Tuesday, March 31, 2009

山形にて


 週末、高速1000円の値引きを利用して山形に向かった。昨年CDをリリースしたDAIZOと会うためだ。DAIZOは山形でピアノ弾き語りというスタイルで活動しているミュージシャン。山形限定での活動でありながら、じわじわと売れ続け、つい先日山形のホールで400人を集めたワンマンライブを成功させた。リリースする際に打ち合わせや作業などで2回上京してもらったものの、こちらからは山形に行くことがなかなか出来ず、今回ようやく山形まで向かうことが出来たという次第なのである。
 
 土曜日に仙台に入り、翌日曜日に山形に向かうという予定だった。山形よりも仙台の方がホテルも多く、そのため安く宿泊するには仙台の方がいいということでそうなったのだが、高速で仙台に向かっている途中、福島辺りで雪が降ってくる。おいおい、3月も終わりなんだぞとか思ったけれど、降ってくる雪は現実だ。そして福島から新潟に向かう道路や仙台から山形に向かう道路は、チェーン規制が行われていた。そんなことは考えてもいなかった僕はチェーンの準備をしていなかったし、このままでは山形に入ることは出来ない。
 
 それで、仙台市内でオートバックスによる。チェーンを買おうか、見てみたのだ。そしたらチェーンが置いていない。店員さんに聞いてみると「チェーン?」という感じだった。どうやら東北の人はチェーンをいちいち付けるのではなく、冬の間はスノータイヤなのだ。チェーンをほしがる人なんていないのだろう。それで、山形まで高速で行くのは断念するということになった。JRの仙山線に乗っていった訳だが、山を越す電車の外はもう雪山。目指す駅は山寺というところで、松尾芭蕉がどうしたこうしたというところらしい。もう雪。直前までネットで雪情報を確認して、なんとか車で行けないかとか思っていたのが大甘だったということを知る。DAIZOくんが車で迎えにきてくれていて、天童、そして東根へと向かった。
 
 山形は初めて訪れる場所で、思っていたのとは若干違っていた感じだったが、とてもいいところだった。空の色が違う。空気も澄んでいる。僕の故郷の福岡とも、奥さんの故郷の松阪とも違う。そばが美味しい。だがそれは一時的な滞在の人の見方であって、住んでいる人はまた違った思いがあるのだろう。その気持ちを本当に理解するのは難しいのかもしれないが、DAIZOくんと話をしていて、すごく前向きですべてを受け入れている感じが、なんか嬉しくなったのだ。DAIZOくんは大学で東京に来て住んでいた時期があり、それでも帰郷し、地元の企業に勤めることになった。地元の名産品を作る職人として働きながら、音楽にもしっかりと取り組んでいる。最初はそんなことは知らずに、送られてきたデモに惚れてCDリリースを決めたのだが、惚れるには理由がある。その理由の潜在的な背景まで認識できずに話を進めることも仕方ないことなのだろうが、リリースから半年が経過して、実際に彼の住む場所を訪れ、その場所でいろいろな話をすることで、自分の判断もそれなりに間違っていなかったんだな、彼みたいに地に足がついた音楽活動と、なにより生活をしている人のことを評価できた自分の感性も間違ってなかったんだなと、そう実感できた。
 
 帰りは再び仙山線で仙台まで。駅前の駐車場で車を出して、東北道で東京に帰る。実際に1500円とかの表示が出る料金所ではちょっと感動。安いというのはいいことだ。麻生政権の経済対策には決して賛同していないし、このままで国がいい方向に向かうとはとても思えないのだが、だからといって実施されたお得政策に抵抗する訳ではない。というかむしろ、高速道路が無料になることを将来的には望みたい。

Friday, March 27, 2009

法令遵守と現実の狭間

 昨日のニュース。愛育病院が周産期指定病院の返上を打診しているということだった。最初そのタイトルだけをきいた時には、なんという身勝手な話かと、少々憤りさえ感じたりした。各地で産科医が不足していて、産婦人科をやめてしまう総合病院が多いというのは前から聞いていたし、その流れで、負担の多い指定病院をやめてしまうということだと思ったからだ。しかし内容をよく見てみると、事実はそんな身勝手な話などではまったくなかった。
 
 愛育病院というのは皇族も出産をするようなところで、だからなのか、モチベーションは非常に高いらしい。しかし全国的な産科医不足はここも例外ではないらしい。愛育病院は夜間、常勤医と非常勤医の2人体制で対応しているらしいが、それが労働基準監督署によると改善指導の対象となるというのだ。周産期指定を受けると、24時間態勢で緊急の妊婦の受け入れを拒否できないらしいのだが、当然それに対応するために産科医には過酷な労働実態が余儀なくされる。しかし勤務実態の改善を求めた三田労働基準監督署の是正勧告に基づく対応を取ると、常勤医が足らないケースが生じる。救命救急センターもなく、総合周産期母子医療センターの継続は難しいと判断した。愛育病院の院長は会見で「我々には高いモチベーションもあり、だからこそ無理な勤務であっても社会に必要なことだと思って取り組んできている。しかしそれをやっていることで後になって「愛育病院は法令に違反している」と言われてしまうのであれば、そのモチベーションを維持することは出来ない」と語っていた。
 
 法とは何なのか。指導とは何なのか。正義とは何なのか。法と正義は一致するものではないのか。
 
 思うに、法は完全ではない。なぜなら所詮人間が作っているものだからだ。人間は法を犯す。誤って犯す者、追い込まれて犯す者、意図的に犯す者。様々だ。一方で法を犯さない者もいる。誤らないから犯さない者、追い込まれないから犯さない者、意図しないから犯さない者。やはり様々だ。
 
 愛育病院の場合はどうなんだろうか。このまま「モチベーション」を貫き、医師としての理想を優先させて無理を続けた場合、違法になる。だから「モチベーション」を捨て去ろうというのだ。法はそれを要求する。妊婦がたらい回しになって死亡するという絶望的なニュースを散々聞かされてきて、それでもまだ法は産科医の情熱を否定する。そこには労働者の過労死とか、そっちの部分での問題や懸念があるというのも事実だろう。だが、それによって社会はまた歪んでいく。だとしたら、法とは一体なんなのか?
 
 法を遵守するというのはそれほどに尊いことなのか。いや、言い方を変えよう。それほどに完全な法なのか? 法を守ることが正義を実現することと一致しているといえるのか?
 
 
 問題だと言われ続けている天下りは、完全に法律遵守した行為だ。官僚組織を代表する官房副長官が官僚人事を仕切るという成り行きも法律に則っている。だったら何の問題もないはずだ。だが、現実には問題が多い。それを改善するためには何が必要なのか。それは法を超えたところで貫かれる正義への取り組みが必要なのではないか。
 
 もちろんそれには抵抗がある。愛育病院にも是正勧告が行われた。それにハイハイと従えば何の問題もない。本当に何の問題もないのか? いや、ある。あるだろう。法に違反したという指摘は絶対であるし、指摘をする側は金科玉条、黄門さまの印籠よろしく人々の同意を得る。だから誰かを失脚させたいのならば違法の指摘をすればいい。他のことではなく、ただ一点の違反をすることですべてを否定することが出来る。もしも是正勧告を押して、「妊婦の安心のために頑張ろう」と頑張ったとしたら、あるメディアはバッシングするかもしれない。バッシングが広がれば、愛育病院は違法病院だということに話は膨らみ、だから医療行為の内容まで違法なことをしている。医師を酷使して稼ぎまくる儲け主義だとかまで言われかねない。それがいやなら、勧告を受け入れるしかない。その結果は、周産期医療指定の返上であり、正義とか社会貢献の放棄ということになる。院長は「それでもいいのですか?」ということを、会見で広く問いかけたのだと思った。
 
 昨日大相撲八百長問題裁判の判決が下った。八百長報道をしてきたジャーナリストや報道機関に対して大相撲協会が行った民事裁判だが、原告勝訴、1000万円の慰謝料支払が命じられた。まあおそらく控訴されるのだろうから、まだこの判決が確定した訳ではない。だが、ジャーナリストである武田氏のコメントが可笑しかった。「1000万円という額に驚いた」とのこと。自分たちが行った報道で大相撲協会が失った信頼は1000万円程度のものではないだろう。そしてもしも八百長報道によって失われた信頼を回復させるために、八百長報道を展開し、そしてそれを受けての他報道機関での露出と同じだけの謝罪広告を出したとすれば一体いくらになるのかを考えれば、1000万円なんてとても安い金額だ。しかしその金額を聞いて「驚いた」という。それだけ自分たちの行ってきたことについての重大さに、本人が全く気づいていないということなのだろう。だが、「不正義を行っている」というバッシングが熟慮なしに行われた時にはその影響はとても大きいということであるし、その信憑性に結論が出るのは数年後、もしかすると永遠に出ないかもしれないのに、バッシングの影響はすぐに出てしまう。かつての民主党永田元議員による偽メール事件も検証が不十分のまま行われた結果、相手に対しても名誉毀損をしてしまったし、返す刀で永田議員は結局議員生命どころか本当の生命まで断つことになってしまったし、当時の前原代表も代表職を辞任するはめになった。僕はこの事件は永田議員の功を焦ったうっかりさが問題ではあっただろうが、その永田氏にそのネタを提供した者の悪意、罠にはめようとした悪意を問うべきだと思うのだが、それは闇の中に消え去ってしまっているし、今となっては追求しようもないのだろう。今後もこのような悪意、偽メール事件で言えば民主党を陥れようとする悪意、愛育病院の問題でいえば全体の正義を鑑みることなく自己の遵法のみを押し出した無責任、官僚人事の件でいえばいろいろな問題を押し出すことによって結局焼け太りして、結局やうやむやの中で天下りも続けられるような状況を維持しようとする悪意、八百長報道問題で言えば、騒げると思ったら根拠がなくとも他人をバッシングしてしまい、自らが正義だとまくしたてる悪意。そういったものは無くならないのだろうと思う。
 
 だからそういった悪意や無責任に踊らされないような賢さが、僕らには求められているのではないかと思うのだ。もちろんそんなに賢い動物ではない。遵法と言えばすべて正しいように思ってしまうし、違法行為と言えばすべて、全人格に至るまで間違っているように思ってしまう。判断するには十分な情報量を取り入れることも要求されるのだが、そんな時間はないというのもおおよその場合において当然だろう。だがそれでも、表面的に見えるものだけに踊らされることなく、正しい判断が出来るような人になりたいと思うし、そういう社会に成長していくようであって欲しいと常に思うのだ。

Wednesday, March 25, 2009

『アップルの人』 / 宮沢章夫


 Mac好き歴20年を重ねようとする僕にとってはちょっと興味を惹かれ、京都の書店でわざわざ買った一冊。表紙もちょっとオシャレじゃないか。
 
 でも、中身は全然オシャレじゃない。Macな内容でもない。一応MACPOWERというMac雑誌に連載されていたコラムをまとめた本の文庫化(まとめた本は、こんなタイトルではなかったらしい)なので、アップルの人というのがあながち間違いではないのだろうが、あたらずとも遠からずというのはこの本のために、そしてMac好きでこのタイトルの本をついつい買ってしまった人のためにある言葉なのではないだろうか。そう思わされるような本だった。
 
 まあ、安直に言ってしまえばエッセイ集だ。でもこの人のエッセイはMACPOWERには載っても、大手三大新聞などには絶対に載らないだろう。テンポが速い。そしてくだらない。Macに関する話題、たとえばノートブックパソコンとか、iPodとか、ブログとかから派生して、著者宮沢章夫氏の妄想が展開していく。この妄想、とても微妙なのだ。本だから、一応最初から最後まで読みたい気分なのだ。最初は。でも、ページの流れに応じて順に読んでいこうとするととてもストレスが溜まってくる。妄想の速すぎる展開についていけない。と同時に、妄想は所詮妄想だから、要するにくだらない。本を読むという行為はどちらかというと暇つぶしではなく、そのために時間を割いて取り組む行為だと思っているのだ。いや、勉強のための学術書とか参考書とはまったく違って、それほど堅苦しい気持ちでの行為ではないけれども、それでもこの数日をかけてこの本を読もうというのは、ある種の決意を伴う選択なのであって、それこそ床屋とか食堂とか銀行の待ち時間とかに雑誌を読むのとは訳が違う。そう、この人の文章は雑誌向きなのだ。変化球のようなもので、日常の淡々とした生活の中で、ちょっとだけ「ククク」と思いたかったりするにはちょうどいい。だからMACPOWERのような月刊誌にちょっとした分量が載れば、月に1度この文章を楽しみにしている人が沢山いたとしても何の不思議もない。というか、僕もきっと楽しみにするだろう。だが、それをまとめられるとちょっとヘビーなのだ。毎日カツ丼では辛いのだ。いや、20歳の運動部学生なら毎日カツ丼でデザートに豚骨ラーメンでも大丈夫なのかもしれないが。
 
 ウィキペディアによると、宮沢章夫氏は、劇作家、演出家、作家、放送作家であり、岸田國士戯曲賞を受賞しており、芥川賞、三島由紀夫賞の候補にもなったという。劇団も主宰していて、おそらくその劇団のファンという人たちも相当居るのだろう。が、僕はそのどの活動も知らないし、この本でいえばMac好きをタイトルで釣ったということになるわけだから、その視点での判断しかすることが出来ない。そう思ったとき、この人の文章(というか発想)はとても率直で、ひねくれている。勝手に引用すると、
「ブログの女王みたいなものに私はなりたくない。なぜなら、私は男だからだ。だったら私は次のようなものになりたいと考えている。「ブログの大将」」
という文章がある。僕は笑った。図らずも、笑った。ブログの女王には僕もなりたくない。でも、その理由は僕が男だからではない。もちろん、宮沢氏も男だからなりたくないとは考えていないのだろう。でも、書いてしまう。その方が面白いからだ。で、この人のこの表現方法が単なるオヤジギャグやダジャレというものと一線を画しているのは、その速いテンポによるのだろうと思う。こういうくだらない表現がたたみかけるように繰り出される。しかも妄想。こんなだったらいいなというような妄想で、しかもギャグ。普通のオヤジギャグは単発で、聞く者からすると「それが最終の落としどころなの?」と質問してみたくなるくらいにつまらない。だが、ネタとして目からウロコがみたいな話はそうそうない。実際に宮沢氏のネタもありふれているといえばありふれている。しかし、それが連続してくることによって、ひとつひとつのネタについて突っ込んだり考察する余裕が奪われ、なんか幻惑されるような感覚に襲われるのだ。幻惑されるような瞬間は、そう長くは続かない。一瞬だから幻惑であり、連続だったら麻痺である。幻惑は麗しいが、麻痺は辛い。この本が辛い印象に感じられるのはネタの連続性であり、同時にこれが書籍になるような価値を持つのも、ネタの連続性に由来する。

 僕は思うのだが、結局これは100m走のスピードでマラソンを争うようなものなのだ。だから辛いのだ。なので、皆さんにはこれを買って読むことはお奨めするが、決してこの本のために他の本は後回しとか、そんな決意は持たないようにしてもらいたいと思う。そう、これは雑誌なのだ。気分で数章読み飛ばしても大丈夫。そんな心構えで、仕事に疲れた時に気分転換に数ページ読んでみる。そんな感覚がもっともぴったりでばっちりな本なのだと思う。

Tuesday, March 24, 2009

小沢さんよ、語りに語れ

 本日秘書が起訴されるだろうと報道が喧しい。そして小沢代表は進退について発表をするとも報道される。この問題についてはなんでこんなに歪曲された報道がされるんだろうと不思議で仕様がないが、それがこの国の報道というものなのかとちょっと諦め感も漂ってくる。
 
 どの辺が歪曲なのかというと、まず、起訴されるかどうかの報道は、起訴されるかどうかが事実として結論が出てから報道するべきであって、もしも起訴されなかったらどうするんだろうという疑問が消えない。そして同時に、報道側が「これほど大きな逮捕をしておいて、不起訴になったら検察は重大な責任を問われることになる」と報じることによって検察に対してプレッシャーをかけてしまっているという事実。もしも不起訴になった場合には激しい検察バッシングが起こるだろう。今回の場合はバッシングが起きて当然というか、逮捕自体に政治的影響についての考察が無さ過ぎると思うのだが、それでも、報道がプレッシャーをかけることで、検察のニュートラルな判断を疎外してしまうという懸念は拭いきれない。実際に起訴不起訴の判断が出てからの報道で全然遅くないし、それはやはり本日結果が出てしまうWBCの優勝国が日本に決まったかのようなスポーツ紙の見出しとあまり変わらないのだということを知るべきである。
 
 そのことと関連して、小沢代表は「24日に何らかの結論が出てからお話しをする」と言っているだけなのに、それを「進退発言を具体的にする」という表現で本日の予定とする報道をしている。これでもし小沢一郎の会見が進退に一切触れなかったとしたらどうだろう。その可能性は大きいのだ。今回の検察の判断について賛否などの感想を漏らすだけということだって有り得る。というか、これまでの小沢一郎の言葉を見る限り、進退について明確に話すとは言っていないのだ。にもかかわらずの「進退表明」報道。もしこれで進退について語らなければ「国民を裏切る中途半端な会見」とか書かれるのだろう。でもそれは、「たばこ屋さんはどこにありますか」「八百屋さんの前だよ」「じゃあ八百屋さんはどこにあるんですか」「たばこ屋さんの前だよ」という問答に似ていて、自分の事前のフライング的見込み報道に結果が違っていたから、違う結果を出した者を「おかしい」と言っているだけのことであって、まったくおかしな報道姿勢と言わざるを得ない。
 
 だが、そもそもこの国の報道はそういうものであり、視聴率や販売部数のためによりセンセーショナルにということがより正確にということを凌駕してしまっている。それを改善するにはどうしたらいいのかというと、結局は読者や視聴者である国民1人1人が冷静に、そして正確に物事を判断する能力を持つことに尽きるのだが、それをするには情報の伝達が正確であることというのも同時に必要であり、よく注視すればそれなりに事実も把握できるのだろうが、それほどの注視を普通の市民全員が忍耐強く行うことなどなかなか難しく、結果的にセンセーショナルな報道に対して一喜一憂してしまう。政治であろうと芸能であろうと同じテンションでものを見るのは少々仕方ないことだし、だからこそ、報道でメシを食っているプロは、世論がいたずらにミスリードされていかないような、真実に基づいた公平な報道をすることを心がけなければならないのではないかと思うのだ。
 
 まあ理想はともかく、現状がそのような感じだということを踏まえて、その報道の体質を利用するかのように、検察の捜査も続くし、それに基づくリークも華やかだし、そのリークを踏まえた、政治的意図を持った政治家たちの誇張発言も活発に行われている。政治不信が心配だとか言いながらも、彼らの発言は政治不信を徒に招き、結局自分たちの足を引っ張り、首を絞めている。
 
 そういうのが現状だとすると、小沢一郎の打つべき手はなんなのかというと、彼には私心がないということを明確に示すことだろうと思う。それは、一私人に戻るということがもっともインパクトがあることだと思うのだ。その意図で、先の企業献金一切禁止という発言が出たのだろうが、しかし、それも曲解されて批判の的となってしまった。だから、いっそのこと代表辞任はおろか、議員さえも辞職すればいいのだと思う。そして、政治家ではなく言論人としてメディアに出まくればいいのだ。小沢一郎自身はこれまでも地位に恋々としてこなかった。自民党時代にも首相に成りたければ成れたのだ。しかし首相にならなかった。なぜならば地位にこだわらなかったからである。だとすれば、現在民主党代表になっているのはそれが政権交代に必要だと思っているからであって、その地位が魅力的だということではないのである。もしも現在彼が持っている資産をすべて投げ打って無一文になったとしても、言論人として再スタートを切れば、影響力も絶大になるだろうし、印税生活だけで余生を十二分に賄える。それになにより、地位や献金を一切断つことになるわけで、言葉の信頼性が増す。それで「真実とはいったいなんなのか」ということを語っていけば、彼の真意も滲透していき、政権交代に必要な機運も必ず醸成されると考えるのだが如何だろうか。
 
 こう思うのは、最近の言論界で注目を一新に浴びる佐藤勝氏は、現在裁判中の人物である。当然のように彼自身逮捕され、かなりの長い間拘留されていた。起訴当時は宗男の政治的立場を利用した極悪人という論評が蔓延していたのに、現在は発言がもっとも信頼できる知識人ということになっている。彼のことはよく知らないので、本当に信頼に足るかどうかの判断を僕自身がしているわけではないが、少なくとも現在の人気ぶりからするとすでに禊ぎは終わっていて、誰もが過去のことよりも彼の発言を信頼しているように思われる。ホリエモンにしてもそうだ。最近発売された本も結構売れているようだし、時々テレビに出るとすごく注目を集める。彼だってまだ裁判中の人物だし、検察とは対立している。だが、一度逮捕され、それまでの地位を剥奪されたという事実が、裁判でどうだったかということよりも優先して彼の発言を注目する勢力によって、ある程度の立場と影響力を回復させてきているというのが現実なのだろう。
 
 小沢一郎は現在の政治において最重要人物である。それは支持する側からも敵対する側からも無視できない存在なのである。だからこそ、いろいろな方法で足も引っ張られるだろうし、メディアを巻き込んだ世論誘導にも曝されてバッシングを受けるのだ。それによって価値が棄損されるとは思わないが、世論の中での立場は揺らいでしまっている。だとすれば、その立場自体を一度リセットするという形で、ニュートラルで信じられる立場を築いて、今度は世論を味方に付けていくという戦法もあるように思うのだ。ある種の立場の人たちは、小沢一郎をバッシングすることで、その方向に世論を誘導することで彼の理想を挫くことが出来ると思っている節がある。だがそれは甘い。今度は立場を捨てて世論を再び政権交代の波に向けていくということが、実はその種の立場の人にとってもっとも恐れることであり、それこそが小沢一郎と彼を応援する人たちの望みであることを考えれば、本日の何らかの意見表明としての会見は、そういう希望もあるように、ちょっと思ったりする。

Monday, March 23, 2009

解説者、清原和博


 WBCの注目はなんといっても清原の解説だ。番長清原の、引退後初の仕事だというが、これがちょっと面白い。解説者デビューだから多少の緊張もあるが、基本的に清原節炸裂。「いやあ、やりますよ」「期待できますよ」「頑張って欲しいですね」と、基本的に前向きな解説。というか、単なる期待だ。WBCで基本的に日本人はほぼ全員日本を応援しているという特殊状況だからいいのかもしれないが、そういう期待をするのに、技術的な裏付けとかは特になさそう。西武の中島が打席に立つと「西武で自分の背番号3を受け継いだ選手ですからね、注目してるんです」と解説。おいおい自分の背番号だったら特別なのかか?
 
 でも、これはこれでいい。見ていてスカッとする。金田正一、中畑清という流れに続く、「豪快精神論」解説の後継者が誕生したと、僕は案外嬉しい思いでいっぱいなのだ。
 
 対極をなすのは技術詳細解説だ。これは、言ってみれば誰でもできるのだ。知識を持ちさえすれば誰でもできる。別に野村さんや落合さんでなくてもいいのだ。一方、豪快精神論解説が成立するにはいくつかの条件が必要だ。なんといっても豪快でなければいけない。その豪快さを裏付けるのは、アンチ理論であることの理由があって、それが感性と、言っては悪いが少々の頭の緩さなのである。単に頭が悪いのでは誰も首を縦に振らない。選手としての感覚、才能が必要で、それがあるからみんな「馬鹿だなあ」と思いながらもなぜか納得するのだ。
 
 中畑清は豪快だ。しかし解説者としてなかなか重要なポジションを占めていかないのは、同時代の選手でもある江川卓などに負けてしまうのは、豪快さはピカイチなのにカリスマ性が少々足りないからである。選手時代の成績も圧倒的なものがない。そして巨人ファンには絶大な支持を得ても、他球団のファンにまで認知されているかというとそうではない。巨人ファンの僕から見ても、選手としては史上最高の5番打者柳田とか、淡口とかの方がすごいと思うし、やはり全野球ファンに対するアピール度、カリスマ性というのとは若干弱い部分がある。その点、清原和博はカリスマ性が絶大だ。この清原が豪快解説派になってくれてよかったなあと思うのだ。今清原と同じくらいのカリスマ性を持つ人といえば野茂英雄くらいしか思い浮かばない。しかし野茂英雄は実に冷静で落ち着いた解説をするし、地味で暗い。特別に理論を振りかざすこともないし、そもそも喋り好きではない。解説者ではなくこのオープン戦からキャンプ限定とはいえオリックスのコーチを務めたというのも、野茂にとっては賢明な選択だと思う。同じくらいのカリスマを感じられる選手の登場は、おそらくイチローの引退を待つまでないだろうし、ちょっとランクを下げるとしたら工藤公康の引退も可能性があるが、彼もどちらかというと理論解説派だ。KKコンビの片割れ桑田真澄も理論派である。
 
 こう考えると豪快解説をしていける人材というのは意外に少ない。それはその資質を持った人が実に少ないからだ。まず選手として15年程度第一線でやる必要があるし、引退の理由は「体力の限界」でなければならない。それだけの期間一線でやるには、肉体の維持に対する細やかな配慮が必要だし、そうなると、ある程度の理論的裏付けが必要になる。豪快に飲んだりしていては一流であり続けることは難しいのだ。だから、豪快派の素質を持った選手というのは大体にしてつぶれていく。それは肉体管理よりも豪快な飲みが勝るからであり、その飲みのマイナスを補うだけの才能を持った人間というのが、そもそも居ないのだ。そういう点で考えても、清原和博はまさに適任なのである。
 
 豪快解説派の頂点は、実は長嶋茂雄だと思う。監督として選手を指導する時にも「球がスーッと来て、それをパァーンと弾き返すんだよ」とかいう人である。最初の監督をやってから次に監督をやるまでの12年間が、長島さんの解説を聞ける貴重な時間だったのだが、これは面白かった。理屈を欲する人には物足りなかっただろう。だが、長島さんの解説には理屈なき愛があった。長島さんからみれば普通の選手たちがボンクラに見えたに違いない。なんであんな球が打てないのか、パァーンと弾き返すだけじゃないかと思っただろう。だが、そんな選手を批判することが一切ない。それが、僕らが聞いていて不快にならない理由でもあったのだ。清原の解説にもそういう点があった。ジータに勝負を挑む田中将大に対して、「思いっきり放ればいいんですよ、これが彼には財産になるし、将来のジャパンを背負って立つための貴重な経験になるんです」とか言っていた。そんなチャンスに恵まれた彼を羨ましそうな気持ちがにじみ出ていた。そんな言葉を聞くと、こっちだって田中頑張れと素直に思うようになれた。そんな力が、清原にはあるんだと感じたのだ。
 
 清原は指導者になることを望んでいる。集客の柱を期待する経営者も多いだろう。長島さんと違ってGのユニフォームでなければというような条件もない。そうそう待つことなく彼は再びユニフォームを着るだろう。だとしたら、この解説を聞くことが出来るチャンスもそれほど多くはないような気がする。だからこの機会を大切にしたいとか、僕は思うのだ。古田とか栗山英樹の理論に裏打ちされた解説には確かに価値がある。それと同じものを清原に期待したところで、そんな言葉は出てきやしない。その代わりに、がさつながらも愛ある言葉を聞くことが出来る。それが後1回(多分)聞けるチャンスが出てきたというだけでも、WBC決勝進出には意義があると思う。明日、多くの国民が熱狂しながら観戦し、彼の言葉を通じて、意識しないながらも野球への愛を深めてもらえれば素晴らしいことだ。いや、多くの批判も生むとは思うけれども。
 
 
 
 親友がドジャースタジアムのスタンドで準決勝を観戦。メールで写真を送ってきてくれた。臨場感を感じるよ。有り難う友。直接見られたことは羨ましいが、そこにキヨの解説はない。解説が聞けるだけ、テレビ観戦もいいと思うよ。いや、どうせ負け惜しみだけれど。そしてキヨ本人はそこにいるんだろうけれど。

Sunday, March 22, 2009

WHOPPERS


 先日キラキラレコードのアルバイトスタッフが海外旅行から帰国し、おみやげを持ってきてくれた。その名も「WHOPPERS」。リンク先の画像では長方形の箱に入っているようなパッケージだが、持ってきてくれたのはまるで牛乳の紙パックを小さくしたような容器で、それが今僕の机の上に数個並んでいる。
 
 このお菓子はMELTED MILK BALLSということで、直径1センチないくらいのサイズの丸い物体。中にサクサクとしたミルクボール(らしい)があり、表面をチョコがコーティングされている。なんか美味い。というか、甘い。この甘さがアメリカっぽいなあと、最後に行ってからはもう5年くらい経っているアメリカを思い出させる感じの、独特のくどい味だ。くどいが、クセになる。サイトを見ていたが日本で通販をやっているところはない見たいが。軽く検索しただけなので本当はあるのかもしれないが、ああ、日本では手に入らないんだなと思っているくらいがちょうどいいような気もする。手に入って、クセになっていつでも手元に置いたりしたら、確実に太ってしまうからだ。それに、これよりもおいしいお菓子は日本にも沢山あるのは間違いないし。

Thursday, March 19, 2009

2人のイチローさん

 2人のイチローさんがバッシングを受けている。大リーグマリナーズに所属のイチローさんと、民主党に所属の小沢イチローさんの2人だ。
 
 書いている時点ではWBC二次予選のベスト2を賭けたキューバ戦目前。アメリカに上陸してキューバ戦と韓国戦の2試合で9打席ノーヒット。こんなイチローをいつまで使い続けるのか、原監督にイチローの特別扱いをやめろという声が多いのだそうだ。もちろん見ていて僕自身もお腹のどこかで治まらない感覚がある。イチロー何してるんだと。もっと打てよと。相手を圧倒するような、そんな結果を出してみろよと。3割200本ではなく、ここぞというところでの1本を見せてみろと、そう思う。だが、だからといって今ここでイチローを外せというのではない。やはりここでは使い続ける以外に道はないのだと思う。
 
 そもそも、イチローにはどちらかというと否定的な立場だ。偉そうにといつも思う。だが、それも彼の追い込み方なんじゃないかとも思うのだ。ビッグマウスは批判を呼ぶ。だから結果を出さなければいけないのだ。そういうプレッシャーを彼が利用してようとしていたとしても何の不思議もない。自らの道を行く。それは非常に大変なことだし、それをやっている人で、その点は偉いと思う。これまでも結果を出してきている。そういう結果を出した人はこれまでかつてなかったのだ。ただ、なんとなく好きにはなれないのだが。
 
 そういう結果を出している人に任せるというのは、洋の東西を問わず、時代を超えて普遍的なセオリーである。かつてシカゴカブスでマイケルジョーダンが活躍していた頃、彼には必ずマークがつくのだ。接戦の試合終盤であればそのマークも二重三重になる。5対5で行われるバスケという競技では、1人に2人がマークを行うということは、要するに他にノーマークの選手ができるということでもある。ジョーダンに較べると凡庸な選手かもしれないが、NBAのトップチームで競った試合の終盤にコートに立つということは、もうそれだけで並外れた才能の持ち主であることは間違いない。その選手がノーマークであれば、サッカーで言うフリーキックを得たようなものである。だから、ジョーダンにマークを集めて生まれたノーマークの選手にボールを回せば、シュートの確率も相当なものだ。しかし、ブルズは必ずジョーダンにボールを回すのだ。そして、ジョーダンは残り1秒を切ったところでシュートを決める。2人3人と彼を囲む敵チーム選手のガードをクリアして、見事にシュートを決める。なぜか。それは彼がものすごい選手で成功の確率が高いからではない。彼以外に回して失敗したら非難轟々だが、もしもジョーダンで失敗したとしても、誰からも文句は出ないからである。
 
 イチローはというと、彼はまだジョーダンほどの神がかった存在ではないということかもしれない。そもそもホームランバッターではないし、逆に彼だけが打ったところで、所属のマリナーズはもう何年も優勝から遠ざかっているのである。全ての責任をイチローに押し付けるのは酷というものだし、そもそも昨日の韓国戦は、初回に浮き足立ったダルビッシュの責任も大きいのだ。まあ22歳の投手に全責任を負わせるわけにもいかないだろうし、1点しか取れなかった打線全体の責任もあるわけで、じゃあ誰がということになると、結局名誉も責任もともにリーダーにあると言うことになってしまうのだろう。
 
 とはいえ、イチローにすべてをなすり付けるのはどうかと思う。今イチローを外せと言っている人は、きっとイチローが引退をするような時が来たら、絶賛と賞賛を惜しみなく与えるのだろう。僕はそういうのをあまり快く思わないし、だから、成功した時も過度に褒めそやすことなく、今回のように苦しんでいる時も敢えて非難の声を挙げたいとは思わない。ましてやまだ可能性が残っている時点なのだ。今日の試合でどうなるかはまだ判らない。このチームはあるいみイチローを中心にまとまっているチームであるし、こういう力のある選手たちをまとめるにはある種のカリスマ力が必要なのだ。それがかつては長嶋茂雄だったし、前回のWBCは王貞治だったし、そして今回のチームでは、原監督ではなくイチローだということはおおよそ認められた認識だろう。そのためにも彼は頑張ってきているし、その功績も大きいのだ。そんなイチローと心中するくらいの覚悟なくして、日本チームを応援する資格などあるかと言いたい。野球の人気がなくなったと言われ、日々の野球中継を見たりしない人が、話題だからといってWBCを見て、盛り上がって騒いで、そして不振のイチローをバッシングするのだと思う。そういう姿をウザイと思う僕は、今日のWBCの試合に期待をしつつ、もしもイチローの不振が続いて負けたとしても、それも彼の歴史の一つだろうし、日本野球の歴史の一つなのだと思う。
 
 
 もう一人のイチローさん、小沢一郎のコメントが面白い。企業献金を全面禁止したらいいと発言したのだが、それに対してものすごい動揺が与野党問わず起こっているという。そしてマスコミもこの発言をどう評価するのかに戸惑っているような報道をする。毎日新聞では「半ば"人ごと"のように語った」などと報じている。
 
 だが、小沢一郎としては自分主体で語る必要などないのだ。彼の視点は「企業献金の功罪はともかくとして、現在のルールに従ってやっていることであり、そのルールをどうするかという問題は、小沢一郎の都合がどうかということとは全く関係がない。メディアも与党も「現在のルールがどうか」ではなく、「企業献金を受け取ろうとしたのが悪いのだ」という論理にすり替えて発言を繰り返しているわけで、それに対して「企業献金が悪いというのなら、全面的に禁止すればいい。みんながそれでいいというのならそれでいい」と言っているだけだ。つまり今回の問題を「ルール違反なのかどうか」という出発点から外れて、「企業が献金をするのは利益誘導したいがためであり、それを受け取る政治家は必ず汚職をしているのだ。だから悪いのであり、責任を取れ」とでも言っているかのような世論誘導があって、それに対して「それが悪いというのなら、企業献金を全面的に禁止すればいい」と言っているだけのことである。別に人ごとで責任逃れでもなんでもなく、ルールが同じところで戦うだけだといっているのである。
 
 どんなことも、ルールというのは公平でなければならない。もちろんあるルールによって有利不利が発生するだろう。例えばスキーのジャンプ競技で、その人の身長によって履ける板の長さが変わってくるというルールがあるが、それによって日本人ジャンパーは不利を被ったと言われている。でも、それでもそのルールは公平なのだ。だったらそのルールで勝負するだけで、そのルールに従った戦略を立てていくのはどんな参加者も同じ条件なのだ。
 
 大学受験などで、国公立では比較的記述問題が多く、私立では選択問題が多いとか言われる。科目数も全然違ったりするし、もちろん個々の大学で傾向や特徴は違っていて、受験生はそれぞれの志望校に応じた対策を講じることになる。記述力がある人と選択問題に長けている人のどちらが頭がいいのかというのは別の問題で、それぞれの大学が全ての受験生に対して同じ問題を課し、その中での判断で合否を決めるという公平さが大事なのである。小沢一郎の発言は、その公平さを言っているだけであって、それを人ごとだと非難するというのは、明らかにいくつかの論点を混同して、混乱した中でとりあえず非難をしているだけだということになるわけだが、しかしそういう混乱した無価値な論旨であっても、大メディアの中で報道され、その論旨に沿った見出しが躍るということが、日本の世論をミスリードしてしまうということはとても問題だなという思いがしてならないのである。
 
 この「企業献金全面禁止」という発言に対して、純粋に評価しているのは社民党くらいのものであり、自民はなんか人それぞれのいい方だが、総論として批判。国民新党は「企業献金を禁止してしまうと大金持ちか、宗教団体、労組出身の政治家しか活動できなくなる」として否定的な見解を示しているし、麻生首相は「企業献金の正当性に関しては、最高裁判決も出ていると記憶している。民主主義を実行していくコストとして、ずっとやってきた長い歴史の結果、今のものがある」と言っているのだし、だとすれば企業献金そのものは悪でも違法でもないという立場のはずなのだが、その首相をして「明らかに違法だから逮捕された」とか言っているし、そういう情緒的で無原則的な発言の方が「人ごと」なのではないかとか思うのだが、どうしてもそうはならず、記事を書く人のそもそもの結論に向かって、発言などの事実を利用した恣意的な記事や表現が反乱してバッシングが行われているのを見ると、人は感情だけで動く動物なのだなあと思ってしまうし、そういう感情先行の世論というものに拘泥することの意味がなんかあるのかという、達観するしかないような気持ちに追いやられていくのを感じてしまうのである。
 
 
 要するに、バッシングにはあまり意味がないし、している側にその瞬間のパッションはあるものの、継続的にし続けるような堅牢さはないのだと思う。しかしその瞬間の風圧はものすごいものがある訳で、それに一喜一憂する人も多いのだろうが、そんなことをしていては何事も進まないし、だから彼らにはそれぞれの立場で頑張って欲しいし、世論なんて気にせずに淡々と活動してもらいたいものだと思う。いや、彼らにとってはこういう意見さえも余計なお世話かもしれないけれども。

『きいろいゾウ』by西 加奈子


 田舎に住むある夫婦の物語。都会に住む自分にとっては遠いようでとても近い、人間の内面について描かれた現代のファンタジーだと感じられた。
 
 先日ズームインスーパーで辛坊治郎さんがニュース解説をしていたのだが、最近政府紙幣なるものを検討しようとしている議員さんがいるという。だがこれには大いに問題があると彼は指摘。なぜなら、一時的には潤っていいのかもしれないが、それによって起こるのは貨幣というものへの信頼の失墜であり、ハイーパーインフレを起こすのは必然だという。戦後まともな国家では一度も行われていないことであり、なぜならそんなことを実施すると歯止めがかからなくなり、結局は国民が持っている全ての金融資産を紙切れにしてしまう可能性があるという。彼の結論は、政府紙幣等、考えるだけで有害だというもの。これが前の財務大臣である伊吹文明氏の言葉を引用したものだというからちょっと意外だったが、至極まともな考え方だと思う。
 
 で、なぜそんなことを書いたのかというと、今回読んだきいろいゾウでは、しあわせのあり方について作者の一つの考え方が書いてあったからだ。具体的なことはぜひ読んでもらいたいところだが、僕はそれをLoveという言葉、愛という言葉の重みということなのかなと感じたのである。昨今はその言葉はとても軽い。愛とか、好きとか、言葉にするのは簡単だ。別にお金がかかる訳でもないのだし、だったらどんどん言おうという圧力はいろいろなところから起こってくる。恋人から言葉による確認を求められることもあるだろうし、世の中にはバレンタイン等の社会風習が蔓延し、義理チョコも一つの礼儀みたいになってきて、それで別に好きでもない人にもチョコが配られたりする。そんなことだから、本命チョコだってその価値は薄まる。本当に好きとは、本当に愛しているとはいったいなんなのか、ただ言葉で愛していると言えばそれは成立するのか、言われれば安心していていいのか。逆に、言わないと愛していることにはならないのか。
 
 言葉の愛情表現はいくらでもできる。そして現実にどんどん行われている。しかし実はそれが愛するという言葉への麻痺を起こし、価値を毀損し、今度は言葉以外での愛情の確認を必要とする状況を欲するようになるだろう。でもそれは愛なのか? 確認するのは何のためなのか? それは自分が愛されているということの確認なのか、それとも、言葉を発するものが、自分は相手を愛しているということの確認なのか? そもそも確認しなければ不安であるという状態は、愛というべきなのか?
 
 もちろん、そんなこと(何が愛なのかということを規定するという作業)を確認する必要なんかないし、普通に読んで面白い作品だ。奥さんの視点での日常と夫の視点での日常が並列して記されることで、心の微妙なすれ違いを表現している。すれ違いというのはどんな場合にももちろんあって、同じ空間に居たとしても眼の位置が違えば視点は変わるし、見えるものも違う。自分が気持ちの中で考えていることと別人格が思い描く心象風景も違って当然だ。一方にとって何の意味もない事柄をもう一方が殊更に重要視していることもある。そんなことが見えて面白い。そのすれ違いは、ある時は思いやりであり、ある時はすきま風だ。僕らは実際の自分の生活の中で毎日起こるそういうすれ違いを、思いやりとすきま風のどちらに押しやってしまうのかは、結局は自分の心次第だということに気づく。この物語でも、当初は思いやりの交換で実に幸せな空間と時間が展開される。これは日々のコラムかエッセイかと思うし、このまま何事も起こらずに終わるかもしれない、終わったとしてもまあいいか、心地よい読書時間を過ごせたからなあと納得しそうになるが、やはりそこは小説だ。物語は途中から大きく展開する。その変化のダイナミズムは意外でもあるし、そこへ至るなだらかな状況の変化は、作者の力量を感じさせる。一部ちょっと強引かなと思うところもあるし、その強引さを生み出した設定が本当はどうだったのかという点については結局明らかにされないままに終わってしまうのだが、まあそういうところも許せるかなと思う。それだけ、描かれているお話と、その奥にあるテーマ性が、今の自分にとっては身近に感じられ、読後の清涼感と、もう少しこのまま読み続けていたいという余韻を残してくれただけで、出会えてよかったと思えたのである。
 
 出会いはブックオフ。100円コーナーに普通に置いてあった。とてもお買い得。普通の書店で買ったとしても惜しくない1冊。

Tuesday, March 17, 2009

出荷ラッシュ

 今月に入って、風邪引いたり、花粉だったり、寝不足だったりなんたらかんたらで仕事もプライベートも本調子ではない日が続く。先週の途中くらいから徐々にいい感じになってきて、今日は花粉は多いかもしれないが暖かく、何となく気分も高揚してくる感じが手に取るようにわかる。朝も出社前に会社までの道のりを遠回りしてウォーキングに精を出し、昼もメシに出た後またウォーキング。仕事しろよといわれそうだが、健全な精神は健全な肉体に宿るのだ。運動(といってもウォーキング程度だが)不足だと、やはりいろいろな意味で調子が悪い。動かない事で体内の何かが淀むということもあるだろうが、家と仕事場との往復だけになることで、気分も淀んで新しい発想が生まれないのだろうと思う。
 
 で、ウォーキングが活発になってくるとやる気もまた違ってきて、昼のウォーキングから帰ってきてからいろいろと仕事。今日は今月の新譜や旧譜で新たにオーダーが来るものなんかを取りまとめて一気に出荷した。一気に出荷といってもたかが知れているのかもしれないが、それでもキラキラとしてはそれなりの量を一気に出した訳で、これが瞬時に売れて、売り上げもすぐに入金されたらいいのになあとか思ったりした。ビジネスはそう簡単にはいかない。だがまあ出荷しなければ売り上げもクソもないので、この出荷がいずれ富となることを願いながら、たくさんのCDたちをプチプチに包みながら、ヤマト運輸を呼んだ。
 
 同時に、つい先日届いた音源をマスタリングする。今回はマスタリングといっても音をいじる訳ではない。制作されたプロモビデオをCDエクストラの形式で視聴可能にするべく、ビデオ素材のデータレート変換と、そのビデオデータをエクストラ形式にオーサリングするという作業。昔はレッドブックとかオレンジブックとかややこしい規格があって(厳密にいえば今もそれはあるが)、WindowsとMacの両方で再生するためには両方のシステムを使って作業しなければならないとかで面倒くさかったが、現在はとても簡単に作業することが出来る。それでもちょっとだけ細かいことはしなければいけないのだけれども。そのマスタリングしたCD-Rマスターも、バンドマンに発送。確認をしてもらわなければいけないのだ。
 
 デモテープを聴かなければいけないのが溜まってしまっている。送ってくれたミュージシャンたちのことを考えると、一刻も早く聴かなければいけないし、それはそのまま会社の業績にもつながることなのだが、日々仕事をしていると、どうしてもまとまった時間を取るのが難しい状況になってしまったりする。真剣に聴いて真剣に感想を書くと、やはり1本に対して1時間くらいかかってしまうし、だからせいぜい1日3本程度しか聴けなかったりするのだ。これを読んでいるバンドマンの皆さん、まだかまだかとお思いかもしれないが、必ず聴くので今しばらくお待ちください。ブログばっかり書いてるんじゃないよとか、言われそうで怖い。

フランス人の来社

 夕方、仕事をしていたら会社の入り口にノックの音が。3年半前までカフェをやっていたスペースだし、今でもカフェの看板を下ろしてはいないので、間違った人がお茶飲みたくてきたんだなと思ったが、どうもそんな感じではない。外国の方だった。
 
 ゆっくりとした英語で、「ここはレコード売っているのか」と聞くので、違う、ここはレーベルだと答えると、「自分はグラフィックデザイナーなのだが、仕事をさせてくれないか」という話だった。立ち話でもなんなので、一応中に入ってもらう。(この辺が、飛び込みセールスと違うところだな。飛び込みセールスの人はズンズン勝手に中に入ってきてしまうし、だから、こちらも警戒してしまうんだ。)フランス出身の彼は半年前まで3年間韓国でデザイナーをやっていたのだが、いろいろとあって日本に移り、仕事を探しているとのこと。現在はワーキングホリデーのビザで滞在しているが、それもこの10月までで、それまでにはなんとか安定的な仕事を得たいのだという。まあ折からの不況で大変ではあるが、それでもなんとか音楽関連のデザインの仕事がしたいのだという。
 
 とはいえ、キラキラでもそうそう安定的に仕事を出せる訳ではない。そのことはまずハッキリとさせた上で、それでも彼が過去の仕事を見せたいというので見せてもらう。韓国で出版された本の装丁だとか、3Dソフトで作られたアニメとか、自らのハンドドローイングをPCに取り込み風合いのある着色を施したイラストとか、いろいろ見せてくれた。作風には人によって好みがあるだろうが、技術的には相当のもので、経験もそれなりに積んでいるんだろうと感じさせられた。大きな会社がこういう人を安定的に抱えておいて、それでいろいろと展開していったりすればまた新しいビジネスも生まれるのだろうと思うのだが、それもそう簡単ではない。
 
 一応知人の会社でそういうデザイナーのニーズがあるかもしれないなと思い、問い合わせをしてあげることを提案。もちろん確約は出来ないよということを伝えると、彼はとても感謝していた。なんでも、韓国では売り込みにいくとわりと簡単に会ってくれるけど、日本ではまず会うことがとても難しいという。コネクションがなければ話すら出来ない。それで今焦っているのだという。そうか、それはその通りだなと思う。そんな彼の話を聞いた僕が偉いということではないが、もう少しそういう出会いが簡単に行われるようになれば、いろいろな可能性はもっと広がるような気もするし、会うためのコネクションというものが既に既得権益のようなものだし、それで社会が硬直化するような気もする。
 
 
 一昨年までキラキラには韓国人のスタッフが勤めていたし、昨年はオーストリア人のCDをリリースしたし、有刺鉄線というバンドには新たにモロッコ人のボーカル(日本語の歌詞を歌います)が加入した。何となく周囲には外国人の姿が増えてきているようだ。外国人だからいいとか、日本人だからダメだとか、そんなことを言うつもりはさらさらないが、しかしこうして祖国を離れて日本で生きてみようと頑張っている姿を見ると、彼らのバイタリティには感心させられる。自分にはそういうダイナミズムはあるのだろうか。だからといって直ちに外国に行った方がいいのだという価値観ではないけれども、常に新しいことにチャレンジする、そういう気持ちは持ち続けていたいとか思った。

Sunday, March 15, 2009

決算は結局どうなるのか

 年を越す頃あたりから各企業は今年度の業績予測を次々と下方修正してきた。その最大の理由は円高である。詳しい数値は今僕の手元にはないが、1円高くなると数億円とか数十億円とか、数百億円とか売り上げが変わってくるとか何とか。各企業1ドル100円で業績予測をしてきたのに、昨年末には87円とかだったし、90円を割る(超える?)ともう利益確保は出来ないんです。そんなことが年度の予測を下方修正する理由となったし、それで急速にリストラしなければということになったし、派遣労働者がたくさんクビ切られたし、それでも赤字で困ってるよーってニュースがどんどん流された。
 
 そういうニュースは派遣を切られて寮を追い出されて、この寒い冬にホームレスになったり派遣村なる場所に集ったり、デモとかでシュプレヒコ−ル挙げてたりという情緒的な映像に変化していった。かわいそうだよ派遣の方々。会社は酷いね。いや、そもそも派遣なんかでやっていけるって思っていたのが慢心なんだよ。会社は派遣切らないと会社自体がつぶれて正社員が路頭に迷う。そんなこと避けるためには派遣なんてどうなってもいいのだ。ま、いろいろとホントに情緒的に話題になりやすいことばかりがニュースになった。
 
 で、肝心の業績はどうなったんだろう。もうすぐ決算を迎える企業も多い。業績予測はあたったのか?
 
 国際的に貿易をやっている会社で、支払いをドル建てでやっている場合には売上金がドルで入ってくる。それをすぐに円に替えるのかというと、そんなことはないだろう。やはりドルで持っているのだ。なぜなら資材の購入なんかだって海外との取引だし、そのためにはやはりドルは必要だ。全額とはいわないにしてもドルをある程度そのまま持っているはずである。決算のときにはそれを日本円に換算して計算することになるはず。会社の持っている資本とは、全てが日本円の現金ではない。建物なんかの不動産も、社内にある机とかコンピュータなんかも、資産だ。販売前の在庫も資産だし、預貯金は現金性が高いが、株式なんかは現金ではない。それらも全て資産になる。そこにはまだ入金されていない掛け売りの残高なんかも入ってくる。そういったものを、一定のルールで日本円に換算して、一体どのくらいの金額の価値を持っているのかを計算するのが決算だ。だとしたら、慌てていた87円くらいの時期にドルを円に換算したのではなく、同じようにドルで持ち続けていただけのことで、現在のレートで換算して計算すると結果は当然違ってくる。
 
 それで、今現在のレートとは、だいたい98円あたりで推移している。100円は割れているが、87円とかの頃と較べると全然状況はいいはずだ。そして、決算が3月末に行われる企業であれば、年末に出していた業績予測の下方修正は、本決算で今度は上方修正がされてしかるべきである。そうなれば、結局大リストラをすべきだった根拠も乏しくなる訳で、もう一度雇ってくれてもいいんじゃないかという気が正直するのだ。しかし全世界的な不況が続いているのは事実だし、一度スリム化できた人事構成をもう一度元に戻すなんてことは企業として賢いとはいえず、だから誰もそのことを言わないし、マスコミも報じない。でも、それでも人の人生を左右するようなことをするときに、その行為を正当化するために使った理由が消えてしまったのだったら、正しいこととしてはもう一度人生を元に戻すような努力をして、その上で今度はこの不況に対してどうしていけばいいのかを検討していくのが筋のように思うのだが、どうなんだろうか?

Friday, March 13, 2009

恩を返すタイミングと力

 小室さんに6億5千万を貸した。マックス松浦は神妙な面持ちで大阪地裁に出向き、ここしばらくの経緯を証言し、情状酌量を訴えた。
 
 それを伝えるニュースでは、「回収できる当てがあるんだろうか」とか、「既に7億もエイベックスとして貸しているのに」とか言っていた。でも僕はそんなことではないんじゃないかという気がする。
 
 マックス松浦はCDレンタル屋の店員としてこの業界に入り、洋楽の選曲が絶妙ということでレンタルの業績を上げた。レンタル屋のオヤジとエイベックスを立ち上げ、ジュリアナとかで一山当てた。でも、洋楽での成功ではたかが知れている。邦楽で成功したい。そのきっかけを作ったのが小室哲哉その人であり、TRFは哲也小室レイブファクトリーの略である。それで勝負して、その成功が彼の事業の根本である。裁判で「夜通しピアノを弾いていた。音楽が好きな人なんだなあと思った。昔を思い出した。」と言ったらしいが、少々ドラマチックな演出も入っているような気もするけど、昔の恩を忘れていないということは本当だと思う。それを忘れるようだったら、絶頂期の小室哲哉を取り巻いてお金を引き出して、その後むしり取るだけ取ったらポイ捨てした有象無象と同じになる。そんな気持ちでビジネスをやっていて、アーチストを扱う音楽ビジネスでの成功はあり得ない。
 
 
 僕らは、誰もが誰かの恩を受けて今の人生を生きている。親の恩もあれば、友達とか、先輩とか、人それぞれ、いろいろな人に恩を受ける。その恩をどうやれば返すことが出来るのか。真っ当な人間である以上、それは忘れてはならない大テーマだ。例えば親孝行。僕らは一体何が出来るのだろう。もっと若い頃は、東京で一山当てて、成功した状態で錦を飾りたいとか思っていた。今もその気持ちを捨ててはいないけれども、じゃあ錦を飾るまでは帰らないとか言っていると、そのことが親不孝になってしまうのだということに気づいた。今もまだ錦を飾ることはできていないが、年に2回くらい顔を見せに帰るようにしている。親孝行のためにやった訳では全くないけれど、遅くなったが昨年ようやく結婚したのも、結果的に親孝行になっていると思う。
 
 親との関係であれば、顔を見せるだけでも恩返しにならないわけではない。しかしそれ以外の人に対してはどうやって恩を返したらいいのか。恩の受け方は様々だが、往々にして恩を受ける人は、恩を与える人よりも窮地にあることが多い。そのバランスはなかなか逆転しないのが普通で、多少逆転して、自分が大成功をしたとしても、恩を与えてくれた人がそれなりにちゃんとした暮らしをしていたとしたら、出来ることはせいぜい季節の挨拶くらいだ。盆暮れにお中元やお歳暮は届けるだろう。でも突然札束を持っていくなんてことは失礼にあたる。それはお金で人が変わったということだし、恩を仇で返すような行為になってしまう。だとしたらどうすれば恩を返すことが出来るのだろうか。すごく難しいことだ。基本的には恩に報いるというのは、期待に応えるということであり、その人がかけてくれた期待を汲み取って、そのラインで頑張っていくということであり、でもそのラインで頑張る限りは、恩は受けただけで、返したという実感はない。
 
 そう考えたとき、マックス松浦にとってこれは恩を返す最大のチャンスだったと僕は思う。ただ単に「お金に困ってるんですか、じゃあこれ使ってくださいよぉ〜〜」とかいうのではダメだ。どうすればいいのか、お金を出すことがかえって小室を堕落させるのではないだろうか、だからこれは投資でなければならない。今後頑張って音楽で稼いでもらってそれで返してもらおう。そういうスキームをたてて、その理屈で受け取ってもらおう。ただ6億5千万をあげたということだとでは単なる施しになってしまうし、そんなことをしたら友情関係は崩れてしまう。だから、これは投資なのだ。実際は回収不能になるかもしれないし、そうなったってかまわないのだ。なぜならこれは自分にとって恩返しそのものなのだから。だけど返さなくてもいいですよとか言うと小室を傷つけることになるし、彼にまた頑張ってもらうモチベーションにしてもらいたいのだから。そんなことをきっと考えただろう。それであっても6億5千万という金はそうそう出せるものではない。いや、マックス松浦の資産状況なんてしらないけれども。
 
 それでも彼はそのお金を出した。彼は恩を返すというチャンスを目の前にして、そのチャンスにお金をはたいたのだ。それは高級車を買うのとか、ブランドショップで一目ボレするバッグを衝動買いするのとあまり変わらない経済活動なのだと思う。僕らからすると数百万するバッグを買うという行為は信じがたいが、買う人は実際にいる。いや、僕がものすごい金持ちになっても数百万のバッグは買わないと思うが、アルバイターの10代の女の子だって欲しい人は買うのだ。それは価値観の違いであって、旧い友人であり恩人の苦境に6億5千万を出すという行為を、投資ではなく購買で行ったのだろうと思う。
 
 僕はそれを羨ましいと思った。腐れ縁の人の苦境を見過ごす訳には社会的立場的に許されないからいやいや払わざるを得なかったのだから可哀想だなと思う人もいるだろう。だが、僕はマックス松浦羨ましいぜと思った。大恩人に恩返しをするチャンスを得たということを。そしてそのチャンスに応えられるだけの経済力を持っていたということを。
 
 僕にも恩ある人は数人いる。その恩の大小はいろいろだ。そういう人たちに恩を返すことは出来るのだろうか。別にそのために彼らの苦境を望んでいるということは全くないけれども。そして、そういう機会がもしも訪れた時に、僕は恩を返す力はあるのだろうか。そんなことを考えても、まだまだ僕には努力が足りないと自覚する、そんなきっかけになった一つのニュースだった。

バッシング再び

 いやあ、手の込んだことをやるものだと改めて感心。驚くというか、あきれる。
 
 世論操作ってどこまでのことを意味するのか、その判断は難しい。操作なんてそもそもできるのかという疑問も当然ある。操作をする主体が誰なのかが判ってしまうようではレベルが低い訳で、誰がやっているのか判らない操作だからこそリアルな感じが醸し出され、なるほどそうなのかという気分が広がってくる。そしてそれがウソであってはならない。ウソは言わないが情報の出し方が歪なものは、それは真実とはいえない。真実ではない情報とウソは紙一重なのだが、突き詰めてみるとウソではないから、あからさまな批判も受けにくい。そういう情報を反乱させることによって真実を追究したいという一般市民の判断基準は歪むし、そういう歪みを意図しようとしまいと、結果的にそういう歪みを生む報道は、結果論として世論操作になるのだと思うのである。
 
 そう感じたのは、ネット上にあった、とあるニュース。日経系のそのニュースにあったのは、国会議員たちにアンケートをとって、その結果を基に各議員がどういうポジションにあるのかを分類して、その結果がどうだったのかということを論拠として今の政治状況を語るというもの。しかもそれをどう判断したかという基準も「民意との乖離」というものになっている。
 
 これによると、アンケートを基に政策が似ている政治家を4つのグループに分け、「公共投資型なのか官の無駄排除なのか」という縦軸と「セーフティーネット重視型なのか民間競争型なのか」という横軸によるマッピング上に振り分けて、それが民意とどう関連するのかということで論評している。だが、このやり方には大きな問題があると言わざるを得ない。
 
 まず、問題点その1。この縦軸横軸の決め方はどうなのかということ。公共投資と官の無駄排除ということは対極にある課題ではない。公共投資が全て悪いのではなく、必要なものもちゃんとある。そして官の無駄というのは、無駄遣いをする人がいるとか、天下りなどへの批判が多いということである。この縦軸の関係を成立させるためには、まず「公共工事は無駄である」ということが肯定されなければならないのだが、そんなことは到底肯定されるはずがない。同じく横軸も同様で、セーフティネットを広げるということは民間の競争を激化させるということとはまったく別の話である。民間はいずれにしても競争をするのだ。その競争でこぼれる人がどうしても出てくるから、それを国でどう救うのかということがどうルール作りされるのかということが問われるのであり、そのルール作りのために、例えば雇用保険制度などもあるわけだし、生活保護などもあるわけだ。これらの制度は民間企業や個人への一定のルールに基づいた負担を求めることによって成立しているのである。民間企業がお互い競争をする場合も、よほどの違法企業でなければ雇用保険を支払っているだろう。たくさんの社員を雇えばその支払額も増えるし、それを減らしたかったらスタッフ数を減らすしかなく、それでは多くの仕事をこなすことは出来なくなる。それはどの会社に対しても同じであって、競争を止めているということでは全くない。それがイヤだから非正規雇用を増やしているじゃないかという反論があるかもしれないが、それは非正規を認める国の制度設計の問題であり、民間の競争とは全く関係のない話だ。こういう基準で各議員の政策比較をするということにセンスのなさ、もしくは悪意を感じる。
 
 次に問題点2。質問が17個のアンケートですべてを分類しているが、この設問がかなり恣意的な印象がある。「○○○○は極力小さい方が良いと思いますか」「○○○○は必ずしも重要ではないと思いますか」「○○○○のペースを減速すべきだと思いますか」「○○○○を見直すべきだと思いますか」「○○○○は自然な流れだと思いますか」といった設問が並ぶ。べき、自然、重要ではないといった言葉使いにはすでに設問者の意思や判断が含まれており、それにNOを言うのは抵抗感を生むのだということを設問者は理解すべきだし、理解した上でのそういう質問ならば、やはり回答誘導への意図が含まれていると言わざるを得ない。
 
 問題点3。このアンケートをしている対象者がこのサイトの読者登録をしている人であり、かなり特殊な位置づけにある人たちの集団であるということを前提にしている。しかも対象者の性別比は91%。あきらかに偏った対象である。しかし、その読者集団の意見というものを「民意」という形でとらえている。これが許されるなら、「幼稚園児500人に聞いたアンケート」「年収5000万円以上の人たち500人に聞いたアンケート」「預金額50万円以下の母子家庭の母親500人に聞いたアンケート」「80歳以上の高齢者500人に聞いたアンケート」「六本木の外人専用高級クラブのお客さん500人に聞いたアンケート」というものも可能になるし、それをもって「民意」ということも許されるということになる。そんな民意がいかに無意味かは明らかだし、まったく違った「民意」を導くことも可能になってくる。意図した形の「民意」を導くのは簡単だということになる。なぜなら、そういう意見を持っていそうな偏った集団限定でアンケートをとればいいのだから。
 
 問題点4。このアンケートで何を結論づけようとしているのかは、導かれた記事タイトルに如実に現れている。「代表秘書の逮捕より深刻、民主党が抱えるある問題」というのがそのタイトルなのだが、このアンケートの結果として「民主党議員の目指す政策は民意とかけ離れてしまっている」という結論に導こうとしているのだ。だが、ちょっと待てよ。そもそもこのアンケートの正当性に重大な疑義がある。しかもそういう意図されたアンケートでありながら、出てきた分類結果をまとめたときに4つのグループにはそれぞれ自民党議員も民主党議員も公明党や社民党、共産党なども含まれるのである。この17の設問からどうしてこの分類になるのかの根拠も不明であるし、それによって各議員がそういうグループに属すことになって、マッピングの同じ位置におかれるようになるのは明らかに不自然だ。そして特定のある位置に置かれるグループは「民意」の位置とは離れていて、マッピンググラフのなかに亀裂のイラストが描き込まれていて、その外に配置されている。そのグループに民主党議員が多いのだということにされて、そこから「民主党の政策には問題が多い」という結論に至っているのだ。結果、「代表秘書の逮捕より深刻、民主党が抱えるある問題」というタイトルになり、そのタイトルだけが踊る。メルマガにはそのタイトルだけがどーんと載ることになる。メルマガを見てその先にクリックする人の数は多くない。だとすれば、毎日のメールチェックでメールのタイトルに「代表秘書の逮捕より深刻、民主党が抱えるある問題」という言葉を見て、「あー、民主党はダメなんだな」という印象が残される。要するに、そういうメールを送りつける根拠として「ウソではない」アンケートを実施して、恣意的な世論操作が行われる。こういうのを問題だと言わなくて、何が一体問題なのだろうかと思うのだ。
 
 
 こういうアンケートは氷山の一角だ。先にも述べたように今回の秘書逮捕なども、検察の正義は最終的にその逮捕容疑に於ける判決での有罪を目指すものであるべきだが、それ以上の重大な世論操作の主体となっているということについては操作をした側は誰も何も語ろうとしない。彼らが貝となって口をつぐみ、黙々と捜査を続けているのであればそれもありだろうが、民主党に不利益に働く情報は次々とリークする。民主党議員をあたかも犯罪者でもあるかのように報道させる、そのネタを提供する。いや、彼らは彼らの仕事をやっているだけだ、正義に向かって進むだけだ、政権の検察への介入なんて有り得ない。いろいろとその正当性、手続きの正しさを主張する。だが、そういうところに現れる正当性ってなんなのという疑問は残る。先のアンケートも、「恣意性はない」というだろうし、確かにウソはないのだ。だが、ウソはなくても真実ではない。偏った情報を歪んだ形で、しかも一部の見出しだけがメルマガタイトルとして流布される、その歪さを正当化するための「アンケート」であるとしたら、それは正しい使われ方ではないだろうという。気がする。それはまるで、不当請求をする違法エロサイトが、ページの下の下に小さく課金についての条項をちらりと載せていて、だから高額請求をしたっていいんだという根拠としているのと同じにおいがするのだ。
 
 バランスをとるために自民党議員の方にも事情聴取するとかしないとか言っていたけれども、それは一体どうなったんだ? それをやる前に公設第一秘書を逮捕し、かつての秘書だったということで現在国会議員にも事情聴取をするということを、打診している段階で報道させるということをやっている。だとしたら、二階議員のどの秘書に事情聴取をするのかということも実名入りでリークしろよと、言いたいが、それは誰にもどこにも伝わらない。
 
 なぜこんなことを言うのかというと、かつて小沢一郎が下野した後の衆議院選挙で、自民党系の候補者のポスターに踊った言葉が「安定か、混乱か」だったことを思い出すからである。当時の自民党は、小沢一郎たちが社会党や民社党、社民連なんかと組んで政権を取ろうとしていることに不満を持ち、脅威を感じ、それで「社会党なんかに責任ある政治が出来ると思っているのか? 彼らに国防を任せられるのか?」などと、当時の総理総裁たる宮沢首相も口角泡を飛ばして叫んでいた。だが、しばらくして自民党の行ったことはというと、その社会党党首を総理大臣に据えるという選択だった。そんなことをするとは誰も思わなかったけれども、彼らはした。安定か混乱かというスローガンは見事に消え、彼らに言わせれば混乱をもたらす元凶である社会党に国をゆだねた。現在も小泉首相のもとに構造改革と郵政民営化を主張して選挙に勝ちながらも、その議席数を抱えた麻生政権のお題目は、構造改革にストップと、天下り容認、郵政民営化の見直しである。全く逆のことをやっているではないかと思うし、それこそが民意と逆のことをしているのは自民党だということになるのではないだろうか。
 
 すなわち、民意とかけ離れているのは麻生政権そのものだし、だから選挙をという要求に対して、景気優先を掲げることによって選挙を避け、民意反映を避けていることを望んでいるのも自民党幹部ということになる。そういった点を全て無視して、民意とかけ離れた民主党という主張を流すことになんの正義があろうかと思う。
 
 今回の来るべき選挙に向けて、自民党は再び同じバッシング活動をやってくるだろう。というよりそれは既に始まっているというべきで、しかも以前よりも巧妙で、だからこそ悪質なバッシングが展開されているというのが僕の見方だ。いかにも不当で、いかにも不正義で、彼らの自己保身目的に基づいた、「民主党は自己保身のためだけにうわべで耳障りのいいことばかり言う」という非難が今後喧しくなってくるだろう。チャレンジャーにとっては辛く不満の残る戦いであると言わざるを得ない。しかしそういう逆風を乗り越えるのはチャレンジャーとしてアウェイで戦っている以上仕方のないことだし、そういう不公正な状況での戦いにも勝つくらいの圧倒的な力を見せなければ、やはりその資格すらないと言われても仕方のないということなのだろうと思う。頑張って欲しいと思うが、同時に僕ら一般市民も出来るだけ冷静な目で物事を見ていかなければいけないのだと自戒したいと思うのだ。

Thursday, March 12, 2009

希望との出会い

 拉致被害者家族の田口さんと金賢姫との面会が行われたというニュースはちょっと面白かった。12年ぶりに公の場に現れたという金賢姫は若いのか老いたのかよくわからない。老けているようにも見えるし、それなりに若いようにも思える。田口さんの息子に「韓国の母になります」と言ったそうだが、16歳の年の差は、母子関係というより恋愛関係の方が現実的だ。しかしほぼ同年代の日本語先生の息子なのだから、自分にとっては息子という意識なのだろうし、既に自身にも子供がいる訳で、心持ちはすでに母モードなのだろう。

 田口さんの方も記憶に無い実の母よりも、母のことを知っている年配の女性で、自分のことを見て涙ぐむ金賢姫の方が母的な存在としてはリアルなのか、長年希望していた面会が実現したことの喜びなのか、なんかすごくうれしそうだった。金賢姫が「こんなに大きくなって」と涙ぐんだ時、「(自分の)小さい頃の写真を見たことがあるんですか」と聞いて金賢姫が否定すると「じゃあ後でゆっくり」と言ったのもちょっと笑える。関わりのある人の子供の小さい頃の写真。そこに金賢姫は何の思い出もないはずだ。一般論として僕らも友人の子供の写真とかを見せられても、嫌悪感はないにしても、特段に歓喜の情はない。見せられたら拒絶は出来ないし、なんだかなあと思いながらも一通り見て、「可愛いですね」とか言ったりするだろう。金賢姫もそんな感じだったのだろうか。息子の耕一郎氏もせっかく持ってきたのだし、それ以外に何の接点を見いだせるだろうか。1歳未満の写真には母親も一緒に写っているものも多いだろうし、そこから話を広げていくしかない。1時間半の面接時間は一見長いようにも思えるが、そういう他愛もない話をしていればあっという間に過ぎる短い時間だ。面会後、会見場に再び現れた時には耕一郎氏と金賢姫は腕を組んで登場した。この仲睦まじい光景は、自然なのか演出なのか、そのどちらなのかはわからないけれども、少々過剰であっても今回の面会が成功で意義深いものであったということを示す必要があったという点では必然の光景だったようにも思う。そのくらい両者の追い込まれている現実というのは厳しいものだということなのだろう。
 
 拉致被害者の望みは被害者の無事奪還ということに尽きるだろう。そこに妥協はあり得ず、認定された被害者の他にも被害者の可能性がある人というところまでをどうカバーするのかといった問題なんかも当然あるだろうし、いい始めたらきりがないというのも実際のところだと思う。それは一種の理想であり、現実にはどこかで線を引かなければいけないというのが現実主義の実務者の意見だろう。もちろんその考えにも理はあるし、かといって一歩退くというような妥協をする線をどこに引けばいいのかという問いに答えを出せる人などいないというのも一つの理だ。でもそういうのは全てプランを実行するためのスタート前での机上の空論であり、作戦をどうするのかという時点での話だろうと思う。作戦とは、設計図でもあり同時に宣言でもある。全てのプランは計画に携わる関係者のモチベーションがあがらなければ進むはずがなく、どういうプランを示すことでモチベーションがあがるのかということが重要であって、それによってプランというものが意味するものも違ってくる。例えばこれからビルを建てようという際には綿密で現実的なプランが必要で、実際の作業もその通りに進んでいく。しかしながら試合のプランを立てる場合は、その通りに進むということではないことが多い。だとするとどれだけ選手の志気が上がるのかということが鍵になってくる訳であって、練習のプランは現実的なものが必要になってくるものの、その練習の成果としての技が身に付いていることを前提に、「行くぞー」「オーッ」みたいな、「相手を完膚なきまでに叩きのめすんだ!」というような、シュプレヒコールみたいなものがどうしても必要になってくる。しかし現実にはそんなにうまくいくばかりではないので、ちょっとだけでも「良かった」と言えるようなプレイが一つでも生まれれば拍手で喜ぶような、そんなのが実際なのだろう。もしかするとサッカーの試合で後半43分、5点差をつけられて負けは確定的であったとしても、意地のゴールを決めたりすると溜飲を下げられたりするのである。拉致問題も決して思うようには進展していないし、今回の面会がものすごくいい影響を与えられるかというとそれほどでもないとは思うが、それでも今回の進展に大きな期待とか、希望をつなぐ一筋の光に見えたのではないだろうか。僕らはとにかく希望を持って生きていきたいのであり、その希望の種が客観的に見ればたいしたものではなかったとしてもいいのだ。
 
 金賢姫のいう「お母さんは生きていますよ」という言葉に何らかの根拠があるのかというと、ない。全くない。その言葉に沸き立つことなど出来る訳もないのかもしれない。だがその根拠ない言葉は、同時に金賢姫が言った「希望を持ちなさい」という言葉と重なるような気がしたのである。希望とは、根拠などいらないのだ。要は自分が持つかどうかである。ただ、希望を持つ強い気持ちを持ち得ないのなら、じゃあ自分(金賢姫)のような存在であっても信じる根拠にしてもらえればいい。こうして「お母さんは生きていますよ」とハッキリと言う自信(のようなもの)を持っている存在を、何となく新じればいい。鰯の頭も信心からというのと同じで、信じることで気持ちが強くなれるのならば、数奇な運命を生きてきた自分の言葉や存在を信じればいいと言っているようで、なんか、そんな儚い夢のようなものを見せてもらったような気がして、実に興味深かったし、心地よかったのである。

Monday, March 09, 2009

コミュニケーション

 ネットに依存をするのは、確認作業が容易になったからだ。
 
 ある人の日記に、移動して見知らぬ土地に赴任して、携帯メールの数がめっきり減ったということが書いてあった。仕事の連絡は履歴が残らないくらいの勢いだというのに。
 
 生活が、乾燥しているのだね。何が足りないのか。それは自分が存在しているということの意味だろう。それまであった人とのつながりが、街が変わることで断ち切られるような思いがする。それまでつながっていたという確信が、幻想だったのではないかという思い込み。そういう感情を持つと、これから現実につながっていく人たちとの間も、また街が変わったときには断ち切られることになるんじゃないか。それなら意味が無い。だから新しい人とのつながりなんて持つ必要が無い。持つことで悲しみが増えるなら、持たない方がいい。
 
 だが、人と仕事以外で関係を持たないで生きていけるほど、人間は強くない。日常の些細なことに接したときに自分はこう感じた、あなたはどう感じるの? こういったコミュニケーションが自分を支える。自分は正しいと思える手応えになる。ウソでもいいから自分は正しいと思いたい。日々の営みなんてそんなものにすぎないのだ。
 
 ではどうやってそういう確認をするのか。一緒に住む人がいれば、日々の生活が全て確認作業になる。数日に1度でも会える友人がいればそれでもいいだろう。だが、学校を卒業し、日々会う機会が少なくなったとき、人はどうするのか。どうすればいいのか。
 
 昔なら、手紙を書くことだ。文をしたため、切手を貼り、投函する。ちゃんと届くのだろうか。どこかにまぎれて紛失したりしないだろうか。もしかすると友は引っ越ししているかもしれない。読んでもらえないかもしれない。読んだとしても返事を書くのは大変だ。便箋を用意し、文をしたため、切手を貼り、投函する。その面倒な作業を強いて申し訳ない。だから返事が来なかったとしても恨むつもりなどない。相手はどうしているだろうか、元気でいるだろうか、こちらの便りを見て微笑んでくれただろうか。返事が来なくても、相手がニコリとしてくれさえしたらそれでいい。そんな思いで数日、数週間過ごすことで、相手とのつながりを確認する。それは単なる妄想だ。妄想であってもいいのだ。なぜならば妄想以上の確認は物理的に出来ないのだから。
 
 僕にはたくさんの友人はいない。だが、両手さえ余る程度の友人はいる。学校を卒業して、そのうちの1人は海外生活となった。今のようにネットは無い。だから当時彼とはもっぱらファックスで連絡を取ったりしていた。東京にも同級生たちは沢山いた。その同級生たちとも仲は良かった。在学中は毎日顔をあわせ、時間が合えば昼飯をともにし、くだらない話題に延々と時間を割いた。けれど、近くにいるそういった同級生たちとはほとんど連絡を取らなくなり、海外に住む一人の友人とだけ連絡を取り合った。
 
 その後携帯電話を持ち始め、インターネットも普及してくる。日々の連絡を取り合う人は増え、手軽に相手の生活に言葉を投げかけるようになる。だが、そこにそれほどの思いがこもっているかどうかはよく判らない。メールにはメールの良さがあり、手紙や電話とも違う距離感でコミュニケーションをはかれるなという気がする。車と自転車と徒歩では違うように、それぞれの利点と欠点があって、そのことを巧みに自分の生活に取り入れられればいいのだが、それが出来ないでいると、結果として不幸になるような気がするのだ。
 
 携帯電話、それと携帯メールは、コミュニケーションの敷居を決定的に下げたと思う。それまでは手紙を送っていたような用事、それ以下の重みしか無い用事でも、まるで自宅に乗り込んでドアをノックするような不躾さがある。それは結局諸刃の剣で、相手に応対を要求するのと同時に応対がない場合のこちらの覚悟を要求する。それは確認の容易さということなのだ。確認を要求するというのはどういうことかというと、こちらの気持ちを醸成すること無く、相手の気持ちだけを明確にさせるという行為に他ならない。「自分はこう思っているんですけれど、あなたはどうですか?」その答がない場合は、ひどいという結果に短絡する。しかし、「自分はこう思っている」という意見に至るには、その意見に至る背景というものが存在する。いろいろな体験をして、そう思うようになっているのであって、相手にもその背景があるのだという誤解、思い込みに基づかなければ、そういう問いを軽々に投げかけることは出来ないはずなのだ。しかし敷居が下げられたコミュニケーションツールによって、世間では日々そういう問いかけが続けられている。そしてその問いに対して明確に答えることが出来るほどの背景を持たない人々は戸惑い、無責任な答えを返すか、しばらく放置あるいは無視という態度に出ざるを得なかったりする。そして質問者にはある種の不信が生まれてしまう。その不信の根源は自分にあるということに気づかずに。
 
 「私のことが好きですか」という問いは、決して「自分はあなたのことが好きです」という前提に立ってはいない。「自分はあなたのことが好きでも嫌いでもないですが、あなたは私のことが好きですか」という問いは十分に成立する。だがその問いをする人はほとんどが「自分はあなたのことが好きなんだ」という意識に基づいてその問いを発していると思っている。だが、本当にそうなのだろうか。好きとはいったいなんなのかということが問われる訳で、手紙の時代にさかのぼれば、一往復の手紙のやり取りが双方にものすごく手間を取らせるということが一応の共通認識としてあるわけで、相手がそれをやれなくても責めたりしない。でも自分はこうして自分の近況を知らせてみようという気持ちになる。見返りを期待しない行為である。好きというのは本来そういうものであるような気がするのだが、メール時代の問いかけというのは、自分からの意思表明を欠いた、意思確認作業であるように思う。その決定的な違いの中に、僕らは知らないうちに組み込まれているように思えてならないのだ。
 
 メールにも開封通知機能があったりする。ブログを書けばアクセス解析が簡単にできる。このブログを何人の人が見てくれているのだろうか。mixiなんかだと足あとを見れば具体的に誰が見ているのかもチェックできる。そのチェックで安心をしたりする。でもそういう安心で、僕らは本当に救われるのだろうかという気がするのだ。なぜかというと、そのチェックが働かなくなったときには大いなる不安に陥れられるのだろうし、チェックによって誰も自分を見ていないということを確認してしまった場合、その時の心持ちとはどういうものだろうかと考えたとき、それは結構恐ろしいものではないかと想像してしまうからだ。いや、それは幻想なんですよ。そんなものは完全に幻想なのであって、ネット上で誰ともつながっていなかったとしてもそれは自分の存在意義がゼロだということにはならないのだし、自分の中での「つながっている」という自覚さえあれば、人は強く生きていけるのだ。たとえそれが妄想だったとしても。妄想の自己想像と、幻想の確認作業。どちらも不確かなものなのだけれど、人はネット上にあるマシン的存在感により本物らしさを感じてしまう傾向にある。それが哀しいところなのだな。
 
 日記を書いたある人に伝えたい。不安や焦燥感はあるでしょう。でもその不安の基は一体なんなのか。それは誤解とか妄想とか幻想にあるんじゃないのかと。僕なんてあなたにとって何者でもないけれど、それでもあなたのその言葉にいろいろ思いめぐらせているし、あなたにとって何者でもある近しい人々はきっともっともっと思いめぐらせているだろう。ただしその思いは言葉となってあなたのところには届かないかもしれないし、ましてや携帯に着信なんかの形で跡を残したりはしないだろう。目に見える言葉よりも大事な言葉はきっとあるのだ。そういうことに思いを馳せる想像力が、人を強くさせるように、僕は思います。

Saturday, March 07, 2009

WBC

 なんか、ウワーって感じがする。今日韓戦が始まってて、日本が3点を先取したところ。そもそもイチローがこの大会初ヒットを打ったところでの歓声のもの凄さがかなりうざい感じになった。そもそも日本は韓国野球を下に見てたんじゃなかったっけ? 下に見るという感覚がそもそもおかしいし、ここ数年の国際大会で負け続けていることから、なんか急に韓国を最大のライバルみたいに見るようになって、普通の国際試合以上にナショナリスティックに盛り上がったりしている。可笑しくないかい? ヘンじゃないかい? 試合が終わる前に書いておきたいと思うが、もう負けてしまえとか思う。いや、勝ってほしいのだけれど、なんかすんなり勝ってしまっては、日本はチームも観客も大いなる勘違いしそうな気がしてならないのだ。

 前回のWBC、偶然にも試合当日に東京ドームの近くを通ったら、試合は既に始まっているというのにチケットは全然残っていた。今日はこれ、満員なんじゃないだろうか。いつものシーズンなら満員にならないし、テレビ中継も結構なかったりする。WBCの前回大会で日本が優勝してしまったりしたから、この大会の権威が日本の中でグッと上がっているだけのように思うし、シーズンオフに野球のニュースがあまりなく、イチローが日本にいて比較的コメントを出してくれたりするものだからニュースになっていって、それで必要以上に盛り上がったりしている。それに日本と韓国のナショナリズムな因縁を殊更に必要以上に盛り上げてしまって、それで今日の試合だ。純粋に野球を好きだという人と、騒ぎたい人とのバランスはどうなんだろうとか、思ったりした。数年前の大リーグブームの時には、大リーグのファンの楽しみ方は素晴らしく、太鼓とかラッパを鳴らしたりはしないのだ。もっとそういう楽しみ方をしようよとか言ってたのはどこに行ったんだ。

 僕はサッカーのことをあまり知らない。でも数日前、ジャイアンツのオープン戦で金刀が好投したという地味なニュースをやっていて、ああ、Jリーグをちゃんと見ているサッカーファンはこんな気持ちなのかなとかうっすら解ったような気がした。僕にとってはイチローが打つかということよりも、金刀が今年活躍してくれるのかどうかの方が大切なことで、だからWBC代表のニュースなんてどうでも良かった。しかし、サッカーでは代表チームの練習のニュースはやってもJリーグの試合のニュースは文字情報だけになることが多く、それはJが盛り上がらないはずだよとか思ったのだ。いや、代表の試合も大事なんですよ。でもそれで日本のセパや、Jリーグのことは忘れていいということにはならないのである。少なくとも、セパやJのことを知らずに代表チームの応援をする人は、単なる俄ファンでしかない。本当に大切なのはそっちじゃなくて、セパやJの、2軍で調整中の選手のことを気遣ったりするような人たちじゃないのかとか思うし、俄ファンの一時的なボルテージをもって野球人気やサッカー人気を計れると思ったら大間違いなのだ。

 松坂打たれたぞ。まさか、有り得ないというようなテンションの実況とレフトスタンドの韓国ファンエリアの妙な盛り上がりの対比が面白い。その前のプレイで「イチローのレーザービームがーぁぁぁぁ!」とか叫んだアナウンサーが、ワールドカップかなにかの試合で「ゴォォォォォォォォォォォォォォォォルゥゥゥゥゥゥゥ!」と叫んで失笑を買った日本テレビのアナウンサーの姿とダブった。選手はきっと真剣にやっていると思うのだ。それを周辺で勝手にお祭りにしてしまって、歪曲した感じで盛り上がってしまうのは、選手に対しても悪いと思うし、そんなテンションと一緒になるのがなんか恥ずかしいような気持ちになって、面映いのだ。

国策捜査という世論操作

 いろいろな問題が新たに登場している。検察は世論を味方に付けるために様々なソースをリークという形で次々に繰り出している訳で、それにマスコミが乗ってしまっているだけなのだが、そのリーク情報の出方にあっさりと乗っているメディア人もいれば、それに懐疑的な姿勢を示すメディア人もいる。全部が乗るのも全部が懐疑的になるのもおかしな話で、いろいろな人がいて、いろいろな態度を示すのが、それは能力の差という意味でもバランス感覚の差という意味でも立場の差という意味でも妥当なことであって、それはいいのだが、それでも冷静に見て、一方が発言者不詳の形で発言することは全面的に支持されて事実だとして伝えられるのに対して、もう一方は本人自らカメラの前に立ち発言していてなおその真意を探るどころか表面的な言葉さえ曲げられてさらに懐疑的な感想を付与されて伝えられるということが、同じメディア人のフィルターを通して行われたりするということにあきれてしまう。
 
 そもそもリーク情報というのは不公正そのものだという気がする。もちろんそういう形でしか伝えられない真実というものもある。内部告発なんてそういったものだ。企業の社員がその企業の悪事を氏名公表で発言するのは難しい。だから発言者不詳でそういった事実の公表が行われること(これにしても会社内での立場を失った人が腹いせで言うケースもあり、無批判に真実だと信じることもできないのだが)は多々ある。だが、今回のような検察のリークはそういうものとは違う。捜査権を持った極めて独立性の高い組織が行うものであり、そういった意味では氏名不詳発言と同等に扱うのはどうかと思う。しかも問題の一方の立場であり、相手方をクロだと決めてかかっている立場の組織が小出しにする情報が公平であるはずが無い。そしてその情報を基にメディアが事実というものを構成し、その事実に基づいて相手方を「クロだ」と言うのは簡単だ。だが正義ではない。それはまるで「三角形の角の総和は何度ですか? その理由も説明せよ」という問いに対して、「総和は180度です。なぜなら、先生がそういったから」という答えをするようなものである。これは答えとして正解をあげられないものだ。角の総和は確かに180度だ。しかしもし「総和は190度です。なぜなら、先生がそういったから」という答えだったらどうだろう。最初の答えが正解というのなら、後の答えも正解にならざるを得ない。なぜなら、180度である根拠も、190度である根拠も、「先生がそういった」ということに他ならなく、先生が言うことが全て正しいということを認めるのであれば、後の答え、すなわち三角形の角の総和が190度であるということも正解として認めるようにしなければ理屈が合わない。
 
 また、会見後の世論の行方を見ていると、小沢一郎の国策捜査発言に対するバッシングというものが大きな流れとなっている。が、これはどうしてこのような流れになってしまったのかが不可解でしようがない。というのも、当の小沢一郎自身は、国策捜査という言葉を使っていないからだ。「政治的にも法律的にも不公正な国家権力、検察権力の行使だというふうな感じをもっております。」というのが彼の言葉であり、発言の他の部分を見ても、やはり国策捜査という単語は使用されていない。国策捜査というのは政府が主体として行われる刑事事件捜査のことを指すもので、この単語を使うということになると、それは政府、すなわち現在で言えば麻生政権が恣意的にそういう捜査を指揮しているということになってしまう。しかし、小沢政権が誕生することを快く思わない勢力は何も麻生自民党政権だけではない。官僚組織そのものも小沢政権誕生に不快感を示す勢力であって、麻生政権が指示しなくても、官僚組織としてそう動くことが妥当だと思うし、僕個人の意見としては既に先日のブログでもそのように書いてきたつもりだ。どうしてそういうことを書いたのかというと、やはりいくらなんでも政府が主体的に国策捜査をするというのはあり得ないと思うし、もっというとあってはならないと思う、というよりも、そんなことは考えもしなかったというのが本当のところだ。だから、そういうことを言う人の中には、選択肢として、可能性として、国策捜査もあるのだろうという気がする。そういう意味でこの国策捜査という単語が飛び出したのはどうしてなのかということを考えると、ニュースなどで見る限りは、自民党の党役員の約2名の発言が元なのではないかと思っている。この人たちはかねてから軽卒過ぎる発言を繰り返してきたし、さもありなんという気もしているが、その言葉に載せられるかのように「そんな発言をするのは良くない」とかコメントしてしまっている前原誠司には、その軽さと状況判断力の無さにあきれるばかりだが、メディアも多くがその誤った論調にそった報道をしていて、ああああ、この国はそう簡単には前進しないなということを改めて思い知らされたような気になった。
 
 
 検察と小沢一郎の戦いというものは既に始まってしまっている。だが、これに決着がつくことはまずない。小沢一郎はそもそも体調に問題を抱えている人であり、問題の大きさを考えると裁判が始まれば時間がかかりまくることは必然で、だとすれば最高裁での決着がつくまで彼の命が持つのかということが当然問題になってくる。田中角栄の例を見ても、本人死亡であれば裁判は未決のまま終了する。もしも結審するまで小沢一郎の命が続いたとして、そこで有罪か無罪かという結論にいったい何の意味があろうか。ほとんど意味はないと言っても過言ではなかろう。そうすれば、今回の逮捕が直接の意味を持つものというと結局は現状の政局に与えるダメージということになるし、そういう意味ではこれから起訴に持ち込んだとして、それが有罪なのか無罪なのかということよりも、この逮捕によってダメージを与えたということで、実質的な検察の目的はほぼ達成されていると言っていいのだろう。
 
 これが国策捜査だとは小沢も言っていないし、僕もそうは思っていない。だがこれは結果からすれば国策捜査が与える世論的影響とほとんど同じ結果につながっているということは否めない事実だろう。なぜこういう結果につながることが平然と行われるのか。それは、これだけ批判が高まっていながらなお続いている天下りと同じことだと思うのだ。つまり、法治国家としての日本での正義は法律だ。官僚は操作しやすい政治家たちを政権に置き、分厚い法案の中に数行忍ばせる都合のいい文章で都合のいい法律を作り、それに基づいて天下りも正当化し、批判があっても匿名性で乗り切ってしまう。巨悪って何だろうと思うとき、それは選挙で自らを曝して評価を受ける政治家ではなく、罷免されることが事実上無い官僚たちの悪巧みなのだ。そして、そこと戦おうとするものが現れると、その能力があればあるほど、別枠の問題で足をすくうことを平気で行う。
 
 だが、法律だけで対処できないことをどう変えていくのかということが野党に託されている使命なのだろうと思う。そう思うとき、民主党が今やろうとしていることはまさに革命のようなもので、江戸時代末期における薩長連合のような立場なのだろうと思う。彼らは朝廷を味方に取り入れて江戸幕府を倒していくのだが、その明治政府が、完成されて300年経ちそれなりに完成されたシステムである徳川政権のような微に入り細に入る体制をすぐに打ち出せるかというと決してそういうことはなかった。幕府崩壊以降もしばらくは新しい体制を作るまでに紆余曲折を経てきたし、西郷大久保の両氏が「墓の中まで持っていく」とした、公表できない諸問題も多々抱えていたのだろう。明治政府にも問題は沢山あったのだ。だが、だからといってそれを理由に彼らを断罪し、江戸幕府、徳川政権を維持していくことが当時の正義だったのかというと決してそうでは無い。やはり時代の流れは開国、そして新政府誕生を必要としていたのである。同じように、今も戦後政治が自民党によってもたらされ、それによって起こるいろいろな制度硬直と弊害などを考えたときに、やはり体制の交代というものは必然なのであり、その流れを止めることは許されないのだと思う。
 
 しかし明治政府だって世の流れとはいえ、何の苦もなく禅譲された訳ではない。幾多の争いを経て、犠牲者を多数出しながら、力を蓄えてきたのである。最初の細川連立政権のときにすっきりと政権移行しなかったのもその一つであり、こうして今政権交代目前といわれながらもリーダーたる小沢一郎の足元に爆弾を投げられているということもその一つなのである。もしかするとこれでまた数年政権交代が遠のく可能性だってあるけれど、そして今メディアも小沢叩きに加勢している動きが少なくないけれど、さらにはその報道に載せられている市民も決して少なくないけれど、だからといって民主党が完全悪だというような論調は行き過ぎだし、そもそもの論旨の根拠となる情報の胡散臭さを公平に見ていく冷静さを求めたいとか思うのだが、それも簡単ではないことなのだろう。
 
 なんか話がどんどん逸れていくような気がする。まとめたいが、もうすぐ外出しなければいけなかったりして、とりあえずはこの辺で終わりにしたい。なんとなくだが、僕も含めてこの国はまだまだ未成熟だったりすると思うな。

Friday, March 06, 2009

流し雛


 週始めに臨時の休暇を取り、京都へ。いくつか観光などもしたが、一番長くいたのはここ、下鴨神社。個人的にも縁のある神社で、今回ここで、古くなっていたお守りを新しくし、昨年夏に売り出された神社のDVDを購入するという目的があった。
 
 下鴨神社は梅の名所でもある。敷地内に数百本の梅が咲き乱れるという類いの名所ではなく、光琳の梅という1本の木が、尾形光琳の紅白梅図屏風を描くときのモデルとした、そんな梅があるという意味での名所である。この梅が咲いているのを見るのも今回初めてのこと。赤い梅の花は艶っぽい感じがしてキレイだった。
 
 で、それ以外にも楽しみにしていたことがある。3月3日の雛祭り、ここでは御手洗川という敷地内を流れる川に雛人形を流すというお祭りが行われるのだった。境内につくとすでにお雛様役の女性が十二単を着付けしているところだった。御手洗川の周辺には場所を確保しようという人であふれている。僕らもなんとか場所を陣取り、お祭りが始まるのを待つ。お雛様役が着付けを終えると、別の建物の中にいたお内裏様役の男性も登場し、席に着く。神官の人とか、名士の人とか、なぜか幼稚園児や京都タワーのマスコットたわわちゃんなんかも席につき、イベント開始。基本的に神事のひとつなので、神官の人たちが御手洗川沿いにあるお社にお祈りとかをして、出席者が順次お雛様を川に流していく。言ってみればそれだけのことだが、なんか風流な感じがしたな。さわやかな気持ちになる。
 
 ご招待の参加者たちが一通り流し終えると、幼稚園児たちが列を作って、楽しい雛祭りの歌を合唱。それもちょっとさわやかでいい感じ。僕らの周辺にはその幼稚園児の親と思われる人たちが一斉に写真を撮り始めた。必死の形相も面白い。子供の記録を残したいのも当然だが、もうちょっと自分の目で直接見てやれ。と思った。
 
 最後に一般の人たちもお雛様を流すことになる。このお雛様は大小2つのサイズがあって、大が1000円、小が500円でひなあられ付きで売られている。高いか安いかは人それぞれの判断だろうが、行事に参加したぞって感じになれて僕は満足。流れていく雛人形に、自分なりにそれなりに祈ったりした。

Thursday, March 05, 2009

Never let me go/カズオイシグロ


 カズオイシグロはイギリスの作家。名前からしても完全な日系であり、そもそもが長崎県出身。数年前に原書を買ったけど読むまでに至らず、本棚でホコリをかぶっていたら、奥さんが翻訳の文庫本を読んで絶賛し、急遽読むことに。日本語で。
 
 結論から言うと、面白かった。ネタバレしないように感想も控えめにすべきだが、面白かった。奥さんが絶賛したのと同じような面白さではないのかもしれないが、僕なりにも面白かった。
 
 人には役割というものがある。自分探しの旅をする若者は、自分の「役割」を探したいのだと思う。それが旅ごときで見つかるほど簡単ではないと思うが、自分というものを知るには、他者との出会いや前々別の価値観と遭遇し、その中で現在自分が当たり前と思っている価値観が絶対ではないのだということを知ることが大切であり、その意味で、旅はまんざら役に立たないものでもないだろうと思う。その中で、自分たちの役割を漠然とでもつかむことが出来たとしたらそれは幸せなことだ。だがそれは本当に幸せなことなのだろうか。役割を知るということは、逆にいうと可能性を摘んでいくということでもある。あれやこれや、将来の自分の姿を思いめぐらせることは楽しいことだ。子供の頃ならプロ野球選手に憧れただろう。だがある程度大人になればそれが夢でしかないのだということを知る。その夢を諦めていく。そういう諦めの中で、人は「自分に出来ること」を知っていくのだ。それはある意味切ないことでもあるのだが、じゃあその切ない過程を経ずして大きくなるということが幸せなことかというと、それは全くそんなことはないのである。自分は何でも出来るは、自分は何も出来ないというのとほぼ同義であって、そういう人が今とても多いということが、社会問題の中でもとても深刻なことなんだろうという気がする。
 
 話がどんどん本題と逸れていってしまうが、まあネタバレを避ける意味では仕方が無い。主人公キャシーが語る物語は幼い頃から今に至るまでの成長をつまびらかにしていくが、その背景というものが現代劇的な日常とは若干かけ離れている世界で、だからこの作品をSFと称することもある。事実この作品をベースにした映画が製作されるというニュースが流れ、キーラ・ナイトレイが主演に抜擢されたということだが、この新作映画をSF映画と紹介している。SF? たしかにこれをSFと言ってもいいのかもしれないが、それにしては宇宙人も飛行船も出てこないし、レーザー光線銃のような武器も出てこない。むしろ音楽を聴く方法がカセットテープだったりして(文庫本の表紙もカセットテープ)、レトロな雰囲気が満載だ。要するに近未来のようで、過去のようで、時代背景なんてどうでも良くて、設定がSFであろうとそうでなかろうと、書かれているのは人生そのものであり、役割というものと可能性というもの、そして選択とは名ばかりの決められた道というものへのリスペクトこそがここに描かれているのだと思った。
 
 
 今日もあるバンドがキラキラレコードにやってきて、キラキラレコードからCDを出す件について話をしたりした。CDを出すということはいろいろな意味でリスクがある。そこに突入するということは本気になるということであり、それまでのなあなあでやってきた活動とは決別するということに他ならない。当然覚悟というものが要る。しかしながら今日やってきたバンドの中で2人はそこに突入しようという気構えがあるけれど、2人はその覚悟がまだ無い。もっと自分たちでも出来ることがあるんじゃないかという思いが残っているようなのだ。ただ、口に出てくるそういった理由というものは、漠然とした恐怖が根底にある場合がほとんどで、要するに自分たちの音楽についてそこまで本気になっていくことが怖かったりするのだ。可能性を探ることが無意味だとはいわないし、探ることによってある種の絞り込み、それが諦めであったりする場合もあるが、そういう絞り込みが出来るのなら、それで自分の役割とか、道を見つけていくためのプロセスとして意味あることである。問題は、今提示されているキラキラレコードというフィールドでの可能性探しに踏み込まないとすれば、じゃあいったいどこでどういう方法で可能性を探るつもりなのか。それを考えずにキラキラレコードという方法論を却下するのであれば、それは単なる逃避になる。その逃避をした結果、自分の役割というものを永遠に知ること無く、40過ぎのオッサンになってしまうのだとすれば、バンドマンとしてこんなに哀しいことはないだろう。
 
 人生は喜びに満ちあふれているばかりではない。苦労も苦悩も伴う時間の連続だ。学生時代、同級生に「嫌な勉強をして卒業後も会社に行って働いて苦労し、そして最後に死ぬんだったら、今苦労をしないで死んでしまった方が楽じゃないかな」とか真顔で問われたことがある。それも一理だ。だが、僕はそうは思わないのだ。嫌なことも苦しいことも、それはあるだろう。だが、そんな苦労の連続の中に少しだけの楽しさや喜びというものも確実にあって、それが僕らの生きる意味であるとしても何ら不思議は無いし、実際、そういうことのために僕らは生きているのではないかと思うのだ。そういう喜びと苦しみの総和を考えたときに、多少なりともプラスになればそれで大成功なのだ。それにそもそも、僕らがこうして生まれてきたのは、肉体的精神的な痛みを超えて親が生んでくれたからなのだし、そのことを考えただけでも、自らの生を軽んじるのは許されないように感じたりするのだ。今生きていることの理由。それはスタート時点としての出自の問題と、ゴールとしての目標の問題とを併せて、いろいろと考えさせられた物語であった。

Wednesday, March 04, 2009

小沢会見


 朝の記者会見生中継を見る。こういう会見は生で見なければ全貌がわからないと思う。会見で語られたことがすべて信じられるということではない。信じる信じないを超えて、なにを言ったのか、そして何がいわれて何がニュースで伝えられるのかということが、わかるかわからないかということである。
 
 マスコミの伝達にすべてを委ねることはできない。それは能力にも関わる理由からだ。時間的制限と、理解力の2点において、全知全能のマスコミ人なんかはいるはずも無く、期待すべきでも無い。そういう意味で、その人が何を語ったのかということを見るべきであり、聞くべきで、それなくして肯定も否定もし得ないと思うのである。
 
 で、小沢一郎の会見はどうだったのかというと、思っている以上に理路整然としていたと思う。ポイントは「企業献金だったら政党への献金として受け取ればいいわけで、今回はそうでないということだから、政治資金団体(陸山会)への献金として処理している」という点ではなかっただろうか。受け取ってはいけない金を受け取っているのであれば大いなる問題だが、そもそも企業からの献金はオーケーなのだ。それを政党に対しては可能であり、そのポイントが政党所属の政治家と無所属の政治家の間に資金力の差が生まれる問題点として今後検討課題はあるだろうが、それはまた別の話で、現時点で小沢一郎は民主党の所属であるし、それ以前も無所属になったことは(新党設立までの間のブランクとしての数日は例外として)ない。企業が献金をするというのであれば、それを受け取ることは方法論的には全く問題ないことである。違法行為の危険を冒して敢えて偽装工作をする必要などまったくない。それなのに今回公設第一秘書が逮捕されるという事態に至り、困惑するのは別に小沢一郎だけではないだろう。
 
 小沢一郎は今回の捜査に対して「前例のない不公正な捜査」だと批判している。僕もそのように思うのだ。今回の西松建設の献金や裏金問題に絡んで、献金を受けているのは小沢一郎だけではない。先日、村井長野県知事の40年来の秘書が自殺していたというニュースが流れたが、この秘書も西松絡みの献金について事情聴取を受けていたという。その問題で自殺に至ったのかどうかははっきりしていないだろうが、村井さんはインタビューに対して「自分は知らない」の一点張りだった。それに対して小沢一郎はというと、献金を直接自分が受け取っている訳ではないと断りを入れたものの、「秘書の大久保がやったことは自分も報告を受けているし、献金についての取り扱いについてはなんの違法性も無い」と言っている。つまり、逮捕はされたけれども、違法なことは行なっていないということを言っているのだ。したがって、このような捜査、逮捕に至ったという事実に対して、きわめて不公正だと断じているのである。つまり、今回のことについて、「悪いことを行ったがそれは秘書が独断でやったのであって自分は知らない」というロジックではなく、「自分も秘書も悪いことは一切行っていないのであって、それを逮捕するという検察の行いが不公正だ」というロジックなのだ。その点をちゃんと報じているテレビメディアは意外と少なかったように思う。
 
 西松建設が多方面に献金を行っていて、自民党の議員にもそれはあって、それなのに小沢一郎だけというのはどういうことなんだろうという解説をしているコメンテーターもいた。その人はおそらく小沢一郎の側に立った意見を言ったつもりなのだろうが、結果的にそうはなっていない。その論理は、駐車違反の切符を切られた際に「俺だけじゃないぞ、他の違法駐車も全部取り締まってから俺のところに来い!」と文句を言う人も多いが、それに似ていると思う。つまり、そのケースでは「駐車違反はやったよ」ということが前提になっているわけで、今回の小沢一郎の主張というのは違法な献金を受けたりはしていないもので、それはある意味「駐車違反もやっていない」というものである。だから他の政治家への献金が云々ということとはまったく違うし、その点は小沢一郎も一言も触れなかった。そういうことがどういうことなのかということを、メディアはもっとちゃんと報じ、解説するべきなのだが、そういう報道は実に少ない。田中角栄ー金丸信ー竹下登という田中派本流ということをことさらに伝え、そういう報道を見聞きした街の人がインタビューで「がっかりした」とか「秘書の責任にしてばかりで」とか「潔く責任を取って辞任しなきゃ」とかしゃべっているのを流したりしている。さらには「民主党議員も今は小沢一郎以外に手が無く、この説明を無理矢理納得しなければという思いでいる議員も多い」とか報じているありさま。
 
 だが、マスコミも一般市民もその程度であることは、良い悪いではなく現実なのだからいいとしても、各政党の人たちがいろいろ言っている中で「説明責任が果たされていない」ということを高らかに言っている人が数人いたようだが、なにを言ってるんだろうと理解に苦しむ。それは立場などいろいろあるだろうから、攻撃的な姿勢を示すことはあったとしても、ちゃんと会見を見ていれば、これ以上の説明をどうやって行うのかということを逆に尋ねたい。わあわあ言うだけの能力しかないのであれば、政治家などをやる資格は無いと思う。その点、一般的には支持率が低い麻生総理だが、麻生さんの発言は非常にニュートラルで、よく判っているなと思った。要は小沢一郎を好きとか嫌いとかではなく、提示された情報をどう理解して、それにどう対応するかということである。説明責任が果たされてないというなら、どのへんのポイントが不足しているのかを言うべきだし、辞職するべきだというなら、その理由は何なのかということを言うべきなのだ。それらが挙げられないのであれば、そういう曖昧で情緒的な意見を言うのは自分の見識や能力が足りないということを露呈することになるということを自覚すべきなのだが、その自覚をすることも一種の能力に基づくものであるから、それを要求してもだめなのだろうとか思って情けなくなる。
 
 
 今回の問題で僕が問題だと思うのは、なぜこのタイミングでこういう逮捕劇に至ったのかということである。穿った見方なのかもしれないが、これは自民対民主という対立の中でおこったものではないと思う。小沢一郎は「政治的にも法律的にも不公正な国家権力、検察権力の行使だ」と言っているが、誰が行使したのか、行使させたのかということについては具体的に触れてはいない。もちろんここで軽々に触れたりするのは愚かな行為だとは思うが、民主党が今政権奪取に限りなく近づいてきていて、それが実現したときにもっとも困るのは誰なのかということを考えたとき、それは自民党だという人もいるだろうが、僕はそうではないと思っている。困るのは官僚組織なのだ。郵政民営化問題でも西川社長辞任に追い込んで元官僚が社長に納まろうとしているし、いろいろな問題で、官は問題を起こしても誰も責任を取らず、政争の過程で一人肥え太ってきた。官となれあっている自民党には既に自浄能力はなく、民主党はその流れを立つために必要な存在であり、そのための大きなチャンスが訪れていると個人的に見ている。いや、民主党がそれを確実にやるのかどうかは別の論議だが、もしもそれをやれる存在があるとしたら、現時点では民主党以外には選択肢は無いと思う訳で、おそらくそういうことを多くの人たちが思っているのだろうと思う。それだけに、その民主をたたくことによって、実は自民党というライバル政党ではなく、官僚組織が身を削られる可能性を恐れているとしたらどうだろうか。個々の組織(省や庁)は別々に仕事をやっているけれども、イワシが群れを成して大きな一個の生命体であるかのようにすることで、大きな敵と戦おうとすることはよくあるが、そういう本能を官僚組織というものも持っているようにさえ感じる。とても怖いことであり、そういうことが本当に起こっていて、今回の件で小沢一郎や民主党の勢いが削がれるとしたら、それは合法的なテロのようなものであり、どこかの国でよく起こっているような、ジャーナリストや政敵の政治家や企業人が理不尽な死を次々と遂げているようなこととあまり変わらないように思う。それこそ民主主義の敗北であり、国家的な危機であると、震えるような戦慄に襲われるのである。

Sunday, March 01, 2009

換装


 
 気がつくとMacのノートパソコンはMacBook Proも3世代目になっていて、もはやインテルマックへの違和感なんて感じることに違和感だ。MacBook Proも持っているけれども、今でも僕のメインマシンはPowerBook G4。OS9時代のソフトを今でも使用しているため、やはりこれを使う必要がある。もう6〜7年前の機種であるこのノートパソコンには、最初に搭載されていたハードディスクが60GB。昔はそれで良かったのだろうが、今となっては小さなHDでしかない。ファイルやらソフトやらが日々蓄積され、今となってはすぐに空き容量が1Gくらいになってしまう。その度ごとに外付けHDに当面要らないファイルを移したりするが、そもそもOSやアプリケーションなんかが結構な容量を占めているし、「当面要る」ファイルも少なくなく、結局空き容量が8GBを超えることなどあり得ないという状況がもうずっと続いていた。

 それで、思い切ってHDの換装をすることにした。ついでにメモリも増設することにした。秋葉原の秋葉館が頼れるお店。Mac用に使えるパーツが欲しいとき、普通のお店だと「Macだと動かない可能性もあります」とか「それでもよければ、ただし返品は効きません」とか言われて、Mac用と言われる高めのパーツを押し付けられることになる。その点秋葉館はMac用とかいう分類ではなく、機種ごとの対応パーツを、200x〜200x年までのMacBookとか、かなり細かいところまで明記してくれるからかなり安心して買える。「交換方法についてはご案内しておりません」とかいうけれど、まあそれはこちらも承知の上で割り切って自分で交換しようと思っているのだからそれはいい。交換していいパーツを適正価格で買いたいだけなのだ。

 というわけで、秋葉館で250GBの2.5インチUATAハードディスクと、HDケース、1Gのメモリを購入。これで2万円しない。

 バックアップをしなければいけないのだが、OS X付属のディスクユーティリティでは起動ディスクのバックアップが出来ないので、カーボンコピークローナーというソフトで完全コピーをする。新しく内蔵する250GBのHDを購入したHDケースに入れて外付けHDとして接続、ここに起動ディスクとして完全コピー。それに約5時間。朝起きるとバックアップは完了していて、それを会社に持っていき、換装作業を始める。

 ネジをていねいに外して、散逸しないようにガムテープを取り付けたノートにネジを貼っていき、どこのネジなのかをメモする。裏のネジを外し、横のネジ、背面のネジ、そしてトップパネルのネジ。ここだけなぜ六角レンチなのだな。ネジを外してもボディとの接合部分には面倒なフックがついていて、外すのにかなり骨が折れる。この辺はPowerBookのHD換装の経験を写真付きで解説してくれている人のブログをかなり参考にして進めていく。そしてハードディスクを留めているネジと部品を外し、ハードディスクを外す。今度は外付けにしてコピーをした新しい250GBのHDをケースから取り外し、接続用のパーツを付け、元あったところに取り付けていく。フタを取り付け、ネジを締め、恐る恐る電源を入れてみる。同じ音が鳴って、見たことある画面が再現される。完全にコピーしてあったまま、元のままの状態で動く。唯一違うのはHDの空き容量が190GBと表示されている点だ。素晴らしい。同じ画面だから新鮮味はないが、新鮮味がない状況で復活することこそが、究極のHD換装ではないかと思う。じんわりとした感動とはこのことだろう。

 言葉にすると簡単なことだが、静電気除去のために途中何度も金属を触ったり、唾なんかが飛ばないようにマスクをしたりと、やってる間は緊張感溢れる68分間だったのだ。

 メモリも交換し、それまで756MGだったのが1.5GBに増え、体感としてかなり速くなったような気がする。古い機械もこうしてパワーアップできた。まだまだメインマシンとして使いまくろうと思っている。唯一の心残りは、DVDは見るだけだったドライブをDVDを焼くことも出来るドライブに交換しておけば良かったということ。なぜなら、またこれを開けたり閉めたりするのは骨が折れることだからだ。まあ仕方ない。やがてその必要が訪れたらトライすることにしよう。