Tuesday, March 30, 2010

ポピュリズム

 TwitterとかUstをやり始めて、いろいろなことを考えた。

 昨日だったか、ソフトバンクの孫社長がUstで2時間以上延々と話をしていた。画面の横でそれについてのTwitterなどでのコメントが流れていたのだが、ものすごく沢山の人がつぶやいていたらしく、とても読めるスピードではない勢いでテキストがスクロールされていた。当然全部読んだり出来ないわけだが、概ね孫さんの話にとても感動していた。彼を現代のカリスマだとか言ったりもしていた。だが、ちょっと待てと思った。「デジタルの力で多くの人に感動してもらい、どこの誰かも判らない人から「ありがとう」なんて言われたら、それが究極の自己満足であり、その自己満足のために仕事をしているんだ」とか言っていたが、ここまでの成長の過程は必ずしもそんなきれいごとだけでは済まなかったはずだ。もちろん、ビジネスはサバイバルでもあるから、きれいごとで進んでくださいなんてことは思っていないし、それで批判しようとかいうことでもない。孫さんがどうこうではなくて、それを見ている人の問題なのだと思うのである。どういうことかというと、2時間ちょっとの演説でソフトバンクのすべてが、孫正義のすべてが判るわけも無い。なのにああも簡単に「カリスマだ、感動した」なんてことを公言する人が続出するとはどういうことなんだろうと、そのことが空恐ろしくさえ感じるのである。

 僕は必ずしも独裁を否定してはいない。特に企業なんかは創業者がワンマンで押し進めていかないとうまくいかないこともある。問題は強権を手にする人が水戸黄門なのか金親子なのかということであって、良い人の独裁は結構良くて、反面悪い人の独裁は不幸を生む。しかし人間はなかなか良い人であり続けることは難しく、だから、それを阻止する社会のルールというものが基盤としてなければならないのだと思うし、それが民主主義なのだろうと思う。そしてその民主主義は社会に属する普通の一市民によって構成されるわけで、その一市民がある程度の批判精神と良識を持っていなければ、民主主義というルールを逆手に取る人が現れることを阻止することが出来なくなるのであって、それは大丈夫なのだろうかという危機感を、昨日の孫さん中継で悪寒とともに感じたのである。

 一方である議員さんがTwitterのつぶやきで、ある企業が11年連続で最高益を更新していることについて賞賛していた。まあ企業が利益を出すということはいいことだ。だがそれは株主とか利用者にとってのことであって、政治家の賞賛というのとはまた別の視点が必要になるはずじゃないかと思ったのだ。つまり、その企業を賞賛していたポイントが、「世界で最も安い素材を集め、最も安く組み立てられる場所で組み立て、世界で最も厳しい消費者の目線で日本で品質管理を行なっているという。」という点で、ということは素材提供も生産現場も海外にあるということであって、それが産業の空洞化を生んでしまっていて、雇用の流出をしているということである。消費者は安い価格に惹かれて購入し、そのお金が海外に流出していくということに他ならない。もちろんビジネスとはそういうものである。その企業は悪くないのだ。実際我が社も海外生産している部材はあるし、東京で生み出しているものは一つもないと言っても過言ではない。それは経済の現実であって、11年連続最高益の企業はやるべきことをやっているだけのことである。

 だが、議員はそれではいかんだろうと思うのである。もちろん、国内産業を守るために関税やその他の障壁を作ったり、鎖国的政策を講じろというのではない。だが、そういうビジネス上のサバイバルを賞賛だけしていたのでは、その結果の空洞化で起きる問題に対する解決が遅れる。日本は資源を持たない国だ。だから外貨を獲得していくことで成長するしか無いのであって、それは海外生産をベースにしたデフレ基調の経済と、それに伴う円流出からどう脱却するかが大切なのであって、それこそが政治家の大きな役割のひとつなんじゃないかと思うのである。

 多くの市民が簡単に他者を賞賛したり、政治家が自分の立場を顧みずにデフレ経済の雄を賞賛したり、それはなんかまずいなあと思うのだが、どうだろうか?

Thursday, March 25, 2010

団体行動


 Yahooニュースに『KAT-TUNが世界進出!赤西はソロ公演』というのがあった。まあ僕はジャニーズのことなんてほとんど縁のない世界だし、興味も特になくどうでもいいのだが、こういうのはなんだかなって思う。グループでの活動と個人の自由っていろいろと議論あるだろうと思うけれど、KAT-TUNとか、グループで歌って踊ってっていうのは、それぞれのパートをルールに従って役割をこなすことで、息も合った素晴らしいパフォーマンスになるのだと思う。いくら個人技が素晴らしくても、フィギュアのペアとかでバラバラに踊っても美しくないし、シンクロしないシンクロなんてまるで意味が無い。それは逆にいえばシンクロしているから感動を生むわけで、ジャニーズのグループもここの歌唱力のレベルをコーラスワークとか、ユニゾンとかで個々の技量にプラスαを生んでいるのだ。

 それなのにグループとしての役割を放棄して、ツアーにも加わらずにソロ公演をするという。数年前にも単独でアメリカ留学とかなんかでグループを離れているし、この男はいろいろな意味で自覚が欠如しているとしか思えない。もちろん、彼には彼の人生があるし、そんな彼を応援しているファンもいる。個人の人生をグループというしばりで潰されたくないというのならそれもひとつの生き方だ。だが、もしそれほどに大事なソロ活動だというのなら、グループを脱退すれば良いのだ。そうしたら好きに活動するのも何ら拘束されないし、される理由も無い。もう何年も前にSMAPで起きたことじゃないか。オートレーサーになりたいといってSMAPを脱退し、芸能界から見事に引退した森くんは、それはそれで立派だと思う。もちろん赤西は芸能界を引退するつもりはないだろうし、ジャニーズを離れてそれが出来るわけもないだろうから、ジャニーズを辞めろとまでは言わないまでも、その行動によって本体であるKAT-TUNのツアーに支障を来すのであれば、やはり彼はグループを脱退するべきなのではないだろうか。

 団体行動というのは個の自由を侵害するものである。プロ野球でも集合時間に遅刻しただけで罰金が普通だ。なぜならその遅刻が全体の進行を狂わせ、チームメイトの練習を狂わせ、チーム力の低下を引き起こし、結果として勝利の妨げとなるからである。生活は破天荒にしながら団体競技のチームに属したいというのは勝手なことでしかない。だから最初は罰金からはじまって、回を重ねたりしたら2軍落ちもあるだろうし、最終的には解雇もありうる。それがいやなら団体競技などやらなければいいし、個人種目で頑張ればいい。まあ個人競技であろうとそのような態度で取り組むのであれば勝利などおぼつかないのだろうと思うが。

 こういうのを見ていて、それが許されているということが今の一般的な日本のムードなのだろうかとか感じて、不安になる。昨今の生方問題もそうだ。マスコミやネット発言の一部論調は、自由な発言を問題視して副幹事長解任したことが問題で、自由な発言をすることはなんら問題ではないということになってきている。だが、これは政党に属する政治家としては大問題だと思うのだ。もちろん政治家は国民一人一人から選ばれているのであり、国民の代弁者として自由な発言が担保されるべきだという意見はもっともだ。だが、だとすれば政党を離脱すべきなのだ。自民党を離党してみんなの党を率いている渡辺喜美も、離党しているから自由な発言が出来るのであり、不満があっても自民に留まっているのだとしたら、今のような自由な発言など出来ようもない。と、僕は思うのだ。もちろん僕の立場は現時点で民主支持だし、それよりなにより小沢一郎支持である。だが、団体とかグループというのは本来個人の自由をある程度制限されることが不可避であり、その不自由さによってある種のパワーを持ち得るという一点で人は結集するのであって、そのこと自体は政治的身上とかなんとかとは関係ない話だと思うのだ。


 マンガの『ソラニン』が映画化されて来月公開されるという。機会あってそのサンプルを観ることになったのだが、これがまたユルい青春を描いてしまっている。それは以前にもブログで書いたのだが、見ていて虫酸が走るような責任感の欠如というか、覚悟のなさというか、とにかくユルいのである。僕は「今の若いものは」という言葉が嫌いだが、しかしこの原作となったマンガについても、僕のように「ユルい」とバッサリ斬っている意見が多数ある中、特に若い世代に「共感出来る」とする意見が少なくないらしいというのだ。

 なんだかんだ言いながらも、20年〜30年ほど前の、僕らの若い頃にはまだまだ社会は希望に溢れていた。だから不安を感じる前に夢を見ることができた。しかし今はそうも言っていられないらしい。まず就職することが難しく、フリーターを余儀なくされることも普通のことになっているし、仕事に就いたってリストラの不安に怯え、大会社でも倒産の不安に怯え、歳を重ねてもお粗末な介護、年金制度の崩壊などへの不安は尽きない。そんな社会に夢が持てるかというのも判らなくはないし、夢が持てないということは努力の方向性もエネルギーも漠たるものになるし、あるべき責任感よりも生き抜くためのずる賢さが尊ばれるようになるのかもしれない。

 自由とは、責任と表裏一体の概念である。責任のない自由は自由じゃなく、それは勝手という言葉で表現されるものなのだ。そのことを本当は誰かが教えていかなければいけないのだろうけれど、世の中がこうも勝手を自由とはき違えてしまっているのでは、それも困難なことなのだろうと、悲しくなってくる。

Monday, March 22, 2010

UP IN THE AIR



 邦題は『マイレージマイライフ』。ジョージ・クルーニー主演の新作映画を観た。

 面白かった。

 僕の家は線路に近いマンションの12階にある。古いタイプのマンションの通路は外にむき出しで、エレベーターから部屋のドアまではその通路を毎日通っていくことになっている。そのことに何の疑問も持ったりはしないが、もしもむき出しの通路にアルミの柵がなかったなら、僕はその通路を歩いて帰ることが出来るのだろうか。そんなことを考えたりした。

 答えはもちろん、NOだ。ちょっと風にあおられたり、足がふらついたりしたら、僕は12階の高さから落下して一巻の終わりになる。怖くて足がすくむだろう。もう2年以上暮らしていて、柵を触った記憶もないし、もちろんふらついたことなどは1度も無い。通路は十分な広さがあるのだ。でも、それでも柵が無かったなら、僕はきっと通路をまともに歩くことも出来ない。だとすれば、僕がそこを歩いて家に帰り着くことが出来るのは、その柵に支えられているからに他ならない。

 この映画でジョージ・クルーニーが演じるのは、業績が悪化した企業が社員をリストラする時に、対象となる社員に対して、上司に代わってリストラ宣告をすることを仕事とする男である。冒頭から宣告された社員たちが狼狽する姿を次々と映していく。もちろんそれは演技なのであるが、世界的な不況を背景とした映像は何故かリアルである。ああ、日本だけじゃなくアメリカも不況で厳しいんだなと思う。10年以上務めた企業をある日突然リストラされる。しかも宣告するのは見ず知らずの男である。すぐに私物を整理してくださいといわれる。ある社員は、「仕事を失うのは家族を失うのと同じだと言われているが、実際は僕自身を失うのと同じだ」と語る。確かにそうだろう。自分の存在価値を否定されるかのようなものだ。アメリカは日本も見習うべき転職社会だと聞いていたし、ステップアップする転職をしないのはダメ社員の証なんだろうと思っていた。だが、10年以上勤めた会社をリストラされて混乱する社員たちの姿を見ていると、やはりそんなのは単なる幻想なんだと思った。

 僕の知り合いにも鬱になったりして、社会に対する適合性を失っている人が少なくない。それは決して特殊な人がなるのではなく、誰もがある日突然そうなるんだと言われる。そうだろう。僕等も毎日何の疑問も無く歩いているマンションの通路から柵を取り外されただけで、平静な気持ちでそこを歩くことが出来なくなるのだ。人生を送る上での社会の柵のようなものがあって、それがある日突然外されたり、今まであったと思い込んでいた柵が実は無かったということに気付いてしまったり。そういうことで僕等の心の平穏はあっという間に失われるのだ。

 この映画ではそれをさらに強く感じさせてくれるようなドラマが展開される。それは僕等の生活にも訪れる日が来るのかもしれない。だがそれも、柵がないから歩けないというのもまた単なる思い込みで、本当に大事なものは、柵に関係なく歩けるんだよという、思い込みにも似た気持ちの持ちようなんじゃないかとか、観ながら思ったりしたのだ。

Saturday, March 13, 2010

あきれたこと

 今週ちょっとあきれたこと。まあ毎週毎日あきれたり感動したりしているんだが。

 茨城空港開港のニュースの中で信じられない需要予測が報じられる。建設計画を立てる上で需要予測を立てるわけだが、全国にある99の空港のうち、資料が残っている75ケースのうち、その需要予測を実績が上回っている空港が8つだったということである。僕があきれているのは、「そんなに少ないのか」ではなく、「そんなに多いのか」である。想像としては需要予測など全部デタラメで1つも予測は当たっていないという印象だったのだが、8つも上回っているとは。上回っていないとしても90%とか80%とかをクリアしているものまで含めれば8つどころではないのではないだろうか。倍の16くらいはあってもおかしくないだろう。それにしても16/75程度なのだろうが…。
 
 もうひとつあきれたのは、国会の衆院厚生労働委員会で子ども手当法案が可決された。このニュースでは自民党の質問者が8人いて、時間をオーバーしたために質問途中で採決されて、それがまるで強行採決のように報道される向きもあるのだが、僕があきれたのはこの中の田村憲久議員の質問だ。子ども手当についてはいろいろと問題を指摘されたりしているが、質問でのポイントは、子どもを手当てするといいながらそれは親に対して行われ、その際に両親が海外にいて子どもは日本にいる日本人のケースでは支給されず、逆に海外に子どもを残して日本にやってきている外国人が1年以上住んで住民登録(市民権?その辺の細かい規定は個人的に未確認)をしている場合には海外にいる子どもの分も親に支給されるということらしく、他の自民党議員からは「宣教師の人たちが50人くらい養子縁組をしている場合でも支給されるのか」とか質問されていて、まあそういう場合はどうなんだろうなあと僕も思うが、長妻大臣の答弁によると、これは自民党政権下で実施されている児童手当の支給の運用方法に倣っているらしい。つまり、自民党政権時代から「宣教師の人たちが50人くらい養子縁組をしている場合でも(児童手当の至急要件を満たせば)支給され」ていたのである。そう答弁された後にも田村議員は「そのことを自民政権時に知らなかったのは反省すべきだが、そのことが判った今、このまま進めるわけにはいかない」みたいなことを真顔で絶叫していて、大丈夫かこの人と心配になった。与党だった頃の何かが悪くて世論の批判を受け、その結果が野党に転落するということになるわけで、その反省無ければ復活も無い。政権交代可能な二大政党制というのがいいのであって、民主党による長期政権がいいのではない。とすれば自民党がしっかりしてくれなければ話にならないというのに、過去の自分たちの反省を自らするのではなく、他者の欠点を非難しようとして結果それが自らの路線そのものだったということに、攻撃対象の他者から知らされるようでは愚かとしか言いようがあるまい。是非ともしっかりしてほしいという意味で、民主党の揚げ足を取ることの前に自らやるべきことがあるだろうし、それが無いから、民主の支持率が下がりながらもなお自民の支持率が反転していかないという結果に陥っているわけで、この質問にはその本質がすべて現れていたような気がして、あきれたのである。

 元ライブドア社長のホリエモンのところに差し押さえが入ったというニュース。最近のホリエモンの動向はというとバンクーバーに行ったり、メディアに度々登場したり、宇宙ロケット開発したりと結構活発で、それで「まだ隠し財産を持っているに違いない」とか勘ぐられるのだろう。
 これに対して堀江氏の主張はというと、すでに208億円の個人資産をライブドアに支払って和解しており、その原資を持ってすればすでに裁判所が決定した、当時の株価として妥当な200円という金額での和解は可能であり、すでに約半数の1500人くらいはその金額で和解しているというのに、それに納得出来ないという数人の元株主による訴えで今回の差し押さえがされたとのこと。もしも金額での解決に重点があるのであれば、自分のところではなくライブドアに行った方が確実に一定の金額は差し押さえが可能だったにもかかわらず、そこには行かなくて自分のところにだけ来ている。これは要するに訴えは株価暴落による金銭的被害であるのに、金銭的な保証を目的とせずに自分への嫌がらせでは無いのだろうか、というのだ。
 僕もその通りだと思う。ただホリエモンが誤解しているのは、世の中は数字的な合理性のみで動いているのではないということ。本当に元株主が金銭のみで動いているのであれば、ホリエモンに対してと同時にライブドアにも差し押さえにいくだろう。しかしそれはしていないのだ。ホリエモン憎しという感情のみなのだろうとしか思えない。
 ホリエモンは一時は時代の寵児としてもてはやされたが、あまりに目立ちすぎて追い落とされた。個人での活躍は羨望と同時に嫉妬を買うのである。一方で茨城空港のようにどう考えても赤字になるのが明確な計画に国費を投じさせ、国民に借金を負わせている人たちが沢山いて、その計画推進のためにバレバレのウソをしゃあしゃあと押し通している人がいて、そういう人は罪に問われることは無いのがこの国のシステムである。それは、国民全員が金銭的な被害に遭っているということが問題なのではなく、ウソをついた人やそれで潤っている一部の人たちの「顔」が目立っているかいないかということが問題なのだということを明確に証明してみせているような一事実だと思うのだ。
 こんな国なんだということがいろいろな事柄から浮かび上がってきて、とにかくあきれまくるのである。

Tuesday, March 02, 2010

お金かプライドか

 またぞろ同じような話題が起きている。「なぜオリンピックで韓国が躍進し日本は金1個すら取れないのか。それはかけている予算が違うからだ。国家はもっとスポーツ振興に予算をかけるべきである。」ワイドショーをはじめ、各マスメディアのいろいろな人たちが同じようなことをワンワン言い出した。

 くだらない議論だ。

 お金をかけて競技を助成し、それで金が取れて何になる? もしそれが正しいとすれば、その金メダルはお金で買ったということにもなるだろう。お金を出さなければ取れなかったのだから。そうまでして金メダルが欲しいか? そうまでして金メダルを日本人が取る瞬間を見たいのか? 僕は見たくない。

 そもそもオリンピックを国威発揚に利用しようという意図は昔からあった。その多くは当時の東欧共産圏に顕著だった。予算に施設はもちろん、当時はドーピングも当たり前のように横行していた。ドーピングに関しては統一的に禁止になったが、予算や施設に関しては今もいくつかの国では当たり前のように投下されている。それがメダルの数に現れているという向きも少なくない。だがそれがどうした。そういう施設で予算を受けてひたすらトレーニングに励んでいる選手たちの人間は一体なんなんだと思う。それに比べると予算が少ないといわれる日本の方が、勝った時の喜びが大きいのではないだろうか。

 同様な議論は別にもある。フィギュアの採点方式は浅田真央潰し目的で変わってきていて、今回負けたのはキムヨナが優れていたからではなくてルールの偏向にあるのだという論議だ。メディアは今回の採点における起訴点の決まり方や、加点部分での開きを殊更に取り上げ、「難しいジャンプを決めたのに得点が伸びないのはおかしい」と意見する。だが、ルールは元々決まっているのだ。オリンピックの1週間前に突如発表されたというようなものではない。要素それぞれに何点を与えるのかも最初っから決まっている。その中でどういうプログラムを考えるかはそれぞれの選手、陣営が判断するもので、場合によっては選手が自身の体調や他の選手の得点などを考えて演技中に変えたりもする。その選択は最終的に選手たちによるのであって、その判断をする権利は全員平等である。勝ちたくて無難な構成にするもよし、難易度の高い技に挑むもよし。僕等はそういう判断とトレーニングによる技術を見せてもらうだけであり、あとから採点方式に口を出すのはとんでもない話だ。

 勝てない理由はいくつもあるだろう。だがそういう理由のほとんどは言い訳に過ぎない。負け犬の遠吠えと言えば言い過ぎだろうか。しかしながら最終的な理由は「自分が弱かった」か「相手が強かった」かのどちらかだ。「お金がなかった」とか「ルールが不公平だ」というのは、負けた理由になどならない、負け惜しみでしかないと思うのである。

 オリンピック開幕直前にNHKがミラクルボディーという特集を組んだ。ジャンプのアマンと、アルペンのヴィランデル、フィギュアのジュベールに密着し、その強さの理由を探るというものだ。ジュベールはまさかのミスが続き実力を発揮出来なかったけれども、アマンとヴィランデルはメダルを取った。アマンには身長が低いという不利な条件があった。そしてヴィランデルは競技中の大転倒とそこからのリハビリという不利な条件があった。しかしながらアマンは他を圧倒する飛距離で「背が低いのは不利ではない」と証明してくれたし、ヴィランデルは転倒の恐怖を克服する強い意志が成功に直結するということを証明してくれた。この番組を見て彼らの大ファンになったし、日本選手でなくとも感情移入することは出来るのだということを改めて感じたのである。どんな国の人たちも激しいプレッシャーに苛まれながらも困難にチャレンジしていく。それは浅田真央もキムヨナも同じであって、そのプレッシャーに打ち勝つ姿は常に美しい。それはどの国の代表かでもどの人種かでもなく、その人の努力の跡によるのだと思う。

 美しい戦いを沢山見せてもらった。とても楽しいオリンピックだった。その感動もやがて薄れ、1年もすると「そんなこともあったっけ」程度の話になってしまうだろう。それでいいのだと思う。すぐにサッカーワールドカップはあるし、日本シリーズもあるし、ラグビー早明戦もあれば、箱根駅伝もある。普通の視聴者にとってはスポーツってその程度のものであって、実際は大したことでもなんでもないのだ。そんな大したものでもなんでもないことで一番になるために、自らの選択でチャレンジしていくアスリートだからこそ、僕等は感動するのだと思う。僕等のような傍観者が「お金で改善しよう」なんていうのは無粋なことでしかない。

Monday, March 01, 2010

パンダとシロクマ

 この週末に和歌山と京都に行った。プライベートの旅行である。

 和歌山は、アドベンチャーワールドという動物園を基本にした娯楽施設。動物好きの人ならご存知だろう。パンダが8頭(増減有り。正確な数字は不明)もいて、パンダ不在の上野動物園がなんとかしてパンダを再び飼育/公開したいと願っていることがバカらしくなるくらいのボリュームである。その上に昨年10月にシロクマの赤ちゃんが誕生して話題となっている。パンダはともかく、シロクマはどんどん成長しているらしいので、今行かないと小熊状態を見損なうぞということもあり、行ったのである。車で。

 長旅の疲れもあるものの、やはり小さな動物はいいね。シロクマの赤ちゃんは反則だと思う。まあ反則くらいの可愛さを持っていなければ、都会から行くのも結構な距離があるこの場所に大勢の観光客を呼ぶのは難しいだろうし、そういう意味ではパンダはどんどん地方都市の動物園に行くべきだと思った。もちろん東京の上野動物園に居てくれたら、見に行くのは楽だと思う。だけど、遠くまで行く価値があるものは、出来るだけ遠くにあるべきなのだ。そうすることが経済の活性化にもつながると思う。




 土曜日に和歌山に行き、閉園後に京都に移動して一泊。日曜に京都観光をして、再び運転して帰るわけだが、走っていると通行止情報の表示が。チリ地震の影響で太平洋側に津波警報が発令されていたとのこと。仕方なく東名を避けて中央道で帰宅する。途中事故の影響などで大渋滞にも巻き込まれ、家に辿り着いたのが午前3時過ぎ。もー、死ぬかと思った。奥さんも結構疲弊していた。いや、運転は全部僕がしたのだけれども。

 みなさんも機会があったらぜひ和歌山県のアドベンチャーワールドへどうぞ。難しいようだったら、僕のビデオでも見てみてください。