Friday, March 23, 2012

4周年

今日は僕ら夫婦の4回目の結婚記念日だ。もう丸4年も経ったのかと、短かったような気もするし、いろいろあったし、長かったなという気もする。

 今もいろいろあって大変だ。大変といってもケンカなどはまったくなくて、奇跡的な仲の良さだと自負している。いいことだね、ありがたいね。何が大変なのかも、何が幸せなのかも、ここに書くことではないと思うし、読まされてもきっと困るだろうから書かないわけだが、このまま毎日を幸せに過ごしていきたい。

 そんな記念日の前日、僕は友人の告別式に出席するために東京にいた。オッサンではあるがまだまだ死ぬには若すぎる。同年代の奥さんを残して死んでいくとは、困ったヤツだ。死人にむち打つつもりは無いが、やっぱり、それはダメだよ。いつまでもコントやってないで早いところ起き上がれよといいたいところだが、それはやはりコントではない。起き上がることなく、棺は火葬場に運ばれてしまった。

 何はなくとも健康だ。心も身体も健康であらねばと思った。太く短くなんていうのは、独り者だけに許された暴言だよ。

 20年、いや30年、家族全員から疎まれるまで、長生きするぞと決意した昨日と、それを神社にお祈りした、今日の記念日だった。

Tuesday, March 06, 2012

セレモニー

もうすぐ、311だ。

 僕はこの1年、毎月11日の2時46分になるとほぼ必ず「黙祷」していた。ただ黙祷をするのと、ツイッターで「黙祷」とつぶやくのと。たったそれだけだ。ボランティアにも行かないし、寄付もしない。自分に出来ることは限られている。でも、黙祷するくらいは誰にだって、そう、僕にだってできることだった。毎月11日の2時46分に意識をするというだけのことだが、意識をし続けることは、結構大切なことだと思うのだ。

 しかし、今週末に迫った3月11日には、続けてきた黙祷をやめようと思っている。

 なにも、もう過去にしようというのではない。震災と、震災によって起こった原発事故は、決して過去の話ではない。現在進行中の悲劇だ。悲劇が悲劇を生み、僕らは分断されようとしている。どうすれば信頼関係を再構築出来るのだろうかと、その普通のことへの想いは途方も無い奇跡のようにさえ感じられる。それはきっと誰もが思っていることなのだろう。だから「絆」とかの言葉を強調しようとしているのだろう。でもそんな簡単な言葉だけで修復出来るような傷ではない。絆を与えることも、絆を与えられることもいけない。絆を強制するのはもっといけない。絆とは、そういうものだ。

 本質的な何かをなくして、偽善的な悪意を隠すために、絆という言葉は使われているんだと、僕は感じている。だから余計に絆という表面的な言葉に拒否反応が出る。その拒否反応を感じなくて済むような、そんな社会に戻れるのならと思うが、そんなに簡単なことではないのだということもわかっている。わかっているから、絶望的な気持ちにもなる。

 話を戻そう。311だ。この日は各地でいろいろな催しが行われるだろう。京都ではマラソンが行なわれる。1000以上あるお寺では、きっと祈祷の何かが行なわれるだろう。京都に限らず日本中、いや、世界中でなんらかの平和イベントが催されると思う。否が応でも、1年前のあの日のことを思い出さずにはいられないはずだ。すでにテレビ番組は311の追悼モードに入っている。

 でも、そんなモード、嘘っぱちだと僕は感じているのだ。

 1周年の記念(?)日に追悼の気持ちを持てば、あとはいいのか。この日をことさらに大きく取り上げるということは、他の日には忘れてもいいという一種の免罪符になるような気がしてならない。単に僕の穿った思いであればいいのだが、実際はそうではないだろう。この日のあらゆるイベントは、単なるセレモニーになってしまって、それがかえって人々の記憶からあの日を遠いものにしてしまうと、そんな風に僕は感じているのである。

 僕はいろいろなところでこの話をしているから「聞いたよそれ」という人もいるのは重々承知だが、大学生の時に、出席さえしていれば単位が取れる授業があって、僕はその授業が好きだったから毎週行動のような大教室の最前列で講義を聴き、ノートを取っていた。出席表を誰かがまとめて出せば出席になるから、大教室はいつもガラガラ。しかし最終日に、いつも僕がいる席が空いていない。そこを占領していた女子大生たちは終始おしゃべりをしていて、完全に講義の邪魔だった。しかし、講義も終わって最後の瞬間、教授が挨拶すると教室中から拍手が。さっきまでしゃべっていた女子大生たちも拍手。「この瞬間がいいのよね〜」と。僕は拍手をする気になれなかった。普段授業に来さえしないで最後に拍手をしているやつらと同じになりたくなかったからだ。

 別の例えもしたい。野球で10月頃になると優勝の行方が見えてくる。例年なら最下位争いをしているようなチームが稀に優勝したりすることがある。そういう時にどこからか湧いてくるようなファンたちでスタンドは満員になるが、お前ら開幕時にファンだったかと言いたくなる。ずっと応援していたというが、だったら開幕から球場は満員だっただろう。ファンというのはチームが苦しい時にも応援をする人のことであって、良いときだけ喜ぶのはファンとは言えない。

 大学の最終講義も、プロ野球の優勝の瞬間も、それは単なるセレモニーだ。セレモニーに居並ぶ人の大半はその瞬間だけだ。次のイベントが沸き起こればそこに気持ちも身体も移っていく。それが悪いとは言わない。だが、僕はその群れの一人にはなりたくないし、だからその場にはいたくないなと思う。で、311だ。毎月行なっていた黙祷。4月や5月には多くの人が黙祷をしていた。ツイッターのTLにもその瞬間に黙祷の文字が溢れんばかりだった。しかし夏が来て秋が来る中で、その文字は明らかに減っていた。減るのはやむを得ないと思う。人は忘れることで前進のエネルギーを得るものだからだ。いつまでも過去にこだわり続けていてはいけない。黙祷の文字が消えていくということは、それだけ新しい何かに打込んでいる人が増えたということでもある。だからけっしてそのことを哀しんではいけないと思う。

 だとしたら、311の14:46も、みんなは今までの勢いと同じように黙祷の二文字を忘れていっていいのだ。皮肉な意味ではなく、本当に忘れていっていいのだと思う。しかし、1年後ということもあって人々はあのことを思い出すだろう。それをイベントとして煽るようにテレビが特番を組んでいく。そして多くの人が「そんなこともあったな」と思い出して、今まで忘れていた黙祷をすることになるだろう。そのことも、悪いことではないのだ。でも、僕はその並びの中にいたくないと思っている。天の邪鬼なのだな、きっと。でもそういう性分なのだから仕方がない。

 セレモニーは1日で終わる。終われば、またいつもの日々が何事もなかったように始まる。1年経ったその日に黙祷をしたことで免罪符を得た多くの人が、毎月の黙祷のことなどは気にも留めなくなるだろう。そうした411あたりから、またひっそりと黙祷をすればいいのだと思っている。

 黙祷をやめるということで、僕はあの日のことを意識していようと思うのだ。