Monday, May 31, 2010

遺伝子



 土曜の夕暮れ、京都の法然院の列に並んでいた時のこと。奥さんが「なんで犬はどんな犬もワンワンと鳴くのかしら、鳥は種類が違うとああもいろんな鳴き方をするのに」と聞いてきた。面白いことを聞いてくるな。確かにそうだ。犬はどれもワンワンだ。もちろん日本語でワンワンで、英語だったらvow wowだ。だがそういう人間の言語の問題とは違ったレベルで、やはり犬はワンワンで、鳥はチュンチュンとかホケキョとかカーカーとかコケコッコとか様々に鳴く。聞く側の認識能力ではなく、遺伝子がそれを決めているのだ。

 なぜ法然院というお寺に並んでいたかというと、その日その晩、川本真琴&前野健太のライブが行われ、それを観るためにわざわざ京都までやってきたのである。9年ぶりのアルバムを出した川本真琴のライブは観たいと思っていたものの、東京で時折やっているライブにはさほどに気持ちが向かなかった。だが、法然院。このお寺は斬新的な和尚さん梶田住職がいて、「お寺が新たな出会いの場になれば」という思いで「法然院サンガ」という寺ライブをずっと行っている。お寺でライブ。このシチュエーションにとても興味があって、いつか機会があれば観てみたい、体験したいと思っていた。そこに川本真琴がプラスして、これは是非とも観に行かなければと思い立ったのである。

 5月も終わりというのに山の夜は底冷える。なのに障子は開け放たれた中でライブが始まった。出演者も観客も、口々に寒いと言う。ああこれはライブという名の修行だなとか思った。辛いと思えば辛くなる。だが、苦痛とは肌が感じるのではなくて脳が感じる感覚である。だからある瞬間からちょっとだけ背筋を伸ばしたりした。そして、これは辛くなんてない。このライブをこの場所で観たいと心から思っていたじゃないかと、思うようにした。それでもなお、風は冷たく、修行のようなライブ体験が続く。2人の出演時間は合計で2時間半。ライブ自体はとても良かったが、終わった時にちょっとだけホッとしたのは偽らざる安堵の気持ちだった。

 川本真琴のライブは、まあこんなもんだろうという感じだった。キーボード弾き語り。声は独特で、日々多くのデモ音源を聴く僕からみても、独特のトーンの声は突出している。こんな声のデモが来たら、きっと僕は興奮するだろう。そしてすぐにでも一緒に仕事をしようと言うだろう。だが、それだけで売れるとは限らないんだということを、彼女の今は証明してくれている。もちろん売れるという意味が何を示しているのかによっても変わるだろうし、9年ぶりのアルバムだって、世間的には知られていなくとも、キラキラレコードのアーチストたちよりは売れているだろう。だが、過去の彼女のビジネス的成功から比べたらきっと誤差の範囲で、やはり売れているとはとても言い難いはずである。それでも今でも彼女が音楽を続けていて、そして大成功の頃にはその音楽活動を続けられない状況にあったことなども、音楽とビジネスの複雑な関係を明示しているようで、おもしろいなあと思った。アンコールで2人がセッションをした時に、前野健太のギターで「愛の才能」を歌った。メジャーの頃の歌としてはこれ1曲。1番を前野健太が歌い2番を川本真琴が歌うという流れだったのだが、片手にマイク片手に歌詞カードという状況で、しかも間違う。明らかに何かが切れたようなテンションで、ああ、昔の歌はキライなんだなあというのが伝わってくる。そりゃそうだろう。だったら封印すりゃいいのに。ここに来ている人とか、今後ライブハウス規模のライブに来る人は、まあ聴いてみたいという期待はあるだろうが、無理強いしてまで聴きたいなんて思ったりはしないだろう。それに、そんないやいやそうなテンションになるのは、お客さんに対してもあまりいいことではないはずだ。

 前野健太のことはほとんど知らずにここに来た。本人もほとんどが川本真琴のファンなんだろうというようなMCをしていて、だからといって特に自虐的になることもなく、淡々と歌う。淡々とというのはちょっと違うな。きっとそれが彼の独特のスタイルなのだろうが、眉間に激しく皺を寄せ、一言一言を噛み締めるように歌っていく。歌うというよりもつぶやくような絞り出すような歌い方。情念がこもっている。

 僕は前野健太という人の歌に一種の衝撃を受けた。言葉は比較的漠として、イメージをイメージとして積み重ねていく。その言葉とこの言葉が結びついたら特定の情景が像として浮かび上がり、その像にこちらの想像が加わって、感情が生まれる。そんな歌だった。ラップなどで韻を踏むというような、そんな表面上の言葉遊びではない、意味とか感情を持った言葉遊び、隠喩というべきか、そんな面白みを持っている。かといってそんなことを勉強によって獲得したというのではなさそうな、感覚によって生まれているような、そんな印象だった。

 だからライブ終了後、前野健太のアルバムを買った。正確には僕がトイレに行っている間に、奥さんに買ってもらったのだが、どれを買っていいのか判らないでいる奥さんに、前野健太は「これです、これを買ってください」と言って、2009年1月に発売した、オリジナルとしては最新の『さみしいだけ』というアルバムを進めてきた。そしてそのアルバムの封を開けて、直筆のサインをしてくれたという。日常的にそういうことに囲まれているインディーズレーベル人間としての立場からはさほど珍しいことではないのだが、だが自分が聴きたいと思って買うCDにサインをしてもらうということは、やはり嬉しいものだ。立場が違わないとその嬉しさが理解出来ないというのはまだまだ自分も未熟だなとか思うものの、そういう意味でもいい経験が出来たなと思う。

 そのCD。彼のホームページには曲名が並んでいて、その中で1曲だけ外部にリンクが貼ってあるのが「鴨川」という曲だ。プロモーションビデオがYouTubeにあるわけで、そういう意味でもそれはこのアルバムの中でも一押しの曲なのだろうと思うのだが、この曲がこのライブの最後、川本真琴とのセッションとして歌われた。場所も京都、「鴨川」というタイトルの歌はまさに締めにふさわしい。1番を川本真琴が歌い、2番を前野健太が歌う。これが、とても良かった。哀しくて切なくて、だけどありそうな夢への希望。2つの声はまったく違うし、歌い方もまったく違う。それを並べることによって全く別のものになってしまうような気もするが、だからといって別のものになってしまうことが悪いとばかりはいえないのである。本来ある姿という幻想にこだわるあまり、別のものになってしまうことを人は恐れる。だが、原点を忘れることなく、変化することは可能だし、むしろ不可避なのである。それが不幸になることもあるだろうけれど、幸福にすることだってできる。それは誰にだって出来る。そんなことを、僕は寒い風が吹き抜ける法然院方丈の間で感じていた。

 帰宅後、サイン入りの前野健太のアルバムを聴いた。ギター1本のライブとは違い、バンド形式のCD音源はかなり違和感を与えてしまうものだった。これはソロシンガーの宿命でもあり、多くのミュージシャンが抱えている問題でもある。ライブで聴いた感動が強ければ強いほど、その違和感はリスナーに失望を与える。僕は今このブログを書きながら、「鴨川」を繰り返し繰り返しリピート再生して、聴けば聴くほどそのバンドバージョンが当たり前のように感じてきた。曲にも固定の姿などなく、その根本に刻まれているなにかを、その時のいろいろな理由を持ってある特定の形にアレンジされるのみである。そのことは判っていながらも、じゃあそれを普通のリスナーにいちいち説明することが出来るのかというとそれも難しく、今回のようにリピートで聴くことによって「慣れ」ることを期待するのもまた難しく、そういうことがこの前野健太の大きな前進を阻んでいる一つの理由かもしれないし、それは彼にのみある問題ではなく、多くの弾き語りシンガーとも仕事をする、まさに僕自身の課題でもあるような気がしてならない。

Friday, May 28, 2010

罷免

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 福島さんが頑だ。テレビでは罷免確実とか言っている。ブログを書いている途中か、アップの最中に罷免のニュースが流れるかもしれないが、そうなったとしても今の雰囲気で書く。書くのにどのくらい時間がかかるかもよくわからないし、ブログの着地点もあまり見えていない中、非常に流動的な文章になるかもな。書いていてちょっと面白い。

 福島さんが頑なのか、社民党の中の強硬派の人たちが頑なのか。それもよくわからないのだが、僕には福島さんは板挟みになっているのだと見える。そもそも途中から社民党に入って来て、知らないうちに持ち上げられてしまったお神輿なのだ。そもそもテレビに出る弁護士の走りのような人だし、目立つことが大好きだ。マドンナブームの記憶から離れられない土井たか子から一本釣りされて、そして何となく今に至る。現実路線と理想論。それが食い違うのは当たり前で、どこで妥協線を探るのか。世界は常にそれの繰り返しで、探れない場合に衝突が起こる。政治の争い、ビジネスの争い、場合によってはテロとか国家間の戦争も例外ではない。

 人はなぜ妥協が出来ないのか。それは命よりも大切と思える何かを持っているからである。札束を積み上げればOKしてもらえるのなら簡単だ。だが何でも金で解決出来る人たちばかりではない。心で接するといっても限界がある。権力者が反対する人をことごとく呼びつけ、拷問をして意見を変えさせる。洗脳をする、ロボトミー手術をする。一生獄に幽閉する。最悪処刑する。それは最悪だ。だが命よりも大切な何かを持っている人に対して、最後の説得はそういうことになってしまう。

 だから、物別れになるのだ。それは仕方ないではないか。罷免やむなしだ。どちらかが妥協するよりもよほどサムライだ。福島さんは女性だけれど。

 しかしこれが選挙との絡みということになるから事情はそう簡単ではなくなる。小沢さんのトラウマは間違いなくそこにある。細川羽田の連立政権が下野したのは、社会党を仲間はずれにしたことが原因だ。そもそも違う思想の基にあるのだから、しょっちゅう揉めるのは当然だ。だからといって、そこで決裂したのでは子供のケンカである。小沢さんは15年前に子供のケンカをやったのだ。そして、窮鼠が猫を噛んだ。当時の社会党と現在の社民党とでは影響力はまったく違う。数合わせの点でも既に重要度はほとんどない。だが、小沢さんは学んだのだ。表層的に相手を舐めると大変なことになるということを。だから多くの閣僚が罷免やむなしと言いはじめている今、それではいけないと主張しているのだ。

 非常に皮肉な話だが、この日が来るのはある程度判っていた。だからこそ、盤石な政治的基盤を作り上げるため、次の参議院選挙が重要なのである。もしも民主党が大敗して、参議院が非常に不安定な状況になり、衆参ねじれが起きてしまったらどうなるのだろう。答えは簡単だ。この国が停滞するのである。船頭多くして船進まずである。課題を山積みし、変化が求められているこの時代に、確実に停滞をしてしまうのである。それは何よりも明らかな自滅へのシナリオだ。つまり、サッカーで3点ほど負けたまま後半の25分を迎えているのが現在の日本だと、僕は認識している。そこで監督の作戦にコーチが3人くらいで反対を始めているような状態が、今の日本だ。そして選手たちはどういう戦術で戦えばいいのか迷っている。少なくとも今の戦術を続けるしかないだろう。それで3点のビハインドになっているのは明確なのだが。

 だから、ディフェンダーも敵陣に上がっていくくらいのチャレンジをしていく必要がある。それは異論もたくさんあるだろう。点差を広げるだけだと言われたりもするだろう。だが、このままでは負けるのだとしたら、ギャンブルをしてでも勝ちにいく戦術を明確にする必要があるだろう。だが、それには監督の強いリーダーシップが不可欠なのだ。それは民主党でなくともいいのだけれど、現時点ではそのポジションを担える立場にあるのは民主党しかありえない。なぜなら衆議院で圧倒的な議席を持っているからだ。自民党やみんなの党、たちあがれなんとか、その辺がまとめて参議院の議席を押さえたところで、すぐに力を持つ訳ではない。小沢一郎ほどの力を持った政治家が17年かけてようやく完成させようとしている政権交代であって、その詰めでグチャグチャにするのは、国を停滞させようとする動きそのものでしかない。それこそ権力あって国家無し、国民無しになってしまうのである。

 だがどんな人も、政治家も国民もマスメディアも、それぞれの立場と主張があり、おいそれと口をつぐむことなんて出来ない。それは主義主張だったり、自己保身だったり、いろいろだろうが、立場を賭けて叫ぶのだ。そしてその叫びを止めるための弾圧を、この国は選択しない。それを選択しないというのも一種命がけの姿勢である。世界の多くの国でその弾圧を採用している社会が存在する中、それをこの国は採用しない。僕はそのことがとても大切なことだと思っている。何が起きても守らなければいけないことのひとつである。それは国民一人一人に尊厳を与える大きな要素になっているからだ。僕らは口をつぐむ必要がない。だから自由でいられるのである。たとえ反対の意見を持っている人であっても、相手からそれを理由に攻撃されたりする必要はない。素晴らしい社会だと思う。

 だからこそ、それを守るためには一種の節度が必要なのだ。節度とは、権利と義務の相互関係を守る上での重要なカギである。それを忘れて個々が勝手なことばかり言っていたのでは、結局混乱が起きるだけで、その混乱の中大きな停滞を余儀なくされるか、我々の自由な環境が失われながら前進するか、どちらかを選ばざるを得なくなってしまう。それは悲劇だ。だから、節度を個々が持って、権利主張だけではない義務遂行していくことが大切なのである。それが今出来ていないから、混乱の中停滞するという、実に不都合な状況に巻き込まれてしまっているのだと、切実に感じる。

 昨日の全国知事会なんかもまったくそんな感じだった。狂犬の橋元知事だけが基地問題の一部負担を口にした。それをパフォーマンスとか、関空の大赤字と関連している卑しい発言だとか、批判する人はものすごくいた。だが、たとえ打算でもパフォーマンスでも、なんらかの節度を持った発言をした知事がいただろうか。もっともらしいことは言っていた。国の安全保障についての説明がなされていない。だから負担受け入れも何も決められないとか。じゃあ説明したら受け入れるのか。そもそも受け入れたくないことを正当化するための逃げ口上なんじゃないのか。ちゃんちゃらおかしい。だったらまず沖縄に行ってみればいい。そして「俺たちは一切受け入れないぞ」と宣言すればいい。鳩山さんはとりあえず行った。戦略もなく行ったと揶揄されているが、それでも行った。2回も行った。それだけでも、全国の知事は反論なんて出来るはずもないと思うのだが、それは間違った見方なのだろうか。

 福島さんの罷免が先ほど報じられた。官邸から出てくる福島さんの表情はさっぱりとしたものだった。これで大臣ではなくなる。でもたかが大臣じゃなくなるだけで、別に殺される訳ではないのだ。政治家を引退した細川護煕も今はすべてが他人事のようなさっぱりした表情を見せている。僕はそれでいいと思う。政治家の前に人である。主張をして、ぶつかって、結果が出るだけのことである。これで社民党は窮地に陥るだろう。どんなバランスになったところで、社民党に連立を組もうと提案する政党は無くなるだろう。しかし、そもそもそれが社民党だったじゃないか。正々堂々と主張をし、それがダメなら野に下る。それはもともと社民党がいた故郷のような場所に過ぎない。思っているほど居心地が悪い場所ではないだろう。あっぱれだとエールを送りたい。

 これで政治のバランスはちょっとだけ前提が変わることになる。メディアもいろいろ言うだろう。谷垣総裁は相変わらず「解散して民意を問え」とオウムのように繰り返しているようだ。参議院選まであと1ヶ月とちょっと。日本がどうなるのか。きっと低投票率に終わってしまうだろうその選挙で、いくらかの方向性は見えてくるはずだし、僕も自分の権利を行使したいと思う。

Friday, May 21, 2010

wordというソフト

 ライターをやっている奥さんが相談があるとか言うから、何事が起こったかと思ったら、wordの調子が悪いとのこと。(」)を打とうとするのだがなぜか(』)になってしまうという。そんなバカなと思ってやってみたら確かにそうなった。変換がおかしい。だから一度保存してパソコン(MacBook黒)を再起動してから開いてみて、それでやるのだが再び同じ症状。仕方なくテキストエディタでも同じになるのかと思って試してみた。もしそれで同じ症状ならばwordの問題ではなくてFEP(ことえり)の問題だ。だがテキストエディタではまったく問題無し。やはりwordか。

 wordにはなんか禁則処理とかなんとかあるよねって感じで、それでいろいろ設定を見てみたが、思い当たるような設定も無し。それはそうだろう。これまで何の問題も無く出来ていた変換なのだから。それで今度は編集していた文書は一旦おいといて、新規文書を作り、その中でやってみると、今度は出来た。あれ、問題解決したのかと思ってまたもとの文書に戻るが、そこではやはり変換がおかしいままだった。

 まあ新規文書で正しく変換させ、それをコピペするという方法で対処したものの、なんか腑に落ちない。そもそもwordというソフト、Mac使用歴17年くらいになる僕としては、嫌いだったのだ。かつてはEGwordというエルゴソフトのワープロソフトを使っていた。Mac以前のPC9801時代は一太郎。誰が好きでマイクロソフトのアプリなんて使いたがるものか。DOS/V→Windowsの世界でみんながwordを使って、それでファイルを送ってくるものだから、しかたなく組み込んでいる。Excelも表計算ではスタンダードになってしまっているし、互換性を考えるとこれを使うしかないのが現状だ。もしも互換を考えなくていいのなら、無理にでもAppleのNumbersを使うだろうし、ワープロソフトは今だってJeditを使っている。その方が余計な機能がなくて使い勝手がいいのだ。wordなんて送られてきたファイルを開く時にそれしかないという場合と、どうしてもwordのファイルで送ってくれという指定がある場合のみだ。

 そのword、僕が先月発表されたばかりのMacBookProを購入する一つの原因にもなっている。それまでに使っていたのはもう4年くらい前のモデルで、ずっとOS X10.4で使っていたのだが、そこにwordの2004mac ver.というのが入っていた。そもそもそんな程度の用途でしかないのだから、2004で十分だったのだ。だが昨年夏頃にOSをOS X10.6に入れ替えたとき、word2004は使えなくなってしまった。何故なのかは今も判らない。そのことを友人に言ったら、その友人のword2004はOS X10.6でも問題なく動いているという。でも僕のマシンでは動かない。それはMac本体とOSとアプリの微妙な関係の中で何らかの不具合があったということなのかもしれない。買ったばかりの機械とソフトでそれならば激しいクレームもするだろうが、なにしろ4年前のMacに無理矢理OS X10.6を載っけたのだ。動作保証内とはいえ、すべてのアプリに対して保証という訳でもないだろうし、最新のCPUが乗るというのなら、それが買い替え時でもあるかなと、僕の気持ちを徐々にそちらに傾かせた、その理由の一つだったのだ。

 だが、wordはもう2010が出るという。そんな時になぜ2008を買わなければいけないのだ? いつもそうなのだ。マイクロソフトはMac版を1年から2年遅れてリリースする。新しい機能なんてそもそも期待していないのだけれども、なんか古いものをつかまされているようで、それも気に入らないところだ。2004だって2007年くらいに買っている。仕方なく買って、それで3年で買い替えなければいけなくなってしまう。よくわからない不具合のせいで。

 みんな一斉にwordを使わないってことにならないのだろうか。僕は正直、あれはクズソフトだと思うのだよ。Windowsを使うのをやめるよりも、wordをやめる方が簡単だろうと思うし、それに変わるような何かをきちんと開発すれば、そしてそれをフリーにすれば、マイクロソフトも反省すると思うんだが、どうだろうか。まあ最初はお金払ったとしても、バージョンアップくらい超低価格でいいんじゃないとか、心から思う。

Thursday, May 20, 2010

なかったことには出来なくて

 口蹄疫ってなんだろう。普天間ってなんだろう。人々の怒りや悲しみの叫びは伝わってくるのだけれど、それらに対する深い認識は遠い都会に住んでいる僕にはなかなか出来なくて、それでどこか人ごとのようにしか感じられないでいる。いや、理解しようとは思うんだ。だけどいくら考えたって完全な理解になどはならないし、それ以前の問題として、無限に考えられるほどの時間は許されていないのだ。

 もしも、口蹄疫の蔓延も起こらず、普天間基地もそもそも日本に存在せず。パラレルワールドのようなそんなもしもが起こったならばどうだろうか。その世界は幸せかどうかにも議論はあるだろうが、その議論は脇に置いて、仮にそんなもしもは幸せな世界だとして、だけどそんなもしもは起こらないのが厳然とした事実。だから、僕らはその悲劇を前提にして、物事を考えなければいけないのだろうと思う。

 そう、目の前にある諸問題は、なかったことになど出来はしないのだ。

 対処への方法論は、現実の大きな不幸と、ありえもしない「もしも」の、その間のどこかに見つける以外にはない。それは問題が起こる前に気付かなかったという責任を追及することでもなければ、未来になら検証出来る結果について知る術を持たない現時点の人間の判断を、後になって非難することでもない。

 口蹄疫。消毒薬が足りません。強制的に殺処分をするって誰の見識と判断で?一戸一戸の了解は?10kmならダメで10.1kmならばOKってどうよ。その僅か数メートル、数センチを、口蹄疫は超えていないのか?わからない。どれも判るはずもない材料から判断を下す必要がある。

 そこには覚悟が要求される。それはこれがいいと確信する覚悟ではなく、ダメだった時には矢面に立つ覚悟だ。その覚悟を要求されるのは政治家だ。政治家には覚悟が必要である。それを非難するのは容易い。特に結果が出た後に非難するのは容易い。だが、結果も出ないうちからこうすべしと断言できた者、そしてその判断が誤った場合には全批判を受ける覚悟がない者には、政治家を批判する資格はない。批判する権利があるのは選挙民だ。批判する資格はなくとも、権利はある。それが民主主義というものだ。

 100点があるとしたら、それは過去に遡り、今の問題を手品のように防ぐことだろう。だがそれが出来ない以上、次々と起こる諸問題に対処療法的に追われる以外にないのだ。その時に、理想論ですべてを他人のせいにしていたのでは、問題は1cmたりとも動きはしないし、それは更なる悲劇を生み出し続けるのみだということを、僕らはもっと強く認識する必要があるんじゃないかとか、皮膚感覚のない遠い悲劇を見ながら、思うのである。

Tuesday, May 18, 2010

流線型と比屋定篤子『ナチュラル・ウーマン』を聴く



 Twitterで誰か(誰だったか、結構有名な人だったと思う)が「いい」と紹介していて、それでamazonで購入。最近はそういうケースが増えてきた。流線型と比屋定篤子の『ナチュラルウーマン』。いい。

 なにか、夏なのだ。暑さにやられて、木陰に逃げ込んだような。じっとりとした湿度の高い空気なんだけれど、風が心地よいという、そんな印象。音楽がそういう季節感を持つってどういうことなんだろう。例えば大瀧詠一の『A LONG VACATION』などを思い浮かべる人もいるかもしれない。だが僕の頭の中にあるある種の原点は、山本達彦『TWO WAY SUMMER』だったりする。あまりに古い曲だからか、YouTubeにもまったく出てこない。amazonで売っているベスト盤にも出てこない。小学生か中学生の頃、なぜか家にあったこのカセットを繰り返し聴いていた。多分夏だったのだな。気怠い九州の夏。気怠いとかいう単語をしっかり認識していたかさえもう判らないけれども、同じ季節に沢山聴いていた他のTVソングスとはまったく違って、この曲には湿度の高い夏を感じていたことだけはハッキリしている。

 この比屋定篤子さんというシンガー、かつてはエピックとかのアーチストだったらしい。その後の変遷とかはまったく知らないし、ウィキにも情報は殆どない。まあアーチストとしてのビジネス的成功をしているかというと、決してそんなことはないのだろう。いや、メジャーで数枚のアルバムをリリースしているのだったら十分な成功か。

 成功かどうかはともかく、このCDは良かった。仕事がら一つの音楽に執着して何回も繰り返し聴くということが珍しかったりする中、これはもう10回以上聴いているし、きっとまだ聴くだろう。徐々に気温も上昇し、これからの季節に、もっともっと聴くだろうと思う。夏の木陰の風の心地よさは、きっとギターの音色が演出しているのだろうと思っている。ギターの音がとても爽やかだ。このギターに絡む鍵盤が、時にピアノだったり、時にハモンドオルガン(?)だったり、とにかく絡み方と微妙なディレイが、一種の思考停止を生み出し、それがなにか、夏の気怠さに似ているような、そんな感じなのだ。それに比屋定篤子のボーカルが乗ってくるのだが、とても微妙にリズムがズレているように聴こえる。いや、リズムはズレていないのだ。だがズレているように感じる。僕などもレコーディングの際に「ジャスト」のタイミングをどこで決めるべきかを苦慮することがあって、打楽器などだったらアタックの瞬間がジャストオンタイムなのだが、ボーカルは音の出だしが必ずしもアタックタイミングと同期する訳ではなく、その結果、ジャストのリズムよりも前から息は吐き出されるべきということが起こる。比屋定さんのボーカルというのは、声そのもののイントロ部分というものがあって、そのイントロ部分がリズムのオンに合った時に、微妙なズレを生じさせるのかもしれない。だが結果的にそのズレが、場合によっては聴き難さにつながることもあるのかもしれないが、僕の耳には、空気中の水分がベタベタと肉体に絡み付くような、湿度の高い夏を思い起こさせることにつながって、ギターや鍵盤の音とミックスされた時に、気怠さと心地よさの妙につながっていたのである。

 面倒というか小難しいことを書いてしまって反省している。単純に、真夏の海辺リゾートって、暑いんだけれども魅力が合って、そんなことを思い出させるような、いい音楽だったのである。聴く人によってまた印象は違うだろう。それでいいのだと思う。



 また、このCDの中に『サマーインサマー』という曲があった。それがカバー曲だとは最初気付かなかった。この曲だけがとてもポップで、異様な存在感を放っていた。八神純子の1982年のヒット曲である。ああ、そういえばこの人は秀逸なメロディメーカーだったなということを改めて気付かされた。ザ・ベストテンでの姿が思い出されるし、声がよく伸びる、歌が上手い人というのが当時の僕の印象だ。だが、その歌のうまさだけではなく、メロディが抜きん出ているということは、こうしてカバーされるとよくわかる。メロディーは音楽の命だなと思う。もちろんそれだけが音楽の要素ということではないし、ある程度売れなければ、カバーされることも無ければ、仮にカバーされてもそれがカバーということにさえ気付かれないのだが。

Monday, May 10, 2010

テレビの識見

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 谷亮子が民主党から出馬へというニュースが流れた。まあこれについてはいろいろな意見があるだろう。谷さんに議員としての仕事ができるのかということ、しかもロンドンオリンピックを目指しながらという中で。その疑問は当然だろう。でもきっと選挙戦で、全国の応援とかで飛び回ったら、ものすごく演説は盛上がるだろうし、ニュースバリューはあるだろう。いろいろな意味でのプラスマイナスはあって、それをすべて勘案して公認をするのだろうし、有権者もそんなプラスマイナス、さらには他の要素も含めて総合的に判断するのだろう。それでいいし、その結果がどうなろうと、それが現在の日本の意思ということになる。それを議員も政党も落選者も、そして国民自身も心から受け止めなければならないのだと思う。

 だが、きっとマスコミだけは自らの立場など勘案せずに、とにかくいろいろなことを言うのだろう。さっきのニュースでもあるコメンテーターが「谷さんの出馬のニュースを聞いて、やるせない気持ちになった。谷さんがどうだということを言うつもりはないが、谷さんは今喫緊の課題となっている普天間のことについてちゃんと勉強されているのだろうか、もっと識見の高い候補者はいなかったのだろうか」などと言っていた。

 チャンチャラおかしい。どういう上から目線でそんなことが言えるのだろうか?

 まず、最近マスコミが金科玉条のようにしているのが世論調査だが、その世論調査が正しいということは、基本的に世論調査に応じている国民の問題意識がきちんとした現状認識に基づいているということであるべきだ。だとすれば、国民のほぼすべては問題意識を持って日々のニュースに向かい合っていなければならない。そうなのだとしたら、谷亮子もきちんとした現状認識とか問題意識を持った、高い識見のある一国民であるということになる。しかし、それはコメンテーター氏は否定しようとしているのだ。

 では、コメンテーター氏を「やるせない気持ち」にさせた谷亮子が、たいした認識も意識も持っていないダメな人だと仮定しよう。そうなると、そんな人が結構な割合で国民には存在しているのか、さもなくば多くの国民はきちんとしていて、例外的に存在する超ダメ人間というゾーンに、谷亮子はカテゴライズされるということになる。どちらにしても、国民全体、もしくは谷亮子個人を「ダメ人間」と定義することになるわけで、よくもまあそんなことを公共の電波を使って喋れるものだなと、あきれてものが言えない。

 まあ後半の「谷亮子だけがダメ人間の代表だ」という気持ちはまさかコメンテーター氏も持ってはいないだろう。本音からすると、国民の大半は大した識見などは持っていないということを彼もかんがえているのではないだろうか。とすれば、日頃の世論調査は、そんな大した識見を持っていない大衆に、形ばかり質問をしてみて、それを材料に自らのコメントを構成しているということになってしまうわけで、自らの報道活動の根本を揺るがしてしまう。そんな簡単なことが、この人は判らないのだろうか? 理解に苦しむ。

 もっと識見のある候補者はいないのかと本気で思っているのなら、自分で立候補すればいいじゃないか。そう言ったら、おそらく「いや、自分には自分の仕事があるから」というだろう。しかし、高い識見を持って周囲からも一目置かれているような人は、同様に自分の仕事があり、周囲からも不可欠の存在だと見られているのである。そんな中で政治の世界に進出出来る人を探すのは結構大変なことだし、進出する人も大変な想いを乗り越えて踏み出しているのだと思うよ。それを批判したり蔑んだりするのは簡単だけれど、その中からいい点を探して、いい点の比較で候補者を戦わせようとすべきなのが、本来報道する人たちの役割なんじゃないか? 水戸黄門の悪代官みたいな候補者がいればさすがに粗探しをすべきだが、善良で一途な町娘みたいな立候補者をつかまえてため息をつくことは、少なくともジャーナリズムの仕事ではないと思うのだ。

Friday, May 07, 2010

才能のゆくえ

 一昨日、天空快のライブに行く。



 天空快はキラキラレコードからリリースをしているアーチストである。2004年の3月にファーストアルバムをリリースしているからもう6年が経過している。初めてオムニバスアルバムに曲を収録したのが2003年の6月だから、初めて出会った時からすればもう7年以上の付き合いになる。初めて出会った時、彼は天才だと思った。それ以来、かなりの思い入れを持って仕事をしてきた。公には出来ないやり取りも少なからずある。そして今、天空快は岐路に立っている。

 もう4年ほど一緒にやっているドラマーのアマノ君が、この日のライブを最後に脱退するのだ。正確には脱退ではない。しかし当分はライブをやることを考え直すという。8月8日に天空快としてはライブを予定しているが、そこにアマノ君がいる可能性は極めて少ない。

 僕もキラキラレコードと天空快との関係をどうすべきかという問題を抱えている。このところ動員は増えないし、CDセールスも芳しくはない。天空快の藤原くんもそういう流れの中、どう頑張っていいのかを決めきれずにいる。いや、音楽が好きな点は変わらないし、新曲も止まることなく生まれている。だが、それを世に出すすべを失っている。キラキラレコードでは2008年の12月のマキシシングルリリースを最後にリリースが行われていない。先日のミーティングで、僕としてはまだ前向きにリリースを続けていこうという提案をしているが、そこにはどうしても予算とかの問題がつきまとうし、アマノ君の脱退などもあり、どうなることやら結論はまだ先になりそうである。

 ビジネスを考えれば、もういい加減に整理をした方が良いのかもしれない。だが、そう簡単に割り切れないのが面白くも切なくもあるところだ。なぜなら、僕はまだ彼の天才性を信じて疑っていないからである。良いものが売れるとは限らない。実際にそんなことは数多く経験してきた。だが、それでも良いものを売りたいと思うから、こんな仕事を20年も続けてきているのだ。

 どんなアーチストにも旬というものがある。作る作品のすべてが素晴らしいということはそうそうある訳ではない。スポーツ選手だって世界記録を出せるコンディションとチャンスが同時に訪れるのは稀だし、その機会をピークとしたら、あとのチャレンジはすべて2番手3番手である。ミュージシャンだってそうだ。素晴らしい作品を1度でも生み出すことができたら、残りの作品はその最高作品へのオマージュでしかない。常に新作が最高であってほしい。だが、現実は必ずしもそううまくいく訳ではない。そのオマージュも一定以上のクオリティを保っていれば別だが、往々にしてギャップの大きさに、作り手は苛まれるのである。

 趣味で続ければ? そんな悪魔のささやきも聞こえてくるだろう。趣味は楽だ。だが趣味での活動は所詮趣味でしかない。プロスポーツ選手が引退するとすぐに太るし、トレーニングを続けない身体では全盛時のパフォーマンスなどとても望めないのと同じように、精神が休みに入ったら、持てる才能だって錆び付いてしまう。アートは適当な偶然の産物ではなく、精神を絞って削ってナンボの、過酷な創作活動なのだ。趣味などで続けられるともし本当に思うのだとしたらとんでもない勘違いだし、そんな作品を評価するのは身内か信者以外にはありえない。

 しかし現実には生活があるし、家族があるし、全精力を注げるのにも限りはある。そんな中でどのくらいのことを天空快に強いることが、僕に許されるベストなのか、正直言って測りかねているのが実際のところなのだ。

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 最近、僕はPriscilla Ahnを熱心に聴いている。
 


 彼女のことは2006年のインディー盤で知った。5曲入りの紙ジャケCDは鮮烈な印象で、もう何度聴いたかしれない。そして先日偶然に彼女の近況を知る機会があり、amazonで新作を購入したのである。2008年のアルバムと、2009年にフジロックへ出演した際に日本だけでリリースしたミニアルバムの2枚。いい。確かにいい。でも、2006年のインパクトは既にそこにはない。

 なにがそう感じさせるのかというと、インディー盤に含まれた5曲のうち、3曲が使い回されていることだ。しかも代表曲の『DREAM』などは、バージョンこそ違えども3枚すべてに収録されてしまっている。ベスト盤じゃないのだから、そういう扱いはやめてくれよという、ある種の失望感があったのだ。もちろん、いい曲を聴かせたいという想いは判らなくもない。それを聴きたいという人を裏切らないようにするための措置なのかもしれない。だがそれは、裏を返せばその曲を超える新曲を作れていないということに他ならないのだ。

 だから過去の名作にしがみつく。手っ取り早いが、それは麻薬だ。一度手を出すと、それでいいのだと思うようになるし、それを超えることは出来ないんだという諦めの心が無意識のうちに芽生えてしまう。過去の作品は過去の作品、自分には今の作品があるんだというような、そんな気持ちでなければ超える作品は生まれない。もちろん、2008年2009年のCDにも新曲は入っている。それらも悪くはない。だから熱心に聴いているのだ。でも新曲を旧曲が超えていないのだということを、本人やスタッフから宣言されたようで、なにか心の奥でしっくりと来ないのである。

 彼女にとってのピークとは何なのか。それはインディー盤で見せた輝きのことだったのか。そういうことは実は良くある。インディーズでヒットを出すからビジネス規模が大きくなり、多くの人に聴いてもらえるチャンスが生まれるのである。ということは、その時期に最高楽曲を出してしまっていたとしても不思議ではない。それを恐れて最高楽曲(があればだが)を出し惜しみしていたら、インディーズでのヒットもなくてチャンスもつかめないかもしれないのだから、もどかしいばかりだ。だが、それを軽々と乗り越えて、次々と最高楽曲を更新していくようでなければ、成功の資格は無いということなのかもしれない。



 才能が結実するというのは、とても難しいことである。それはもちろん、才能というものがそもそもDNAのようにあらかじめ決まった未来を約束しているものなのか、それとも努力の過程で偶然の運をつかみ取る、そんなご褒美のようなものなのかは、いまだに僕には判らないことなのであるが。