Wednesday, April 28, 2010

価値あるものには見境がないのだ

 高城さんはちょっとやりすぎた。その反動なんだろうと思う。沢尻エリカとの幸せな日々。恋愛って他のものとは比較出来ないよね。だから恋は盲目っていってね、時には人格さえ変えてしまうほどの力を持つのだよ。それが純粋に恋愛だけで動けばいいのだろうけれど、人間って恋愛だけで純粋には生きていない。沢尻エリカに商品的価値があったのは一昨年の時点で誰の目にも明らかだったし、それを「恋愛」を武器にして、彼女の価値を作り上げてきた勢力から奪っていくのは、やはりちょっとやり過ぎだった。

 もしかすると、あくまでもしかするとだが、彼女はとても純粋な人なのかもしれない。だから高城氏との出会いが彼女の価値観を変えたのだろうし、そして今回のように、商品価値を自分の手にしようという勢力との接触が、結局は高城氏との絶縁を生んだのだろう。恋愛ごときで価値観が変わるなら、別の基準をぶつければ、恋愛で変わった彼女の価値観は再び変わるだろう。もしも自分たちのやりたいように動かしたいなら、自分たちの基準をぶつければ済むことだ。

 物質としての商品ならば契約とかで縛ることが出来る。だがタレントには感情がある。いくら契約があったとしても感情がそっぽを向けば契約など有って無きようなものだ。足を引っ張ることは出来ても、決して思うようには動かない。iPadが突如「ジョブスの思い通りに売られたりはしないぜ」なんて言うことはない。だが、そこにもしも感情があれば、「オレはビルのウインドウズを動かしたいんだ」とか言い出したりすることだって起きるのだ。現実にタレント管理ってそういうものだし、海の向こうのスケート選手もそんなことで揉めている。

 感情とは人間性のようなもので、義理とか人情とかを大切にする人は、条件とかその他ではなかなか動くことはない。だが、何かで心が変わる人というのは少なからずいるのだ。そしてそういう人は、一度動いた先からも簡単に動いてしまう。だったら、恋愛で動いた価値ある商品を、今度は自分のところに動かそうと思う人だっているだろう。突然の情報乱れ打ち状態は、そんなことなんじゃないかと思ったりする。

 人は、価値あるものを目の前にすると見境なく行動するものだねと、半ば哀しい思いになってしまうよ。

 政治の世界はもっとドロドロしているのだろうと思う。とにかく小沢一郎のことがみんな大嫌いなんだ。それは彼が大嫌いなのではなく、彼が奪っていったもの、それは大きな既得権益だと僕は思うのだが、それをなんとか取り戻そうとする勢力がもの凄い数いて、それらがもの凄い勢いで小沢一郎を追い落とそうとしているのだろうと見ている。小沢一郎を訴えている市民団体って、一体どんな人たちなんだろう。そのことはまったく伝わってこないのに、小沢一郎がいかに人非人なのかという情報ばかりが乱れ飛んでいる。

 その役割を担っているのがマスコミだ。昨日の夕方のニュースなどでも、小沢一郎の経歴を紹介するビデオの中で、「自民党を離党したころの小沢は毎日肉を食い、多い時には1升の酒を飲んだ」とか言っていた。これ、なんなんだと思う。毎日肉を食うのはなにか悪いことなんだろうか。そのナレーションも低く不気味な声質で、小沢一郎がまるで妖怪であるかのような語りっぷりだった。

 これは今日のスポーツ紙で沢尻エリカが高城氏のことを「キモイ」と語っていたということをトップ見出しにしているのとあまり変わらず、単なるイメージ戦略をマスコミが肩代わりしていることなのだろうと思う。今回の沢尻エリカの離婚は、明らかに今後の芸能界復帰を順調にしていくためのものであり、そのゴタゴタの中で彼女のイメージが傷つくことは避けたい。だから、離婚原因はすべて夫である高城氏にあるのだというイメージを作りたいのだろう、誰かが。だから本人の口から直接出ているわけでもない、「知人に語ったところによると」という中で「キモイ」が出てくるのである。知人って、誰よ?本当は知人なんていないんじゃないの?いたとしても、それは新しくパートナーシップを組む事務所とかの関係者もしくは関係者から利益を受けている人なんじゃないのとか、勘ぐってしまう。

 まあ、世の中なんてそんなものだねと思うしかない。だから優秀な人はなるべく目立ったりすることないように息をひそめて生きることになるのだし、だから下らない人しか政治とかに向かっていかないようになるのだろうと思う。そのことを考えると、やはりいつまでも小沢小沢と言ってるのではなく、仕分け作業とか、やっていることに目を向けていってはどうかなと思う。今朝のワイドショーでも、「仕分け作業とか頑張っているのに、小沢さんの事件のおかげで扱いが小さくなってしまって、枝野さんはやけ酒だったんじゃないでしょうか」とかしゃあしゃあと言っていた。「僕には何の権限もないが、あんたは番組を進行している立場の人間でしょう、だったら自分たちが価値あると思うニュースを大きく扱えばいいだけのことであって、それを小沢さんのせいにするのは筋違いだろう、しかも小沢さんが動いたんじゃないし」と、画面に向かってぶつぶつ言ってしまったのである。

ルール

 興味深い法律が成立した。殺人事件の時効が廃止されるという。そしてそれを即日施行するという。なぜかというと、即日施行しなければ翌日午前0時に時効を迎える事件があるからだ。

 これに対してどのように考えるべきか。まず、途中でルールが変更されるというのは如何なものかという意見があるだろう。人間はルールに基づいて生きている。社会に生きる以上当然だ。そのルールとはなにか。少なくとも現時点で信じられる一定の枠だ。そこにはいろいろな理由があるだろうが、それが絶対というわけではない。野球で3回空振りしたらアウトなのである。たとえその打席に新記録がかかっていて、シーズン最終戦の9回裏だとしても、ルールである以上3回空振りしたらアウトなのである。同じように、犯罪者もルールに縛られている。法を犯したら追われるし、捕まったら裁判を受ける。たとえ悪いヤツでも裁判を受ける権利がある。同様に、一定の期間逮捕されなければ時効になるというのも、一つのルールだ。新しいルールがスタートしたとしても、それまで既存のルールに則って動いていたというのに、突然変わってしまい、それまでのルールに合ったアドバンテージというか、有利な点が根こそぎ無くなるとしたら、犯罪者も怒るに違いない。どうしてなんだと。法曹関係者だって怒るに違いない。どんな凶悪犯にも弁護士はつくし、ついた弁護士は凶悪犯の情状を述べ、守ろうとする。そういう立場からすれば、時効が無くなるっておかしいだろうという主張が出てきても何ら不思議は無い。

 これを殺人事件の時効というから「ヘンなことを言っている」と思われるかもしれないが、じゃあ年金とかでいえばもっと判り易いかもしれない。年金制度は25年以上払っていれば、歳をとってから年金が毎月もらえるという仕組みだ。簡単にいえば。でもこれが破綻しそうになっていて、このままではダメだという議論は多い。しかし、じゃあだからといって「国としては今の年金制度に問題があると考えるから、本日法律を改正し、明日からは年金制度はなくなります」とかいうことになると、もう何十年も支払ってきた人からすれば絶対に納得出来ないところだろう。「まあ現在の年金制度に問題があるのは判る。でもそれはこれから20歳を迎える子どもたちに対して施行すべきであって、これまでの年金制度(ルール)に基づいて生きてきた自分たちにはこれまで通り支払うべきだ」という主張になる。もっともだ。そういうルールの元で生きてきたのだから。

 でも、このままでいいはずは無いし、40年くらい先に是正されるような制度を今から設計して運用するのは絵に描いた餅に過ぎない。だからどこかでドラスティックな改革が求められるのだろうが、そんなルール変更というのは、やはり難しいし、現実的ではない。

 今回の時効問題について、僕は個人的には中途半端だと感じる。制度的には、これから発生する事件についてこの新しいルールを適用していくというのが筋である。なぜなら、新しいルールを知って、それでも人を殺しますかという、そういう問いかけであるべきなのである。それがルールだ。打席に入るまでは3ストライクでアウトだったのに、1ストライクをとった辺りから突然「2ストライクでアウトですよ」と言われるようなことは、あってはならない。そうでなければ、過去に既に時効を迎えている事件に付いてもその時効が無効だとするようなやり方をすべきであろう。なぜなら、この制度改正は「殺人を犯しながら一定期間過ぎれば免責になるのはおかしいだろう」という考え方から来ているのである。だとすれば、現時点で免責になっていること自体おかしいとするべきなのである。だが、そのどちらにもならず、結局は即日施行で、時効成立ギリギリの事件の犯人を逃がさないということを優先させた。中途半端な結論に至ったのは本来的には残念な気がしてならない。

 だが、それでも僕はこれでいいのだと思う。どんな問題や決定に対しても100人いれば100人の意見があり、百家争鳴することで結論が先延ばしになっていくことを避けると言うのも必要なことだ。だとすれば、法改正の精神が最低限ギリギリ活きるような決着を見たのは、とてもいいことだったように思うのである。つまり殺人という卑劣な犯罪を絶対に許さないという一つの意思を示すことができたわけだし、ルールは絶対に正しいということではなく、その奥には常に社会が良くなっていってほしいという普通の願いが、改正によって少しでも実現に近付いたような気がするのである。

Monday, April 26, 2010

生き様模様眺め

 袋小路に入るというのはこういうことだ。生きるということは往々にして大きな希望に包まれたところから始まり、その希望が次々と潰されながら時を過ごすものである。最後にはそのすべての希望がなくなって、その現実に直面して、絶望に包まれたところで終わり。それですべてが終わりになるのだ。

 つい昨日訃報が届く。もう27年も会っていない高校時代の同級生で、特に仲が良かったというわけでもなんでもない。在学中にだってそんなに多くの言葉を交わしてもいなかったし、だから、その訃報を特段に残念に思うということもない。だが、45歳の同級生が3年もの闘病生活の末に逝ってしまったというのは、距離感の多寡に関わらず何をか考えさせられずにはいられなかった。

 その中で感じたのは、人生ってなんだろうということである。僕は日常的にミュージシャンたちと関わって生きていて、彼らはとても高い壁に挑んで過ごしている。音楽で成功するというのは一体なんなんだろう。メジャーデビューをすることか。それとも100万枚のセールスを叩き出すことか。もちろんそれも一つの成功の形だとは思う。だが、それは一つのピークであって、ゴールではない。死ぬ間際にそのピークを迎えて早生するのであればある意味美しいともいえる。だが、実際には若いある一時期に絶大な人気を得て、成功と言われるようなセールスを叩き出し、あとはある意味下降線を辿っていく。どんなスターでもそれはなかなか避けられない現実だ。

 下降線を辿る時、ある一線を超えるとビジネスとして成立しないという状況になってしまう。他での収入を探さざるを得なくなる。その時に、ミュージシャンは「プロ」という立場やプライドとどう折り合いをつけていくのかが、きっと問われると思うのだ。それは人生そのものであって、ことはミュージシャンに限った話ではないだろう。僕らは複雑な問題をいろいろと抱えながら生きていて、その問題の中で時に喜び、時に泣く。問題と状況は複雑に絡み合うために単純には判断しにくいが、ミュージシャンの生き様というのは、そういった問題をシンプルな形で見せてくれているともいえる。それゆえに、この仕事は面白くもあり、切なくもある。

 音楽を表現するというのは、ある特定の人種にとって生き甲斐そのものである。僕が接する「ミュージシャン」にもいろいろとあって、それを生き甲斐と思い込んでいるだけの似非ミュージシャンも少なくないが、稀に真のミュージシャンも存在する。だがそれは必ずしもセールスと直結しないのが難しいところだ。世間的にはセールス無きところに評価など無い。だが、セールスを超えたところのミュージシャンというのも現実にいる。それは僕や僅かな「ファン」たちとミュージシャンとの間にしか存在しない評価ではあるものの、そういう真のミュージシャンが、生き様として音楽との関係性をどう成立させようとしているのかということが、僕にはとても貴重な体験だなあと思えて仕方ないのである。

 かつてメジャーだった人のライブを来月見に行くことになった。その人も音楽とプライドと不器用との狭間でもがきながら今に至っているのだと、伝聞だけで勝手に感じている。何事も思うようにばかりはいかないのが人生で、だから普通は諦めたり止めてしまったりする。だが不器用であるが故にそれでもそこにしがみつくしか出来なくて、今に至っているのかもしれない。だがそれでいいのだと、僕はこれまた勝手に思うのだ。そんな不器用で、セールス的に落ち込んだかつてのメジャーを今でも忘れ去ることが出来ない幾ばくかのファンたちの前に立ち、何らかのコミュニケーションを結ぶことができるのであれば、それはそれで十分に幸せなことである。その十分な幸せに包まれていられるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。もちろん、それを逃げ道として最初から努力をしようとしないのは論外なのだが、いろいろなトライをして、最後に見つけた空間がそういうものであるのなら、それがひとつの目指すべき場所であるような、そんな気がしたりもするのである。

Thursday, April 15, 2010

やくと朝と空

 最近のワイドショーかなんかで、天下りの酷い実態を紹介していた。なんでも日本の空港の経営はどこも赤字なのに、そのファミリー企業みたいな天下り団体が沢山あって、なかでも空港併設の駐車場を管理している会社は全国で170億だかなんだかの余剰金を溜め込んでいるらしい。ふざけんなと、言いたいよね。うんうん、そりゃ言いたいぞ。

 で、その天下り団体を無くしたり潰したりするのが民主党の役目だったはずなのに、そこに天下りしたい国土交通省の役人に乗せられてヤンバダムとかの人たちの抵抗に牙を抜かれる大臣とか、もうダメって感じ。もう天性のKYを発揮して、「作らんもんね、話し合いもしないもんね」とかいえば良かったのに。そうすれば男を上げられたのにね。でもそこは役人は上手いんだろうなあ。ああいうところにはさまざまなテーマがあって、どれもそれなりに大事だし、どのテーマにも反対や賛成があって、抵抗勢力も多かったりする。だから些細なテーマを持ってきて、その抵抗勢力にスポットを当てて、マスコミに食いつかせさえすれば、それで一丁上がりだ。世論の声が沸き起こる中、大臣もそんな些細なテーマの混乱に巻き込まれて、本来やるべきだったテーマには手つかずという状況に陥る。そうするとその原因を作ったマスコミの方々によって、「この大臣は何もしていない」とか揶揄される。挙げ句に「期待はずれ」と騒がれ、その騒いだ結果として「世論調査で支持率低下〜危険水域に」とか言われてしまう。

 だから、本来そんな外野の言うことに惑わされずに、自分の中で大切だと思われる優先順位に従って仕事をしていけば良いはずなのに、なかなかそれが出来ないんだろうなあ。外野の声に耳を貸さずにいると「独裁」とか言われるし、「説明責任を果たしていない」とか言われる。それでわいわいがやがや言って、また世論による「支持率低下」が持ち上がってくる。

 それを気にしすぎるようになると、それはようするに御用聞き政治になって、いわゆるポピュリズムということになってしまう。もちろんそんな単純な図式ではないことも判っている。だが、眼前の些事に国家百年の大計が左右されるようでは、やはり未来は暗くなるばかりだろう。僕らはもっと近視眼的な問題意識から脱却して、大きなことを考えられるようになることが問われているんじゃないだろうか。

 そのワイドショーで、空港駐車場の経営実態について振られたやくみつる氏が「知らない間にこんなことになっていたとは」と絶句していた。絶句もすべきだろう。国民がそういうことに関心が行かなかった大きな理由のひとつに、やく氏が朝青龍問題なんかを殊更に重大事件であるかのように騒ぎ、ワイドショーに火をつけ、メディアが大きな社会問題へ割くべき時間を減らさせたというのも絶対にあるのだから。

Tuesday, April 13, 2010

ミュージシャンへの手紙〜彼らはデモテープを何故送るのか?

 ミュージシャンがデモテープを送るのは何故か? まあいろいろと理由はあるだろうが、基本には自分の音楽を広めたいからなのだろうと思う。キラキラレコードはインディーズレーベルだから、CDを出すチャンスを得たいと思ったりする部分も少なくないだろう。もちろんそれでいいし、その思いが強ければ強いほど、成功の目も出てくるというものだと思う。だからどんどんアグレッシブにデモを送りつけてもらえればと、僕は思っている。

 しかし、そんな時にちょっと考えてほしいことがある。ただ単に広い意味でのバックアップというものを漠然と求めるだけの姿勢になっていないだろうか。もちろん他者と組むということは、自分にはなく他者が持っているなにかを期待した行為だ。人間の能力には限りがあるし、だから他者と組むのは素晴らしいことである。それによって人は自分だけで行うこと以上の何かを得ることが出来る。キラキラレコードにはレーベルとして20年やってきた上での経験とかノウハウがある。だからそれを十二分に使ってもらえれば、それはきっとミュージシャンにとって有益になるだろうという自負がある。それを盗んで、自分のものにして、またはずっと提携を続けながら、羽ばたいていってもらえればいいのだと思っている。

 だが、提携は自分が他者に求める何かと相応する何かをこちらからも提供するということを意味する。提供出来るものがなければ、それは施しだ。善意による施しならまだ良いが、悪意を持った施しは、時として隷属を強いる結果になる。僕はそんなことにはなりたくないから、簡単に他者から施しを受けたくはないと思う。だがそれが隷属になりかねない不平等なつながりを、平等な提携だと勘違いすることも時としてある。今日メールをもらったミュージシャンはそういう勘違いに陥っているんじゃないかと思った。彼は僕からの提案を聞いて、それを考え、結局リリースに向けてチャレンジすることを止めた。そして「期待していたサポートを受けられないと思った」という趣旨のことをメールしてきた。

 過大な期待をしてくれるのはありがたいが、それにはとてもじゃないが応えられないし、応えるべきではないと。ミュージシャンとレーベルが始めて顔を合わせるというのは、妙な例えだが、合コンで始めて出会ったようなものである。その場で終わるケースもあるし、数度デートをすることになるケースもあるし、将来的に結婚までしてしまうケースだってある。だが初顔合わせの合コンの席でいきなり婚姻届を出して「結婚しよう」というのは、どんなに相性がいい関係であっても無理がある。仮にそんなことを言ってくる男(女)がいたら、そこには誠意などはなく、なにか怪しい企みがあると思った方が普通だろう。だから最初から過大な期待など出来ないし、することが良いとは思わない。それで、断りのメールに対して、返事をするのは蛇足だと思いながらも、なにかいわなきゃと思ってこんなメールを書いた。
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○○さま

メールありがとうございます。もう返事をする必要はないのかもしれませんが、なかなかドライにもなりきれず、お返事いたします。
○○さんはまったく誤解してますよ。音楽そのものが資本や材料だとお考えのようですが、それはその通りです。しかし、それを活かすも殺すも、結局は人間に帰するのです。
○○さんに音楽的才能があったと仮定して、じゃあそれはどのくらいなのか。全人類だれからも圧倒的にダントツの才能だと認められるのであれば、それは音楽のみで成功します。しかし、そんなことはありません。マイケルジャクソンだって、支持されたり非難されたりです。もっと現実的にいえば、○○さんに才能があっても、同程度の才能を持った人は沢山いることでしょう。その中から勝ち抜いて、頭角を現していかなければいけない。同程度の才能と手を組む時、ある才能はその才能を最大限に活かすべく最大限の努力をして、別のある才能はその才能を認めろと言うだけで最大限の努力をしようとはしない。その場合、どちらと組むべきかは誰の目にも明らかでしょう。弊社の提案は、それほど大した努力を要するものではありません。たとえ現時点でファンが1人もいなかったとしても、普通の努力でそのくらいは乗り越えられます。乗り越えられないと不満を言うミュージシャンも沢山いますが、それは努力をほぼしていないと言えるでしょう。だとすれば、今回のような提案を受けて、難しいと思うというのは、努力しようという気持ちが足りていないことの現れだし、そういうミュージシャンに音楽的才能が有ったとしても、きっと同程度の才能に負けてしまうことが想像出来るのです。だから、組むべき価値が少ないと見たとしても、ノーマルな判断ではないかと考えているのです。
そもそも、バクチをしようとおっしゃるのですが、○○さん自身がバクチをする気がないのではないでしょうか。このような仕事を20年やっていることそのものが、バクチのようなものですし、バクチ打ちが手を組むべきは、やはり同程度にバクチをしようという意思がある人だと思います。バクチに勝つのは、ゼニのあるヤツ。それはある意味当たっているかもしれません。バクチをせずに富を得られるなら、その方が良いに決まっています。しかし、バクチを打たなければ求める価値を得られないのだとしたら、打つべきだし、それが打てないのであれば、バクチを打って負けたヤツを蔑み、買ったヤツを羨み、自分は相変わらず大きな傷を負うことがなかったということを幸せに思う以外に無いのではないでしょうか。

言い過ぎましたね、すみません。これを最後にいたします。
失礼します。

キラキラレコード、大島栄二
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 個人名は出すべきではないし、個別内容などに関する部分も若干省略してたりもするが、大筋ではこんな感じのメールだった。

 僕の言っていることは間違っているのだろうか。もしも幸いに間違っていなかったとして、その言葉は彼の心に届いたり、響いたりしたのだろうか?