Wednesday, March 23, 2011

怖いこと

 震災の後、いろいろなことがあった。公的にも、個人的にも。そして何度もブログを書こうとして、うまくまとまらず、消して、書き直そうとするとまた新たな出来事が起こって、それにも触れなきゃと思ったらまたどんどん難しくなって、長く書くものの散漫な文章にしかならない。それも震災後の心の動揺なのかもしれないと思う。

 なので、事実の記述など、説明的なものは結構省こうと思う。もちろん少しは書くが、このブログは解説書ではないのだから、全体を網羅する必要など無いと割り切ろう。

 で、僕は今思うのだ。なんでみんな自粛するのかと。何でも自粛。もちろん必要な自粛もあるだろう。でも、過度な自粛もある。そしてその過度な自粛に人を追い込む社会的雰囲気。これは怖いと思うのだ。

 一例を挙げよう。プロ野球の開幕延期。東京ドームでのナイターが電力を使いすぎるなら関西でやればいい。地方にも球場は沢山あるぞ。箱モノ政策による使用されない立派な球場を今こそ使う機会だ。しかしそういうアイディアは出てこなくて、単に延期。何故だ?そういうことが問題になっているときもオープン戦はちゃんとやっている。オープン戦は良くて公式戦がダメという理由はない。あるとしたら、営業的な問題だけだ。そりゃあ東京ドームの方が売上げも多いだろう。でも、延期にして試合をやらないくらいなら、小さな球場でもやった方が売上げもある。なのに、延期の話しか出てこない。何故だ?
 個人的な推測だが、東北が大変な時にのんきに野球なんかやりやがって、停電をみんなが我慢してるのに野球なんかやりやがって、という感情論が少なからずあるのではないだろうか。

 僕の専門分野でもある音楽業界も自粛ムードが広まっている。これも表面的には照明や音響で電気を沢山使うライブは云々といわれている。それでバンドマンたちは本当に悩んでいる。関西のあるバンドマンの話を聞いたのだが、mixiの日記で、自分なりのバンドへの姿勢を、今回の震災と絡めて書いたところ、結構なバッシングを受けたそうだ。「こんな時に音楽など、被災した人のことを考えられないのか」等々と。それで彼はすっかり萎縮して、ブログも書けなくなっているらしい。
 他のバンドもそうだ。ライブ告知をどうしようかと悩んでいる。メールを送っていいものだろうか。HPやmixi、Twitterなどでライブ告知をしたら「無駄に電気を使うことなんて非常識」とバッシングされるんじゃないか。勇気を出して告知しようにも、ついつい謝罪めいた文面になってしまう。実際に電力を使わないようにアンプラグド形式でライブをやろうとか、ライブをチャリティーイベントにしようとかいう傾向になっている。実際にチケットの売上げはすべて義援金にしますって言ってるライブの多いこと。関西でもそうだ。節電の必要が現実的にない関西でも。
 でも待てよ。バンドはイベントをやるのが主目的ではなくて、表現をするのが主目的だ。イベントさえやれれば良いのなら、アンプラグドでもいいだろう。しかし電気楽器を使用して爆音を上げることそのものが表現であるという音楽もあるのだ。そういうバンドがその爆音を鳴らさないのなら、そもそも表現する意味がなくなるはず。しかしそういう表現をすることが自粛に追い込まれようとしている。そういう表現を抑圧する力って一体なんなんだ。
 それに売上げをすべて義援金にっていうのはやり過ぎだろう。どこのレストランが売上げを全額寄付にしている?イチローが1億寄付したのは素晴らしいが、それは彼の収入すべてではない。売上げが全部義援金に行かないと納得してもらえない雰囲気って一体なんなんだ。おかしいよ。

 今回の震災の影響で、福島第一原発の事故が起きた。放射能汚染を心配する人たちが福島の原発周辺から退去しなければいけない事態になっている。退去命令が出ている区域は20km圏内、屋内退避が30km圏内だ。じゃあ、31km地点は安全なのか?その判断は現時点では国は行なっていない。原則的にはそこに住んでも問題はないはず。だが、どんどん県外に避難しているようである。では福島県を離れればいいのか。その線引きは、結局は各自が行なわなければいけないというのが現状である。東京からもどんどん人が西の方へと流出している。もちろん各々の判断だ。そこには当然リスクもある。仕事はどうするのだ。生活はどうなるのだ。様々な要因で、避難しなくてもいいと考える人、避難したいが仕事などあって避難出来ない人、仕事の問題もクリアできて避難する人、クリアなど出来ていないがすべてを投げ捨てて避難する人。様々だ。残るのも出るのもリスクである。そのリスクをどう評価するかは、結局個人的な問題なのだ。
 しかし、先日ラモス瑠偉氏がブログで「もう一度 冷静になれよ/東京の人間まで逃げてどうするんだよ!/(中略)/東京の人間はまだまだ恵まれてるんだぞ/自分の事だけ考えるのは いいかげんやめようぜ」と発言した。基本的なトーンは彼一流の「元気を出そうぜ」的なものだった。「自分のことだけ考える」というのは、主に食料品買い占めなどに対する怒りである。
 だが、ここにこそ、今回の自粛ムードと共通する問題があるのではないかと、僕は思うのである。

 ここからが、難しい。なぜならmixiの日記を書いたバンドマンがバッシングを受けたようなことに、僕自身もなる可能性があるからだ。自分と違う意見の存在を認めるのは簡単なことではない。だから自分と違う意見を持った人のことを全人格も含めて否定してかかろうとする人たちが少なからずいることも事実である。だが、言論の自由とはそういうものではない。僕はこれから挙げる言葉を何度も引用してきたので、またかよと思われる方もちょっとくらいはいるかもしれない。だが敢えて繰り返す。フランスの哲学者ヴォルテールはかつてこう言った。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と。これは表現の自由という、民主主義の根幹に関わる考え方を端的に示している。つまり、ある人の意見が間違っているからといって、その人がそういうことを言うことまで封じようとするのはもっと間違っているということである。
 これと対極的なのは、敗戦前の日本の風潮にあった。現人神であった天皇陛下の威光の前には誰もが逆らえず、それを利用した軍部に批判的な言説を述べるとたちまち投獄されたし、「欲しがりません勝つまでは」「一億火の玉神の国」などというスローガンのもと、子供を戦地に万歳三唱で送り出した。
 誤解して欲しくないのだが、軍国主義が100%悪いといってるのではない。そういう主義もひとつの主義だ。僕は軍国主義はいけないと思うけれども、ある人が心の底からそれを是とするなら、それは構わないのである。そういう人が子供を戦地に送ろうと、子供も完全理解の上で受け入れているのであればいいのだ。だが、当時のそれは必ずしもそうではなく、全体主義と絡み合って、そういう考えと相容れない人たちに「非国民」というレッテルを貼った。そのレッテルで罰した。もちろん当時の法律では、徴兵から逃亡したら法的にも罪だったわけで、制度的にも戦地に行かないのは違法行為だったのだが、戦争反対を口にすること自体は、法というより社会の空気が罰していた。

 戦後、そういうことは良くないということになった。戦後教育は自由を是とした民主主義だったはず。個人の自由を、もちろん法に違反しない範囲ではあるが、最大限に尊重される社会を目指したはずである。しかし今、震災と津波の後の混乱に加え原発の非常事態。3つ併せた結果の電力不足。その結果、他人の行為を容認しない機運が徐々に高まっている。それが非常に怖いことだなあと感じているのである。

 野球、予定通りの日程で開幕すればいいと思う。そこで使用する電力には配慮して、東京電力の圏内以外の場所で昼に開催すればいいだけのこと。開幕を遅らせろ、セリーグはパリーグと同時開催にするべきだという主張には、言うのは自由だが何の合理性もないと思う。なぜなら、数日遅らせることで電力の問題はなんら解決しないからだ。その主張を押し通すなら、開幕を遅らせるのではなく、今シーズン、いや電力供給が以前と同じになるまで数年でもプロ野球は禁止にするというのが筋だろう。そこまで言わずに十数日の延期でOKというのは単なるガス抜きに過ぎない。いっそ予定通りに開幕したところで大差はない。ナイターで帰宅の足が心配だという人は、観に行かなければいい。それでも行くという人は、そして延長線まで観るという人は、帰宅の方法は自分で考えればいいだけのことだ。全試合延長線を行なわないなんて決定もナンセンスである。そのルールの変更は、野球を別のゲームに変えてしまっている。だったら既に今シーズンそのものを中止したのと変わらない。これまでの野球というゲームのシーズンが全部中止になり、新たに電力不足時代の野球というゲームが、新たに創設されたようなものだ。同じ野球という言葉を使うからややこしい。いっそ「Power less ball game」というタイトルにしたらいいのだ。そんな競技はあまり見たくないな。見るけど。

 バンドマンも、堂々とライブをやればいい。堂々とやれない気持ちになるのはなぜか?自信がないからだ。自分たちの活動がリスナーに勇気を与えるんだと信じているなら、やれば良い。そのために電力を消費するのが迷惑になる?それを上回る貢献が音楽で出来ると信じているのなら、やればいいのだ。被災地にクルマで駆けつけてボランティアをしている人たちに向かって「余計なガソリンを使いやがって」というような非難は出ない。役に立っているからだ。昨日まで日本公演を決行したシンディーローパーには絶賛の声が上がっている。人々に勇気を与えたからだ。それと較べて自分たちはどうなのかを、各バンドマンが自問自答すれば良い。もちろんシンディと同じ効果を与えられなくてもいい。それは個人で10億寄付する実業家がいるからといって、自分も10億寄付出来ないことを恥じる必要がまったくないのと同じことだ。一般市民が1000円寄付することが非難されるか?そんなことはない。だったら、無名のバンドマンであっても、自分たちの身の丈にあった貢献がきっと出来るはず。その貢献は何もチャリティーイベントをして売上げを寄付に回してということではない。普通に今まで通りの演奏をするだけでいいのだ。今はまだ無名でも、普通のライブを重ねることでいずれは大きな存在になるんだという思いがあれば、それでいいんだと思う。もちろんこの状況下で、これまでとは違った真剣度で作品作りやパフォーマンスと向き合い、自分たちの音楽家としての存在意義を高める努力が要求されるだろう。だがそれをやりさえすれば、無名のバンドマンのライブもけっして無駄なんかではない。それを非難する人がいるならさせておけばいい。萎縮してすべてを自粛してしまう方がよほど危険であり、社会のためにマイナスなのだ。

 ラモス氏は怒るだろう。それも彼の自由だ。だが、同じ環境、状況であっても、不安に感じる人と感じない人は同時に存在するのだ。ジェットコースターなど恐くないと思う人が、恐いと思う人に「ジェットコースターに乗らないなんてバカじゃないのか」「バンジージャンプほど恐くはないだろう、ジェットコースターで済むお前は恵まれてるんだぞ」といって無理矢理乗せる権利などない。どんなに安全だと説得されても、僕はバンジージャンプなんて絶対にやらないけれど、喜んでやっている人は沢山いる。どちらが悪いのか?いや、どちらも悪くない。同じように、東京を脱出する人も残る人も、どちらが悪いということではないと思う。どちらにもリスクがあるのだ。そのどちらをより自分が受け入れられると考えるのかという、状況と思考の結果にすぎない。

 だがこれは自分の健康や仕事、すなわち人生の根幹に関わることなので、そんなジェットコースターのような娯楽についての考えほどに軽くはない。どちらにしても重大な決意を伴う。だから、自分と違う考えや結論を出す人を非難することで、自己正当化をしようとする傾向は出るだろう。だが、それが全体主義につながる危険な兆候であることは間違いない。そう、僕らは史上最大といわれる災害に遭って、生活や健康などを激しく揺さぶられることによって、実は精神構造までも揺らがされているのである。そしてそのことに多くの人があまり気がついていないということが、僕には大変怖いことなのである。

Thursday, March 03, 2011

罰則

 京都大学の入試でYahoo知恵袋を使ったカンニングをした予備校生が逮捕された。このニュースはセンセーショナルに報道され、その結果今回の逮捕に至ったわけだが、僕はこの件にかなりの違和感を覚えた。

 まずハッキリさせておきたいのだが、カンニングは悪いことである。厳しく罰せられる必要がある。カンニングされた大学側はその生徒を出入り禁止にすべきだと思う。今回合格点を取っていたならその合格は取り消しだし、合格点に達してなかったとしても向こう数年は受験さえ出来ないという処置はあって然るべきだ。大学側の怒りがMAXなのであれば未来永劫受験禁止でもいいだろう。その裁量は大学側にある。そしてこれは単に京都大学ということでなく、国公立大学全体に広げたとしてもいい。そのくらい、カンニングは大学の運営に対して悪い行為だといって間違いない。

 だが、逮捕というのは行き過ぎだ。人間としてその後の人生に大きな影響を与える。そこまでの悪事か?過去にもカンニングはたくさん行なわれて、見つかった者も見つからなかった者もいたはずだ。見つかった場合、逮捕されたか?そんな事案が一度でもあったか?かつて大問題になった早稲田大学商学部での裏口入学事件では、合格した学生を不合格にし、前年までの試験で入学していた在校生と卒業生に対して入学取り消しおよび学籍抹消の処分をした。せっかく4年かけて卒業しても、卒業扱いにならなくなって本人はショックだっただろうが、それでも逮捕はされていない。だが、今回はカンニングをしたことで逮捕になっている。著しい不公平があると思われる。

 今回はネットを使った大胆なカンニングだったということが関心を呼んで、メディアで大々的に報じられたため、警察も動かざるを得なくなったというのが実際のところだろう。これについて堀江貴文氏がTwitterで「被害届が出ても警察はそのほとんどを放置する。財布が盗難されてカードがドンキホーテで使われて、そのビデオまで出したのに動いてくれなかった」と言っていた。なるほどと思った。僕も以前、駐車中の車のドアミラーが壊されていて、110番したらお巡りさんが4人で自転車に乗ってやってきて、一目見ただけで「ああ、これは見つからないね」と言い放った。捜査する気などまったくない様子だった。そのうえ4人のうちの1人が「キミねえ、ここ、駐車違反でしょ」と言い出した。その場所は私道で、アパートの大家さんから停めていいと言われていた場所だったのでそれを説明して事無きを得たのだが、事件は当て逃げだったのだ。しかも細い袋小路で、奥の家の車庫にはたった1台の車があるだけ。それをちょっと調べれば、その車が当て逃げしたかどうかは判る。その車が違っていれば見つけることは難しくなるだろうけれど、それさえしていない。それで「見つからないね」である。僕の警察への疑問視はその時に始まったのだった。

 話を戻そう。警察が個人情報の開示を要請して、他府県の警察に動いてもらうというのはよほどのことのはずだ。それをしてでもつかまえる対象がカンニング学生。公平性もなければ、教育的配慮もない。未成年の犯罪の場合、更生の可能性に配慮して犯人の特定につながらないようにする。が、メディアで話題になれば容赦ない捜査だ。そこに人間としての躊躇なんてなかったのだろうか?なかったんだろうな。それはなにも警察だけが問われている人間性や躊躇ではなく、1面で報じた大新聞や朝からトップニュースで騒いだワイドショーにも欠けている人間性や躊躇なのだ。狂っている。

 繰り返すが、僕はカンニングはかなり悪いことだと思うし、その学生は厳しく罰せられなければいけないと思う。だが、やはりどう考えても逮捕は行き過ぎだ。それを行き過ぎだと思わない人がものすごく多いんだなということが判って、僕は悲しくなった。怖くなった。

Wednesday, March 02, 2011

平成の開国

 その人は「アロマー」と繰り返し口にしていた。どうやら「ありがとうございました」と言っているつもりらしい。松屋での出来事だ。

 最近、牛丼屋ではこの手の外国人スタッフがやけに多い。というよりほぼすべてのホールスタッフは外国人である。東京に限ったことかもしれない。だが東京都心の牛丼屋スタッフは確実に外国人で占められている。これは20年前にはなかったことだ。だから初めて外国人スタッフを見た時には正直驚いた。だがそれもすぐになれる。名札に「ぺ」とか「ファン」とか「リ」とか書いてあっても一向に驚いたりしなくなった。今や「山田」と書いてある方が驚きの対象である。ああ、日本人も牛丼屋で働いているのだなと。

 理由は、あるだろう。外国人スタッフの方が安い賃金でも働いてくれる。ものつくりの現場では早くから製造をアジアの途上国で行なっていて、僕らが着ている安い服の大半は中国製だ。遠くで作られる製品のスタッフはほとんどが既に外国人だったのだ。それが僕らの生活圏にも進出して、牛丼をよそってくれ、みそ汁とともに配膳してくれている。それだけのことだ。経営者は安く深夜も働いてくれる労働力を求め、自国での賃金よりも稼げる職場を外国の人が求め、ニーズがマッチしたということに過ぎない。

 日本では今就職難といわれている。大企業は不況下の経営でとりあえずの利益を出すためにリストラを繰り返した。人を切ることがある程度進めば、次は増やさないことで利益をキープしようとする。だからそもそも枠がなく、過度の椅子取りゲームを強いられる。就職難はそういうことを背景に語られている。だが、一方で牛丼屋の仕事はどんどん外国人に奪われている。そこで働きたいと言っても新卒の就職希望の人は働けないのだろうか。いや、おそらく働けるだろう。大企業で働きたいのに内定がもらえないということだけが就職難なのであって、何でもいいから働く場が欲しいというのであれば難ではないのだ。

 働きたい場所に枠はなく、枠のある場所では働きたくない。自分をどれだけ偉い存在と思い込んでいるのかは判らないけれども、そこにミスマッチがある。そのミスマッチをついてアジアの人たちがどんどん入ってくる。円高の今こそ、日本で稼ぐ意味があるのだろう。仕事がないと嘆いている日本人をよそに、着実に高い円を稼いでいく。平成の開国はなにも菅内閣が提唱せずともすでに進んでいるんだと思う。

 思うのだ。大企業に入りたいだけの高望み学生よりも、黙々と働き牛丼を運んできてくれて、店を出る時に「アロマー」と謎の言葉で送り出してくれる外国人の方により共感を感じるのだと。彼らは日本にやってきて、円を稼いでいくと同時に、僕らの心の中にあるくだらなく偏狭な愛国心を溶かしてくれているのだと。平成の開国とは、そういう僕ら心の中にある垣根を取り払うことなんじゃないかと。