Tuesday, April 30, 2013

3年目

 2年前の4月28日午後に僕ら夫婦は車にたくさんの残り荷物を積んで東京を出発した。連日の引越準備の疲れからか、途中のSAでかなりの休憩&仮眠をとり、結局京都に着いたのは日付が変わった4月29日の午前2時を回っていた。  荷物を懸命に新居に運び込み、とりあえず寝た。翌朝まずトイレットペーパーを買いに行き、ついでに簡単な朝飯を買って食べ、京都の体育館に向かった。偶然にもその日は福岡の兄が剣道の昇段試験を受けに京都に来ていたのだった。会場のスタンドから見ていると大勢の道着のオッサンの中に兄を発見した。笑顔だった。六段に昇進した瞬間だった。僕らの新生活にも弾みがつくような気がした。その後引越祝いと試験合格祝いを兼ねて食事をした。なにか不思議なランチだった。  それから2年が過ぎた。僕らには昨年長男が生まれ、今は3人での生活である。2年のうち10ヶ月が妊娠期間で、長男が今10ヶ月と11日。京都での純粋な夫婦だけの時期は4ヶ月ほどしかなかったのかと思うが、今となっては夫婦だけの時間があったのかと思うくらいに子供の存在感は大きい。  京都生活3年目に突入した訳だが、すべて順風満帆というわけでもない。頑張らないといけないと思う。親になったんだから余計にそうだ。  そんな感じで、気持ちを新たにしたい、そんな新緑の京都である。

Friday, April 26, 2013

記録の行方

 僕らは日常的に写真を撮る。携帯に写真が付いてからの僕らの習慣だ。  それまで、写真は高かった。36枚のフィルムを撮って現像したらすぐに1000円だ。100枚撮れば3000円。そんな簡単にバシバシ撮るものではなかった。でも今はすぐに録れる。気軽に録れる。赤ちゃんの表情を撮りたいと、毎日連写だ。たった1枚のベストショットのために100枚くらいはあっという間だ。そのベストショットを家族に送ったり、facebookで公開したり。残りの99枚はどうするのかというと、消す訳でもない。とても消せない。だってそれも貴重な長男の一瞬なのだ。消せる訳がないじゃないか。  そうして、おそらく二度と見ることのない写真は溜まっていく。ハードディスクのどこかに格納されていく。  坂本龍馬の写真が残っているが、当時は1枚を撮るのにものすごく時間がかかったそうだ。しばらく動かずにジッとしていなければならない。当然高かっただろう。だからそんなに枚数も撮られず、結果として撮った1枚だけが残ることになる。他の瞬間もきっとあったのに、坂本龍馬の記録はその1枚ということになり、みんなのイメージはあの立った写真の坂本龍馬ということになる。  たくさんあれば、分散する。その時の意識も分散するし、後から省みる時間も分散する。あの日あの時の記録は、人によってバラバラになる。それも仕方がない。そういうものなのだから。僕らはなんのために写真を撮っているのだろうか。気軽は良い。だがその気軽が結果的に価値を下げているのではないだろうか。  僕は思うのだ。後から見返すことに意味があるのではなくて、今この瞬間自分はこの光景に注目しているんだという意識を自覚するために写真を撮っているのではないかと。だから、撮ってしまえばメモリやHDに収納され、後で見返すことなど無くたっていいのではないだろうか。とはいえ、もう見ないからと割り切ってデータを消去してしまう勇気はまったく無いんだけれども。  

Friday, April 19, 2013

クオリティ

 今日はいろいろとあった。千葉と韓国から荷物が届く予定で、届き次第作業開始だったのだが、まず、出社と同時に電話。ヤマト運輸から「すみません、配送所の手配ミスで午前着指定のお荷物が別の集配所に送られてしまってて、頑張っても夕方5時から6時くらいになってしまうんです」と。それはマズい。その荷物が届いたら作業をして夕方までに出荷する予定なのだから、5時から6時に届いたら出せなくなるじゃないか。集荷は6時までと決めているのはそもそもヤマトなんだし。  で、ちょっと文句を言った。「ええっ、それは困ります。その荷物が来ないと今日の仕事がストップしてしまうじゃないですか。なんとかして午前中に届けてください」と。相手困って「1時半に大阪の集配所に着くんです、そこから特配をやって、それでも2時半から3時のあいだくらいにしか」と。もちろんこちらも午前中には絶対に着かないことはわかりきっているのでそれ以上無理なことは言わない。「ではそれで」ということに。ただ、そのことで本日中にすべての作業を終えて発送する予定が出来なくなることも事実。だからといって全部明日発送では困るのだ。結局今日一部を発送して、明日また残りを発送するということになってしまうのだが、その2つに分けることになった送料は一体誰が負担すべきなのか?僕か?いや、今回の件では僕に落ち度は無い。だったらミスをしたヤマトが持つべきなんじゃないのか。そのことを丁寧に説明したところ、了解しましたと。2個目の送料はヤマトが負担しますと。まあ当然だ。当然だとは思うけれども、この当然が行なわれないのが配送業者のほとんどじゃないだろうか。  まず、午前中指定の荷物が午前には届かない。ヤマト以外では日常茶飯事だ。当然連絡も来ない。以前、午前指定の荷物が来ないのでセンターに問合せをしたところ「お客さんのところ(つまり僕のオフィスの住所)に午前中に配達するのは無理なんだよねえ」と。だったらサービスとして午前指定を受けるなよ。なんだよその開き直りは。またつい最近だが、やはり午前指定の便が朝8時台に来たらしく、不在が入っていた。それが午前10時ちょっと前。僕はセンターに問い合わせしたところ、すでに別の地区の配送をしていると。午前指定にしたのは必要だからなんだよと言いながらも、まあ9時前に会社に行かなかった僕が悪い(何故?)のかもしれないので、じゃあ再配達は最短で何時だと聞いたら、1時半だと。それ以上早くには絶対にならないと。なので、僕は銀行に行くことにした。銀行に行って、12時50分に帰ってくるとまた不在票。おいおい、1時半までに行くことは絶対にないと断言したじゃないか。それでドライバーに電話してどういうことだと問いつめた。すると「電話したんですけど出なかったもので」と。いやいや、1時半までには絶対に無理というから外出したんじゃないか。外出していて電話に出ないのは当たり前だろ。あまりに理不尽なのでかなり怒って話したら、じゃあすぐに持ってきますと。なんだよ出来るんじゃないかよ。  その他にも、代引きの荷物が届いてもほとんどの運送会社はお釣りの用意がまず出来ていない。それで「細かいのありますかね?」と言ってくる。もし無かったらどうするつもりなんだろう?その点ヤマトはお釣りは確実に用意しているし、そもそも代引きの荷物を届ける時は事前に「これから伺ってもよろしいですか?代引きが○○円になってます」と確認してくる。  基本的なサービスの質がまったく違うと思う。そんなヤマトでもミスは起こる。もちろんミスは困ったものだが、それでも起こるのだ。問題は起こった後の対応なんだろう。トラブルがあってもきちんと誠実に対応してもらえれば逆に好感度が増すようなこともある。今日の夕方作業済みの荷物を集荷してもらう際、京都のヤマトのスタッフが「なにか今日ご迷惑をおかけしたそうで申し訳ありませんでした。この荷物をこちらの費用でお送りすればよろしいのですか?」と聞いてきた。ちゃんと連絡が通っているということが確認出来る。これがヤマトクオリティなんだろうと思った。送料は少しばかり高いけれども、送る相手に迷惑をかけられないよと思うから、うちではもうずっとヤマトでしか送っていない。こういうクオリティは、発送した相手に対してウチがどう映るのかということのクオリティでもあるのだと思う。

Tuesday, April 16, 2013

最近思う政治のこと

 昨年末の総選挙以降政治のことについてまったく書いていなかった。そもそもブログの数が少なかったんだけれども。  で、今の状況をどう思っているのかを簡単に書きたい。今の政治状況は、閉塞感をどう打破するのかということに対するひとつの答えだと思っている。閉塞感が続くことが不況なのであり、不況はなんとか打破しなければいけない。それは僕も同じ考えだ。しかし打破するやり方というものは個別検討されるべきであり、今の状況はやはり危ういという気がしている。  閉塞感を打破する為にいろいろなことをぶち上げている。自民が政権を奪還し、アベノミクスという造語が飛び交って、さもいろいろなことが改善しているように見える。だが、これは見えているだけなのだ。いや結果として株価は上がっているだろう、円は安くなっているだろうと言う人も多いだろう。だが、じゃあなにをやったのかということが見えていないのだ。僕が見えていないだけなのか?僕の目が節穴なだけなのか?そうなのであれば喜ばしいことだ。だが日銀の首をすげ替えて金融緩和を大胆に行ない、経済界にニラミを利かせて一部の給与上昇を実現させた。ではその企業は売上がアップしたのだろうか。アップはしていない。それなのになぜ給与を上げて政府に協力をしたのか。正確なことは闇の中だろうが、協力をすることでなにか良いことがあるのだ。そうでなければ、協力をしないことでとんでもない悪いことを仕掛けられるのかもしれない。  アベノミクスとは何処から来た言葉なのだろうか。レーガノミクスを彷彿とさせる造語で、エコノミクスとアベを組み合わせたものだという説明はもういい。そんなことは判っている。だがそれが数年前から既にあった言葉ではなくて、安倍政権誕生とともにどこからともなく降ってきたように人口に膾炙し始めた。誰が考え、何故広められたのかということである。おそらく電通などが考え、巨大メディアで一斉に使われ始めたのだろう。そうでなければこんなに短期間に広がったりしない。つまり、意図的にその言葉は世の中に送り込まれたのである。ということは、送り込むことで何らかの効果を期待し、その効果で自分も得をするという人たちがいるということだろう。  それが、この国の支配層なんだと考えている。  江戸時代には士農工商という身分制度があった。自由平等の社会になり、そんなものはとうに無くなったと思っていた。しかし、世襲によって身分が固定されることが無くなっただけのことで、世の中にはリーダーと指示に従う人が一定の割合バランスで存在しなければならない。被差別階級も昔はあって、何故そんなものがあるのかというと、被差別階級の最下層にいる人たちのプライドの問題なのだろうと考える。そこが「まだ下がいる」と思うことによって社会の治安はかろうじて保たれる。そんなことのために被差別を受けなきゃいけない人はたまったもんじゃないが。で、今のこの瞬間にも士農工商でいう士のポジションもあるし、農も工も商もある。そこにそれぞれがポジションを持って生活をしている。士は自分のポジションを保つ為に一生懸命だし、そのポジションを正当化してくれる社会制度を維持することに懸命だ。アベノミクスはそのために出てきた造語だと僕は思っている。発している人も伝播している人も、安倍という人の人気を高めて政治的安定を与え、その安倍という人が与える地位や禄をより確かなものにしようとしている。末端の人たちがなんとなく生活がよくなるような雰囲気を醸し出す。あくまで醸し出すだけなのだが。  醸し出しているうちに次の手を考えよう。この国は資源を持たず、エネルギーも食糧も輸入に頼らざるを得ない。だとすればそれを買う為のお金が必要だ。その金はどうするのか。輸出しかない。輸出することで得た金を使って様々な物資を買うのだ。ではその輸出産業はどうなのか。残念ながら現状の見通しはついていない。大手企業の散々な有様には目を覆うばかりだ。しかしながら景気は回復する。そんなことがあるのか?ある。バブルだ。実体経済とはかけ離れたマネーゲームでの繁栄をバブルという。それはこの20年でさんざん学んだことじゃないのか。でも残念ながらその方向にまた進みつつあると感じて仕方が無い。マネーゲームそのものが悪いわけではない。市場は必要だし、そこで活躍するプレイヤーというものも必要なのだ。ユダヤ人は代々そういう役回りをしてきた。マネーゲームで富を得た。だがこの半世紀ほどのマネーゲームは度を越し、さらには昔ながらそういうことをやってきた人たち以外もそのゲームに参入してくる。さらには1人で占める富の量がハンパ無くなってきた。その結果どうなるかというと、市場以外の人も巻き添えになるということだし、その規模が膨張して個人レベルから企業レベル、そして国家レベルでマネーゲームに参入することになるのだ。  しかし、マネーゲームは博打である。勝つ人と負ける人が必ず出てくる。勝っている間は夢を見られるが、負けたらどん底だ。それを国家がやり始めたらどうなるのか。それはおとっつあんが博打場に入り浸り、勝っている間は家族にお金を持ってくるけれども、負けたら娘が借金の形に売られてしまうと、そんなことになるのではないか。それがいやだからおっかさんがおとっつあんに「もう博打は辞めてくれよ」と懇願する。でも博打にのめり込んだおとっつあんが辞められるものか。今の日本ではおとっつあんが政府である。国民はそれをどうやれば止めることが出来るのだろうか。多分無理だ。選挙で冷や水を浴びせなければそれは無理なのだ。だが士のポジションを維持したい政府とメディアが一緒になってアベノミクスを素晴らしいものと喧伝する。あと半年もせずにその選挙だ。前回の総選挙で非自民勢力を分断した維新の会が、今度は与党のダメな部分をすべて背負って瓦解するだろう。メディアの注目はまたすべてそこに向かい、本当の意味での非自民を結集させることを阻止するだろう。そうして自民の博打は続いていく。と、思う。  こうなったら自民の博打が未来永劫勝ち続けることを期待するしか無いのだろうが、そうもいかない。いつかは負ける。その時には何が起きるのか。開き直りだ。そして敵を外部に作り、国民の不満の視線を逸らそうとするだろう。つまりそれは戦争だ。戦争によって政府批判など出来ない雰囲気が醸成され、これまでの約束事がすべて反故になり、軍事産業が盛上がる。それはすべて支配層の産業であり、市民の産業はことごとくそのための犠牲になるだろう。これまでの歴史が証明し続けてきたことだ。なぜ戦争が無くならないのか。それは人間の作った社会やルールは完全ではなく、必ずどこかにほころびが生じて、それをうやむやにする必要が出てくるからなのだと思う。  戦後もう何十年たったのだろうか。この社会はかなり成熟し、硬直してきている。人間ならば動脈硬化しきっているというところだろう。そのツケをどうにかして払わなければならない。そんな時期にさしかかってきているように、漠然と感じているのだ。

Friday, April 05, 2013

やらなきゃな

 やらなきゃな。そう思う。  なにをって、まあいろいろだけど、まだまだ足りないって思う。今日あるバンドが会社にやってきて、この1年ほどの活動報告とぶつかっている壁などの相談をされた。それを聞いていて、僕なりの意見を言わせてもらった。多くのバンドと仕事をしてきている経験から、ほとんどのバンドマンがぶつかっている悩みというのはだいたいわかる。カテゴリー別に分類もされている。その引き出しだけでカウンセリングはほとんどの場合事足りる。経験って大切だ。今日のバンドにも、そういう話をすることができた。約2時間半のミーティング。  で、目からウロコが落ちたのか、それとも本当は落ちてないのかはわからないけれども、今年一杯の活動方針は大まかに決まったと思う。そんな感じの表情で彼は帰って行った。よかったよかった。これで彼らが少しでも売れて行ってくれれば、それで僕は幸せだ。  でも、ふと思うのだ。僕は他人にそんなにエラそうに何かを言えるだけの成果を挙げているのかと。いや、全然出来ていない。まだまだ全然だ。レーベルを23年やって来ているという、それだけじゃないか。何かの進歩があったのか?人様に自慢出来る何かがやれたのか。いや、やれていない。もちろん人様に自慢することが目的じゃないし、自慢なんてしなくていいんだけれども、でも自分自身に対して誇れる自分と業績でなければならないんじゃないか。そう思う。切実にそう思う。昨年初めて自分に子供が出来て、カワイイし、遊んでいるといつまでもこうしていたいと思う。しかし、いつまでもそんなわけにはいかないだろう。今はただ近くにいて毎日遊んでくれるお父さんでいいかもしれないが、子供も徐々に外に出ていく。そこでいろいろなことをやりたいと思うだろう。それをさせてあげられるのかオレは。今のままでは出来ることは限られるよ。だからもっと頑張らないといけないと思う。  音楽業界自体は曲がり角にさしかかっていると言われている。その曲がり角の先にあるものは何なのか、それはまったくわからない。だが、手をこまねいていては何にも始まらない。どんなに最悪の事態になったところで、音楽がまったく無くならないのだとしたら、そこで成功する者はいるということだ。自分がそうなれるのか、それとも負けておしまいなのか。そんなことも考えたりする。  バンドに対して「成功に向けて頑張れ」という。だが、音楽で食っていけるのはすべてのミュージシャンの中でもごく一握りでしかない。それを目指して「頑張れ」というのだオレは。じゃあ自分が頑張らないでどうする?そう思うのだ。  まあ音楽に勝ち負けは要らないよという声もあるだろう。だが、負けたら続けてもいけないのだ。バンドは続けられないと解散だし、そしたら応援してきてくれたファンは悲しむことになる。今応援してくれる人を悲しませない為に頑張るということであれば、別に勝ち負けと関係ないことだし、そして続けていく為には、やはり勝たなければいけないと、そういう副次的な意味での勝ちに向けた頑張り、それでいいじゃないか。ましては僕はレーベル運営なのだ。負けたらそこのアーチストが困る(困らない者もいるだろうけど)。だからやっぱり頑張らないといけないのだ、と思う。  とりあえずは、今やろうとしていることを早めに実質スタート出来るように頑張りたい。そしてその前に、ブログを毎日書けるようには最低でもしていきたい。なんかしょっちゅういってることだから「もう期待してないよ」とか言われそうだけれど。頑張るよとりあえず。