Monday, September 03, 2012

本物の素人

前原誠司が「橋下人気にぶらさがって、大阪維新の会から出馬する政治の素人が、当選すると日本はえらいことになる」と発言したらしい。そのことに対して罵倒ツイートがたくさんあった。「素人民主党にまかせた結果が今だろ」というのがその主な趣旨だ。

 だが、それはちょっと違うと思う。個人的に前原誠司は嫌いだし、今の民主執行部を嫌いな理由のかなりの要因が前原誠司にあるとさえ言える。が、だからといって彼の言うことをすべて否定するつもりはない。批判するなら何故批判すべきなのかということをちゃんと考えないと単なる怨嗟になってしまうし、それだとこちらもおかしくなってくる。

 素人民主党にまかせた結果が今なのではない。それはある勢力の後押しをしてしまう短絡だと僕は考える。その論で前原を非難するのは間違っている。では、前原は正しいのか。そうではない。完全に間違っている。政治は行政を御さなければならない。この場合の行政は官僚のことである。なぜなら、政治は国民に審判を受けるが、官僚は審判を受けないからである。行政が政治を御すことになれば、それは民衆が国家に支配されるということに他ならなくなるからである。そのことを先の総選挙では問うた。少なくとも小沢執行部によって出されたマニフェストはそれを意味していた。民主党の候補者はそれを掲げて選挙を戦い、議席を得た。そこまでは良かったのである。しかし小沢勢力が力をつけることを恐れる勢力が反撃をしてきた。当然官僚組織である。それに手を貸したのが現在の民主党執行部である。

 小沢執行部は自民党から政権を奪うとも言ってきた。それはどういうことか。政治の悪しきプロから政治を取り戻そうということである。民主党は、自民を離党した人と、自民から立候補したかったけれども世襲ではないので出られず、日本新党などから足掛かりをつかんだ人と、万年与党だった人とで成り立っている。前原などは自民から出馬できなかった部類だ。自民には二世三世も多く、大臣経験者も多い。そういう人が自分たちの足場を固めるために官僚とくっつく。いわゆる族議員だ。族議員というと聞こえは悪いが、彼らはある分野の専門家である。プロ中のプロだ。素人がよくないというのであれば、そういう族議員に任せればいい。その族議員とツーカーの官僚に任せればいい。官僚とツーカーの業者に任せればいい。官僚は公開入札といいながらも「この規模の仕事の経験を十分に有している業者」といった制限を加え、実質的な新規参入排除をするだろう。そうやって税金が一部で回る社会が出来るだろう。それでいいのなら、そうしていけばいいじゃないか。でも、それはいかんだろう。ダメだろう。だから、これまでの既成の体制を崩す必要がある。既成の体制でのプロフェッショナルではダメなのだ。それが前回の総選挙だったのではないか。僕はそう思っている。

 もちろん、素人議員は誕生するよ。しかし小泉チルドレンの時は面白いくらいにチルドレンが小泉純一郎の言うことを聞いた。だから、小泉純一郎という政策を実行していけたのである。民主主義は数だ。その数が集まれば国会は動く。小泉チルドレンを当選させた当時の有権者は、個々の政治家の政策を信じたのではない。この無名の人に投票すれば小泉純一郎が何かを変えてくれると信じたのだ。民意は国を動かした。

 だが、民主党の当選議員達はそうはならなかった。素人が素人として自覚し、トップを支えるために数となって動きさえすれば、民意は国を動かしただろう。しかし、民主党の当選議員達は不満を持った。自分の思い通りにさせろと。それはある意味勘違いですよ。前原も代表をやったのに政権を取ることは出来なかった。菅直人も代表をやったけど政権は取れなかった。岡田も代表をやったけれど政権は取れなかった。小泉にぼろ負けした。結局選挙で民主党に議席をもたらしたのは小沢一郎だ。そのことを考えれば、自分たちは数として小沢を支えるべきだったろうに、それよりも自分の地位を優先させた。その結果、内部分裂を来たし、今になっている。今の民主党執行部は、プロにもなりきれず、素人にもなりきれない、実に中途半端な自己中心議員でしかない。どれだけ巧言令色を尽くしても、その事実は変わらない。

 僕は、維新が勝つなら勝つでいいと思う。きっと勝たないと思うけれども。だが、もし勝つのなら、本当に橋下人気で勝ったんだということを自覚できる、本物の素人たちで勝利して欲しいと思う。そして橋下が思うように政治を変えて欲しいと思う。橋下の政策がいいとか悪いではないのだ。それが民主主義であり、主権者たる国民の意を汲んだ政治の実現になると思うからだ。小泉の政治が国を悪くしたと言う人がいる。それは一面で当たっていて、一面で間違っている。本当の真実などはどこにもないし、小泉を非難することで自分の立ち位置を確保しようという人は確実にいて、その人のいうことが真実であるはずもないのだ。同様に、橋下の政治が国を良くする一面も、悪くする一面もあると思う。だが、それはあくまで結果であって、本質ではない。僕が重要と思うのは、この国が良くない方向に行こうとした時に、国民がブレーキをかけ、方向転換をさせられる可能性を確保するということである。それさえ担保されれば、仮に橋下の政治が国を壊していったとしても、また修復することを可能にさせる。今の民主党のように、自民とは決別するといって戦ったのに、途中から180度変節して自民と組んで政治をしようとするのは愚の骨頂だ。民主主義に対する最悪の挑戦である。そんなことが許されれば、選挙など必要ないではないか。そしてまさにそのことこそ、既得権を持っている、「プロ」たちの望むところなのである。

 前原誠司の愚かなところは、まさにそこに端的に現れている。素人による政治が悪いのではなく、プロによる政治が悪いのである。現民主党の政治とは、プロと思い込んでいる素人達による政治であって、一番タチが悪い。経験も乏しい素人の政治だから、プロの官僚の力を借りなければならず、結果的に操り人形になっている。なのに自分たちが操られているということにさえ気付かず、国を崩していく。素人を自覚している素人が政治の数としてプロ政治家の駒になることはいいのである。プロと勘違いしている素人が、プロを排除した上で、素人による政治の可能性を批判している。これが愚かであり、哀れである。彼は本物のプロにも成れず、さらには本物の素人にさえ成りきれずにいるのだ。