Saturday, February 28, 2009

悼む人


 ベストセラーの前作から8年ぶりの新作だという、天童荒太の長編小説。先日の直木賞を受賞した作品。
 
 いやあ、面白かった。というより興味深かった。引き込まれた。主人公の一風変わった日常を通して、それに関わる人たちの人間模様が描かれるわけだが。そのどれもが悲劇的で哀れな側面を持ち、同時に自らの個としての存在を激しく主張するのだった。当たり前のことである。誰しも他の誰かと同じ存在である訳はない。それを証明するにはどのような方法があるのか。それは、他人を否定することである。他人の考えを否定し、他人の行動を否定し、他人の存在を否定する。そういうことで今ある自分が他人といかに違う存在なのかということを初めて肯定できる。それは愚かでおぞましいことなのだが、どうしてもそうする以外に道はないように思われ、無意識のうちにそういう行為に及んでしまう。それが人間の哀しいところなのであろう。
 
 この小説にはそのようなシーンが多々出てくる。取材対象を否定する記者、その記者の仕事を否定する友、親の行動を否定する子供、子供の行動を否定する親、愛する者を否定する男や女、殴る者、絞める者、無視する者、嘘をつく者、泣く者、裏切る者、追い込む者、蔑む者、忘れる者。そういった行為が出てくる理由は様々だが、そのどれもが現実の自分を肯定しようと必死だったりするところから発している。その必死さに正当性があるのかというと、人間だから仕方ないなという思いで多少観念しなければいけないのかもしれないとか思うが、同時に、人間だからこそ、そこから脱却したところにもいたいという思いも多少なりともわき上がってくる。だが脱却するということは自分の否定につながる。自分を否定することによって何が起こるのか。それは他人を否定し続ける者に取っては恐怖そのものだ。その恐怖と立ち向かう者もいるし、立ち向かわざるを得ない者もいる。それによって得るものと失うものがあるわけで、その辺のことを、僕はこの小説を読んで漠然とではあるものの感じたりしたのだ。
 
 主人公は、小説の冒頭から奇妙な行動をとり続ける。その行動の奇妙さとは、それはいってみれば普通の常識とのギャップであり、それを奇異と見る限りは恐怖との対峙はできない。もちろん小説を読むだけの読者は対峙などしなくてもいいのだが、小説に出てくる者たちはそのギャップを無視することが何となく出来ないでいる。それは彼らが無視できない立場に追い込まれているからであって、その追い込んでいる理由こそが自分を他者否定に走らせてもいる原因でもあるのだが、他者否定をすることで得られた現状にも違和感を感じている。だからこそ主人公の行為を単に奇妙として否定するだけで終われず、彼らの視点を通して、僕らは主人公のことを考えていくことになる。他者との違いを通して「他者とは違わないという違い」について考えるというのはとても興味深く、錯綜ともいうべき感情が巻き起こってくる。答えはどこにあるのか。それを探しながらメージをどんどんめくっていくことになる。
 
 思うに、人は自分を肯定したいのである。自分が生まれて、生き続けている意味とはなんなのか。それは偶然の産物だったり、意味の無い人生であったり、そういうことであっていいとは思えない。思いたくない。だから他者とは違う独自の生であって欲しいと思う。もしも他者と同じであれば、その他者がいつでも自分の代わりになれる。そうではなくて、自分でしかこの生を全う出来ず、この生が非常に重要なものだという実感を持ちたい。だから運命を彷徨うのである。もがきながらも生きるのである。生きることで他者を否定しようとも傷つけようとも、自分という個を浮揚させようとするのである。
 
 だが、自分で他者を否定すること以外に、この生を価値あるものと実感する方法がある。それは、他者に認められるということだ。これは他者否定をするという行為とは対極にあって、生き方の方向性がまったく違わなければ実現できない解なのだ。自分でそれを証明するのではなく他者から証明されるのを待つ。待つのは辛い。だが、いつか誰かがこの生を肯定してくれると思うこと、信じることによって、他者を否定せずとも生きることができるようになる。それが福音だというのなら、そんな信仰のようなものを信じられないという反応も素直だし、具現化するそういう福音を知ることによって穏やかになるという反応も素直なことだ。具現化とはなにか。それは一片の木っ端でもいい。ある種の人、人格でもいい。その対象が本物であるか偽物であるかは大きな問題ではない。用は信じるかどうかということであり、信じられる心に成れるのであれば、そのきっかけは何でもいいのだろう。この小説の主人公はそういう木っ端のようなものかもしれない。その周りに、無批判に信じる立場、何を信じていいのかわからない立場、最初から疑いの目でしか見られない立場、そういういろいろな立場の人が種々の体験をしながら進むこの小説は、とてもよく練られてある作品だなあと感じ入る。
 
 
 あああ、もう少し内容に密接した感想を書きたい。「悼む人」は特にネタバレがどうこうという内容ではないはずなので、書いてみても別にいいのだが、それで興味が薄れたりされてがっかりさせてもと思うと、漠然とした感想しか書けなくて、ちょっと消化不良だ。でも、この作品はとても面白く、興味深かったです。人生になにか柱のような物を探しているような人にはおすすめです。前作から8年も経過してようやく新刊が出たとか雑誌か新聞に出ていたけれど、この作品を考え始めてからは11年も経過しているらしい。どんなペースなんだよ天童。でも後書きで謝辞を書いていて、いろいろな編集者にお世話になったということに触れている。本当にご苦労様でしたといいたいし、そんな作家のペースに付き合っていけるような、そんな仕事がしてみたいとか、うらやましく思った。

Sunday, February 22, 2009

デジタルカメラ選び


RICOH R10(本命)


Panasonic LUMIX DMC-TZ5-K(対抗) 


RICOH Caplio R7(現行(故障)機種)

 デジタルカメラが故障。正月のことだ。使っていたのはリコーのR7という機種(写真下段)。2007年の11月に札幌で購入。故障が早すぎという感はあるが、よく活躍してくれた。これで撮影した写真は数知れない。僕の人生にとっても重要で大切な思い出だったり、仕事上の重要な1枚(そのために数百枚とか撮るが)だったり。日本国内に留まらず、ヨーロッパに北米大陸にと同行した。
 
 思うにカメラとは機能ではない。それは目や耳や、心のようなものであり、常にそれとあることで、記憶を補完してくれる。その補完に頼りすぎて肝心なものを生の目で見ているかという問いはあるものの、やはりカメラというものの力を有難いと思うのだ。例えば、盲目の人を僕らは可哀相だと思う。だが実際にそういう境遇にある人は、思われているほど不自由ではなかったりする。目に頼りすぎて生きている僕らが失っている感覚を駆使して、彼らは状況を判断するらしい。だからもし視力を失うことになったとしても、それだけで絶望してしまうことはない。と、いわれている。それはそうだろう。短距離ランナーがケガで走れなくなったら深い悲しみと絶望に襲われるだろうが、そもそも速く走れない僕らなどからすれば、それほど悩まなくてもいいですよとか思ってしまう。いや、誤解されたらまずいなと思っているし、視力を失うというのはやはり大変なことなのだ。盲目の人はそれでも頑張って日々を過ごしている。そういう強い心を持ちたいなと思うが、だからといって失わずに済むものなら失わないに越したことのないという気持ちの方が強い。それと同列で比較するのも変な話だが、カメラとはそれに似て、常に持ち歩いて人生の一コマをちょこっと記録出来る機械であって、できることなら失いたくない機能を持つ機械だと思うのである。
 
 話がちょっと脱線したが、ちょこっと記録するというだけなら携帯電話のカメラでも事足りる。でも使い込めば込むほど、やはり物足りなくなってくる。なんといっても撮影してメモリに記憶し、次の撮影が出来るまでに時間がかかりすぎる。ズームも効かないしピントも合わせにくい。ちょっとならいいけれど、大切な時間を記録するには物足りないのが正直なところだ。で、この1年半程度使ってきたデジカメが故障したのはショックだった。大切な思い出が生まれても、それを鮮明に記録することが出来ないのだから。
 
 1ヶ月以上そのままの状態で過ごしてきた。ちょっと忙しかったのもある。だが、迷っていたというのが正直なところだ。まず、修理を考えた。壊れたとはいえ、いろいろなところに同行したカメラだ。愛着もある。ものを大切に、エコにいこう。まあいろいろな理由はあるものの、ネットで調べたらレンズの工藤部分の修理には約16000円程度かかるという。故障の具合によってはもっとかかる可能性だってある。だったらカメラを新しく買ったらどうなのだ。それを調べてみると、まず、同じ型の機種は既に製造中止。売ってはいるものの選択肢として賢いものではない。同じリコーで画素数とかいくつかの点で機能向上している後継機種がR10。R7の2世代後にあたる。これが、価格.com調べによるとだいたい23000円程度。機能が上がって新品で7000円の差ってどうよ。新しいのを買った方が良いような気持ちに傾いてきた。
 
 そもそも、僕がデジカメ選びで重視したのが光学ズームの倍率である。リコーのこのシリーズは7.1倍という優れた倍率を誇っている。他にそんなのはコンパクトデジカメにはないのだ。光学3倍なんてちゃんちゃらおかしい。そんなんで撮影ができるかってんだ。というくらい、ズーム倍率が重要だ。ズームがあるから遠くのものも大きく細かく写すことが出来るのである。
 
 その次に重要なのが、広角の程度である。望遠と広角の両方を欲するなんてまあ、欲深いことだ。しかしこの点でもリコーは優れている。広角の焦点距離が28mmである。他メーカーでもズーム7倍というのはいくつかあるが、ほとんどが広角は36mm〜とかなのである。広角になぜこだわるかというと、広角の数字が小さいということは接写が出来るということだから。写真を撮るときに近すぎると写したいものが全部画面サイズに入らないことがある。だからちょっと後ろに下がらなければいけなくなるのだが、そうはいっても下がれる空間がないということがよくある。日本のように部屋が狭いのが当たり前という状況では本当に後ろに下がれない。だから、物理的に下がれない分レンズで下がるのだ。それを可能にするのが広角のレンジである。28mmというのと36mmというのは決定的といっていいほどの違いである。それで撮影できるものはまったく違うといっていいだろうと思うのだ。
 
 同時に、広角が広いということで下がれるんだということが確保できるということは、寄れるということともイコールになる。写される人は、レンズからの距離によって表情が変わる。ええ、こんなに近くで写るのか?という感情から、ちょっとしたドギマギ感が生まれる。遠くからズームで狙うと、狙われていることさえ知らないから緊張感のない表情になる。カメラを向けられると緊張をする。表情は硬くなる。それが超近距離になると、緊張を超えて驚きと同様が生まれ、逆に豊かな表情が生まれる。こういうのも、広角が生む効用なんだと思う。
 
 一方で画素数が問われることがあるが、それはもはやほとんど意味がない。リコーのやつは1000万画素になっていて、故障したR7よりも格段に細かくなった。だが、以前の815万画素で十分なのだ。そして当然のことだが、画素数が大きくなるとそれを処理するのに機械的な負荷がかかる。写真を撮影して次の撮影が可能になるまで、要するに機械は記録をしているわけだが、その時間が余計にかかるようになるということだ。画素数が上がるときには、記録部分のスキャン機能がどうなのかということと、それを処理するパワーの両方が問われるので、そのバランスのことを考えると単純に画素数が上がればいいということではない。出来るというのと使えるというのはまた違うことで、そういう意味で僕が重視したいのはパワーの方である。それが弱ければ、撮影するチャンスを失うことにもつながるわけで、それが重要でないのだったら、携帯に付いているカメラで十分ということになるのだ。
 
 長々とデジカメに求めるものを書き連ねてしまったが、そういうことを考えてみて、選択はリコーのR10しかないと思っていたら、調べるうちに同じような機能を持っているカメラとして、パナソニックのLUMIX DMC-TZ5-Kとうい機種があるということを知った。しかもズームの最大倍率が10倍。レンズの広角もまったく同じ。ビデオモードの時のズームも効くらしい。それはすごい。しかも、値段もリコーより安い。十分に選択肢として急浮上したのだった。
 
 しかしどうしてもパナソニックというのに抵抗がある。だって冷蔵庫や洗濯機のメーカーだろう。カメラのメーカーとは一線を画すべきだという先入観がある。一度触ってみなければ納得できない。買えない。ということで土曜日の夜にようやく機会を得る。ビックカメラの店頭で手に取る。それで判ったことは、まず写真を撮って次の撮影に移るまでの時間に若干ストレスを感じる。遅いのだ。そしてレンズが明るい。明るいのは普通は良いことだが、その明るさは蛍光灯のような明るさで、美しくない。もしかするとそういう明るさというのは、プリクラのような過照明で皺を飛ばしてきれいな写真という方向性に似ているのかもしれない。そういえばLUMIXのCMメインキャラクターは浜崎あゆみだし。ギャル的な「きれい」な写真は撮れるのかもしれないが、僕はなんかそこには抵抗がある。というより、キライだ。そしてこれも大きなポイントだが、MENUボタンを押して液晶画面に現れる操作アイコンなどの画面が、家電なのだ。使う人をバカにしているようにさえ感じるデザインなのだ。広く売るためには、そして機械が苦手という人にも買ってもらうためにはそういうデザインの方がいいのかもしれない。しかしそれではイヤだという人もいるのであって、僕はどちらかというとそういうカテゴリーなのだろう。
 
 やはり直接手に取ってみてよかった。カタログスペックからは判らないことがたくさんある。リコーを買おうという気持ちが固まった。
 
 帰宅してあらためて価格.comをみてみると、リコーの最安値がまた更新している。最安値店は、なんとamazon。価格.comの出品店は、機械ものの場合は秋葉原の怪しげ(偏見でスミマセン)な裏通りのお店か、そうでなければ地方の結構田舎の業者だったりする。量を扱って価格を下げるか、家賃や人件費を削って価格を下げるかのどちらかということになるのだろうが、それで一般的には無名のお店から買うことになるわけだが、amazonだったら無名なんかではないし、もはやクレジット番号さえ打ち込む必要なくクリックで買える。考えてみれば大量に扱い、都会じゃないところの拠点で展開なので、値段を下げる要素をいくつも持っているお店ということであって、安くて当たり前ではあるが、なんか意外な感じがした。小さいところがいくら頑張っても、結局は大手に太刀打ちできないということなのだろうか。それも虚しい気もするが、手軽で安いということには虚しい気持ちも敵わないのが現実というものでもある。

Friday, February 20, 2009

俺聴き:2009年2月15日川口アリオHMV(Vol.2)


玉手ゆういち/『1(いち)』

 変な声質。これが好きか嫌いかが最大の鍵だろう。曲調がかなりバラバラで、だから、的は絞れていないと思われる。2007年にデビューして、ファーストアルバムが2009年って、一体何をしてるんだよと思うし、それでいて方向性もブレているようでは、おいおいさすがにマズイだろうと、心配になってしまう。知り合いでもなんでもないのに。
 
 
 


KeITH/『VICE & VIRTUE』

 1曲目のノイズイントロに1分10秒、で、歌始まりが1分23秒って、客をナメているとしか言い様がない。でも、曲はいいのだ。音の使い方が曲によって違っていて、それでいて全トラックに一本筋が通っているように感じる。静的で激しく、媚びていない。8曲目、9曲目、11曲目のフォーキーな楽曲もいい。これの何が良いのかはまったく言葉で説明できないのだが、聴いた瞬間に「イイ」と思ってしまったのだから仕方がない。買いです。もしかしたら家に帰って後悔するかもしれないけれど、仕方ないのです。瞬間の出会いとはこういうものです。
 
 
 


CLOUDBERRY JAM/『When we were five(the Quattro years)』

 いやあ、これは欲しい。2枚組で合計30曲。それで2580円なんて、いくら過去音源で償却済みとはいえ、こんなに安くていいのかしらと正直思う。しかも現在入手困難な音源が詰まっていて、本当はみんなこういう曲の並びが欲しかったんじゃないかとか思うと、聴かずにはいられない。買わずにはいられない。ジャケのデザインも超ポップで、話によるとイケアのデザイナーが手掛けているとかで、そりゃオシャレになるわなと愕然。新発見のアーチストではないので、どうしても一種のノスタルジーが入ってしまうから、こういうところで試聴したレビューといっていいのかどうかは疑問も残るが、試聴したんだから仕方ないね。早速自宅のヘビーローテーションになりそうな気がする。当然お買上げです。

裏切り

 小泉元首相の発言に再び耳目が集まっている。麻生さんの郵政発言に「笑っちゃうというより呆れている」と言い、定額給付金財源確保を含む第2次補正予算の2/3議席を使った再可決には「採決が行われるなら欠席します」と言ったことについてだが、自民党が慌てている。それで幹部たちが言うことがいちいち面白い。「党の方針と違えばそれなりの対処(処分)はせざるを得ない」とか「理解に苦しむ」とか「粛々と2/3で決議します」とか、言っている。まあその人たちの立場からすればそう言わざるを得ないのだろうが、やはりそれは通じないだろう。小泉元首相は「2/3の議席でもって議決しようというが、その議席を得たのはどういう背景なのかということをもう一度よく考えてもらいたい」と言っている。至極正論だ。政治家は政治家のエゴを虚言妄言でもってごり押しなどしてはいけない。それが以下にルールに則っていたとしてもだ。そういうやり方は役人がもっとも得意とするところであって、ルールだからと押し通すことの連続の結果、今のような「天下り」とか「渡り」ということがまかり通ってしまっているのであり、派遣労働者があっさりと契約を切られてしまうという現実が襲っているのだ。そういう不公平を避けるためにルールを作るのだが、人間が作るルールには限界があり、どうしてもほころびが出てしまう。だから、そのほころびが出てきたときに修正して、また現実に即した社会運営が出来るようにするのが政治の仕事なのである。それは役人に出来るわけもなく、だから、投票という民意で「一般的な国民感情」を社会に反映させるために選挙があり、国会議員がいて、法律を作ることを国家の機能として位置づけているのだ。つまり、国会議員は拠って立つ根拠は民意なのである。それ抜きに自分たちの存在意義はないのだということを考えると、今自分が何をなすべきかということは自ずと決まってくると思うのだが、彼ら(自民党幹部)たちにそういった考えの背景はないように思われる。
 
 もちろん、政党政治であり政党に所属して国会議員になっているのだから、当然党の決定には従わなければいけない。立場としては当然であり、それに反するのならば処分も覚悟すべきだろう。もしかすると自ら離党する気概でなければいけない。だが、どうしてもそれが民意ではないと、自分の身上と違うというのならば、その覚悟も当然で当たり前のことであるべきだ。戦前の政治家は主義を通すために投獄も覚悟して活動していた。今でも世界的にはそういう激しい政治の世界は珍しくないし、場合によっては暗殺の危険性さえある。それが恐くて政治が出来るか。みな命がけで国のことを考えているのではないのか。それが政治家ではないのか。もちろんことの軽重はある。肉を切らせて骨を断つの諺の通り、本当に大切と思う政策を断行するためにいくつかの妥協、いやかなり多くの妥協を重ねることも場合によっては必要だ。だが、今の政治家の判断というのが、その奥にどのような大切な身上を抱えているのだろうかということを、僕なんかも推し量りに量ってはみるものの、一向にその重みが感じられないのである。自分の保身、次の選挙での自分の当選、そのための推薦とか、そういうもののために国家の未来を切り売りしているような気がしてならないのだ。
 
 それで小泉氏の発言に対してある自民党幹部が言った発言が秀逸だった。「今や民主党が国民新党と手を組んで郵政の再国営化を目論んでいるのだから、小泉さんもそのことをよく考えて行動して欲しい」ということなのだが、片腹痛い。そこには「政治家個人の理想を現実にするために、党利党略の中で最大限の効率的な動きをしよう」ということを言っているだけではないか。今さら言うまでもないが、小泉さんが郵政解散をしたときの発言がある。「国民の信を問いたい。郵政民営化が間違っているなら抵抗勢力に投票してくれ。そうでなければ小泉自民党に投票してくれ。」まあ記憶に基づく概要なのだが、おおよそそのようなことを言っていたわけだ。郵政民営化が国にとって大切な政策だと思っている小泉氏が、その意見に対して「国民よ選べ」と委ねたのだ。だから、選んだ。それが民意であり、小泉氏のやり方だったのだと、僕は思う。今回のことでその自民党幹部の言うことは「国民が選ぶ」という視点は欠け落ち、「国会議員が今の状況で、たとえ民意を無視したとしても、自分の思う政策を実現していこうじゃないか」ということになってしまっている。

 小泉氏の心の内を想像するのだが、きっとこういうだろう。「国民がそれを選ぶのならばそれも民意だ。その結果郵政が国有化されてしまうのならば、それも民意だ。しかし郵政民営化という旗の下で選ばれた国会議員が"郵政民営化は間違っていた"というのは民意に反しているし、郵政民営化に反対して除名された人や党の処分を受けた人を、復党させたりして大臣の座に座らせていることも民意に反している」と。
 
 もちろん小泉氏にしてもしばらく前に「一院制のことを議論して選挙の争点にすればいい」とか、目くらましな案を発案した人物であるから、自民党のことを大切に考えていることは間違いないし、国民に真に誠実かどうかは疑問も残るところである。民意という言質を取ればいいだろうというのは少々極論かもしれないという思いだってどこかに残っている。しかし、民意に背を向け、ルールをごり押しする政治家に較べれば、選挙という、民意という価値基準を重視する分だけ、国民に対して、そして自らの拠って立つ根拠に誠実であるようには思うのだ。
 
 現在の政治家たちがどれだけきれいな言葉を並べていたとしても、その言葉がどういう意味なのかということを、僕たちは見抜かなければいけないように思う。誰が誰のためにどういうことを言っているのか。誰が国民を裏切ろうとしているのか。裏切られて、ヘラヘラ笑っているようでは悲しすぎるではないか。そして自分たちが投じた総意に基づいて国家が滅びたとしても、民意に背を向けた政治家の暴走によって滅びるよりはまだ清々しい結末だといえるではないか。

Thursday, February 19, 2009

『朗読者』/ベルンハルト・シュリンク


 2000年にちょっとブームになった(らしい)この小説。新潮クレストブックスでちょっと読んでみたいと思っていたらブックオフで105円。迷わず買って自慢したら、奥さんは以前文庫で読んだらしい。ちょっと凹む。ま、それはいいとして、読む。
 
 これは人の成長の物語だと思う。そして、成長は必ずしもハッピーエンドにはならないということも僕らは学ぶ。
 
 冒頭で登場するのが主人公の少年だ。普通の少年の境遇とは少しだけ違う少年は、心も思いも特別ではなく、普通の少年だったりするのだが、境遇が普通と違う分だけ、普通の少年とは違った出会いを体験する。発端となる境遇はやがて普通の同年代と同じに戻っていくのだが、その期間に起こった出会いを無かったものにすることは出来ず、少年もまた無かったものにするつもりなどはない。起こった出会いは、少年の人生を大きく変え、ひとつの流れとなって物語が進んでいく。
 
 僕らにもバリエーションの違いこそあれ、そういう出会いはあるものだ。親友との出会い、恋人との出会い、そもそも親との出会いなど偶然以外の何ものでもないし、しかしそれが人生そのものに大きく影響を与えるのは避けようもないことである。自分以外の人との関わりが深くなることは、幸せなことでもあるし、同時にトラブルを呼び込む元でもある。トラブルを避けるには表面だけの関係に留めておくしか道はないが、それで人生が豊かになるものか。だから僕らは、トラブルの危険性を(無意識のうちにであれ)犯して、人との関わりを持つのである。
 
 主人公もまた、幼い頃の出会いに心を奪われ、その人との関わりを持ち続ける。ここで幸福なことは、主人公もその相手も、誠実で真っ正直な人間であるということだ。もちろんクセはある。だが、正直な人同士の関係というのは貴重であり、当事者にとっては幸せ以外の何ものでもない。だが、幸せというのはつながりの部分であって、抜け目ない策士でないが故に状況としての不幸を呼び込みやすい。事実主人公と出会った人は状況的な不幸に苛まれ、それが主人公の不幸にもつながっていく。
 
 そんな中で、主人公はある方法で幸せを続けようと努力する。その方法は、幸せとは心にこそあるものだということを改めて思い知らせるような方法で、ある意味必然的なものであり、同時にそれはとても切ないものである。僕はそういうシーンを読み進むにつれ、幸せな気分に包まれる。まるで悲しいラブソングの名曲を聴いているような気分にさせられる。豊かな時間とは、こういう本を読んでいる瞬間のことではないかと思ったりした。それが例え仕事の合間に移動する地下鉄の中での読書であったとしてもだ。
 
 結末については言及するまい。こういう結末に至るのも必然であるようにも思ったりする。誠実とはそういうものだ。誠実に生きるとは厳しい選択の連続であるのだと、僕は思う。
 
 なんでも今年、この作品を原作とする映画が公開されるという。映画がある前に読んでおいてよかったな。しかも映画化の報を知ることなく読めてよかったな。映画も見てみたいが、きっとガッカリするだろう。良い本の映画化は、そのほとんどがガッカリすることになってしまうのである。残念なことだが。だから今は、この映画を観るよりも、シュリンクの新作『帰郷者』を読みたいという気持ちの方が強いのだった。

Wednesday, February 18, 2009

俺聴き:2009年2月15日川口アリオHMV(Vol.1)


福原美穂/『RAINBOW』

 シングルを試聴したときは「この娘は歌が上手い」と思ったのだが、シングルだったので買うほどでもないかなと、アルバムが出たら買ってもいいと思った。で、今回アルバムが出て、買う前に試聴したら、かなりつまらなかった。何故かというと、すごく黒かったからだ。
 黒いというのは、別に腹黒いとかではなく、要するにブラックミュージック的になっているということで、結局この人はそんなことがしたかったのかという感じがするのだ。普通に聴かせればこの人の歌の上手さと声の良さは普通に伝わると思う。だから普通に歌わせればいいのだ。もちろんそれではどうプロモーションをしていいのかということがハッキリしないという難点はあるだろう。火がつくまでじっと我慢できるほどの体力が、プロダクションにもレコード会社にも無いのかもしれない。だが、ここはもう少しじっくりと歌の上手さを着実に知らせていくような仕事をしていった方がよかったのになあと思う。で、このアルバムリリース前には海外の教会でゴスペルを歌っている彼女の映像がCMなどで頻繁に流されていたが、その流れを汲んでこのブラックな曲調に、彼女の歌いまわし。狭いところにアーチストを追い込みすぎだなあと思う。ブラックミュージック的な歌い方に彼女自身慣れていないのではないかと思うのだが、それが、「単にブラックミュージックに憧れて真似している人」みたいな印象につながっている。残念。歌は上手いのだ。それが活かされていない。焦点を絞ろうとしてかえってぼやけてしまった例になってしまった。
 
 
 


スケルトエイトバンビーノ/『青春のうた』

 よくできた青春HIP HOP。ラップを取り入れて、オレンジレンジを真似するとこうなりましたという感じ。いや、よくできてますよ。爽やかです。でも僕はうちに帰って聴きたいとは思いません。聴きたいと思う人も多いと思います。単に趣味の問題です。僕にはなんにも響いてこないのです。
 
 
 


Pe'zmoku/『ハルカゼ』

 Pe'zとsuzumokuのタッグ。どういう経緯でそうなったのかはわからないが、事務所の中でのコラボレーション。ホーンサウンドがオシャレなPe'zとフォーキーでトゲのあるsuzumokuの、両者の良いところ取りをねらったのかもしれないけれど、僕には両者の特徴が薄まって、消えて、丸くなってしまったような印象。熱くもなく、ポップでもない音楽が登場したなあという気がする。Pe'zは普通のロックバンドにないサウンドを持っていて、でも、それがなかなかブレイクしない。思うに、スカパラを超えられずにいるのだと思う。事務所も苦労しているだろうなあと思う。そこに登場したsuzumoku。これをテコになんとかならないかと思ったのだろう。suzumokuそんなにルックスよくないし、歌は良いもののこのままでは永井龍雲になってしまうとでも思っただろうか。危惧しただろうか。ちょっとオシャレなものと組合せて、アクティブにしたら世間にウケるとでも思っただろうか。それでも特徴がなかなか見えてこないから赤いとんがり帽子をかぶせたらキャッチーになると思っただろうか。確かにキャッチーだ。でもそれは誰にでも出来ることで、Pe'zにしか出来ない世界、suzumokuにしか出来ない世界というものがあって、そういうものを持っているアーチストというのは実は少なくて、だから、それを熟成させていく必要があると思うのだが、しかし残念ながら、それを急速に受け入れてくれるほど日本人の音楽的懐の深さというのは深くない。メシは食わねど高楊枝なんて悠長なことをいっている場合ではないというのも現実だが、それによって貴重なものが失われているというのもまた事実のような気がする。そういいながら、自分はなんなんだという自省の念も抱きつつ、このユニットは昨年のツアーで解消して、またそれぞれの道で踏ん張ってもらいたいと思っていただけに、残念な印象のこの1枚だった。オシャレだけど、僕は買わない。
 
 
 


阿部真央/『ふりぃ』

 過剰なまでのPOPなトラックに乗ってしまった1曲目でタイトルチューンの「ふりぃ」がわざとらしいが、それ以外のトラックでは戦っている感じで、彼女の独自色を出すことに近付いている。ヤマハとポニーキャニオンがこの阿部真央をどうしていきたいのかがよく判らない。アルバムを通して聴いたときにこれが彼女の普通の声質とは思えないような声は椎名林檎を思わせるようで、それでアレンジと演奏は必要以上にPOPなのだ。特にギターのフレーズがPOP。その結果、これをどう評価すべきか、彼女の方向はどこに向いているのかがまったく判らない結果になってしまっている。
 あくまで想像だが、阿部真央は結構自分のやりたいことを主張するも、ファーストから自分勝手もできず、そのことをプロデューサーはある程度理解するが、全体の「もっとPOPを」という「普通」の意見に押されて、タイトル曲はそういうテイストの楽曲にして、それ以外の曲で独自色を出していこうとしているのだろう。
 もっとPOPをというのは、理解できる。放っておけば本当に椎名林檎のようにマニアックなところに行き着いてしまう危険性を持っているアーチストだ。だから会社として方向性を矯正しようというのは当然の意見だ。だがそのPOPの方向性が違うのだと個人的に思う。この人の特徴として重要なのはその声質だ。その声質は、現時点でポッカリと空いてしまっているジュディマリのマーケットをかっさらってしまえる可能性を持った声質だ。もちろんジュディマリは単に声質だけで売れたのではなくて、ロックとポップのギリギリの境界線の上で踊っていた、希有なバランスのポップミュージックである。しかもメッセージをちゃんと持っていて、しかし独り善がりでアングラなものでもないというメッセージ。そういった様々な要素が組み合わさって出来たひとつの価値を、凄く単純に表面的にとらえた似非ジュディマリたちが現れては消えていく。ここ数年はその繰り返しで、だからそのマーケットはポッカリと空いているのだ。
 で、阿部真央は主張を持っている。音楽も持っている。声質も持っている。あとはそれをどう出すかというだけなのだが、本人に任せるとアングラに傾きすぎ、会社に委ねると焦点のぼけたポップミュージックになってしまう。ああ、創造とは斯くも難しいものかとか思わずにはいられないのだが、まあそういった微妙なパワーバランスの中で今後どのように踊っていくのか、泳いでいくのか、そういうことを眺めているのも悪くないと思ったりする。
 そういう悩みはたくさん抱えているものの、このアルバム自体のクオリティは、期待も込めて十分に買うに値すると思う。皆さんも買ってください。きっと楽しめます。

Tuesday, February 17, 2009

役目

 いやあ、世の中いろいろなことが次々と起こるものだから、ブログに書くのも追いつかない。今朝のニュースに飛び込んできた、中川財務大臣の醜態は、最初に映像を見て唸った。自分が写っている映像を見るとついつい目を逸らしたくなるが、そんな気持ちになった。別に中川大臣の身内でもなんでもないのに、そんな気持ちになったというのは、やはり日本人として恥ずかしいという思いになったのだろう。あれは恥ずかしすぎるし、世界へのパフォーマンスとしても、即刻解任すべきだった。そうすれば、ああいう態度は国のリーダーとして相応しくないと日本が思っているという意思表示になるけれど、そうしないと、日本人はあれでいいと思っていると誤解されかねない。悔しいなと思う。
 
 で、今日の話題はそれとはちょっと違う。
 
 先週のどこかで、読売か朝日のどちらかの朝刊に、ママさんを雇う会社の話題が取り上げられていた。子育て中の女性が、子供を連れて職場で働く写真が載っている。そのママさん、「自分が1日中子供の相手をして、自分のことをなんにも出来ずに今日もまた1日が過ぎていく。"自分"が無くなっていくようなもどかしさ、虚しさを感じた」と言っていた。仕事はお金のため、人生は家庭にあるというのは男の勝手な解釈である。人並みに教育を受け、社会に出た経験のある人にとっては、家庭や子育てに価値があるということは十分に承知しながらも、しかし自分が社会のためになっているという実感を得るために、仕事、労働というものに大きな意味があるのだということをあらためて知らされた。
 
 そういう「働きたい」女性を無理に家庭に押し込めているのが現在の日本の社会なのだろう。幸せの形はいろいろとあり、専業主婦で子育てが究極の幸せだと思っている女性もいるし、そうではなく社会で働くことが幸せだと思っている女性もいる。どちらかの価値観を無理に押しつけることなど出来ないはずなのだが、現実問題としては働きたい女性の職場といえば比較的単純作業のパートしかないという現実は、どちらかの価値をもう一方に押しつけているということに、結果的になっていやしないだろうか?
 
 それをこの会社は乗り越えている。たとえ時間的にはパートと同じになったとしても、しかしながら仕事をする上での知識や技術、ノウハウの蓄積が出来るということは、企業側から見ても大きな意味があるといえよう。普通、女性は勤めても辞めていく。結婚や出産を機に辞めていく。辞めると経験の蓄積は一瞬にして無になり、次の人が入ってきたとしても同じように働き始められるわけではない。その人を育成してもやがて辞めてまた無になるのなら、簡単な仕事だけやらせておこう。これが、女性を戦力としない理屈である。で、それに対して僕の就職時期頃からは総合職とかいって、男と同じように働いていく女性のポストを用意するようになった。しかしそれでは男と同じように転勤をいわれることもあり、家庭での男女の役割というものが暗にある分だけ、そのハードルが高くなってしまい、結局は辞めてしまったりすることも多い。
 
 そうすると、結婚しても、子育てをしても、なお仕事をしていくことが出来るという第三の選択をしていければいいのだろうが、そういう職場はなかなかない。それで「自分が無くなっていく」という絶望感を持ちながら生きていく人が無くならないという悲劇が起こる。そういうことを、誰かが解決しなければいけないのに、誰もやっていない。そこにはそれなりの理由があると思う。やはりスタッフがちょくちょく休まれたら仕事にならない。子供が熱を出したら医者に連れて行かなければいけないだろう。それはワガママではないのだ。でも共同で仕事をしようとしている仲間にとっては、そんな勝手なことをという気持ちが湧いてくる。野球のチームが守備について、セカンドの選手がグラウンドに現れない。聞けば子供を病院に連れて行っているという。そんなバカなと思うだろう。そのバカなことが現実の職場で起こってくる。それでは職場のモチベーションは維持できない。
 
 報道ステーションの特集で、チョークを製造する会社の話が取り上げられていた。そこは、障害者を積極的に社員として採用しているという。最初は養護学校の先生が子供たちを2人連れてやって来たのだという。この子たちを働かせてくださいと。そんなことは出来ませんとお断りしたら、それでもあきらめずに先生はやって来た。社員が無理なら研修生でもいい。ここで働けなければ彼らは一生働くということを知ることが出来ないんです。それで、2週間の研修生受け入れを行うことにした。そして2週間の期間が過ぎたとき、社員たちが社長を取り囲んだ。彼らを社員にしてやってください。彼らが出来ないことは自分たちがフォローしますから。それで仕方なく社員にすることにした。最初に社員となった障害者は50を過ぎた今も社員のまま働き続けている。いい話だとおもった。
 
 そういうこと。普通に考えれば採用は有り得ないと思われている人事。それによるメリットとデメリットは常にある。そういうちょっとだけユルイ感じの家庭的経営が許される会社なら、そういう人事も可能なのかもしれない。それをユルイという表現で片付けるのも変な話だな。その会社は、多少の合理的なメリットを譲ってまで、そういう人事を実践してきている。それは、力だと思うのだ。究極まで合理性を突き詰めた経営をしている会社がたくさんある中で、同じ土俵で競争するのだ。同じように合理性を追求しないと負けてしまう。それを知りながらもあえてママを採用する。職場に子供を連れてきていいという。大変だろうと思う。だが、それでもその職場の結束は強まるだろうし、企業の競争力は、数字に見えないところで強まっていくだろう。そういう会社が勝ち残るような社会になっていかなければいけないのだろうと思うのだ。
 
 そして僕は一体どうなんだろうと考えた。キラキラレコードとして、一時期社員が4人いた時期もあった。だが現在はそうではない。雇用を維持するということがどれだけ大変なことなのかは身に染みて理解している。だが、企業をやっている以上は、苦しくとも雇用を維持できるようにならなければいけないと思うし、さらには、今回の例のような、意義深い採用活動をしていけるようになっていきたいと思う。別に慈愛の精神とかからではない。それが生きている上での自分の力になっていくと信じるからだ。だがそのためにはまず力を付けていかなければいけない。そうでなければ、どんな人も「ここで働きたい」とは思わないだろうから。

Sunday, February 15, 2009

少年メリケンサック


 クドカンの新作映画。というより宮崎あおいの新作映画というべきか。で、僕は観に行った。確かにクドカンの前作『真夜中の弥次さん喜多さん』も観た。彼の激しいファンというわけではないが、公開初日に観た。『篤姫』だって観たぞ。面白かった。同じように宮崎あおいの激しいファンなんかではまったくないが、篤姫は面白かったぞ。でもやはりこの映画を観に行く理由は、オッサンでもパンクという、その設定にとても興味があったのだ。
 
 映画冒頭で、宮崎あおい扮するカンナがそのパンクバンド「少年メリケンサック」をネットで発見するわけだが、こういうのはシビアだねと思った。本当にいいバンドというのは凄みがある。でもスクリーンに登場する若き日の少年メリケンサックにはそれがない。カンナはその映像に衝撃を受け、やっと見つけたと興奮するし、その報告を受けた社長も「これは本物だ」と叫ぶが、観ていて僕は「本当にすごいと思うのか?」と首をかしげる。そういう設定だからと飲み込むしかないのか、それとも本当に本物を出してきてもらう必要があるのか、そこは非常に難しいことだ。もちろん本物が簡単に作れるわけがない。映画というものはそもそもそういうもので、大がかりなオープンセットや、CGを駆使した技術によって、見栄え的な「リアリティ」は常に創出してきた。だがパンクバンドのリアリティが技術で作り出すことは出来ない。そのことも十二分に判っているつもりだし、そもそもこれはフィクションなのだ。たとえ映像として遠藤ミチロウとか仲野茂なんかが登場したとしても、これはあくまでフィクションの娯楽映画。払ったチケット代を払い戻してもらう訳にもいかないのだから、引き続き観続ける。
 
 で、詳しく説明するわけにもいかないが、いろいろとあって、話は展開していく。娯楽映画として笑わせる必要があったりするもので、真剣な音楽業界の人の目としては「なんだこりゃ」的なエピソードとかが出てきまくって、こっちも笑いまくったりする。クドカンの本領発揮だなとか思うし、その勢いは弥次喜多よりも遥かに勝っている。面白い。そう思って笑っているうちに、あれ、こいつら結構パンクだなと思い始めてくるのだった。
 
 そもそもパンクってなんなんだ? それは反逆である。反体制である。社会に対するアナキズムである。結果として、鬱屈した世界に生きる底辺の人や若者たちに支持される。と、言われている。では、何が反逆なのか? 反体制の歌詞を歌えばパンクなのか。それだったらプロが作ることが出来る。でもそういうものは簡単に露見し、若者はその匂いを敏感に感じ取り、支持などしない。いくらピストルズの真似をしてもダメだし、そのピストルズ自体も安易な再結成で支持を失う。例え音楽形態はパンク的ではなくとも、スライダースはパンク的な支持のされ方をされるし、つまりパンクの支持というのは精神性とか、魂とかの問題であって、音楽ではないということになる。言葉だけでは信じられない、生き様のパンクでなければパンクではなくて、だからこそ他の音楽ジャンルではなかなか生まれないカリスマという存在がこのジャンルでは生まれやすいのである。例えそれが実社会的、経済的には大きな影響力は持たないにしても、音楽を通過する若者には避けて通れない壁のようなものだと、僕は思うのだ。
 
 で、この映画のバンドメンバーはとてもいい加減である。つまらないことを繰り返す。一緒に行動することになったカンナだって何度も落胆する。その部分だけ見たのではパンク的な生き方はつまらないエゴの積み重ねということになってしまう。上辺だけの似非パンクはそこで終わるのだろう。愚かだからそういうどうしようもないことをやってしまうのだし、そうでなければ、もっと賢い生き方をしようよということで、大人の世界のルールに従うようになる。でもそれらどちらの生き方でもない、第3の生き方がある。それがパンクなのだ。何も考えない本能と惰性による愚かではなく、賢く生きることの虚しさからくる、愚かを追求する生き方。だがそれは賢いことで得られるものを否定することから生まれる、積極的な愚かさであり、その生き方を追求するということは、本人にとってはそんなに愚かな生き方ではない。面白さの追求なのであり、一度きりの人生、面白くないとつまらないだろうという価値観によれば、それ以外に道はなく、それ以外のすべての生き方が愚かに見えてしまうのである。
 
 映画では、宮崎あおい演じるカンナがそれに気が付いていく。最初は結果無くとも安定を約束されたポジションにいる。が、結果を求められた時、彼女が突きつけられた選択「やるのかやらないのか」には、やらないという選択の先にはどうしても受け入れられない結果が待っていた。だが、少年メリケンサックと一緒に過ごす中で、その生活は別の意味で受け入れられない事柄のオンパレードだったが、しかし何らかの価値観が転換するのだな。当初受け入れられない結果も軽々と受け入れ、安寧な生活からは軽やかに脱却する。そのキーワードも「面白い」なのだ。この生き方を選択するのが今人気絶頂の宮崎あおいというのがこの映画の面白いところでもあり、エンターテイメントな人生論なんだなあと思った。パンクなのはバンドマンたちだけではない。バンドマンがいくらパンクファッションで身を固めたとしても、それはポップファッションに身を固めたアイドルポップバンドと同じことであり、それはパンクではないし、市井の普通の女の子でも十分にパンクな生き方を選択することが出来るのである。

Friday, February 13, 2009

sexfactor beauty explosion


 水曜日。祝日の夜に三軒茶屋までライブを見に行く。12月にCDをリリースしたSEXFACTOR BEAUTY EXPLOSIONを観るためだ。彼らは兄妹で結成しているユニットで、先鋭的にロックを過激に表現している。そのユニット構成の故、リズムなどのトラックはMTRで流しながら、2人がギターを弾きまくるというスタイル。こういうスタイルはライブハウスでどうなのよという疑問は常にある。僕の中にあるかどうかということも含め、そういうスタイルでやっているバンドマン自身から問いかけられることも多い。つまり、そういう疑問を持つ人は、やはり頭の中で「俺は本当は4人くらいでバンドをやりたい」とか「ドラムがいないのは不完全なのだ」とか思っているのだろう。しかし実際には音楽がどうなのかということがすべてであり、そんなこといっていたらミクスチャーの人とか、DJの人とか、ラップの人とかはどうなるのか。
 
 それは要するに、形だけ格好を付けたいということなのだろう。高いギターを持つのもそうだし、ファッションで押し出そうとするのもそうなのだ。もちろんそれ自体は悪いことではない。高いギター、いい音がするだろう。ファッションで観客を喜ばせられるのならそれに越したことはない。だが、それが表現のためではなく、自分の体裁のため、上辺の武装のためなのだとしたら、まったく無意味だ。メンバー的に完全なのに全然面白くもないバンドもいれば、逆にメンバー的に欠けていると思われる構成なのにカッコいいバンド(ユニット)もいる。ユニットの形に不完全を感じたりしているのは、そういうことなんじゃないかと思っている。もちろん例外的なケースもあるが、ほとんどはそうだ。つまり、自分たちにお客さんが付かなかったり、人気が出なかったりするのは、自分たちの根源的なものではなくて、楽器が安いからとか、衣装がイケてないとか、ドラムがいないからだとか、そういう外面的な要素に理由を見出そうとするものであり、「ドラムがいないから」と口にする時点で、「ドラムがいれば人気抜群になるはずだ」という、一種の言い訳をしているのである。
 
 そういう点で、SEXFACTOR BEAUTY EXPLOSIONの2人は吹っ切れている。思う通りのパフォーマンスを展開していた。彼らの前の出演者も同じようにドラムレスのユニットだったし、この日はそういうイベントだったのだろうか? 三茶ヘブンスドアというサイズ的にもこぢんまりとしたハコでは、こういうスタイルも心地よく感じられるのかもしれない。このステージに5人とかの編成で上がったらけっこうキツキツになる。そういう舞台装置的なメリットもありながら、でもやはりステージに上がる本人たちがどのような意識で立っているのかということが最大のポイントだ。観ていてとてもリラックスできた。写真を撮ったりしながらの仕事モードだったりもしたので、完全なリラックスとまではいかないが。
 
 その写真、現在デジカメが故障しているために携帯で撮影。それでこんなに粗い画質だが、まあ仕方ない。そんなことでアップするのをためらったりはしないぞ。これがこの日の僕のすべてなのだから。堂々と掲載してやる! SFBXの2人、ちょっとだけすまんな。

セサミン

 サントリーの栄養補助食品、セサミンのCMが最近盛んだ。ちょっと前は登山家、というより冒険家というべきだろうか、三浦雄一郎氏が町を歩きながらトレーニングしているCMを流していて、最近はバレリーナの草刈民代さんが踊っているCMが流されている。三浦さんの肉体の凄さは実績で証明されている。75歳でエベレスト登頂を果たしたのはつい昨年のことだが、そんなことは年代にかかわらず偉業で、それを支えているのは間違いなく超健康な肉体だ。草刈民代さんのばあい、スラッとしているから判りにくかったが、だからこのバレエの映像なのだろう。微妙に肉体を震わせながらの演技。見るからに「鍛えられているなあ」と思わずにはいられない。彼女もまた40を超えてのこの肉体。憧れる人も少なくないだろう。
 
 で、そんな超健康体の2人が薦めるのがセサミンだ。ごまのパワーをいただこうという健康補助食品。このCMを見ると「セサミンを飲めば健康になれるんだ」と思うだろう。それが理解なのか誤解なのかは別として。
 
 いうまでもないことだが、この2人は不断の努力で肉体を鍛えている人だ。それもある種の究極の肉体を目指しての鍛錬だ。きっとあらゆることに取り組んでいるだろう。結果としてその肉体を手に入れているのである。そういうある種の究極を得るには本当に手段を選んではいられない。今よりも良くなる可能性があるなら藁にもすがろうというものである。セサミンはそのひとつに過ぎない。もちろんこれはきっと良いものだ。いや、そんな断言はできないな。良いものかもしれない。悪くはないだろう。根拠はないけれど。まあその程度の認識でしかないが、まあここでは良いものだと仮定しての話を進める。CMを見る人たちもほとんどが良いものと認識するだろうし、買う人は「これを飲めば健康になれるんだ!」と思うのだろう。だが、これを飲みながらも全然健康にならない人もたくさんいると思う。
 
 それはダイエットにもいえることで、巷に溢れるダイエット方に共通するのは「これを実践すれば痩せる」ではなく、「これは痩せるのに有効なエッセンスを持っている」ということである。つまり、それをやって痩せた人はいるわけで、だがそういう成功者たちは痩せるために本当に真剣になっているということだ。痩せたいという思いは多くの人が持っている。でもどうすれば痩せるのかという理論が判らなかったりする。絶食は続かない。人間はそれでは生きていけないからだ。だからといって飽食では痩せるはずがない。ではどのくらいの食事が理論的に痩せにつながるのかという知識が必要だ。食事だけではなく、どのようなトレーニングが有効になるのか。それも知りたいところだろう。そういう知識があって、それを実践する努力があって、結果が減量なのだ。食事とトレーニング。それが基本なのだが、それにプラスして努力をより効果的に結果に結びつけるための「なにか」を人は求めたい。で、りんごダイエットとかバナナダイエットとかいう不可思議なものが出てくる。それにも意味は必ずあるし、効用もある。しかし、だからといってバナナだけ食べていて痩せられるかというとそうではない。
 
 バンドマンたちからもよく言われることが、「で、キラキラレコードは僕らの成功のために何をしてくれるんですか」である。確かに僕らも仕事をしている。所属アーチストの成功のためにやっているし、願っている。だが、僕らの仕事というものはいってみればこのセサミンのようなもので、万能の特効薬なんかではない。バンドがどうやれば成功するのか、その処方箋は出せる。それは確実に出せる。でもそれは、それを実践できるバンドにしか効かないものであって、実践もせずに家でゴロゴロしていて成果が出ると思っていたのだとしたら甘いし、いつまで経っても成功なんて夢のまた夢だ。
 
 しかしながら、そういう実践しない人ほど文句を言うのだな。バンドマンたちからも苦情は日常茶飯事だ。だが、文句を言うバンドはなんの実践もせずに日々を過ごしている。しかし一方で地道にも実践を繰り返しているバンドは着実に結果を出しているし、感謝の言葉を返してくれたりする。まあそんな言葉なんて要らないし、彼らの頑張りがレーベルの売上げにもつながるので、そちらの方で言葉以上に手応えを実感できるのだが。
 
 三浦氏や草刈さんなどは、セサミンが無くても高度な肉体を作ることが出来る人であり、努力であると思う。そういう人達があともう少しを得ようとして、こういうものもちゃんと吟味した上で摂取しようとするのだろう。同じようなレベルとまではいかなくても、多くのバンドマンもそういう努力を普段からしていって欲しいと思う。三浦市や草刈さんというのはその業界でもトップの人であり、音楽業界でいえばあゆであり、ミスチルであり、サザンなのだ。そこまでいくのは努力だけでは足りないだろうが、目指すべきはとりあえずメジャーデビューだろう。そのくらいだったら、努力すれば誰だって出来る。そのことを信じられれば努力も出来るだろうし、それが信じられないのなら、努力も出来ないはずである。そしてその「しんじるべきもの」というのは、他ならぬ自分の音楽そのものなのだから。その上であとちょっとのプラスαを得たいんだったら、キラキラレコードは非常にお役に立てると思うし、それによってレーベルの利益も上げていける自負がある。だが、最初から全部お任せで成功を待つだけのような人は、考えを改めて欲しいなとか思ったりするのだ。

Tuesday, February 10, 2009

ベンジャミン・バトン


 フィッツジェラルドの奇作が映画化。つってもそんなに広く知られているわけでもなく、僕もそれほど知っていたわけではない。映画の宣伝で知って、たまたま劇場へ観に行く。
 
 観ていて思ったのは、大河ドラマの総集編だなという感じ。2時間半を超える大作で、少々長いなと思うかと予想していたが、結構サクサク流れていくようで飽きずに見られた。宣伝でいわれているのが「老いた状態で生まれて、若返っていくという、数奇な運命を背負った男の物語」ということで、それはどういうことなんだとか、興味は湧く。でもそんなことが本当にあるはずがないと、どうしても思ってしまう。というか、そんなことがどういうことを意味するのかが理解できない。ちんぷんかんぷんだ。僕の想像力の範囲を超えた設定で、だから興味があるんだという場合と、それ故に興味を持ち得ないという場合があるだろうが、僕の場合はかろうじて興味を抱くことが出来たのだった。それにしても奥さんが強く「見たい」と言わなければいってなかったかもしれない程度ではあるのだが。
 
 それで思ったのは、話のキモはこの設定にほとんどすべてがあるわけで、文章で読んでいると想像力を掻き立てざるを得ない。それが出来なければ読むことを放棄するしかない。つまりこういう奇異な設定をどうとらえるのかということが読者に問われているわけで、この映画は、だから、デビッドフィンチャーによる想像力を観客の我々が追体験するということなのだと思う。なるほどそう来たかねという感じで。
 
 ベンジャミン・バトンをブラピが演じるのだが、これが結構面白い。老いて生まれるということはこういうことなのねというのは実際に見てもらうしかないのだが、顔はシワシワで、声もゴホゴホで、でも成長過程(?)にあるから背は子供並みだ。だが子供並みの身長で顔もシワシワだといっても、やはりそこにはブラピがいないとビジネスにならないわけで、特殊メイクを施したブラピが幼少期(?)にも登場するのだが、その顔の皺は割と自然に見えるのだが、どうしても背が低いブラピの姿がとても奇妙で面白い。感じとしては、ディズニーキャラクターなんかの顔が異様に大きくつくられているような、そんなアニメキャラクターが実写で登場という感じに見えて、数奇で悲しいのだろうが、どことなく滑稽に見えてしまうのだった。
 
 ヒロインのケイト・ブランシェットも若メイクや老いメイクをいろいろしているのだが、どの年代も非常にサマになっている。だがさすがに少女時代は別の子役さんが演じている。まあそれは仕方ないだろうなとも思う。同様に死ぬ間際の幼児時代(?)のベンジャミン・バトンもブラピではなく子役が登場。そこもブラピに特殊メイクさせて、CG合成のような感じで、幼児なのに顔はブラピというような徹底ぶりを見せて欲しかった。そんなに幼児時代の時間は多くないんだから。
 
 見ててそんなに悪くない作品。でもドキドキとかワクワクとかハラハラとかとは一切縁のない作品。やっぱ大河ドラマは1年かけて毎週見るべきなんだなとか思ったが、ブラピが出なかったら成立するのかという気はするし、じゃあブラピがテレビドラマに1年を費やすのかというと、それも現実的ではないと思ったりした。

Monday, February 09, 2009

醍醐の春


 JR東海の京都行こうCMが新しくなった。醍醐寺。美しい。
 
 醍醐寺には2007年の春に行った。世界遺産に指定されている17の社寺を見て回りたいのだが、春には桜がきれいだというこのお寺、計画していた京都旅行数日前のニュースで「満開」と報じられていたのでそこに行くことにしたのだった。京都の街中からはちょっとだけ離れたところにあって、駅から寺まではちょっとした山登りの様相を呈する。その分若干標高が高いのだろうか。そういうこともあって、市中よりも早く桜が咲くのかもしれない。
 
 行ってまず三宝院という入り口すぐ左のところに行く。確かにそこの桜はきれいだ。だが、言うほどスゴイというほどでもない。こんなものかと正直思った。そして三宝院庭園に向かう人人人。人の波に押し流されるような見物は、なんか正直興醒めなのだった。三宝院を出て奥に行き、金堂とか五重塔のある辺りを散策。建物は若干塗装もはげ、手が入っていないような印象があった。えっ、これで世界遺産かと正直思った。他の世界遺産社寺が結構な趣を見せているのを知っているから、だからなんか興醒め感が輪をかけて襲ってきたのである。
 
 チケットはまとめて買うとお得だと言われて買ったので、まだ霊宝館を見ることができる。でも正直ここまでのガッカリ感が僕らを襲っていたから、もうここに時間をかけても仕方ないのかもしれないとか思っていた。限られた時間でもっと他の京都を楽しめるんじゃないか。そう思った。でも、まあせっかく来たんだから見てみよう、もう二度と山登りをしてまでここに来ることはないだろうから、ちょっとだけ見てもバチは当たるまい。そう思って霊宝館に向かった。霊宝館というのは、醍醐寺にある宝物を展示している建物である。仏様とか書画の類が展示してあった。でもそんなにすごくない。ちょっと前に国立博物館の仏像展を観ていた僕には正直ワクワクするほどの展示ではなかった。で、建物を出る。かなり興醒めの気持ちで建物の奥にちょっと行ってみた。人の流れがあったから。なんだろうとちょっと思って、つられるようにそちらに行ってみた。
 
 そこに桜はあったのだ。醍醐の桜。いや、豊臣秀吉が花見をしたという桜がそれかどうかは知らない。そうだとしても数百年の時を経て、同じ桜の形であるはずはない。だが、時を超えて秀吉がこの桜を見たとしても、いやあ、絶景だと感じたはずだし、世紀の大宴会を開きたいと思っただろう。僕もそこに立って感動した。桜を見て感動しやすい質ではあるが、それにしても桜の感動でいえば、僕の個人史史上ベストの桜だったのだ。
 
 そしてこの春、JRのキャンペーンが醍醐寺の桜。もちろん今年の桜はまだ咲いていないのだから、昨年以前の映像がそこには映っているのである。撮影した人は嬉しかっただろうな。もしかしたら僕が見た年の桜と同じだったのかもしれない。そう思うとまたワクワクしてしまう。この春も京都に行くつもりではあるが、醍醐寺に行く予定はない。もう見たし、まだ見ていない場所が沢山あったりするからだ。それに、このキャンペーンで注目も集まり、2007年以上の人出になるのは間違いない。でも、もしも京都で桜を見たいと思う人には、そのごった返しぶりを押してまでも行く価値はあると薦めたい。日本の美のひとつの形がそこにはあったから。

Sunday, February 08, 2009

やる気って何?


 金曜日にSTONE FREEのみんながやって来た。先週、僕が身内の不幸で豊橋に行っている日に、彼らはライブをやっていた。本当は行きたかったところで残念だったが、そのライブの報告をしに来てくれたのだった。
 
 そのライブはメジャーデビューしているバンドも出演するイベントで、彼らとしてもかなりの意気込みをもって取り組んできた。それで自分たちでも満足するくらいのパフォーマンスと動員を実現できたと胸を張る。もちろんそこがゴールではないのだから安心してはいけないけれども、1つ1つの取り組みがこうして満足して次に行くというのは大切なことだ。ライブ会場ではCDを売るための作業もぬかりなく、まさに彼らは僕が日々主張している、やる気と実行を着実に進めているという意味で、非常に頼もしいバンドだと感じる。事実昨年のCD売上げでみてもキラキラレコードの中ではトップだし、CDを買ってくれているお客さんの層も、その大半は1年前には彼らのことなんて知らない人たちだ。まさにこの1年で大きく伸びたバンドといえる。
 
 大きく伸びたというのはどういうことかというと、端的に言うと状況が変わったということなのだが、その状況を作ったのは彼ら自身である。彼らに言わせると僕からいろいろなことをアドバイスされて、それで取り組み方も違ってきたし、なにより取り組む意欲が違ってきたということだ。いつも僕は取り組むことの意義とか方法論を論理的に、言い換えれば理屈っぽく説明するのだが、それを面倒臭いと思う人もいれば、疑ってかかる人もいるし、もっと他のやり方もあるはずと考える人もいる。それで他のやり方を明確にしてきちんと実践していくのならいいのだけれど、しかし多くの人は他のやり方を探すことをしなかったり、自分勝手な解釈で我流になり僕のやり方の筋を外れてしまったりする。それで結局僕のやり方なんて意味がないとか批判されることもある。まあ批判するのは自由だし、そんなことで僕が凹んだりはしないのだが、彼らが他人のせいにして成功を逃してしまっているのは、音楽的な才能があればあるほど可哀相に思ったりするのだ。
 
 そんな中、STONE FREEのみんなはかなり僕の意見を取り入れて頑張っている。時として方向性がずれていったりもするけれど、今回のようにちょくちょく会社にやってきてはミーティングをして、方向性を修正していく。今回もいくつかのアドバイスができたし、彼らの意気込みを再確認できたし、とても有意義なミーティングだと感じたのである。
 
 
 そんな中、つい先日別のバンドとのミーティングが会社で行われた。キラキラレコードの姿勢というのはバンドマンに対して少しだけ高いハードルを提示して、それを超えてもらうことで徐々にレベルを上げていってもらうというもので、そのハードルを事前に提示していたのだが、彼らは「それは努力すべきことではない」と反論してきた。まだ契約前の段階なので、それを否定されたらその先には進めないわけで、彼らとはそれでミーティング終了になったのだが、勢いもあったしガッツも見せていた分だけ、なんか悲しい気持ちになった。「本気で頑張るつもりだし、気合いはものすごく入っているんだけれど、そんなところで苦労するのは何か違うと思う」というのが彼らの意見だ。じゃあどんなところで苦労するのか? それはこれからの彼らの活動で示すしかないのだし、もしも頭角を現してくれれば、その時にキラキラレコードは「ああ、あの時もっと別の提案ができなかったのか」とか思って悔しがるのだろうし、彼らが今のまま成長をできずに解散とかになれば、彼ら自身が「ああ、あの時にもっと根性入れてやっていけば良かったのかもしれない」と悔しがるのだろう。もちろんそれはキラキラレコードに従うということではなくて、それ以外であったとしてもいい戦略を立てて頑張るという意味を込めての話である。もっともそういう事態になったとしても、そのことを僕が知ることはまず無いのだろうけれども。
 
 沢山考えるのはいいことだ。だが考えすぎて迷ってしまったり、結局何も始められないこととかあるんだっていうことも知っておいて損はない。適度に楽観的に、6割くらいの納得でとにかく前進してしまう人の方が結局は多くの成果を挙げることは少なくないと思うのだ。急いては事をし損じるが、下手な考え休むに似たりでもある。

Saturday, February 07, 2009

末期

 どこまで適当なんだろうか? そう思わずにはいられない麻生総理と自民党のみなさん。郵政民営化には反対だったって、そりゃないだろう。野田聖子が言うならまだいいよ。復党の際にこの件について納得しますよ認めますと誓約書を提出して戻ってきたのだから本来はいけないことだが、それでも「私は反対をした」と言ったとしてもまだわかるし、復党するときに誓約書を出したときの忸怩たる思いは想像に余りあるから、まあいいだろうと思う。しかし、しかしだ。麻生さんは当時の総務大臣だし、反対したと言っても閣僚を辞任せずにいたということ、衆議院本会議での投票では賛成票を投じたということ、この2点で彼はギリギリ民営化に賛成をしたということなのだろうと思う。
 
 人間の決断というのは、たった一つの条件だけで決められるほど単純ではないことがほとんどだ。何かを得れば何かを失う。消費税アップなんかもそうだ。上がらないに越したことはないけれど、それでは社会の今後に不安が増大する。だったら上げても仕方ないだろうというのが良識ある判断といえよう。同じように郵政選挙の時に、郵政民営化はあまり良くないと思っても、それを押し通すと議席を失ったり影響力を失ったりして他の政策を推し進めることが出来なくなる。だから泣く泣く賛成したのだろう。気持ちとしては本来反対だったんだって、思ったとしても言ってはいけない。なぜなら、そんなことを今さら言うんだったらその時に断固として言っておくべきだし、その反対によって自分の立場が危ういものになったとしても言うべきだし、それが出来なかったとしたら、所詮その程度の反対の気持ちでしかなかったとしか言いようがないだろう。
 
 一方、当時のその政策を推し進めることに対して国民がどう判断したのかというと、やはりこの国には改革が必要だということだったのである。自民党ではダメだと思っている人が当時でもかなりいたし、僕自身そう思っていた。しかし小泉さんなら本当にやってくれるかもしれないと思ったから、それに賭けたのだ。自民党に勝たせることには不安もあった。だが、小泉さんの不退転の姿勢に賭けてみたのである。今となってはその判断が半ば正しく、そして半ば間違っていたという思いである。それは、小泉さん後のこのていたらくを予期できていなかったから。こんなことになってしまうんだったら、もっと早く民主党に政権を取らせてみるという実験をさせておけば良かったと思う。だが後悔しても始まらない。だから国民としては選挙で次の選択をさせてもらうだけなのだが、麻生さん率いる自民党はその際の選択肢としてはまったく話にならないことがよく判った。
 
 まあこの数日で自民党の中からも麻生さんの発言に対して「これはマズイ」という声が続出しているし、麻生さんもいろいろな説得を受けたか、俺はそんなことは言ってないよとか言を翻したりしているけれども、その言い方、笑ってしまう。まるでマスコミが煽って世論がねじ曲げられているかのような、俺こそが被害者だとか言いたげなのだが、僕らは彼の発言を見ているだけなのである。誤解しないでくださいよ、私は当時から反対だったんだ、今こそ見直すべき時に来ていると、彼は言っていた。それはそれでひとつの見識だ。良いか悪いかは別として、それが彼の意見なのだったらそれを主張するべきだ。まさに郵政選挙直前の選択の機会が彼には訪れた。だが、またここで筋を通さない。マズイと思ったか、断末魔の自民党の未来をさらに追い込んだと気付いたか、言を翻す彼の十八番だ。だがその言い方がまたまたマズイ。俺は悪くない。何故ならこういう理由だからと、その言い方はまさに強弁。それは官僚たちがずっと使ってきた自己主張の方法とまったく同じじゃないか。しかも、露見必至のレベルの低い方法で。
 
 まあいいや。もはや僕ごときが言ってどうなるというほどのイメージダウンは明らかなのだし、ますます解散が遠のいたということ以外は、やがて国民の一票がなにをか変えるだろう。ただ、鳩山さんのかんぽの宿問題や石破さんの農業改革問題とか、古賀さんの定数是正問題、小泉さんの一院制問題なんかの、飛び道具的なものとか今それを言っていつ結論が出るんだというような付け焼き刃的な問題提起が行われていて、そういうもので問題の本質から国民の目を逸らそうとしている動きが出ていて、そういうのに騙されないようにしたいと思う。まあこれも、僕ごときがこんなところで言ったからといってどうなるものではないのだが。

Wednesday, February 04, 2009

憲法違反?


 内閣が進める公務員制度改革に人事院が抵抗。改革の中で幹部公務員の人事を一元的に管理するための内閣人事・行政管理局を新たに作り、省庁のポストの数の決定など人事院の業務の一部を移すことに対する反対なのだが、人事院総裁によると、反対の理由はそういった人事改革が憲法違反の恐れがあるということらしいのだ。
 
 まあこれは権力闘争というか、自己保身(個人というより、組織の保身)したいなあという思いがあからさまに出てしまった珍しい事例だろうと思う。経緯からすると、まず先日の会議に人事院総裁が欠席したために首相出席の会議が開かれなかったという。それで甘利大臣が激怒して「ありえない。人事院総裁には辞任してもらわなければいけない」みたいなことを口走ったのだが、実際は罷免権もなく、本人が辞めないといえば、弾劾裁判でも起こさない限り辞めさせることが出来ないらしい。
 
 ここで「憲法に違反するおそれがある」ということを持ち出して反論しようとしているわけだが、これは単に問題を引き延ばしてうやむやにしようという戦法だと思う。必要なことは憲法違反の恐れがあっても拡大解釈によって押し進めてきた日本なのだから、恐れがある程度では押し切ることが出来ないということはわかっているはず。それでも憲法違反「の恐れ」で抵抗しようというのは、よほどそうされてしまうことがイヤなのだろう。
 
 今朝、件の人事院総裁がTBSの生番組に自ら登場した。そんなところに出なくても内閣の会議に出ればいいのにと思うのだが、出てくるのだから仕方がない。で、一応彼なりの論を展開していた。国家公務員には労働争議権が制限されているから、その部分を補うために人事院が仕事をしているんだとか、みのもんたがいろいろと国民感情をもって突っ込んでみると「それはそれで反対はしていないが、そこだけを変えると全体が歪んでしまうから、すべての問題について議論をしてからでないといけない」とか言っている。もっともだ。確かに言っていることはもっともだ。だが、うざい。ウザイと思いませんか? こんなことばかりで生きてきたのだろう、この人は。すべての問題について100%正しい答えなんてないのだ。どこにも対案はあるし、抵抗はある。対案や抵抗にも理由とか理屈とか屁理屈があって、それをさも正論だと振りかざしている姿が、見ていてウザイと感じるのだ。
 
 ただ、ウザイというだけでは単なる感情論。僕なりに「何故この人がウザイのか」ということを考えてみたい。それは要するに、この人が自分の立場を間違えているということなのだろうと思う。
 
 例えば、自民党の人は自民党の案がいかに正しいかということを言うだろうし、民主党の人は民主党の案の正しさを主張する。その内容如何はともかく、自分のチームと反対のことをやっていたら、それはダメなのだ。いくら「私は国民の代表だから、国民のためになることを言う」といっても、選挙の時に政党の後押しを受けて当選しているのであれば、やはりそれは裏切りだ。ダメなのだ。クソなのだ。言うなら離党してから言おう。そうでなければ、ウザイのだ。
 
 これをもしプロ野球選手がやったとしたらどうだろう。一般にそれを八百長という。八百長は犯罪だ。刑事事件かどうかは別として、球界からは追放される。ダメなのだ。いけないことなのだ。
 
 で、この人事院の人。この人の立場は一体何なんだ? 彼の説によれば、内閣が人事権を持ったら公務員は非道い給与体系を押しつけられたりするかもしれないし、そういうことをさせないためにも独立色の強い人事院というものがあり、国家公務員の防波堤となっているということらしい。もちろんそうだ。働く人にも生活がある。人生がある。だからそれを誰かが守らなければいけない。それは一見正論だ。
 
 だが、それは独立性を与えられて自立した運営を出来るということは、逆に言えばアンタッチャブルな権限とか、裁量が与えられているということでもある。そうなると、そこに暴走の可能性が生まれる。そして今、「暴走してるんじゃないの?」という疑義が、国民全体からかけられているのだということを、彼は肝に銘じなければいけないだろう。思えば前回のWBCのとき、アメリカ人審判が日本に不利な判定を繰り返した。審判は絶対だ。彼の判断が試合のルールだ。微妙な判定はあるだろう。ギリギリの中でどっちにすればいいのか迷うこともあるだろう。しかし、その判定の根拠が公平という言葉の上に置かれなければ、それは疑惑を生む。そうなるとその試合で頑張る意味も無くなるし、誰もが興味を失う。審判は独立的絶対的な権限が与えられている。だからこそ、その公平性という問題については人一倍厳しい姿勢で臨まなければならないのだし、だからこそ選手も観客もその判定に従うのである。
 
 一方で人事院総裁。彼もまた公平な視点での状況判断をしていかなければならない立場だ。だからこそ大きな権限も与えられているのだし、尊敬も受けるだろうし、給与も与えられるのだ。では、その給与はどこから来るのか。それこそが彼の置くべき「公平」の位置づけの根拠なのだと思う。言うまでもないことだが、その給与は税金からくる。つまり、彼を含めて国家公務員、官僚組織は国民の奉仕者でなければならない。つまり、現状のバランスを考えたときに、なにが国民のためになるのかという視点抜きには人事院もクソも、官僚組織もありえないのだ。で、現状とはなにかというと、民官格差というものが言われているわけで、そのもっとも大きな問題となっているのが天下りと渡りの問題である。官僚が退職した後に大企業や独立法人などに再就職する。そして短期間に転々と退職と就職を繰り返し、多大な給与と退職金を受け取るという実態がはっきりしている。彼らは「経験や見識のある者が請われて行くのだから問題はない」とか言っているが、だからといってそれが短期間での莫大な退職金につながるとは理解に苦しむ。しかも巷間言われているのは彼らはただ座っているだけで、そういう天下りを受け入れた企業に対して官公庁が仕事を発注することによって、彼らの給与が賄われているということ。要するに税金の還流を行っているに過ぎない。彼らが税金を貪っているのだ。
 
 これは非道いよということで、渡辺さんも頑張っていたし、だけど麻生自民党の元ではそれは逆行しているということで離党に踏み切った。それで世論がそういうところに集まってしまったから、麻生さんも慌てて天下りとか渡りを禁止したいということにシフトしていった。まあその発想は貧困だなあと思うが、それでも、そうなっていくことは悪いことではない。遅きに失したけれども、麻生さんも頑張れよとちょっとだけ思う。
 
 だが、それに激しく抵抗したのが人事院の谷総裁。いや、御説ごもっともですよ。しかし、あなたは誰なのですか? そしてなんのために、誰のためにその御説をお話しなのですか? 
 
 公務員が将来に不安を覚えていたのでは仕事にならないという人もいる。将来の就職活動をしながらでは仕事は出来ないという。だがそれは甘えだ。日本にもはや終身雇用は無くなっているのである。なぜ公務員だけが終身雇用を保障されるのか? そして倒産の不安を感じずに仕事が出来るのか? というより、今問題となっているのは超高級官僚の渡りとかである。国を背負っているという自負はないのか? 生活のためだけに仕事をするのなら去れと言いたい。もっと高い意識で命も投げ打つくらいの気概で仕事をしてくれよ。しかも渡りとかやっている人たちって、それなりの給与を得ているんじゃないのか? フリーターとかになることを余儀なくされている人たちとは明らかに違うレベルの生活をしているのじゃないのか? それでも「自分たちは生活が不安だ」とか言いまくっているのか? それはおかしいだろう。と、一般市民は思っているぞ。
 
 なんかエキサイトしてきたのでちょっと戻すが、要するに、今の官民格差というのは、なんか八百長試合を見ているような気分なのである。大リーグのオールスターチームが高校生を相手に試合しているような感じなのである。そこに出てきた審判が、大リーグチームに有利な判定をしようとしている感じなのである。だからもうそんな試合は見るのやめようとか思うのである。そうなると、彼らがいかにいい仕事をしていても国は良くならないぞ。税金払いたくないと普通に思うようになる。いや、もちろんお金は払いたくないのが普通だが、それでも国に誇りを持てるのならば納得できる。もちろんその価値観が過剰になって、戦前のように国家のためには命も捨てようということになってしまうのはダメだと思うが、だからといって国に誇りが持てないというのもダメなのだ。人は一人だけで生きていけるわけもなく、だから所属する社会というものに参画していくことが必要だし、その際に誇りを持てるということは重要なファクターだ。しかし今世の中に聞かれる状況はとてもそこに誇りが持てないような状況である。その象徴的な論として、谷人事院総裁のような人が出てきて何の疑問もなく官僚擁護、官僚優遇状況の保護を主張する。その主張と、主張を正論とするための道具として憲法問題を持ち出してくる。これがどうにも厄介だし、頭に来るところである。
 
 官僚はこざかしいとよく言われるし、政治家の要求に対して読めるわけもないくらいの分厚い資料を期限ギリギリに提出して、その途中に重要で都合のいい文章をもぐり込ませてくるらしい。だがそういうのの実例は僕らのところまではなかなか知らされることはない。でも今回の件では注目が集まってしまった故に僕らにもよくわかるなあと思うのだ。まずは会議を欠席する。時間稼ぎだ。そして主張の根拠として憲法違反を持ち出す。一部ではなく全体を議論しろと言う。これも時間稼ぎだし、ハードルを高くする方法だ。
 
 だが、彼がもしも国家国民のことを考えさえすれば、彼自身が国家公務員の退職の問題とか、給与の問題とか、そういったことを含めて素晴らしい対案を出せばいいのである。それによって国家公務員の生活も改善され、天下りとかをしなくてもいいようなプランを示し、国民が納得するようなことになれば済む話だ。僕なんかがそれを言ったってまるで意味がないが、彼はそれを言って人々が聞くような立場にあるのである。なのに、しない。反対のみをして、もっと正しい案をださない。それでは現状を改善しようという気がないといわれても仕方がないし、そんな人が天下りしていて3年程度で3億くらいの退職金を公金から還流させて支払った上、あまつさえ重要な職に就かせてそれなりの給料を2期以上も与えているのはなんなんだろうと、思わざるを得ない。
 
 ああ、なんかどんどん書いてしまって、結論にも行かない上に時間もどんどん無くなってくる。なのでこの辺で。とにかくこのオッサンの顔つき見てて、心地よい感じにはまったくならない。

Tuesday, February 03, 2009

すごい空の見つけかた


 僕は空が好きだ。最初に空を見上げて良かったなと思った記憶というのは20歳の夏。一人暮らしを始め、風呂なしアパートの住人となった夜は銭湯に行くのが日課。3回に1回は洗濯物を持って併設のコインランドリーにも行く。まだウォークマンも持っていない頃の僕にとって銭湯までの8分間の道程は、景色を眺めるしかすることがなかった。夏の頃、空にはまだらに雲が浮かんでいる。陽も暮れた空は浅い紺色で、そこに浮かぶ雲は輝きを失った黒。昼間なら青空の中に白い雲で、モノクロフィルムで撮影したなら雲が白で空が黒で表現されるだろうが、夜の空はその逆で、雲が黒で空が白に写ってしまうようなコントラストを呈していた。僕はその空をとてもキレイだなあと感じた。なんか新しい発見のような気がして、そういう見方を出来るようになった自分が一段エラくなったような気分だった。
 
 新しい風景を見るというのは、自分の発想が豊かになるということである。目がエラくなったのではなく、心がエラくなるのである。それ以来、もっともっとエラくなりたくて、時折空を見上げてみるようになった。
 
 池袋ジュンク堂でたまたま開いたこの本、「すごい空の見つけかた」は僕らの空との関係を変えてくれる本である。雲にもいろいろな種類があり、そんな雲は一生に何回も見る機会はないだろうと思うような雲がある。雲以外にも空には面白い表情を見せてくれるが、オーロラなんて一生見ない人の方がきっと多いだろうという現象だ。たまたまその機会に巡り会っても、うなだれていては見ることが出来ない。それ以前に、知らなければ見ることが出来ない。
 
 だからその空はとても貴重なのだ。貴重な空をきれいな写真で僕たちに見せてくれる。それだけでも感謝だ。でも、この本の特徴は、見開きの左側で写真を、そして右側で解説を、解説の中で「僕らが生で見るためにはどうすればいいのか」を教えてくれるのだ。もちろんのことだが、僕はその空を見るために努力をしたりはしない。皆既日食が起きる地域まで出かけていってその時だけ「体験したぞ」なんていっているのは粋ではない。品がないと思う。でも、そんなことがあるのだなあ、もしも見られたら素敵だなあと思いながら日々暮らしているのは悪くない。もしかしたらそんな空が今日は見られるかもなと思うだけでワクワクするから。雨雲に覆われる日はもしかしたらこの雲の向こうに絶品の空があったのかもなと想像を巡らすのも悪くない。そういう想いを巡らすためにも最低限の知識をきれいな写真を見ながら身に付けられるなんて、素敵な本だと思った。