのインターネットは重要だ。これが無ければ国境を越えた情報伝達は不可能である。だが、情報は伝達の仕組みがあればいいというものではない。そもそもの情報を発信する主体が無ければ、結局僕らはなにも知ることができないのだ。つまり、重要なのはそのアーチストそのものである。アーチストが楽曲を作って、レコーディングをし、映像を撮ってアップする。その作業が無ければ僕らは音楽を楽しむことができないのだ。

 だが、ここに大きな問題があると思われる。僕らはmyspaceやYouTubeを通じてタダで音楽を楽しんでいる。タダで消費されることで、アーチストにはお金が入っていかなくなる。そうすると彼らの自腹で音楽は創造され、生産され、タダメディアに乗っかっていく。ますますCD(や有料配信)が売れなくなり、結果としてレコード会社からは次回作の話が途絶えてしまう。結果として僕のようなファンがCDを買うことも出来ないし、配信だって受けることができなくなる。世界中にファンがいるとしても、ツアーは国内に限られ、観に行くことはかなり難しくなる。せめてTシャツを買おうとしても、料金のほとんどを配送業者と製造業者に持っていかれる。それでアーチストはやっていけるのか?

 僕は、アーチストにお金を払いたいのだ。それはボランティア精神とかではなくて、それによってもっと良い音楽を創ってもらって、近い将来に僕自身が楽しめるだろうと期待するからだ。当然つまらない音楽しか生まない表現者にはお金など払いたくない。でも良いものにはお金を払うべきだし、それは単にアーチストの生活がゴージャスになるためだけではなくて、リスナーに素晴らしい音楽が届けられるための養分になるのだ。

 でも、件の女性アーチストには、僕はお金を支払う術がない。これはものすごいジレンマだ。彼女の音楽を無料のmyspaceで楽しむし、行けないライブを無料のYouTubeで楽しむよ。でもそれでいいとは思ってないし、楽しんだ分はお金を払って次の作品を期待したいのだ。

 思うに、そういうことがレーベルの仕事なんじゃないかと思うのである。ミュージシャンに価値があるなら、その価値に見合った収入が得られるべきである。でも価値として対価をリスナーが支払う道がなければ、リスナーがいくら払いたくても払うことができないのである。レーベルのやるべきことは、リスナーも納得してミュージシャンへお金を支払える方法を実現することだ。CDを出すこともその一つ。タダで欲しいならタダでいくらでも入手できる。YouTubeの映像&音源で満足するならそれもいいだろう。黙ってたって勝手に音楽を生み出して公開してくれる物好きは後を絶たないから、お金なんて払わなくても見たり聴いたりするコンテンツは沢山あるよ。でも、どうしても好きなこの音楽は、特定のそのアーチストしか生み出すことができないものであり、そのアーチストが経済的な要因で挫折してしまったら、もうその人の新しい作品は聴くことができないのだ。それはその人にお金を払わないリスナーや、お金を払ってもらえる仕組みを作らない業界関係者の責任でもある。

 僕はもう、CDとか配信だけじゃなくて、ドネーション(寄付)制度とかが出来て、それが浸透していくようなことでもいいような気がするのだ。ドネーションが馴染まなければ、スポンサー制度でもいい。その音楽を愛す人たちが音楽家への敬意を込めて活動を支える。小額でも寄付できるような仕組み。そういうものが出来ればもっと創作活動はより純粋なところに向かって行くような気がする。でもそれがちょっと先走りしすぎた考え方だというのは僕も判っている。だから今はCDを生産するレーベルとしての活動を日々行っていくしかないが、本当の音楽とお金の関係って、突き詰めれば「良かったよ。だからお金を払うよ。もっと頑張ってね」ということになるんじゃないだろうか。それを、CDとかチケットとか、判りやすい理解しやすい形で実現しようとしているだけで、環境が激変する現代にあっては、その形態ももっと純粋で安定的なものに変化していく必要があるように思ったりしたのだ。

Tuesday, August 24, 2010

個人的なつながり

 今は当たり前に手にしている友や家族との絆。それはなんてはかなくて貴重なものなんだろうと、時々思う。いや、時々思ったりしなければと、常に戒めているのだ。

 先日父の十七回忌が終わった。大学から故郷を離れ東京に暮らす僕は、若い頃思い上がっていた。自分は成功するのだと。そして成功した暁に故郷に錦を飾るのだと。いや、それは今でも信じている。いつか自分は成功するのだと。だが、当時と決定的に違っているのは、錦を飾らずとも、家族のもとに帰ってもいいのだという認識だ。

 大学を4年で卒業し、バブル期だったこともあって就職はすんなり決まった。サラリーマン生活を3年とちょっと経験し、小さなレコード会社を作る。それなりに頑張って増減はあるもののスタッフも数人いてくれる。だが、一体どうなれば「成功」と言えるのだ?錦を飾ると言えるのだ?その答えは今も見つからないし、日々のやりくりに汲々とする状態は、お世辞にも成功といえる状態ではないだろう。それでも僕が毎年2回田舎に帰るのは、やはり病に伏せた父の姿を見たからだ。僕にはまだ錦を飾ることは出来ない。それでも顔を見せることくらいは出来る。せめてそのくらいのことでもしないでどうする。そう思った。病気で喉をやられた父は張りのある声を失って、ささやくような言葉しか出せなかった。田舎に帰った時くらいは毎日の様に病院に行き、会話も負担だからベッドの横の丸イスで本を読んだりして過ごした。もう一緒に過ごす時間は限られているのだから。しかも1週間もすれば東京に戻っていかなければならなくて、もしかするとその1週間が会える最後になるかもしれなかったのだから。

 それから16年が経過したのだ。その間ずっと年に2回は福岡に行き、結婚して以降は奥さんの実家の三重にも年に2回ずつ行っている。それが僕に出来る唯一で、最大のことなんじゃないかと、今は思っている。

 
 昔の友達って、なんなんだろうか。もちろん同じクラスにいた時点でほとんど話さなかった人間もいる。だが当時は毎日の様に一緒に過ごし、2人だけの秘密を抱えた奴だって少なからずいた。でも今となっては音信不通の場合が多い。学生時代の友人で今も年に1度以上会うような人はごく僅かだ。当然生活が別々になってるのだし、新しい付き合いの人も出来てくるわけだから、いつまでも昔の付き合いが持続するわけがない。悲しいけれども現実だ。悲しいとばかり言っていても仕方がないので、新しい知り合いとの人間関係を充実させる様にしている。それでいいのだと思う。だが、かつての濃い関係もやがて薄れていくように、今の人間関係だってやがて薄れていくのだということも少しだけ判っているのだ。

 だから、今この瞬間だけでも、充実したコミュニケーションがしたいと思ってやまないのである。

 Twitterは便利なツールだ。これまでだったら知り合う可能性さえなかった人たちとつながることが出来る。僕は浮かれているよ。端から見たらそう映るだろう。その通りだから仕方がない。過去の友人関係が薄れていくのなら、それを補うように新しい関係を築きたい。毎日同じ授業を受けていた仲間たちと同じ濃さが難しいのなら、せめて40人のクラスを400人に、4000人にと増やしていけばいいじゃないか。まるでそう思っているように映るだろう。そうかもしれない。自分ではどう思ってやっているのだろう。それも実はよく判らない。判らないままにやっているのだ。それはきっと僕だけじゃなくて、交流させてもらっている多くの人たちも判らないままにやっているんじゃないだろうか。もちろんそこに正解なんかないのだし。

 mixiのときもそう思った。これは面白いと。全然知らない人たちと出会ったり、昔の友達や、遠くに住んでいる人たちとやり取りが出来るようになった。でも、mixiから離れていく人が増えた。それでもまだ十分に稼働しているシステムだとは思うが、それでも「あの人はどうしているんだろう」と気になる人が、すでにmixiにほとんどアクセスしていなかったりすると、mixiの魅力が半減してしまう。そう感じている自分に気づく。そして、僕自身がもうほとんどmixiの日記を書いてはいない。

 早くからmixiをやっていた人のほとんどはTwitterに移ってきたようだ。mixi日記を書かなくなった友人たちも、Twitterでつぶやいたりしている。つぶやきのアカウントを教えてもらったりして今でもつながることが出来ている友人もいれば、Twitterにいるのかいないのかさえ判らない人もいる。まるで高校の同級生が大学で別の学校に行ってしまったみたいな感じを思い出してしまう。そうやって、人と人は疎遠になっていくのだ。高校で同じクラスになったということがいかに奇跡であっても、その奇跡を繋げていくことは実は更に難しい奇跡なのだ。mixiとかTwitterごときに、その奇跡を克服するのは難しい。だから今は盛上がっているTwitterだって、やがて別の何かに取って代わられてしまうかもしれないし、そうなった時に、僕らは今築き上げているつながりをまた失ってしまうのかもしれない。

 今年の夏に福岡に帰った時、父の十七回忌に伯父や伯母が集まってくれた。おじいさんが健在の頃には、みんなで正月におじいさんの家に集まるのが当たり前だったけれど、おじいさんが無くなってからは正月に決まって集まる場所も無くなった。兄弟なのだから決して会うのが嫌なんじゃない。ただ、意識して会うというのはなかなかに難しいことなのだ。3年前の僕の結婚式でみんなで京都に集まって、観光なんかもしたらしい。その時から少しずつ兄弟の交流が深まるようになったという。今回の十七回忌で、伯父や伯母は年に1〜2回集まって旅行をしようと話をしていた。いいことだなあと思った。もうみんな70代になって、兄弟で集まれる機会もそうそうあるわけではない。意識してそういう機会を作らなければ、人は散り散りになってしまう。

 あらためて思うけれど、ネットはいいよ。ネットによって僕は昔の友人と再び巡り会い、連絡を取り合える中にまで戻ることが出来た。だが彼らとも「会おうぜ」とかメールでやり取りしただけで、実際に会うところまでは至っていない。近々会いたいなとは思っている。思っているだけではダメなんだということも判ってはいるのだけれど。

Sunday, August 22, 2010

49歳、新人、美国義治、ついにCDデビュー

昨日8月21日に、キラキラレコードからは4タイトルのCDが発売された。どれも自信作なのだが、今日はその中で、キラキラレコードとしても異色の新人アーチストについて紹介してみたい。

 美国義治。49歳。大阪でカメラマンをやっている。その彼がキラキラレコードにデモCDを送ってきたのは約半年前のことだった。ニューミュージックよりはどちらかというと演歌に近いようなフォークソングを奏でていた。うちは普段わりとロックやポップスといった若者の音楽中心にリリースをしているが、そこだけがキラキラレコードの音楽ではない。音楽人口から考えると当然そこがメインになるけれども、音楽はなにも若者だけのものではないのだ。少なくとも僕はそう思う。僕がそう思うということは、それがキラキラレコードの考え方にもなるのである。

 それで、美国義治。彼が送ってきたデモは、とてもシンプルな歌だった。なんか音楽の原点というか、とても懐かしい感情が湧いてきた。それで早速メールでコンタクトを取ったのだが、特に表立ったライブ活動なんかはやったことがないという。40代でデモを送ってくれるミュージシャンは実はそんなに珍しくない。そのほとんどは若い頃からバンドをやってきてて、やめられずにそのまま歳を重ねたか、そうでなければ学生の頃にやってて、一旦社会人になって仕事に打ち込んだけれど、ある程度仕事も軌道に乗ったのでそろそろ音楽を再開するかといった人たちだ。つまり少なからずライブ経験を持っているような人たちがほとんどであって、40代になっていきなり音楽を始めるなんてことは僕の知る限りあまり例のないことなのだ。

 だが、美国さんは40代半ばで音楽を始め、オリジナル曲を作り、デモを応募してきた。正直すごいと思う。そのチャレンジ精神だけで尊敬に値する。たとえ音楽がしょぼくても、人生の開拓という意味では見習うべき姿勢だなあと思うのだ。だが、音楽そのものも悪くない。というか、結構良い。大人が聴く音楽というものはまだまだ供給が足りないと常日頃思っている。僕自身45歳で、後1ヶ月もしないうちに46歳になる。その僕が、20歳そこそこのロックバンドが歌う「人生論」に素直にうなずけるか?いや、うなずけるわけがない。人生経験も浅く、たいした苦労もしていないやつらの言葉に大人はなかなか涙など出来ないのだ。同じように思っている人は決して少なくないだろう。だからCDも売れないのだ。出版の世界は若者の活字離れに対応するべく大人向けの書籍をきちんと開発している。40歳主婦向けのファッション雑誌など昔はなかったが、いまやアラフォーモデルが普通に活躍している。そうなのだ。音楽だって大人に向けたものを開発して供給しなければ、そのマーケットをそっくり失うことになる。そういう意味でも、40代のシンガーやバンドのCDをリリースするということはとても大切なことなのである。そういう人たちが普通にデビューしていくことによって、もっと大人も音楽に親しみを持つだろうし、こんどは「自分もやろう」というエネルギーの源になる。それはまるで大リーグ挑戦が論外だった94年に野茂が日本球界を飛び出して後進の道を拓いたように、一つの成功例がその他大勢の指針になるのだ。美国さんがそんな成功を収められるかは判らない。だが、チャレンジしなければ可能性もゼロなのであって、そういう意味で、僕は彼のチャレンジを応援したいし、今後もいろいろなアイディアを提供しながら、彼の活動を後押ししていきたいと思うのである。


美国義治/『ありがとう』

 美国さんはなにもアラフォーとしてキラキラレコードの最初の挑戦ではない。歳を重ねながら音楽にトライする人たちは意外と多く、僕は彼らの音楽を世に送り出そうという活動をもう8年くらい続けている。僕より1年上の松尾一志というフォークロックシンガーのCDはもう11年も前のリリースだった。当時はまだ彼も30代だったが、今となってはもう46~47歳だ。3年ほど前からリリース活動自体は止まっているが、今でもライブなどは続けていて、心の底から応援しているシンガーの1人だ。


松尾一志『人生は四十から』

 また、2年前にリリースしたMOGSTARRというバンドがいて、洋楽テイストの実にいいサウンドを聴かせてくれる。ギターボーカルのmoglahは海外生活中にビートルズの楽曲に独自のアレンジを施してインディーズデビューし、スマッシュヒットを飛ばした経歴を持つバリバリのミュージシャンである(このアルバムは権利関係などもあって現在は廃盤)。バンドの中心はmoglahを含めた30代の夫婦なのだが、ドラムが夫婦のお母さんで、家族バンドという風変わりな編成になっている。お母さんはもう50代後半だ。それでもライブハウスに出場し、ハードロックバンドが来日するとスタジアムに駆けつけるという生活を送っている。僕もこんな人生を重ねたいなとリスペクトしているミュージシャンの1人である。


MOGSTARR『VIDEO 001』

 まあいずれもまだセールス的にはそれほど成果を出せてはいないけれども、だからといって否定されなければならない理由なんかない。大人は大人のペースで、じっくりと熟成を重ねながら続けていけばいいのだ。旬を争う若者の音楽とは違う特権でもあるだろう。こういう活動で音楽の裾野を広げていくことはとても意味があると思うし、同時に、そこに触れることが、リスナーの人生を確実に豊かにしていくと信じている。

(もし良かったら下記のリンクから、CDなど買っていただければ、力にもなるし勇気が出ます。)

Wednesday, August 18, 2010

ジャンゴレコード

 奈良には燈花会というイベントを観に行った。これもかつて、5〜6年くらい前に偶然知ったイベントだった。奈良のライブハウス、ネバーランドに出演するバンドのライブを観に行ったとき、偶然にも燈花会というイベントは行われていた。鹿で有名な奈良公園や、東大寺前の芝生の広場にろうそくを灯すというシンプルなイベント。ただ、ろうそくの数がものすごいのだ。万の単位で繰り広げられる光のイベント。古都にとても似合った、静かな催しだった。普通のイルミネーションイベントだったら、張り巡らせた電球のスイッチを入れれば済むことだ。だが、ろうそくなので一つ一つ火を入れていかなければいけない。その労力無しには成立しない。しかも夜のイベント中以外は、ろうそくを灯している白いカップも撤去される。つまり毎日設置して、火を入れて、撤去する。それを10日間繰り返す。僕ら観光客は「ああ、キレイだなあ」と言っていればいいが、運営者は大変だ。しかも、入場料なんてないのだ。ろうそくの募金もしたいし、手ぬぐいなんかも買おうというものだ。そのくらいさせてください。もう十分にお腹いっぱいの鹿にせんべいを買い与えるよりも、ろうそく募金の方が価値がある。

 話は横道にそれたが、その燈花会にまた行きたいとずっと思っていて、今年ようやく機会を得た。12日に大阪での仕事があり、その流れで13日の燈花会に行く。嬉しくて、奈良のガイドブックとかを買って予習とかした。燈花会は夜だけのイベントだから、昼間にどこに行こうか。どこで何を食べようか。下調べの段階から観光は始まっている。楽しいひとときだ。

 ガイドブックに、奈良のカルチャーみたいなコーナーがあって、そこに載っているお店に目が止まる。これは、数日前にTwitterで知り合った人のお店じゃないかい。ジャンゴレコード。それがお店の名前だ。タワレコのような新譜中心に扱うお店ではなく、一種のセレクトショップらしい。新宿西口なんかに沢山あるようなお店なのだろうか。HPなんかも眺めてみる。なんか面白い。基本的に僕の余り知らないようなジャンルのCDが目白押しだ。そして、お勧めの仕方がユニークだ。「激レア」「買うべし!」「凄いCD!」強烈なセールストーク的単語が並んでいて、「本当かよ?」と思う。だけどなんか無視できないのだ。強烈なセールストークは、大抵の場合自然と拒否感が沸き起こる。売れれば何でもいいというオーラが漂うからだ。だけど、このCDセレクトショップの場合、なんか違うのだ。この店長の「これを売りたい」という想いが滲み出ているのだ。そして「これを売りたい」の「これ」が、普通はメイン商品にはならんだろうというような、ほとんど大抵の人はまったく関心を持たんだろうというような、そういうタイトルである。儲けたいなら、もっと別のものをプッシュすべきだ。大資本が宣伝してくれている商材を持ってきて、他の店と横並びで売ればいい。iPhone4とか売っていれば、それなりに売上げは上がるだろう。お店の努力とは別に、メーカーとメディアが勝手に盛り上げてくれるし、いち早く買った人が自慢という形で広めてくれるし、持っていない人は「ああ、欲しいなあ」と思う。時流に乗るということはそういうことであり、儲けたいことが優先だったら、そういうことに取り組めばいいのだ。

 だが、ジャンゴレコードの選択はそうではない。普通に考えれば明らかに売れそうもない商材に手を出している。なぜそうなのか。おそらく店長は音楽がものすごく好きなんだろう。そして良質な音楽を多くの人にも聴かせたいのだろう。その気持ちはすごく判る。だって僕自身がインディーズレーベルなんて仕事をしているのであって、「そんなバンド、知らないよ」と言われたって、それが好きなのだから仕方ないし、それをもっと多くの人が知れば、知った人は確実に幸せになるだろうとか思ってしまうのだから。僕はCDになっていない音楽をCDの形にして、世の中に出すという仕事をして、ジャンゴレコードはCDになっているけれども、残念ながら多くの人に知られていない音楽を知らせるという仕事をしているのだろう。だがいずれも一般的平均的なシーンからは明らかに外れて(僕自身は20歩ほど先を行ってしまっていると思っているのだが)いて、商売的には必ずしも成功しているとはいい難い。

 しかし、そういうことをやる人は必要なのだ。

 なら燈花会に行き、僕は是非このお店に行ってみたいと思った。13日の夜、店長はTwitterで燈花会に行って写真を撮ったことをつぶやいていた。そのつぶやきに対して「明日お店に行くかもしれません」というRTをしてみた。だが14日になってもそれに対して返事はない。まあ返事が有るか無いかに関わらず、僕はそのお店に足を運んだ。裏路地に、ただ「CD」という看板が掲げられていた。これが店か?扉を開けると、確かにCDやアナログレコードがならんでいた。入って左側の壁1面にCDが面出しされて、やはり激熱なコメントがそれぞれに貼付けられている。

 この状態をどう見るべきなのか。僕らが普通レコード屋に行って、特別に目指すアーチストやCDが無ければ、普通は面出ししてあったり平積みされているCDくらいしか見ない。そういう意味ではこの面積の店で、このくらいのタイトル数が面出しされていれば十分ではある。だが、お客の意識というのは必ずしもそんなに合理的ではない。それなりに沢山ある中から自分がそれを選んだんだという自覚が満足感を生む。たとえ実際にはお店の誘導に流されて選んだだけだとしても。だが、そもそもの在庫が少なかったら、そういう「選んだ」という満足感を得ることは難しい。面出ししてあるタイトル数は十分だと思う。だが、それを支えるCD全体の数が、残念ながら少ないのだ。もちろんそれはCDショップ経営の難しいところだろうと思う。というのは、基本的にCDの店頭在庫は現金仕入だからだ。普通は定価の70%で仕入れることになるのだが、1枚3000円のCDであれば2100円がかかる。5000枚仕入れようとするといきなり1000万円を超える経費となる。しかもそれは在庫であり、経理的には資産になる。当然税金の対象となるわけで、ただそこに置いておくには大変な負担なのだ。多少なりとも返品制度があるとはいえ、売上量の少ない個人経営店に返品の枠は少ない。そうなると売れなければデッドストックだ。そう簡単に闇雲に注文することも難しい。

 ジャンゴレコードは音楽好きな個人の熱い想いで運営されている。その熱い想いはどのくらい伝播するのだろうか。奈良の路地でひっそりと営業しているそのチャレンジが、是非ともうまくいって欲しいと思うが、簡単な話でもないだろう。「今日も1日誰も店に入ってこなかった」とかつぶやかれたりすると切ない。キラキラレコードのCDだって1枚も売れない日はある。凹むばかりの日々だ。それでも飽きずに続けているのは、真っ当なビジネスマンから見たら狂気の世界かもしれないだろう。

 だが、止めるわけにはいかないのだ。それがもう僕自身のアイデンティティなのであり、それを止めて別の儲け話で潤ったところで、それは単なる金への感度の良い糞袋でしかない。僕が僕であるということは、僕にしか出来ない何をかをやるということだ。僕自身が音楽を生んでいるわけではないし、ジャンゴレコード自身が何かを奏でているわけでもない。だが、僕の存在によって音楽を創造しようという力を持つバンドマンが少なからずいるし、ジャンゴレコードによって新しい音楽世界に触れて、それによって表現者を含んだ音楽の世界が広がって深まっていることも事実なのだ。非力ではあるが、無力ではない。

 amazonが底辺の音楽表現者にもたらした恩恵は少なくない。ある種革命的なインフラだ。機械的ではあるだろうがいろいろとお勧めしてくれるし、ボランティア的なレビュアーの感想も参考になる。売る側からしても、myspaceやYouTubeなどで試聴してもらってからamazonにダイレクトに飛んでもらえるのは理想的だ。タワレコの試聴機に入れてもらうよりもはるかに意味があると思う。お客さんの側からしても、試聴してすぐに買えるというのは素晴らしい仕組みだと思う。だからそれはそれでいいのだ。でもそれだけではちょっと物足りない。

 僕らはどういうことから音楽を知っていったのだろうか。お兄さんやお姉さんのいる人なら、年上の彼らが聴いていたものを盗み聞きしただろう。あるいはませた同級生が持っているレコードやCDに興味を持っただろう。自分よりも何かを知っている人に、僕らは憧れを持つ。だからそういう身近な人に追いつきたくてそういうものを「好き」だと口にし、ちゃんと知ることで追いついたと錯覚する。その過程で、自分の好きなものの原形が形作られるように思う。そういう原体験が自分のルーツを作り、その上にすべての価値観は築かれていく。ある程度の歳を重ねると、もう音楽のことは知っていると思ってしまい、新しい音楽を聴こうとはしなくなる。だがそれは間違いだ。いつまで経っても新しい音楽との出会いは可能だし、そういう出会いが自分を深める。もちろん音楽だけじゃないだろう。だけど音楽には確実に自分を深める力がある。その出会いを放棄するのは、ちょっと悲しいことだなと僕は思うのだ。

 amazonで物足りないものは何かというと、そういう「自分の知らないもの」である。自分の中に無い価値観をぶつけてくれるような刺激である。かつてはレコード店の怪しげな店長がそういう役割を担っていたように思う。レコード屋さんは、基本的に金持ちの道楽だ。資産が無いと始められないし、維持することも難しい。そしてなにより、音楽に詳しくなければ商品を充実させることもできない。詳しくなるためには沢山聴く必要があるし、それはかつては金持ちのおぼっちゃまにしか出来ないことだった。そして当時はまだそういう人たちの道楽的な店舗営業も可能だった。そもそもそういうお店しか世の中には無かったし、だからレコードが欲しかったらそういうお店に行くしかなかったから。しかしタワレコのような巨大店舗が席巻していくことで、そういう小規模店舗はどんどん売り上げを下げた。タワレコにはバイトの従業員が溢れ、金持ちの音楽好きショップは淘汰されていく。そこで情報をダイレクトに得るという経験はどんどん少なくなっていった。そしてamazonの登場で今度はタワレコなどの大規模店さえも淘汰されようとしている。ネットでどんどん便利になろうとしている一方で、僕らはものすごい情報の中から自分で探さなければいけなくなってきている。

 なんか長く書きすぎて訳わからなくなってきているな。結論を急ごう。

 僕は、ジャンゴであるCDについて在庫を聞いた。それはあるレコードのCD化で、ジャンゴのHPで紹介されていたものだ。僕はamazonで注文したのだが、後日amazonから入荷の予定がないとのことでキャンセルになっていたのだ。すると店長は「いやあ、あれはもうないんですよ。発売から数日でネットオークションでも10000円以上になってて、大変な状況なんですよ。関東なんかだと店頭にならんだのは1枚もないんじゃないですか」と言った。それでちょっとあきらめていたところ「でもあのバンドの曲が入ったコンピならありますよ」と言ってくれたので、「じゃあそれを買います」ということに。それでレジで会計をしようとしたら急に店長の表情が曇り始めた。「あれ〜、よく見たらこれには入ってないですね。サンプル盤に入ってたのでてっきり入ってるかと思ってました。ごめんなさい」と。だが僕には他のCDを物色する時間もないし、まあこれも出会いだなと思い、買うことに。店長は「いや、その曲は入ってないですけれど、このCDはとっても良いですから」と平謝り。嫌なら僕が買わなければいいだけのことだし、それでも買おうというのは僕の意思だ。レジ寸前で収録曲のことに気づいて説明してくれる店長の、なんか良い人っぷりが嬉しかったし、そういうやり取りのために数千円払っても惜しくないなと思ったのだ。

 それで今、僕の机にあるステレオからそのCDが流れている。これがすごく良い。とても良い。普段の生活の中では絶対に出会わないCDだし、それを今こうして聴けていることがとても嬉しい。簡単に言えば、僕とは違うアンテナを持った店長が、僕のためにいろいろなものを試聴して、そして店長が積み上げてきた音楽耳によって判断された「良い音楽」を僕に提示してくれているのだと思う。お店でのやり取りとか、お店の整理の仕方とか、看板の出し方とか、贔屓目に見てもマズい点は沢山あると思う。だが、この音楽に対する判断は素晴らしい。えてしてこういう人は別の側面の完成度に欠けるのだろうし、その不器用さが一般に受け入れられ難いということにつながるケースが多い。でもその分、音楽へのニュートラルでピュアな感性は優れているわけで、僕は今回の関西出張でそういう出会いを持てたということが、大きな収穫の一つだったなあと心から思っているのである。そして今後、彼が紹介するCDを、出来るだけジャンル的にも自分とは遠いなあと思うようなものを選びながら、毎月のように買っていきたい。そうすることで、彼のようなピュアな活動がちゃんとビジネスに乗る、ほんのちょっとくらいの後押しになればいいなと思うのだ。