Wednesday, May 29, 2013

家族単位主義

 昨日のニュースで「女性手帳の配布が見送られた」といっていた。まああのバッシングだったから当然だとは思うが、担当大臣の森まさこ氏が「最初から提言の中にはなかったんですよ。誤解です」としゃあしゃあと話していたのには呆れた。

 ま、それはともかく。

 人間世界にはいろいろな主義がある。民主主義、社会主義、共産主義、資本主義、その他いろいろだ。よく民主主義と社会主義が対立する主義だと言われているが、それはどうも違うと僕は思っている。それぞれの主義がそれぞれ勝手なことを言っていて、それぞれが対立するポイントもあるし、重なるポイントもあるというだけのこと。で、アナタは何主義と聞かれることもないわけじゃないが、そういう時は答えに困る。本当にこうあるべきという理想なんて無いというのが僕の主義だからだ。

 物事には極端というものがあって、いろいろな主義が目指しているところはその極端の世界である。理想を突き詰めると、結局その理想に反するものを排除しなければならなくなる。まずは排除しやすいところから。そしてだんだん理想を極めていって、最後には純粋にその理想に当てはまっているもの以外はすべて排除しなければならなくなってしまう。僕はそういうのがとても怖いと思う。911のテロを起こしたのはイスラム原理主義の人たちだと言われているが、原理主義というのはある意味純化理想主義ともいうもので、それはどんな主義主張の中にも起こり得る。民主主義を極める為には純化していく必要があるし、社会主義だって極める為には純化していくことになる。その過程で粛正が行なわれる。権力を持った主義が純化を行なう時には粛正であり、権力を持たない主義が純化を行なうとテロになる。テロは良くない。権力による粛正はさらに良くない。だから「何主義ですか」と聞かれても、答えに躊躇してしまうのである。

 基本的には資本主義が素晴らしいと思う。人の欲求が世界を推進していく力になるからだ。すべての人が待遇の平等にという共産主義では人はエネルギーを発揮しないと思う。だから、資本主義でギラギラとした意識で働くということは決して否定されるべきではない。だが、それも程度問題だ。今の世の中はそれがかなり行き過ぎた社会だと感じている。だとすればこのまま資本主義礼賛で突き進むのは危険だと思う。何事もバランスで、社会のベクトルが過度の資本主義に向かっているなら、あえて共産主義や社会主義のことを肯定することも正しいと思うのだ。それは共産主義が目指す究極の状況を肯定するということではなく、その主義の中にもある良い部分を取り入れて、現在の資本主義の行き過ぎにブレーキをかけるということ。バランスを欠くとうまくいかない。多くの人たちの不満が爆発するだけである。政治や政党はその舵取りをすることが本質的に出来ない。だから選挙という仕組みの中で人々がどうバランスを取っていくのかということが求められる。民主主義とはそういうものなんじゃないかと思う。


 昔シムシティというゲームをやったとき、スタジアムを建設しないと市民から不満が沸き起こるというのがあった(エネルギーのために原発を建設しろというのもあった。当時はそれがすぐにメルトダウンして町の一部を放棄しなければいけなかったのだが、最近のシムシティではメルトダウンは起こらないらしい。あまりにリアルすぎてゲームといえどもシャレにならないだろうからなあ)。資本主義とは資本の偏りを生むものである。稼げる人が稼いで、搾取される人が搾取される。だがどんな人でも人間だ。搾取されているとわかれば怒りもするし、怒りが高まれば暴動も革命も起こる。だから優れた為政者はシムシティでいうスタジアム建設などをして人々を満足させようとする。その建設費だって搾取したお金なのだが。ゲームだとスタジアム建設をすればいいが、本当の政治はそう簡単ではない。様々な政策を駆使して国民に「僕らは幸せだ」と感じさせる。幸せである必要はない。幸せだと感じさせることが出来ればいいのだ。

 自民党の55年体制は、高度成長期という背景もあって、人々は概して満足な生活を送った。所得が増える。資産が増える。それによって豊かな暮らしが出来る。だがその時代は終わった。発展途上国や未発展国が高度成長をするわけであって、高度成長をして先進国になってしまったら、資源開発をするのか、さもなくば途上国の成長から搾取をする以外に道は無い。

 今の安倍政権は、55年体制が崩れて下野し、また復活して再度下野し、与党返り咲きは2度目である。この政権がやろうとしているのは資本主義である。資本主義は富が偏在することが不可避である。でもそれが行き過ぎると格差が極まり、経済的に下位にある人たちは食うにも困窮する。それを困窮させては社会は破綻する。だから富の再分配を行なうことが国家の大きな役割となってくる。

 資本主義は民主主義と同時に成立することもあるし、非民主的な独裁と同時に成立することもある。日本は一応民主主義国家だ。であれば、誰もが公平に生きる権利がある。公平というのは機会の公平だ。待遇の公平を求めたらそれは共産主義であり、資本主義と同時には成立しない。

 資本主義が民主主義国家の中で運営される以上は、生まれてきた人は基本的に同じ条件で競争することが可能でなければならない。だがこの国が現在行なっている政治はそれとは真逆に向かおうとしている。資本主義のルールによって稼いだ人は、その資産を守ろうとする。当然だ。だからそれを守りやすいルールにしようとする。家族は家族で共助すべきだという最近の流れはこれに基づくプロパガンダだと思う。教育が国家の資金で賄われず、親がすべて面倒を見るということになったとき、親の収入によって施される教育の質に差が生じる。持てる者はより高度な教育を選択することが出来るし、持てる者の子息同士のコネクションを作りやすくなる。それでも頑張って奨学金で学んだ者は、社会人となった時点で多額の借金を背負うことになる。一方持てる者の子息は当然マイナスを背負うこともなく、いろいろなチャレンジが可能になる。持てる者の家庭がその資産を守りやすくなる条件はこうやって整備されていく。

 生活保護の問題もそうだ。言われているように不正受給という問題は確かにあるだろう。だが、それをさせないようにルールを厳しくすることで、立ち直ることを許されない人間が出てくる。今回の生活保護法改正案では三親等の家族にまで扶養義務があるということになったそうだ。そうなると自分の三親等に生活困窮者がいたらその時点でマイナスを背負わなければならなくなってしまう。資本主義の中で持てない者が1人でもいると自由な活動に制限を受けることになる。それが機会の平等なのだろうか。

 家族の問題は家族が背負う。これは基本的には当然だと思う。だが、それを国家が言い出すと話が違ってくる。なぜそれを義務として国家に言われなければならないのか。国家は国民の幸せを実現する義務があるのではないか。家族が家族を思うのと同じように、国家も国民1人1人の幸せを考える義務があるのだ。しかも現在の国家を担っている人たちはなんなんだ。自民党などはほとんどが世襲である。特権階級を世襲によって維持しようとしてきた連中である。その人たちが自らの家族を手厚く守って、そして他人である生活困窮者には厳しく当たろうとする。そんな考えしか持てないのなら、国家の仕事をする資格などない。国家の重責を担うというのは、国民すべてを幸せにしていくために汗も血も流す覚悟が必要なのに、そんな考えは毛頭ないとしか感じられない。

 女性手帳の話もそうだ。30代後半になると妊娠出産は難しくなってくる。だからそのことを意識して若い頃から考えておくことは必要だと思う。だが、それを国家が言い出すから話が違ってくるのだ。国民がそれぞれの価値観を持って生きている。その中には結婚や出産についての考え方も当然入る。自分の人生設計をどうするのか。結婚するという生き方もあるし、生涯独身という生き方もある。どちらがいいのかはその人次第だ。民主主義はそれを担保しているはずで、国家がそこに介入してくるのは価値観の押し付けでもある。妊娠がわかった女性に母子手帳を交付するのとは根本的に意味が違う。

 結婚して子供を作るということも価値観によるし、子供が出来た時に両親としての男女がそこにどう関わっていくのかも価値観によってくる。僕自身は育児に積極的に参加することが楽しいし嬉しいし、だからそういう暮らしを実践している。だがそうではない人も沢山いて、そういう人の生き方を否定する権利も資格も僕にはありはしない。当然、国家にも国民1人1人の生き方考え方を肯定したり否定したりする資格など無い。

 なんか話がグダグダになった。そろそろ(無理矢理にでも)まとめたい。

 僕は今の政府がやろうとしていることは家族単位主義だと思っている。高度成長が終わり、国際社会の中で先進国だけが高い所得を維持することが出来なくなってくるのは自明だ。だとすると、国内での格差を容認し、持たざる者を固定化することによってしか、持てる者がその立場や資産を固定することは難しくなる。だから、国家がセーフティーネットをもって持たざる者を救うのではなく、持たざる者とその親族が持たざる状態から脱却出来ないようにすることで、持てる者がその立場を維持することになる。それはある意味仕方の無いことかもしれない。だがそれを「持ってる者が持ち続けて何が悪い」と開き直るのではなく、「家族愛は素晴らしい。家族は家族が助け支え合うべき」と言ったりすることによって実現されようとしているのがとても気持ち悪いのである。原発事故の時に電力会社が多数の議員を国会に送り込んでいたことが明白になった。それは自らの利益を護る為の戦略である。多くの世襲議員が子供を国会に送り込むのもそれと同じこと。国会議員の収入が魅力なのではなく、そうすることで日本のルールを自分たちに得な方向に持っていくためなのだろう。

 家族は大切だ。僕は家族を愛している。そのことは素晴らしいことだと思うし、誇りにさえ思う。だが、それは国家によって強制されていることではなく、自分が自分の矜持として哲学として持っている個人的な考えと行動に過ぎない。それをゴッチャにして家族単位主義が国家によって強制されるとき、日本が誇るべき民主主義はジワジワと崩れていくのだと僕は思う。

Sunday, May 26, 2013

友人

 土曜の夜、旧い友人と京都のビアガーデンで会った。

 親族の結婚式で京都に来たとのこと。今日は泊まって明日親戚周りなどして帰るとのこと。彼の上洛を僕は今日の昼過ぎに知った。facebookで彼が叡山電車に乗って比叡山に向かうという写真をアップしていたからだ。反射的に「僕の家のすぐ近くだ、叡山電車は僕の通勤の足だよ」とコメントをした。するとすぐさま彼からDMが。今日の夜共通の友人と会う予定にしているから、大島もどうですかと。

 旧い友人といいながらも、高校を卒業して以来30年の中で、彼とは1度しか会っていない。友人なのか、友人ではないのか。それを明確に言うのはとても難しいことだ。facebookはそういう旧い友人を再び結びつけている。否が応でもそうなる仕組みだ。高校の同級生、大学の同級生。芋蔓式に友人になる。中にはこいつ友達だっけというような同級生もいて、どんどん友人申請が来て、つながっていく。

 facebookに登録した人の行動パターンはいくつかに分類出来る。登録したけど一切見ていない人。登録して見ているけれど、投稿しない人。登録して、投稿はしないけど友人の投稿にイイねやコメントをする人。登録してバンバン投稿する人。高校の同級生は50人くらいがfacebookでつながっているけれども、投稿をきちんとしているのはそのうち10人前後だと思われる。残りは見てもいないし、見てても何も反応してくれない。僕のように投稿する人だけが舞台の登場人物であり、反応しない人は暗い観客席を埋めているだけだ。

 今日会った旧友は、どちらかというと投稿をするパターン。だから僕も彼とはこの30年間で1度しか会っていないのに、彼のことはよく知っている気になっている。おそらく僕のことを良く知っている気になっている旧友も多いのだろう。まあそれはいい。人それぞれだし、どういう関わり方をするというのに優劣などないのだ。

 2年前に京都に来た時、僕ら夫婦はこの地に友人などなく、いわば孤立無援の場所で生活をリスタートさせた。でも、それが特別寂しいとかいう気分にはならなかった。それはSNSの力が大きかったと思う。東京にいてもそんなに友人と会ったりはしていなかった。それでもSNS上のやり取りで、彼らの行動についてもある程度知っているような気になったし、住む距離が離れたところで状況はまったく変わらなかったのだ。

 しかし面白いもので、京都にいると滅多に会えない相手と思ってくれるのか、東京にいた頃よりも友人に会う機会は増えている。わざわざ訪ねてきてくれるのだ。面白いと言ったらバチが当たるな。嬉しいことだ。

 7月には大学時代の友人が3人訪ねてきてくれる。大人の修学旅行と題した企画に乗ってくれて、わざわざ京都に旅しにきてくれるのだ。みんなで京都観光をする予定。そのうち1人は実に22年ぶりの再会である。それは友人なのか?明確なことを言える自信はまったく無いが、それは当然友人だ。確実に友人だ。友人でもない人がわざわざ交通費を使って会いに来てくれるはずがないじゃないか。

 その時にどこを巡ろうか。今から策を思いめぐらせている。一応希望は聞いた。それをただ実現するプランがいいのか。それとも希望で挙った場所はすべてパスして、あっと驚く京都体験をしてもらうのがいいのか。まあ、僕に驚く京都体験のプランを作ることが出来るのかどうかはとりあえず置いといて…。

 そういうことを考えることが実に楽しい。でも本当はプランだとかどこに行くとかではなくて、旧い知己と会うひと時が楽しいんだろうと思う。僕ら4人の記憶には、どこに行ったではなくて、誰と一緒に時を過ごしたかだけが残るのだろうと思う。

 今日会った高校時代の友人と話していて、facebookでの人間関係についても意見を交わした。同級生は450人いて、そのすべてと知り合いではない。顔も名前も思い出さない相手もいるし、名前は知ってるけど当時でさえ話したこともない相手もいる。そういう相手が僕のことをどう思っているのだろうか。もしかしたら僕だけが知っていて、そいつは僕のことを「誰?」という認識でしかないのではないか。だとしたらフレンド申請をした自分が完全にピエロである。ましてやそいつが「誰?」と思っている僕のことを無碍にするのもどうかというだけの理由で申請を受理したら、ピエロ以下である。

 今日の出会いについても、その友人は僕との距離感をはかりかねていたらしい。僕が京都にいることは知っていて、でもだからといって気軽に呼びつけるほどの相手ではないのではないかと思っていたらしい。だが、呼びつけなくてもいいや、会わなくたって別に構わないということではなかったらしいのだ。だから今日の彼の投稿に対して僕がコメントを寄せたのを見て、これは呼ぶしかないと決めてDMを送ってきてくれたのだと。こういうのが結構嬉しい。再会する時にお互いの温度がどのくらい近いのかということは非常に重要なことだと思う。仲が良い人同士でも、そのテンションが微妙にズレていることがあって、そういう中で会ったりするとお互いにちょっとずつストレスを溜め込むことになる。だがそのテンションがほぼ同じであれば、ストレスが溜まることはほとんど無い。それはローテンション同士であってもいいのだ。なぜなら、ローテンション同士ならお互いの間合いを計り合いながら、ちょっとずつ互いの領域に入り込んでいくからである。

 今日の再会は、そんな感じだったと思う。昔話をしていく中でお互いの距離感をちょっとずつ詰めていくことが出来た。今夜のことがなければ、次の機会に彼と会うことがあってもスムーズに会話をはじめることは出来なかっただろう。でも、既に竹馬の友的な間柄になれた気がする。facebookは忌々しい部分も確かにある。でも、今回のような再会の導入になる可能性を秘めていることは確かだと思う。たとえその他多数の人との再会はかなわなかったとしても、この1例だけでも幸せな再会を果たすことが出来るのなら、効能としては十二分である。

Saturday, May 25, 2013

持てないということ

 土曜の朝から恵文社に来ている。京都市左京区一乗寺にある本屋だ。

 恵文社一乗寺店はユニークな書店として有名で、京都を旅する人もよく訪れる。四条河原町にあるのならついでに寄ればいい。だが一乗寺に来るのは旅行者にとってはけっこうしんどいはず。なのに土日になると人で溢れかえる。旅の文科系が全国から集う。別にここだけでしか買えない本があるわけではない。基本的にはどの書店でも取り寄せ可能な本ばかりだ。だが、その並びは他の書店には無いものがある。だからファンを日本中から呼び寄せる。

 これは、知人の本棚だと思えばいい。誰にも何人かの友人はいるだろう。その人の家に遊びに行ったとして、本棚を見たりすることもある。本棚には人柄が現れる。尊敬出来る本棚もあれば、普通だな以上の感想を持ち得ない本棚もある。そして、恵文社のような本棚を持っている友人がいたら、僕は間違いなく尊敬するだろうし、憧れる。

 紀伊國屋やジュンク堂のようなメガ書店には確かに本がたくさんある。真面目で拡張高い本もある。だが、それは金持ちの本棚だ。何でもあるというだけで、財力は感じるが知性を感じるわけではない。

 コンビニの棚は雑誌しか読まない友人の本棚だ。楽しいけど、憧れない。

 友人の家に遊びに行って、「この中から1冊好きなの持っていっていいよ」と言われたらどうだろうか。2冊はNG。1冊だ。悩むよそれ。どの本をチョイスするのかで自分というものを見抜かれるような気がするからだ。書店に行くというのはそういうことなんじゃないかと思う。無論お金を払ってのことだが、そこにある本から選んで持っていっていいよと言われているのだ。だから悩む。だから嬉しい。ドキドキする。それが書店の楽しみだ。

 出来ることならそんなことを言ってくれる友人の本棚は、コンビニ的なものではなくて、恵文社一乗寺店のような本棚であって欲しい。それはつまり、他の本屋ではなく恵文社に僕がいく理由そのものでもある。

 自分の本棚には好きなものしか並んでいない。だが書店の本棚には知らない世界が並んでいる。本が並んでいるというより、世界が並んでいるのだ。歳を重ね中年にもなり、知った風な顔をして暮らしている自分の思い上がった慢心を殴打してくれるような、知らない世界のオンパレード。お前なんかまだまだなんだぞと。

 だから、知らない本を読みたいと思う。そのことで、少しでも何かを知る自分に昇華していきたい。

 今日の恵文社で見た棚には、宗教のコーナーがあった。その隣では病と生き方のコーナーがあった。総合失調症の人たちが暮らす過疎の町での、病を治らないでくれ的な生き方について書いてある本もあった。面白い。そしてその隣のコーナーには数学と物理のコーナーが。面白い面白い。メガ書店ならきっと別のフロアに置いてある本が分け隔てなく隣のコーナーに置いてある。そういうのが、僕らの知識欲を掻き立ててくれる。

 自分の本棚を作っていくというのは、自分を作ることでもある。いつまでも完成することのない作業だ。もちろん書店の棚と同じ規模の棚を自宅に持つことは出来ない。だから厳選に厳選を重ねる必要がある。ミニチュアながらも、コンビニの雑誌コーナーのような棚ではなくて、恵文社のような本棚を持ちたい。その棚を知人にひけらかして憧れられたいというのではなく、自分が納得出来る自己満足に過ぎない欲求ではあるが、もしも誰かが訪ねてきたら一目置かれるような本棚を目指したい。知人が訪ねることはなくとも、息子はその本棚の前で成長していくだろうから、息子もそういう棚に馴染むことで育っていくような、物言わぬ教師のような、そんな棚を作りたいと思う。

 本棚を作るというのは編集作業に似ている。字数に限りがあるから不要な文字を削っていく。そこには人格がそのまま現れる。本棚にも限りがあって、無限に持つことは出来ないから選ばなければならない。1冊買えば1冊棚から退場してもらう。そのチョイスが編集だ。それは本棚の編集であり、同時に自分の人格を編集することでもあるだろう。

 電子書籍は確かに便利だろうけれど、お金さえあれば何冊でもそのクラウド空間に押し込めることが出来る。重さもなければかさばりもしない。それは編集ではない。リアルの本棚を前にして、それ以上は持てないという制限が、自分を鍛えてくれるような気がする。だから僕は紙の本が好きだ。重いしかさばる。不便だが、だからいいのだ。

 そうして今日も僕は吸い寄せられるように恵文社一乗寺店にやってきた。普段は会社帰りに10数分程度の立ち寄りしか出来ない。しかし今日は朝から奥さんと息子が用事で出かけている。僕は2人を目的地に送っていき、迎えにいくまでの間をここで過ごせる。いつもとは違う時間の流れで恵文社の本棚と向かい合った。もちろん全部買うことは出来ない。どの本が自分の本棚に並ぶのだろうかとワクワクしながら、本をめくっては元の棚にスーッと戻す。そんな作業を楽しみながら、飽きることなく繰り返している。



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Friday, May 24, 2013

アベノミクスとは何?

 まず最初に断っておくが、僕は経済の専門家ではない。と同時に株式投資もやっていない。そういう人間の戯れ言と思ってもらえれば幸いだ。

 今日5月23日、日本の株価は大きく下落した。リーマンショックの時よりも大きな下げ幅だったという。狼狽えた人も多かったことだろう。アベノミクスブームで慌てて株買ったと思ったらこれだ。気持ちが消沈するのも無理は無い。今回の株価上昇は、アベノミクスによるものだと言われている。具体的には日銀の金融緩和によって生まれた円安などによって輸出企業などの企業決算も良くなり、メディアもアベノミクスを礼賛した。海外投資家もこの気を逃さず株購入に走り、株価が上がってきたので日本の個人投資家たちも我れ先にと証券会社に群がった。

 では、実体経済は株価ほどの中身を持ち得たのだろうか。それは違う。もちろん株価が上がることで業績は回復しているだろうが、為替や株価上昇による資産増加などによるのがほとんどで、実際の販売数などはこれからだし、そのこれからを担うような有力製品が出て来ているという話題は寡聞にして聞かない。今回の株価上昇をバブルだという人もいる。僕もその説に一理あると思っている。何も良くなっていないからだ。しかし、そもそもの株価が低すぎたのだという説もなるほどとうなずける。だとしたら、今適正になっただけの話で、バブルというほどのことでもないという気もする。

 だが、僕は思うのだ。その株価が低すぎた時代に、円が高すぎた時代に、苦しい企業経営をどうやって乗り越えて来たのか。それは人件費調整である。雇用形態を正社員から派遣に。苦しい時は派遣を切って対応する。要するに個人の利益をカットすることによって支出を抑え、企業は破綻から逃れて来たのである。だとすれば、今こうやって株価も上がり、一時的な資金も手にしたのであれば、それはまず苦しい時代に助けてもらった派遣をはじめとするリストラ元社員に還元すべきなのではないだろうか。だがそれはしない。それどころか限定正社員という新たな言葉も飛び出しつつあるし、正社員の首切りを合法化する動きまで出て来ている。企業が生きるためにはどこまでも労働者を劣悪な待遇に押し出そうとしている。それが現在の安倍政権の取っている道だ。

 アベノミクスの話に戻るが、そもそもは2%のインフレターゲットを実現するというのがアベノミクスの出発点だったはずで、そこには景気が良くなった結果個人所得も上げていこうということが言われていた。だが、物価はどんどん上がりつつあるものの、個人所得は上がらない。ローソンなど一部の企業が賃上げを発表しているが、正社員の給与が上がっても、バイトの時給が上がったという話では全然ない。そこが上がらなければボリューム感は出てこない。バイトなんて正社員に較べたらお気楽なものだろうと言う人もいるようだが、生活の苦しさはバイトの方が切実だし、物価上昇は正社員だろうとバイトだろうと分け隔てなくやってくる。

 ましてや正社員比率が下がり、派遣労働者が増え、さらには正社員から限定正社員という立場になる人が出て来て、正社員の首さえも切れるようになっていけば、正社員の1人あたり給与が上がったとしても、企業の人件費は相対的に下がる。それは即ち、個人所得の2%増加ということとは真逆の方向に向かうということに他ならない。

 20年前のバブルの時は、本当に仕事が増えた。だから企業はとにかく人を確保する必要があり、それが人件費の高騰を呼んだ。就職活動も超売り手市場だった。だが、今はIT技術の発達によって仕事は超効率化している。仕事量はそれほど増えてはいない。大学新卒の就職活動も依然として厳しいままだ。失業率も下がらず、生活保護件数はどんどん増えている。

 百簿譲って、いや千歩譲って、景気が良くなればいいんだとしよう。しかし、このままでは景気が良くなる前に株価維持の政策も破綻すると感じる。企業の新製品が素晴らしいとかでない限り、株価上昇はマネーゲームの要素による部分が高くなる。これが続くとどうなるのか。バブル崩壊なのか。明言するほど金融経済に詳しくはないが、日銀の金融緩和にも限界がある以上、更なる明るい要素があるとはどうしても思えないのだ。


 個人的には、アベノミクスとはパフォーマンスだと思っている。それは夏の参議院選挙と、その先に言われている憲法改正のための人気取りでもあると思う。だとしたら、それは一種のつなぎに過ぎない。いや何度も断るが、これは僕の妄想に過ぎないのであって、事実だと認定出来る自信も証拠も無い。だが、僕はそう思うのだ。今アベノミクスブームでメディアも誰も安倍晋三のことを叩こうとはしない。ヤボだと思われるから。僕もヤボだとは思われたくない。それはそうだ。しかしこのまま突き進めばハーメルンの笛吹きに引きずられてどこに行くのかもわからないとは思う。だからこんな駄文を重ねたりする。

 国家は国民の生命と財産を守るというのが一応建前だと思う。ではどうしたらそれが守られるのだろうか。簡単に言えば椅子取りゲームである。日本には1億人いたとして、椅子は9000万脚しかない。解決方法は3つだ。あぶれる1000万人も座れるように9000万人の人に「譲り合って座ろう」と声をかける、これが1つ目。国家が頑張って椅子をあと1000万脚用意する。方法は自ら製造するか他国からぶんどってくるのか。これが2つ目。3つ目は、座れなかった1000万人を見捨てるという方法だ。

 日銀による金融緩和は、自ら椅子を作るやり方だと思う。多くの金を市場に流すことで苦しかった人にもお金を行き届かせようとする試み。それがうまくいくのならこんなに良いことはない。だがもしもバブルになったら椅子は壊れる。木の椅子だと思って座って安心した人がある日突然座っていた椅子が破裂する。思い切り転倒するハメになる。

 企業に「給与を上げろ。それが無理ならボーナスを上げろ」と要求したというが、それはある意味譲り合いを促すやり方だろう。だが私企業の中での給与アップは国民全体の所得アップにはつながらない。規模としては更なる施策が必要になるはずだ。

 エネルギー資源を持たない日本がエネルギーを安く供給するためには、原子力が有効だったはず。しかしそれはあの事故で危うくなった。安全性が担保されない状態のエネルギーは賭けであり、結果的に安価なエネルギーとは言えない。シェールガスなどの国内生産が可能になれば、椅子をどこかから持ってくることにもつながるだろう。しかしアベノミクスが有効な間にそれが実現するというのはかなり難しい。つい先日安倍総理が働きかけたことでアメリカがシェールガスの日本向け輸出を認可した。とりあえず朗報ではあると思う。だがこれによって国内生産への取り組みは弱まってくるだろうと思われる。

 最近言われているのは、この国がセーフティーネットを次々と薄くしようとしているということだ。生活保護の申請をすると三親等までの親族が資産の調査をされることになるという生活保護法の改正案が提出された。これが通ったら生活保護など申請出来ようか。生活保護を必要とする人たちが親族からも疎遠になっていることは想像に難くない。所在を隠して暮らしている人も多かろう。だが、申請すれば一気に存在が知られてしまう。ましてや経済的に迷惑をかけることになる。だったら申請するのは止めておこうとなる。場合によっては自殺に至ることもあるだろう。地方自治体の財政が苦しいのはよく判る。制度を悪用している不正受給者もいるだろう。だが、それによって本来受けるべき人が受けられなくなるというのはいかがなものか。憲法は国民の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保証している。セーフティーネットを薄くするというのはこの憲法の精神に反していると思う。お金の事情が精神を蝕んでいくのだとしたら、不正受給をする者と、セーフティーネットを薄くしていこうとする国家や自治体と、気持ちの卑しさに於いてはたいして変わりが無いのではないかとさえ思う。

 労働環境をどんどん劣悪にしていく状況も同様だ。正社員が大半だった時代から、派遣にフリーターが一般化した現代。さらには限定正社員などというものも生まれ、サービス残業は当たり前になり、ブラック企業への罰則はほとんど無い。それを認めているこの国の一員として恥ずかしくさえ思う。

 アベノミクスを礼賛する人は、その裏(というか表に見えるのだが)で進んでいる社会の変革をどうとらえているのだろうか。とりあえず自分には関係ないし儲けられるうちに儲けておけばそれでいいと思っているのだろうか。憲法が改正(改悪)されてもおかまい無しなのだろうか。この刹那的な雰囲気に満ちた状況がアベノミクスなのだとしたら、僕はその中で呼吸することさえ苦しい気分だ。


Thursday, May 23, 2013

お父さん怪獣

 ほとんど毎日、夜8時半から9時くらいになると我が家には怪獣が現れる。お父さん怪獣だ。

 生後11ヶ月の息子を奥さん(お母さん)が寝かせ付けるのだが、疲れていない日にはなかなか寝ない。暗くした部屋ではいはいして動き回り、壁などにつかまり立ちをする。そして壁を叩き始める。夜のマンションで壁を叩くのはさすがにまずい。先日となりの家の人と廊下で会った時、いつもうるさくてすみませんと謝ったところ「いやいや、泣くのは赤ちゃんの仕事ですからね」と笑って答えてくれた。そんな優しい隣人に恵まれているとは思うが、壁を叩くのはまずい。泣き声を口を塞いで止めることは出来ないが、壁を叩くのは止めさせられる。壁から離せば済むことだ。

 それで、お母さんが息子を壁から引きはがす。でもお母さんのことを舐めているのか、優しいからか、笑顔でハッスルを続ける。そこで、お父さん怪獣が登場だ。別にハッスルにハッスルで返すのではない。暴れて対決するのでもない。ただ、息子の動きを封じるだけ。僕が横になって、息子とお母さん(奥さん)の間に壁を作る。息子は僕を乗り越えようとするけれども僕が両手を使って巧みにそれを封じる。思うようにならなくて息子泣く。結構激しく泣く。でも乗り越えさせず、息子は泣き疲れて徐々に眠くなる。最近ではそのパターンになったらもう逃げられないと判っているのか、すぐに泣く。ひとしきり泣いたところでお母さん(奥さん)が両手で抱え上げて息子の布団の上に寝かせ付ける。一丁上がりだ。

 要するに毎晩のように動きを封じられ、泣かされるお父さん怪獣なのに、朝起きたら笑いながら僕の方にやってくる。仕事から帰宅すると気配で判るらしく、満面の笑顔で迎えてくれる。子供というのは本当にありがたい。自分が必要とされているということを確実に実感させてくれる。しかもだ、お母さん(奥さん)と一緒に暗い部屋で寝かされそうになっている時にさえ、息子はお父さんを呼びにやってくる。寝室と居間を遮っているふすまをドンドンと叩き始める。その結果お父さん怪獣がやってきて、いつものように動きを封じられて泣かされるということを知っている(多分)にもかかわらずだ。

 そんな息子を泣かすのは非常に心苦しい。でも、寝かせなければならないのだ。なんでも寝ている時に脳は発達するらしく、それも深夜になってからではなく夜の早い時間帯の睡眠に意味があるそうだ。別に脳の発達を最優先したいということでもないし、その説を信じきっているわけでもないけれど、積極的に逆らう意味もやはり無い。それに早く寝かせることで大人の時間も確保出来る。こうしてブログを書くことも出来るのだから、そりゃあ早く寝かせるに越したことはない。

 そういうわけで、お父さん怪獣は今日も息子との戦いに明け暮れる。現時点では連戦連勝負け無し。いつか負ける日が来るのだろうな。その時が楽しみのようであり、恐いようでもあり。育児は面白い。

Wednesday, May 22, 2013

寺町夷川

 僕の会社キラキラレコードがあるのが京都市中京区久遠院前町。しかし最後の町名でどの辺なのかをすぐにわかる人はそうそういないだろう。京都の地名はすごく複雑だ。ほんの数百m単位で町名は違ってくるし、すべて覚えるなんてことは普通の人には不可能だ。それに、久遠院前町と言いながらも付近に久遠院というお寺は無い。

 そこで登場するのが通り名だ。海外でいう所のストリートを基準にした住所表示。例えばロサンゼルスなどではウィルシャーやサンセットという通りが東西に走っている。南北にはラシエネガなどの通りがある。細かい番地はあるけれど、大体どの辺なのかということは東西の通りと南北の通りを伝えることで「ああ、あの辺りね」と見当をつける。京都も同じこと。縦横に走る通りの名前を言うことで場所の見当はつく。ロスよりもきちんとした碁盤状の町なので、非常にわかりやすい。普通の観光客だって三条や四条、五条という通りは知っている。それに河原町通や烏丸通というメインの縦の通りがわかれば、中心地のおおよそのことはつかめる。京都に来る前の僕だってそのくらいは知っていた。

 でも四条河原町などは観光やショッピングの場所。歩いていける距離ではあっても、自分のテリトリーという印象は無い。やはり自分の町は、寺町夷川近辺のことだ。

 寺町通は趣のある通り。御池通より北側で、河原町烏丸堀河などの大通りの間の細い道で、車道と歩道が分けられているのはおそらく寺町通くらいではないだろうか。その歩道も単にアスファルトを敷いているのではなくてちょっとした石畳的な感じになっている。ここは以前電車道だったらしく、今の大通りが拡幅される前の風情を残しているメイン通りなんじゃないかと勝手に思っている。この通りで一番有名なのはなんといっても一保堂本店。高さはないけどランドマークといってもいい。目立つ大きなのれんがかかっている。キラキラレコードを訪ねてくる人には一保堂本店を目印にと伝えている。タクシーで来るのなら運転手に言えばほぼ確実にわかってもらえる。僕も観光客としてここをわざわざ訪れたことがあるくらいだ。

 アカデミックなものが好きな人には三月書房がある。行ってみると普通の古本屋(失礼。早稲田の古書街に長いこといたもので)だが、歴史もあるし、こだわりは相当なものらしい。その他では村上開新堂という古いお菓子屋さんも歴史を感じさせる。外から見ても中が暗くて営業しているのかどうかさえ疑問になってくるが、キッチリと営業されているし、名物ロシアケーキもなかなかおいしい普通の洋菓子だ。

 一保堂と並んで目立っているのが進々堂。京都市内にたくさん店舗を持つチェーン店なのだが、パン工場がすぐ近くにあってここが本店。焼きたてを買うことが容易だし、併設のカフェもあるのでなんならそこでパンを食べることだって出来る。キラキラレコードの3軒隣で非常に便利。進々堂以外にもLIBERTEというおしゃれパン屋もある。京都のこじゃれたパンといえばプチメックが1番に浮かぶが、LIBERTEも負けてはいない。あまり見たことの無いようなパンが狭い店内にこれでもかと並んでいる。2階にイートインがあるらしいのだが、階段を上がらないと様子がわからないので、こじゃれ雰囲気に負けるんじゃないかとまだ上がる勇気が持てないでいる。

 二条通をちょっと下がったあたりの2階にはかつて北欧食器を扱うMAISEMAというお店があった。かなり人気だったからなのか、今は麩屋町の広い路面店に移転しているが、寺町の2階にあった頃の雑然とした宝石箱のような雰囲気が好きだった。ちょっと動けば背後の棚にぶつかるんじゃないかというような狭い店内に積み上げられるように置いてあった食器群。掘り出し物という言葉はここのためにあると思ったくらいだった。

 他にも面白そうなお店はたくさんある。錫製品を扱う清課堂、古い版を使った印刷物などを扱っている芸艸堂、奈良墨の専門店の古梅園、和紙の専門店紙司柿本などなど、京都っぽい店がたくさん並んでいる。そうかと思うと普通の金物屋さんがあったり、自動車整備屋さんがあったりと、日常感覚も普通に混ざっている。さらには意外にもこの通りの中に中古レコード屋が3軒もある。モダンな文化の香りもプンプンさせている通りなのだ。そのせいなのか、キラキラレコードにも中古レコードを漁りにくる人が月に複数やってくる。ちょっと困るが、なんとなく楽しかったりもする。

 会社の近所には下御霊神社がある。世界遺産の神社と較べるとちっぽけな神社だが、僕は毎日出社前に立ち寄って拝んでいる。何か特にお願いしたいことがあるわけじゃないけれども、なんとなくのしあわせを祈ったり、日々の感謝をしてみたり。それを毎日することで、この街にもちょっとだけ馴染んでいけるような気もしているのだ。

 寺町から少し離れると、革製品を手作りする工房のrimがある。欲しくても年に数回のオーダー受付は瞬殺だし、運良く注文出来ても数ヶ月待ちという大人気の手作り革バックが有名。東京にいる頃から僕の名刺入れはここの製品だった。おしゃれカフェ「Cafe Bibliotic Hello! 」も、ストイックな読書カフェ「月と六ペンス」も音楽和カフェ「HiFi Cafe」も、隠れ家カフェ(隠れ家なので名前はいいません!)も近くにある。御池を下れば有名なスマート珈琲だってある。お茶がしたければお店に困ることは無い。

 とかなんとか言いながら、僕などはまだまだ京都の新参者に過ぎない。日常行き来するエリア以外のことはほとんど知らない。寺町通よりもステキな場所はたくさんあるんだろうと思う。だがそういう所をすべて知らなくても、自分の通りと思える場所があって、そこが好きだと思えるだけで幸せなことだと思う。京都の人は他所者に冷たいとよく聞くが、僕はそんなことを感じたことは一度もない。特別に手を広げて迎え入れてくれているわけではないけれども、けっして他人行儀なんかではなくて、程よい距離感というイメージ。僕のようなひねくれ者は殊更にかまわれるとかえって居心地が悪くなる。だからこの程よい距離感を保ってもらえているのが一番いいのかもしれない。


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Tuesday, May 21, 2013

弱い者がさらに弱い者を叩く

 僕には絶交している友人がいる。そういうとちょっと違うかもしれない。正確には小学校時代にとても仲が良く、お互いの家に行き来を繰り返したが、その後なにかでケンカ。絶交。中学卒業までの約5年間、同じ場所に毎日通いながらも1度も口をきかなかった友人がいるということ。

 当然卒業後は会うこともなく、そのまま絶交状態。でも中学を卒業してから1度も会っていない当時の同級生なんてたくさんいるし、そいつらと今も友人かといわれれば甚だ疑問だし、だったら、絶交状態が今も続いているという認識もやはり現実的ではないような気がする。彼ともし今ばったり会ったら、懐かしいなと話が出来るだろうか。それとも空白の33年を経てまっさらな状態で新たな友人関係の緒に就けるだろうか。無意味な空想ではあるが、おそらく、その両方とも無理だろう。33年を経て多くの友人の名前も顔も忘れてしまった。だがそいつのことは覚えている。絶交をしたという経験は余程強いのか。忘れることはまず無理なんだろう。

 でも、なんで絶交することになったのか、その理由はまったく覚えていない。だったら旧交を復活させろよといわれるかもしれないが、それはもう無理なんだ。これが国交に関わることなのであれば、私心を殺して国益のために握手もするだろう。だが、これは単なる子供時代の諍いなのだ。自分の古い傷跡なんだ。それを何のために我慢してにこやかにしなければいけないのだ。その理由はない。そんなことをするならケンカもしなかった音信不通の同級生たちとの再会に心を尽くすよ。私心を殺すのはそれが全部終わった後に考えれば済むことだ。たとえ絶交状態になった理由が既に僕の記憶の中に存在さえしていないのだとしてもだ。

 ここ数日話題になっている乙武氏のイタリアンレストラン入店拒否事件について、乙武氏がブログで説明をしている。なるほど、当時の状況がよく判る。ツイートで店名を公表したことへの後悔も書いてある。もちろんこれは一方の当事者からの見解であって、必ずしも公正公平ではないと思う。そもそも今回の件では一方が加害者で一方が被害者という体になってしまっているから、その構図が変わらない限り公平なジャッジなど不可能だ。

 まあ僕はここで乙武氏を非難するつもりも擁護するつもりも無いし、レストランを非難するつもりも擁護するつもりも無い。ただ、レストランの人がどのくらい公共性をもって障害者も楽しめる空間を作ることに勤めなければならないのかという問題は一概に博愛の問題だけでは語れないと思う。お金のある企業がやっているレストランならばバリアフリーのエレベーターなどの設備も完備したビルに入るだろう。だがカツカツでやっているレストランは「味で勝負」ということでやっているのである。今回のビルの写真も出回っていたが、それを見ると入り口は狭いし階段だ。そういうビルは条件が悪いのできっと家賃や保証金も安いのだろう。そういう所を削ってオープンさせなければ、売上げの大半は賃料に持っていかれてしまう。いくら働いてもお金は残らないということになってしまう。もちろんそこで評判を呼び、2店目は少し条件のいい場所に出していけばいい。それがサクセスストーリーだ。でも最初はどうしても条件の悪い所で始めなければならない。スタッフの人件費もそうだ。たくさん雇って余裕で回せるのはごく一部のレストランだと思う。みんなそんなに余裕などないはずだ。

 どんなお店も回転率というものを気にする。売れていなくて空席がある時はいいけれど、ランチタイムなどピーク時には少しでも回転させてたくさんのお客さんに提供したい。喫茶店で長々と座って本を読んでいるとお店に取っては大打撃だ。スタバが最近パソコンの使用制限を打ち出したりしているのもそのためだ。そういう時にお店側に余裕が無くなるのはある意味仕方のないことかもしれないと思う。

 かといって、障害者を差別して良いとは思わない。差別というか、どこまでケア出来るのかということなんだろう。それはやはり受け手の余裕によるところが大きいのかもしれない。バリアフリーの設備にするのにもお金はかかる。企業理念としてすべての人に満足のサービスを心がけたいというのは誰しもあると思う。しかしそれをする余裕がすべての人にあるとは限らないし、それを求めるのは酷というものだ。

 障害者は自分の希望で障害を持ったわけではない。そして今の時点で障害を持たない人だって、明日何かの事故によって障害を負うことも十分にありうる。そういう意味で両者(こういう分け方も本来いいことでは無いとは思うが)は同じ社会の一員同士として助け合いながら互いに幸福を追求していくのが理想だと思う。差別などもってのほかだし、健常者にとって当たり前のこと、例えば階段を上るとか、走るとか、なんかそういったことを当たり前に要求するのは配慮に欠けていると言わざるを得ない。

 では、大企業経営のレストランと個人経営のレストランに対して、同じことを当たり前に要求することは配慮に欠けているとは言えないのだろうか。そういった意味では、乙武氏と件のレストランは同じなのではないかという気がするのだ。

 こういうことを思うようになったのは、奥さんが妊娠をしてからだ。明らかにおなかの大きな女性なら、周囲から見ても妊娠しているのだということは判る。だが、妊娠5ヶ月くらいまではそんなにおなかは大きくならない。女性もこれ見よがしに妊娠が判るファッションをするのは稀で、出来るだけ普通に見えるようなファッションをしようとする。そもそもそれまでの服が着られるのだから、マタニティウェアが必要になるまでは持っている服を着こなすのは当然だろう。

 だが、5ヶ月を過ぎておなかが大きくなり始めるころというのはいわゆる安定期に入った頃だ。もちろんその頃に体調が不安定になることもある(ウチはそうだった)ので一概には言えないが、安定期に入ると身体は楽になるそうだ。問題は安定期に入る前で、つわりが酷いのはその頃。つまり、おなかが大きくない頃にこそ、周囲がいたわる必要がある。でも周囲から見えないのだからどうやっていたわればいいのだ。そのひとつの答えが、マタニティチャームだ。妊娠をするとストラップのようなものを貰えたりする。雑誌の付録にも付いてくる。それをバッグなどにつけている女性は結構多い。それをつけることで、自分は妊婦なのだというサインを出しているのである。でも、自分の奥さんが妊娠するまではそんなものに気付くことはなかった。気持ちとしては妊婦さんはいたわるべきだと判っている。だからおなかが大きければ当然席も譲るだろう。だが、おなかの大きくない人に対しては気付いていないのだから当然いたわれない。ダメ人間ではないつもりでいても、結果的にはダメ人間と同じだったのだ、僕も。

 大事なのは、気付きである。それは知識と想像力によって生まれるもの。配慮もクソも、気付きが無ければ絶対に生まれない。僕などは当然気付きの少ないダメ人間である。今回のレストランの人も気付きは少なかったのだろうし、そういう意味では乙武氏にだって気付きが足りていたとは言えないように思う。もちろんだからといって両者が完璧ではないという理由で非難されなければならない理由はまったく無い。みんな自分のことで頭がいっぱいで、余裕などある人はほとんどいないと言えるのだから。誰も加害者でもなければ、被害者でもないと、僕は思う。

 ネットの世界ではわかりやすく乙武氏が被害者でレストランが加害者という構図が出来上がっている。そのステレオタイプな構図が、実は差別そのものなんじゃないかという気がしている。そして被害者擁護という立ち位置でレストランが攻撃される。だが、その瞬間レストランは被害を受ける。その攻撃とは、レストランが乙武氏に対して行なってしまったことと大差ない仕打ちではないのか。善意でもって他者を攻撃する。その無神経さが、差別というものの出発点なのではないかと思う。

 弱い者がさらに弱い者を叩くというのは、今に始まったことじゃないし、それが悲劇を生んでいるということも僕らは認識すべきだと思う。


   今回の乙武氏のブログでは、入店出来なかったことに怒っているわけではないし、乙武氏側の問題(非難されるべきということではなくて、偶然の悪条件という意味で)も重なっていたということだった。それだけなら店名ツイートはしなかったそうだ。それなのにツイートしたのは、彼自身の未熟さと、「相手を小馬鹿にしたような、見下したような、あの態度」に憤り腹を立てたからだそうだ。そういう気持ちはすごくわかる。いやもちろん僕自身は障害者ではないので、小馬鹿にした態度への怒りがわかるということではない。そうではなくて、ちょっとした気分で人は決定的に傷つくのだということである。

 僕が33年前に絶交した友人との些細なことも、きっとそういうちょっとした気分なんだろうと思う。それがどういうことだったのかはもうすっかり忘れてしまっているけれど、今も鮮明に思い出せるそいつの顔には、気分を害された時のいやな思い出とか雰囲気が染み付いている。具体的な原因は忘れても、気持ちの凹みはイヤな感覚として染み付いてしまう。それが絶交を解くことの出来ない最大で唯一の理由なんだろうと思う。

 乙武氏に限らず、無名な障害者の人たちは、そういうイヤな感覚を植え付けられることが多いのだろうと想像する。僕だって意図せずに障害者を傷つけたことがまったく無いとは言い切れない。このブログだって読んでイヤな気持ちを持った人が出ないとも言い切れない。それは僕自身に気付きが足りないせいであって、だとすれば謝る以外に無いわけだが、だとしても完璧な人間になることなどほど遠く、また明日から、いや今日からもまたイヤな思いをさせてしまうことを繰り返してしまうのかもしれないと暗鬱になってくる。

 だから、ちょっとずつ気付いていきたいと思う。ましてや弱い者がさらに弱い者を叩くようなことで自らの溜飲を下げるような行為は慎みたいと、自分を戒めるような気持ちで思う。

Sunday, May 19, 2013

イクメンウィークエンド

 これは個人的な記録です。こういうことをした日もあると覚えておきたいので、書いているだけです。

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 既に書いたが、昨日土曜日は息子(生後10ヶ月と29日)と一緒に朝からお出かけ。動物園に行った。その後美術館にゴッホ展を観に行く。時間的に微妙だったので美術館のロビー片隅でランチのパンと野菜ジュースを与える。外はけっこう暑かったので、美術館には申し訳ないと思ったが屋内で与える。おなかが満たされた息子を抱え(ベビーカーは混雑する場内には入場不可。クロークに預かっていただく)て絵を観て回る。息子意外とゴッホの絵をガン見してた。

 疲れたのだろう、その後のベビーカーで早くも熟睡。陽射しを避けようと近くのカフェに入ってランチを。比較的優雅な時間だ。そこで約1時間半ほど寝てた息子が起き、カフェの人にお願いしてミルク用のお湯をいただく。カフェの人とても優しく、冷ますために氷入りのボウルまで貸してくれる。京都の人たちはみんな優しい。

 近くのお寺で仕事をしているという友人に会いに二人で石畳を登る。結構大変。石畳でベビーカーを押しているとあまりガタガタするので、息子が可哀想になり途中から抱きかかえて歩く。ベビーカーも荷物も抱えて歩く。友人と久々の再会をした後、最寄りのバス停まで約1km歩き、バスに乗る。帰宅したのが2時半過ぎ。

 帰宅してから夕方まで息子に絵本を読んでやり、シャワーを浴びさせ、夕飯を食べさせ(作るのは奥さん)、僕らも夕飯を食べ、寝かしつけたのが8時半頃。息子は1日の大冒険で疲れたのか朝までほとんど起きなかった。


 今日、日曜は朝7時から朝ご飯を食べさせ、ちょっとゆっくりてから10時に出発。ベビー用品の買い出し。12時30くらいから息子が泣き出すが、車移動中なのでなだめながら帰宅。帰宅して昼ご飯を食べさせ、僕ら両親も遅めの昼食。予定では息子昼寝のはずなのに興奮してるのか車の中で寝たからなのか全然寝ず。

 奥さんは東京から旧友が京都に来ているとのことで1人外出。家には僕と息子だけ。夕方までの約3時間ほど、遊び、大便をしたのでオムツを2度替え、眠そうにしたので寝かせ付け、録画してあった映画を観る。みている途中で泣くのでビデオを止めてあやして、また寝たので再び映画。そのうちに奥さんから旧友との再会の状況を伝える電話があり、帰宅前に息子が腹を空かして泣くだろうということが判明。なのでご飯を炊いて、みそ汁(息子の今の大好物)を作りかけた所で息子起き出し、近寄ってきて泣くので抱っこ紐に収納して料理を続ける。一段落した所でまた息子寝ているのでそうっと布団に下ろす。また寝る。息子はすぐに寝返りをするから、気がつくとふとんからはみ出している。そうこうするうちにご飯炊ける。かき混ぜて息子用のプレートに盛りつけ、冷ます。みそ汁も小さな器についで冷ます。ご飯の上にかける予定の納豆を包丁で刻む。その頃に奥さん帰宅。息子の晩ご飯も出来たので寝ている所を起こす。ほっぺたに畳の跡。寝起きというのに納豆ご飯やみそ汁にパクつく。生命力というのはすごいものだと感心する。

 息子の晩ご飯が終了し、僕ら両親も食べ終えた頃に、義妹が大阪からやってくる。奥さんと義妹が息子をあやして、僕は風呂を入れる。お湯がたまったところで息子と一緒に入浴。上がった後の着替えを済ませ、小1時間ほどあそんでやり、寝かせ付け。彼の生後11ヶ月目の1日が終了した。

 
 父親として普段はなかなか出来ないことを、このところ週末には進んでやろうとしている。でもお母さんの技にはかなわない。多分不器用だなと息子は感じているだろう。それでもうちの父子関係はそういうものだ。不器用なりに頑張っていると感じてくれたんじゃないかと信じたい。

 奥さんにいわせると、僕と2人だけで出かけて帰った後は息子がちょっとだけ成長しているように見えるということだ。母子で行くお出かけとはなんとなく何かが違うんだろう。それが何らかの経験になり、成長につながっているのだとしたらこんなに嬉しいことはない。彼の記憶の奥底に、こんな週末の出来事が沈殿していってくれれば、それだけで肉体的な疲労の甲斐があると、僕は思う。

Saturday, May 18, 2013

京都の生き物

 明日で11ヶ月になる息子と一緒に京都市動物園に行った。

 3日前の5月15日にキリンの赤ちゃんが生まれ、16日から公開していたのだ。先々週の週末から、土日のどちらかを父と息子だけの男2人1日旅という感じで出かけることにしている。最初は四条河原町まで。先週は下鴨神社まで。今日はどうしようと思っていたらこのニュース。それは行かねばということになる。

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 キリンの赤ちゃん、予想以上に小さくて可愛かった。身長は180cmなのだと。じゃあ僕の方が背が高いじゃないか。この3日でどれだけ伸びたかはわからないけれど。で、生まれてすぐに立つ。一方僕の息子は明日19日で11ヶ月なのだが、まだ自分で立つことは出来ない。野生の動物ってすごいよなあと思った。まあジッとしていたら生きていけないんだもの。動物園のキリンは飼育員たちに大切に育てられるのだから立たないことが生命の危機に直結するわけじゃないだろうけれども、それでも立って屋内の展示室で悠々と歩いたり葉っぱを食ったりしていた。

 それにしてもキリンの赤ちゃんという目玉商品があるにもかかわらず、京都市動物園は空いていた。いつでもある神社仏閣にはそれなりの観光客が集まっているのだろうが、動物園には地元のパパママとベビーカーだけが集まっていた。確かに京都に旅行して動物園には行かないのかもしれない。東京都民だった頃の僕も動物園には旅行で来たことはそういえば無かった。この夏の京都観光の旬なスポットといっていいくらいの価値はあると思う。すくなくとも京都水族館よりはみる価値あるんじゃないかと勝手に思うのだが、きっとこのままの混み具合で夏は過ぎていくのだろうなあ。



 先週息子と下鴨神社に行った時、神社から糺の森を抜けて出町柳の鴨川デルタに足を伸ばした。高野川と賀茂川が合流して鴨川になるところが公園になっていて、そこが鴨川デルタと呼ばれている。

 その公園で、僕はパンを食べていた。すると2口くらいかじった所で手に衝撃。トンビだ。そういえばこの場所は上空をいつもトンビが舞っていて、公園にいる人の食べ物を狙っているという。話には聞いていたし、お弁当を食べている人に突進している姿も見たことがあったけど、まさか自分が狙われるとは思ってなかった。で、そのテクニックがすごい。僕の手の中にあったのはせいぜい5cm四方くらいの大きさのパンで、上空からサーッとそれをめがけて急降下し、飛びながら足でつかむのである。見事にヒット。しかも僕の手には一切触れていないのだから恐れ入る。さすがはハンターだなと感心した。まさにワイルドライフ。せっかくのパンが食べられなくなって昼ご飯の量も半減したわけだが、それでも滅多に出来ない良い経験が出来たと思う。



 一昨日の朝、いつものように鴨川の土手を歩いて通勤していたら、鴨の親子を発見した。

kogamo.JPG

 このところ温かくなり、鴨の親子をたくさん見かけるのだが、その朝の親子は鴨川に設置されている滝のような落差の端にいたのだ。この程度の落差なら親鴨にはなんてことはない。せいぜい1m程度の高さの落差。しかし小鴨には脅威の落差なのだろう。ほぼ全員が固まるように親鴨の側に佇んでいた。親鴨もここを自分だけが降りていいのかと、小鴨が溺れたりしないのかと心配そうにその落差を眺めていた。僕は仕事もあるので1分ほど眺めて過ぎ去ったが、鴨の親子はどうしたのだろうか。あのシーンで飛び降りなくとも、いつかは克服しなければならない。それが今なのか、数日後でいいのか。小鴨の成長度合いも1羽1羽違うだろうから、簡単に降りる小鴨もいれば、降りそこなって溺れる小鴨もいるのだろう。全員が無事に降りられるタイミングを計るのは、親鴨にとって簡単なことではないのかもしれない。



 京都は面白い町だ。いろんな動植物に触れられる。僕が幼少期を過ごした福岡市でも、大学生以来26年間暮らした東京都でも、こんなに動植物を意識したことはない。そこにはそんなにいないからだ。もしもこういう環境で育ったならば、もっと動物や植物の名前に詳しかっただろうと思って少し悔しい。息子にはいろいろな生き物に接してもらいたい。そのうちに動物図鑑や植物図鑑を買ってやろうと思う。それで散歩のたびに名前を教えてもらおう。もしかすると僕だってもう少し生き物に詳しくなれるかもしれない。

Friday, May 17, 2013

橋下舌禍問題

 橋下市長が絶体絶命だ。慰安婦問題についてかなり軽はずみなことを言って、集中砲火を浴びている。

 維新の存在や活動は正しい民主主義の成立にとって非常に忌々しいものだったので、これで維新(維新である。橋下ではない)が沈没すればいいと個人的には思っているが、だからといって問題を整理せずに闇雲に攻撃して良いとは思わない。今回の発言に対して様々な方面から様々な非難が飛び交っているのを見て、なんだかなあと思ったりしている。

 テレビが伝える映像がごく一部の切り取りであることは知っている。また海外での評価は翻訳を通じたニュアンスの変化を前提にしたものだということも知っている。だからどこまでが本意なのかも、僕自身がどこまで理解しているかも甚だ怪しいが、その怪しい理解の中で感じるのは、非難している多くの人の「橋下許し難い」という時の許せない理由というものが冷静な事実認定の下に行なわれているとは思いにくいということだ。

 僕が思ういくつかの問題点はこういうものだ。「戦闘中の兵士にとって慰安婦的な機能の存在は必要であるのか無いのか」「兵士の人間性を満たすために、慰安婦的立場の女性の人間性を否定してもいいのかダメなのか」「そもそも戦闘状況という非人間的な行為に兵士を追い込む戦争というものは必要なのか不要なのか」「慰安婦を軍が強制的に徴用するのはNGでも、民間からの自由意志で手を挙げている女性に対して対価を支払い従軍させてその任に就かせるのはOKなのか」「第二次世界大戦の時の日本軍が慰安婦を軍組織として従軍させていたという事実はあるのか無いのか」これらの問題点は個別にYES/NOを考えていくべきで、その結果、どのポイントを重視して橋下発言を容認するのか否定するのかということ、そして橋下市長そのものを容認するのか否定するのかということが問われるべきである。

 しかし、多くの意見は「橋下市長は女性の人権を無視している→元従軍慰安婦の人たちに謝れ」という直感的な流れになってしまっているように感じるのだ。確かに橋下市長には女性への蔑視に近い感覚があるようだ。そこには兵士の感情への配慮はあっても、女性の感情への配慮は無い。多くの女性が(そして男性も)本能的に反応して非難する気持ちはよく判るし、その根拠はそういう配慮の無さにあるのだろう。だがその感情が、他の問題点をも巻き込んで直感的に答えを出すことになっては良くないと思う。

 【戦闘中の兵士にとって慰安婦的な機能の存在は必要であるのか無いのか】:これは正直よくわからない。まず兵士になって戦闘をしたことがないからだ。だが平時であっても風俗業は世の中にある。僕は行ったことが無いので行く人の気持ちが理解出来ない。が、友人などで行っている人もけっして少なくはない。ということは、弾が飛び交う中で戦闘をしているかいないかに関わらずそういう機能は社会からは無くならないのだろうという気もする。これはタバコは良くてマリファナはダメなのと似ていて、禁止してしまえば無くなるのかもしれない。だがそれでも法をかいくぐって機能は無くならないのだろうと思う。麻薬は禁止されている日本でも流通しているし、違法な賭博も地下で行なわれているし、禁酒法があった時代のアメリカではアルカポネが暗躍していた。それを倫理的にどうこうという問題と、法的にどうこうという問題と、現象として存在するかどうかという問題は切り分けて考える必要がある。僕の考えとしては、倫理的に認めるわけにはいかないが、残念ながら禁止しても無くならないだろうと思う。

 【兵士の人間性を満たすために、慰安婦的立場の女性の人間性を否定してもいいのかダメなのか】:これが今回のひとつの大きなポイントだろう。兵士のストレスを解消するために慰安婦が必要だということは、人間に貴賎の別なく平等であるならば、兵士のストレスを解消するための慰安婦のストレスも解消される必要があるということになる。だがそのための手当はなんら考えられていない。かつてアメリカで奴隷制度があったとき、アメリカの白人の利便のためにはアフリカから黒人を強制的に連れてきて労働などを強いることも問題ないという考えが根底にあった。今ではそんなことは許されない。黒人にも人権があるからだ。見た目は違っていても人間としての価値は変わらない。権利も平等に保証されるべきだ。それは21世紀の文明先進国では常識である。だが、兵士を慰撫するためには特定の女性の人権などないかのような価値観が、今回の橋下市長の言葉の中には見受けられる。それは攻撃されても仕方の無いことだろう。いや、仕方の無いという言い方も生温いほど、糾弾されて然るべきだと僕も思う。

 【そもそも戦闘状況という非人間的な行為に兵士を追い込む戦争というものは必要なのか不要なのか】:兵士になって闘うということがそれほどまでにストレスを強いられることなら、女性を慰安婦にして強制的に軍に帯同させることが非人道的であるように、兵士を強制的に戦場に送り込むことも同様に非人道的なことであろう。だとすれば、それはなんとしてでも避けるのが文明の存在意義なのだと思う。政治家というのは市民の代表であり、あらゆることに対する知見が一般の市民レベルを超えている、いわば思慮深い知識エリートであるべきだ。人類が戦争の危機に直面する場合、それを回避する案を考えだして平和を維持するとしたらそういう知識エリートたる政治家が真っ先に汗をかくべきである。橋下市長というのは本来そういう立場の人であるはずで、であれば兵士のストレスを解消するために慰安婦が必要とか、慰安婦を強制的に集めるのがダメだから風俗を利用してくれとか言うのではなく、そういう兵士のストレスが起きなくていいように、政治家として平和のために頑張ると言うべきだっただろう。しかしそういう考えがあまり出てこなかったように感じている。それはとても残念なことだ。

 【慰安婦を軍が強制的に徴用するのはNGでも、民間からの自由意志で手を挙げている女性に対して対価を支払い従軍させてその任に就かせるのはOKなのか】:これはいつも使われるレトリックである。自由意志で手を挙げる人ってどういう人なのか。貧困などによってそれ以外に方策がない人のことである。江戸時代には口減らしといって娘を遊郭に売るケースも少なくなかったという。それは自由意志か?親も泣く泣く子供を売ったに違いない。ましてや売られて遊郭で働いている娘の自由意志はどこにあるのだ?しかし、金を出した人は言うだろう。「お金を貰って娘を売ったのだ。彼らには売らないという自由もあった」と。だが、そんな自由は無い人もいるのである。国民の生きる権利を保障する文明国家ならば、そんな風に娘を売らなければいけないような貧困困窮者を出さないように、セーフティネットを充実させる使命がある。だが国政を担う国会政党の共同代表たる橋下氏が「風俗業を活用しろ」というのはなんという話だと正直思う。そして生活保護への風当たりの強さは日に日に増し、「改正・生活保護法案」なるものが成立を目指している。そういう中で困窮者をさらに追いつめ、そして「自由意志」で辛い仕事(?)に就かざるをえない人たちが増えていくのだろう。それはけっして他人事では無いと思う。

 【第二次世界大戦の時の日本軍が慰安婦を軍組織として従軍させていたという事実はあるのか無いのか】:これもまた今回の大きな問題のひとつだと思う。僕にはその歴史事実に対する考察をする能力は無い。希望的な側面も多分にあるけれども、それは無かったと個人的には思っている。元従軍慰安婦と称する人たちが出てきて話題になったり、韓国の日本大使館前に慰安婦の像を建立したりというのは政治的なショーであると思っている。仮に、もしその事実があったとしても、正式な国交がある国の大使館前にその像を建立するなんて、常識では考えられない。もしもアメリカの大使館前に原爆投下の像としてキノコ雲の銅像を建立したらどうだろうか。ドイツ大使館の前にナチスドイツの鍵十字マークをペイントした像を建立したらどうだろうか。そんなことはまともな国交を考えている国のやることではない。機動隊が像を建てようとする業者を排除するだろう。
 韓国のそういう姿勢には首を傾げざるをえない。それでも彼らはそうやって慰安婦問題をいつまでも蒸し返す。というか、架空(と思っている)の話をしたがる。今回の発言は、慰安婦問題をまた持ち出して騒ぐきっかけを与えたに過ぎないと思うし、それを日韓両国の間だけの話ではなくて国際世論も巻き込んで日本の立場を不利にしたと思う。そういう点で、やはり今回の発言は失言に過ぎたと考えざるをえないと思う。


   橋下氏の発言は確かに致命的だ。だが、個人的に確認しておきたいのだが、政治家としては橋下徹という男は類い稀なる才能を持っている。今回の発言で彼を追い落とすのは日本にとって得策では無いと思う。こういうと「何を言ってるんだ、お前も慰安婦賛成派か」と罵声を浴びせられるんじゃないかと心配もする。だが、慰安婦問題と政治家としての才能は切り離して考えるべきだと思うのだ。

 それは日本(に限ったことではないのかもしれないが)のもっとも悪い点である。ひとつのスキャンダルが政治家を失脚させる。そして残るのは可もなく不可もなくという凡庸な政治家だ。これなら二世でも三世でもつとまるという居眠り議員だ。官僚が楽に操縦出来る。アメリカだって操縦出来る。そういう人ばかりが残るのでは、日本の真の自立などはありえないし、国民の幸せなどもありえない。

 最近では希代の政治家小沢一郎が実質的に失脚した。有りもしない政治資金の悪用というキャンペーンによって世論が作られ、検察審査会というブラックボックスの中で決まった怪しげな議決で失脚一丁上がりだった。そのことで日本が失ったもののなんと大きいことか。橋下徹も程度の差こそあれ同様に失脚させられようとしている。「彼が失脚するなんて当然だし価値の無い男でしかない」という言葉も聞こえてくる。もちろん小沢一郎の無罪判決のように明確なシロではなく、橋下徹の発言は現実にあったのだから比較するのもおかしな話かもしれないが、だとしても、これをもって政治家として失脚すべきとは思わない。むしろここで何かを学び、次の正しい行為のために余地を残しておくべきだ。もちろん政治家なのだから彼が好きな言葉のように「選挙民が選挙で選ぶ」かどうかが鍵なのである。だがその選挙民の多くが、いろいろな問題をゴッチャに考え、混乱した考えの中で感情的に結論を出してしまうわけだし、それを知っているメディアがガンガンと攻撃しているという現状から考えれば、その選挙民による鍵も簡単に吹き飛んでしまうわけで。それがどうしようもなく虚しいわけで。

Sunday, May 12, 2013

相方

 最近、というか結構以前から奥さんや旦那さんのことを相方と呼ぶのをよく目にする。最初にそれを見た時は漫才コンビかと思わず突っ込んだ。そのくらい僕には違和感があったのだ。

 だが結婚してからはそう呼び合っている人の気持ちもなんとなく解るようになった。他人に対して配偶者のことを嫁とか妻というのも横柄な気がするし、それを聴いている配偶者がいい気はしなさそうに思ったし。もちろん正式には妻というのが正しそうなのも知っている。社外の人に対しては平社員であっても社長のことを言うのに「○○さん」などの言葉を付けずに「田中(佐藤でも鈴木でもよし)は席を外しております」などと呼び捨てにするのが礼儀であるように。でも、だからといって他人を立てるために配偶者を呼び捨てにする気など毛頭ない。なぜなら他人の気持ちよりも配偶者の気持ちの方が圧倒的に大切だからだ。

 本当に昔の人なら、名前を呼ぶことさえなく、「おい」とか「ちょっと」という声でしか呼びかけなかったと聴く。その気持ちもすごくよくわかる。でもさすがに今は平成だ。イクメンも当たり前の時代だ。配偶者を「おい」よばわりしていたのでは結婚生活は(大抵の場合)破綻するよ。

 というわけで、僕は配偶者のことをブログやTwitterなどでは「奥さん」と言っている(本人に直接呼びかける時はもっと別の呼び方があるのだが、それはプライベートなものであって、互いの両親さえも知りません)。でもまあ奥さんと言っているのもちょっと気恥ずかしい感じも無いわけではなく、結局正解はないんだなあと思う。

 そんな奥さんも、最近はお母さんだ。当然僕もお父さん。子供が出来るというのは人と人との関係性も変えてしまう。もちろん僕にとっては奥さんだが、家の中、特に子供の前ではお母さんと呼ぶ。僕ら夫婦の父や母はすでにおじいちゃんとおばあちゃんだ。僕らがそう呼んだら関係は悪化するだろうが、孫の前ではすっかりおじいちゃんとおばあちゃん。ご本人たちもその呼称を完全に受入れている。

 そんなこんなで今日は母の日。僕は息子と二人で散歩に出かけ、お母さんが純粋な自分に戻れる時間を作ってみた。その間に本を読もうと昼寝をしようと自由。母の日に、母じゃない自分に戻るというのもおかしな話だが、世の中のお母さんは毎日育児に明け暮れているので、自分に戻れる時間が一番嬉しいんじゃないかなと思う。そんな男2人の小旅行も約4時間で終了。帰りがけに近所の花屋でカーネーションを1輪だけ買って帰った。当然それは僕からではなく息子からのプレゼントだ。だって彼女は僕にはお母さんではなく奥さん(相方でも、妻でも、嫁さんでも、なんでもいい)なのだから。その代金380円を息子のおこずかいからいつ天引きすればいいのか、などとPCの前で今考えたりしている。


Saturday, May 11, 2013

おかしな本棚

 本棚から引っ張りだして読み始めたのが、クラフト・エヴィング商會の『おかしな本棚』だ。



 この本は京都に引越してきてすぐ、マンション近くの有名書店恵文社一乗寺店で買ったものだ。東京にいる頃から恵文社という本屋が好きで、Twitterでアカウントをフォローしてて、そこが「こんな本が入荷しました」「こんなイベントが今度あります」とつぶやく度に、ああ、いいなあ、行きたいなあと思っていたものだ。入荷した本など東京でも買えるし、amazonでだってすぐに取り寄せられる。でも、恵文社が奨めてくれるものは恵文社で買いたい。

 京都に引越すことになり、偶然にも恵文社が余裕の徒歩圏内ということになり、しばらくは週に2〜3度は通っていた。今も週に1度は足を運ぶ。で、この『おかしな本棚』も恵文社のアカウントが紹介してくれたのだった。クラフト・エヴィング商會ってなんだ?そこにまず興味を持つ。で、なんとサイン本だという。知らない作者のサイン本を欲しくなるとはおかしな話だが、無くならないうちにと慌てて買いに走った。

 そしてこの本は今僕の本棚にある。本にまつわるエッセイ集なのだが、これが面白い。頭から終わりまで一気に読み通すという本ではなく、時々出してきては雑誌を眺めるようにページをめくる。そう、これは雑誌なのだと思う。雑誌も頭から終わりまで一気に読み通したりはしない。面白い特集を眺めては閉じ、また時間の空いた時に眺めたりする。つまらない雑誌はすぐに古紙回収の日に出されるが、気に入った雑誌はなかなか本棚から消えていかない。同様に『おかしな本棚』も消えていかない。装丁が本なのだから雑誌よりも捨てにくい。というか、これは気に入った雑誌並みに消えていかない気がする。いや、これこそ本棚に長く鎮座していていただきたい本だと思うのだ。

 この本では作者がいろいろな本について、また本棚について書いている。これがとにかく面白い。ある章では、本棚の奥行きがある場合には前後に本が並べられてしまい、奥に収められた本は段ボールにしまわれるよりはマシかもしれないが、せっかく本棚に並べられる栄誉を勝ち取ったにもかかわらず、本棚に並んでいる意味がほとんど無くなる、と書いてある。あるあるそういうこと。うちの本棚でも多くの本が後列に幽閉されている。でも仕方ないのだ。家はそんなに広くない。

 またある章では、本がそこにあるのは、その本を買った時の自分の記憶が背表紙を見ただけで思い起こされるという一種の記憶喚起装置としての意味合いがあるので、また読み返したりしなくても、「おっ、いるな」と思うだけでいいのだ、と書いてある。これもまったく納得出来る。もうきっとその本を読み返したりはしないのに捨てられないのは、自分の記憶を消去&リセットしたくないのと同じことだ。そこにあるだけでいい。もちろんスペースに限りはあるので、記憶の中でも残しておきたい本だけが抽出されることになる。歳を重ねるに連れて、本棚に残る記憶の密度はどんどん濃くなっていく。

 そしてまたある章では、家族の本棚にはみんなの本が並んでいて、存命中の母の本よりも無くなった父の本の方が目立つ場所に並んでいるのがおもしろい、とある。そこに父の本が並んでいることで、本棚は仏壇の役割も果たしていると。ああなるほど。それはまったくそうだなと思う。僕も父が持っていた書道の練習本を本棚に置いている。それは父の存在の証でもある。また、中学に入った時に父からもらった国語辞典もそこにある。今となってはわからない言葉はネットや電子辞書を使うのでもう国語辞典を開くことはほとんど無いが、贈られた国語辞典の表紙を開いたところには父から僕へのメッセージが自書されていて、絶対に捨てることは出来ない。父は確かにその本棚にいるんだなと思う。

 さて、僕の本棚はすでに家族の本棚として役目を変えている。当然僕の本と奥さんの本が渾然一体と並んでいる。だから本の半分には僕の記憶は存在していない。だが、そういう渾然一体としている本棚が既に僕らの結婚の証でもあるのだろう。知らない本があるということが、僕は1人ではないということを意味している。知らない本が並んでいると言っても、それは本屋や図書館の本棚とはまったく意味が違う。そこにある知らない本には、彼女の記憶が詰まっている。それが僕の記憶と渾然一体となっているということは、人生が混ざり合ったということの証明でもあるような気がする。

 こういうことは、電子書籍ではありえない感慨だと僕は思う。それがなかなかデジタルに気持ちが行かないひとつの要因だろう。紙の書籍だったら、自分が読んで面白かったものを奥さんに「読んでみる?」といって貸すことも出来る。だが電子書籍では端末そのものを貸さなければいけない。それは面倒なのできっともう1冊買えということになってしまうだろう。本棚を共有するなんてこととは全く別の文化がそこにはあるように思う。

 もちろん以前は巻物だったものが書籍となって僕らの生活に福音をもたらしたように、いずれ紙の本は消えてなくなり、今の紙の本にあるいくつもの特性をも含む電子書籍文化というものが取って代わるのだろう。だがそれは今日明日ではなく、もう少し先の時代なのではないだろうか。僕はそうあって欲しいと思う。たとえ電子書籍が紙の書籍を圧倒したとしても、僕の家にはまだまだ本棚を置いておきたい。

 そうそう、11ヶ月になろうとする息子に絵本を読んであげるのが今ものすごく楽しいのだ。彼の本(絵本)も僕ら夫婦の本棚を浸食し始めた。本棚は、家族の証でもあると思うのだ。

Thursday, May 09, 2013

カッコいいバンドたち:2013年5月編

 たまには音楽の仕事してる人みたいな記事も書いておかなきゃと思います。で、今日はいくつか無名のカッコいいバンドを紹介します。


『lasting』/inorganic or mineral matter

 横浜を中心に活動しているポストロックバンドです。ポストロックと名乗っているバンドでも音楽性はまったくバラバラですし、そんなにポストな感じじゃないぞという普通のロックバンドも多いのですが、これはまったくもってポストなロックだなという印象。このカッコ良さは、そんなにロックに精通していないリスナーでもカッコいいとすぐに感じると思います。追求している世界が明確だし、それにストイックに取り組んでいるような雰囲気も楽曲から滲み出てきます。



『nock』/水中ブランコ

 鹿児島を拠点に活動しているバンド。熱い、とにかく熱い。格好をつけてそれなりに形を整えるバンドはものすごく多く、というかほとんどがそうだと断言しますが、彼らはそういうことなどおかまいなしにぶちかます、そんなエネルギーを感じます。今月はアメリカツアーだそうで、頑張ってるなと思います。



『生マレ守ナイ』/ソコノケモノ

 こちらも横浜を中心に活動しているバンド。リズムが不思議で、ボーカルが妖しい魅力で、ベースに圧力があって、ギターのフレーズが偏執的で、ドラムがグルングルン回っていて、どこをとっても面白い、いや、ステキです。



『FeverRoverRevolver 』/And bottoms

 東京千葉を中心に活動する3ピースロックバンド。なかなか渋い。ボーカルの声質にすごく特徴があり、引っ掛かりのある歌になっている。ベースのフレーズがメロディを持っていて、単なるルート弾きではなくて、とても目立ちます。


 今日のところはこのくらいで。なお彼らに直接取材したり許可を得ている訳ではないので、上記のYouTubeは突然リンクが切れる可能性があります。その時はその時ということでひとつ。

 最後にキラキラレコードの楽曲もリンクしてみます。


『天気予報は雨』/ペパーミントキャンディーズ

先日HDから発見された過去のビデオです。時間が経っても色褪せない名曲というものはあるのです。先日公開したところ、CDが売れました。このマキシシングルに収録している3曲目が一番泣かせる隠れた名曲だったりするので、買っていただいた方は得をしたと密かに思っております、ハイ。

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(クリックしてCD買ってくださいね)

Wednesday, May 08, 2013

放題文化

 書籍の読み放題サービスがスタートするとか。ついにそこまでという気がする。でも、それでいいのか?

 音楽の世界ではすでに聴き放題サービスはある。昔は有線放送がそういうサービスだった。機械を導入して月額を払えば聴き放題。440チャンネルあるから自分が好きなジャンルの音楽のチャンネルに合わせれば良い。これでもうCDを買う必要はないと、有線は宣伝していた。だが好きなジャンルのチャンネルは選べるけれども、自分が好きな曲を今聴くことは出来ない。だからリクエストすれば良いのだが、リクエストしても流れるまでは時間がかかるし、待って1度聴くだけだ。それではリアルタイムでの聴き放題とは言い難い。

 だが今は本当の聴き放題サービスがある。Spotifyだ(日本では2013年5月時点でまだサービス未提供)。サービス未提供だから使い勝手についてはよく知らないが、聴きたい曲を聴きたい時に聴けるそうだ。我がキラキラレコードの楽曲もいくつか配信をしていて、それはSpotifyにも提供されている。稀に支払い明細があって(日本の楽曲なので、海外で聴かれていることも驚きではある)、明細を見ると0.0078ドルだ。1ドル=100円のレートで0.78円だ。日によって変わるが、0.01円になることは滅多に無い。たくさん聴いてもらえればそれなりの金額になるのかもしれない。Spotifyは2000万ユーザーがいるそうだが、その全員が聴いたとして、20万円にならないという計算だ。それほど聴かれていないミュージシャンにとってはほとんどお金にならない音楽流通だと思う。

 僕はよくバンドマンに言っているのだが、今の時点でサザンやミスチルに総売上で勝てるわけはない。だが特定のリスナーに対して「僕らとサザンのどちらを買いますか?」という問いかけであれば、勝てる場面は出てくる。それを増やしていけば良いだけのことである。だがどこかの誰かが1度聴いて1円にならないというレートであればどれだけ勝たないといけないのだろうか?それなら駅前で投げ銭を期待して歌っていた方が遥かに可能性があるというものだ。

 若いバンドマンだけでなく、かつてのスターも生きていかなければならない。以前は毎日テレビに出ていた人もやがてそれほどの露出は無くなる。そうなるとどうすればいいのか。ファンクラブである。1億人が活動を知らなくても、コアなファンが1万人いてくれて、そこに的確に情報を流すことができ、年に1枚CDを買ってくれて、年に1回ライブに来てくれれば十分に採算は取れる。さらにファンクラブの会費を5000円ほど払ってくれるならスタッフだって数人雇うことが出来る。広く薄くというビジネスではなく、狭く深くというビジネススタイルだ。

 インディーズの無名アーチストも、同様のビジネス展開をしていかなければならない。かつてのようなメジャーで100万枚というビジネスモデルを追求しても、その根幹となるメディアも変化していれば、メジャーレーベルの力も変化してしまっている。自分に出来る中でのファンの囲い込みをどうしていくのか。これこそが日本全体で見れば無名でも音楽で食っていくための鍵なのである。しかし聴き放題というシステムは明らかに広く浅くのビジネスモデルであって、無名のアーチストやかつてのスターが同意出来る種類のシステムではないのだ。

 それでも百歩譲って音楽も書籍も動画コンテンツもすべてリスナーや読者などユーザーのためにあるということだとしよう。それでも、人間には1日24時間しかないのである。いったい何曲聴けるというのだろうか?僕はかつてWOWOWに加入してたことがあって、これで映画を観放題だとワクワクしたことがあるが、結局ほとんど観なかった。数ヶ月見なかったこともあって、あまりにバカバカしくなって契約を辞めてしまった。本読み放題、映画観放題。そんなことで愛読書などは出来ないと思うし、感銘を受ける映画も出来ない、一生聴き続ける自分の名曲も出来ないだろう。

 食事にしても食べ放題のお店はある。だが、食べ放題は食べ放題だ。量であって質ではない。もちろんホテルのレストラン食べ放題のクオリティはそれなりに高い。だが飽食の人たちがこれでもかと競って列を作り料理を皿に盛る姿を見ると、せいぜい数年に1度程度でもう十分だと思う。一生毎日食べ放題のレストランでと言われたら僕は絶望するだろう。飢えないということが満足ではない。満腹ということも満足ではない。

 文化も同様だ。値段があって、それに対する価値があるのかどうかをじっくりと吟味する。その過程そのものが鑑賞なのだ。聴き放題見放題読み放題では、価値に対する評価さえ不可能になる。それでは作者に対する尊敬も生まれないだろうし、そういう文化の消費の仕方をしている人は哀れだとさえ思う。

 だが、時代の流れは確実にそういう方向に向かっていて、その流れに抗う方法さえまったく見えていないというのが正直な心持ちなのが悔しい。

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Tuesday, May 07, 2013

アンネ・フランク

 先日本屋で絵本の「アンネ・フランク」を見た。



知ってはいるものの、もう内容についてはかなりおぼろげだったアンネの日記。それを絵本にしたもの。全体的に無機質なトーンの絵柄で、えも言われぬ寂しい雰囲気の当時をよく表していると感じた。

 当時のドイツは世界的な不況のさなかにあり、ヒトラー率いるナチ党が台頭し、反ユダヤ政策を推し進めた。フランク家はオランダに移住するもののナチスドイツがオランダに侵攻し、やがて隠れ家での生活が始まる。隠遁生活は2年にも及ぶが、ついに密告によって発見されて収容所に送られ病死する。

 もう誰もが知っている話だ。この話を聞いてナチスドイツは酷いヤツらだと思う。どんなに理屈が正しそうに見えようとも、特定の民族だからということだけで権利を奪い、命を奪うことが正当化されるわけがない。だが実際に起きたことだし、疑問を持っていた人であっても抵抗できない雰囲気というものに社会が包まれていたのだろう。

 だが、当時のドイツ国民のことを非難できるのだろうか。今日本では中国や韓国との関係が悪化し、いろいろなところでバッシングが起きている。そこにも理由はあるのだ。竹島や尖閣諸島という領土にまつわる問題と、そこから派生する罵倒合戦。だが、どんなに理由があろうとも、特定の民族や人種に生まれたからということだけで他人に死を要求などできるものか。普通はそうだ。戦後の民主教育でそういうことはダメだと散々教わってきたし、その価値観は誰しも共有出来るものだと思っていた。しかし、最近のニュースを見る限りそれは間違いだったということに気付かされて愕然とする。

 ヒトラーの台頭も、不景気の中での経済対策から始まっている。追いつめられれば人はいろいろな感性を自ら死滅させてしまえるものだ。経済さえ立て直してくれるなら哲学なんてもうどうでもいいよと。窮すれば鈍すである。平素豊かな時ならばそんなことは有り得ないと思うし、今でも大多数の人はそこまで追いつめられてはいないだろうと思う、いや思いたい。だが、実際年間3万人もの人が自殺する。その多くは経済の行き詰まりだ。鬱からの自殺も当然あるが、それとて経済的に満たされていたらそこまで追いつめられなかったケースも多かろう。今の日本はどうなのか。経済的にどうなのか。そして人々の人権意識はどうなのか。というより、愛はどうなのか。少なくともヘイトスピーチが公然と行なわれるような事態を目の当たりにしては、かなりの危機感を覚えずにはいられない。いられないのだ。

 こういうときだからこそ、このアンネフランクに偶然出くわしたのは有意義だったと思う。そうなってからではもう遅いのだ。今自分に出来ることは一体なんなんだろうと考えさせられた。

Sunday, May 05, 2013

こどもの日

 なんか世情は不安だ。何が不安だって簡単に説明など出来るものか。簡単に出来るくらいなら簡単に修正も出来るだろう。完全な悪と完全な善がいて、勧善懲悪で物事が済めば苦労は要らない。悪に見える人も一方の陣営からはヒーローである。そして何より1人の人間だ。人間には基本的人権というものがある。その中で誰もが悩んだり苦しんだりしている。どうしようもない流れでその立場になった人もいる。というかほとんどの人はそうだろう。就活でそこに偶然内定が決まっただけの人は五万といる。ある特殊な家に生まれたばっかりに抗えぬ力で政治家になってしまう人もいる。そうなりたい人からすると「ずるい」ということだろうが、なってしまってる人からすれば、それ以外の道を選ぶ自由などない。基本的人権があるから選ぶ自由はあるのだ。だが自由とはいつも手にするために多大なる労力や犠牲が必要となるものだ。ぐずぐずしていたら自由な道を選択することなどなく、いつの間にか「オレはどうして今こんなことをやっているんだろう」という立場になってしまっている。いや、ほとんどの人はそれを天職と錯覚して馬車馬のように頑張っちゃっているのだが。

 で、世情の不安だ。憲法改正して徴兵制とかになって戦争になったらどうするとか言われてて、そこまでなるかよとは思うのだが、じゃあ絶対ならないかと言われるとそんな自信はまったく無い。制度としてそうなるのかという問題とは別次元の、もっとみんな国民はまともだろという期待がかつてはあったけれども、この数年でそんな期待はまったく崩れた。第二次世界大戦前にどうして国民を挙げて戦争に突入していったのか。その時の国民は愚かで阿呆だったんだと思っていて、戦後の民主教育を受けてきた僕らには個人主義が浸透しているからなんだって自由なことが言えるし、だから戦争をするなんてことを言う政治には敢然とNOを突きつけるはずだと思っていた。が、それも311以降の絆圧力を目の当たりにすると、ああ、人間はいとも簡単にその同調圧力にひれ伏してしまうんだということを思わずにいられない。それは一種の諦めだ。絆という一見まともで正義な言葉に押されると、人は「いやそうじゃないよ」と思っていてもそれを言葉にすることが出来ない。出来ると思っていたのは机上の空論だったし、書生論に過ぎなかった。人は圧力に弱いし、それに対抗する唯一の手段は沈黙だった。転向する必要はない。だけど主張を貫き訴える必要もない。だから自然と黙るのだ。黙ると、両極端の人だけが声を上げ続ける。声を上げるというのは事業であり、事業には資金投下が必要である。結果として金を持っている勢力が声を大きくしていくことが出来る。戦争とは詰まる所金だ。やることで儲かると信じてる人が宣伝予算を使ってムードを醸成し、一気に突っ込んでいく。本当は無言の声もあるのに、金を持っているビジネスマン勢力と、正義だけで動こうとする理想主義者での両極端な言い争いのどちらが勝利するのかは目に見えている。ビジネスは結局コストとリターンのバランスだ。利益をあげるためには人件費などどんどん削っていくし、サービス残業で過労死しても仕事の勢いを止めようとしない。止めれば外部とのビジネス戦争に負けるからだ。それは今の世の中で散々見てきている。本物の戦争だって基本は同じこと。働いたのに「サービス」でお金をもらわず黙っているのは、要するに絆みたいな何かのスローガンに騙されているわけで、その精神構造がアリなら、お国のために自分の命までサービスで投げ出すことだろう。だって働いたのにお金もらわないっておかしな話じゃないか。でも、黙っている人はものすごく多い。国のために命だって普通にサービスで投げ出すよ。おかしな話だ。でも、圧力がかかりムードが支配すると、それもアリだと思い込んでしまう。単なる思考停止だと思うけれども、そのまっただ中にいる人にとっては思考停止だという概念さえ消え去ってしまっているのだろう。

 で、こどもの日だ。僕にとっては子供がいる状態で迎える初めてのこどもの日。子供のことを今まで考えていたかこの5月5日に?ただ「休みだ〜」なんて感じでいただけだ。でも今年は子供のことを考える。明るく楽しく過ごしていければいいなと思う。ずっと幸せな人生を送ってもらいたいと思う。そのために何が出来るんだろうと思う。でも、絆圧力が世間を支配したら、僕に一体何が出来るのだろうか?それを考えると頭を抱えてしまう。だって息子10ヶ月半の一生を見守り続けることなんて不可能なのだから。だとすると、やっぱり教育だ。教育といっても勉強を詰め込むことではないと思う。人間がなんで生きているのか。幸せとはなんなのか。こうと思ったことをどうやったら続けていくことが出来るのか。そしてこうと思っていたとしても、それ以外の道もあるんだという柔軟な思考を持つにはどうしたらいいのか。そういったことを教えてあげたい。それを教えてくれる学校も塾も無いと思うから。いや、もちろん生きていく中でいろんな友達や師に出会うだろう。そういう人からも教わっていくだろう。だが父親こそがそういうことを教える最大の柱だと思う。というか、そうでなければならないと思う。それが自分に出来るのだろうか。いや、出来るかどうかじゃないんだなこれ。やるかやらないかなんだなきっと。

 頑張ろう。そんなことを考えながら、夏の陽気が少し顔をのぞかせた京都で1人かき氷を食べながら考えておりました。なぜ1人かというと、肝心の息子はお母さん(僕の奥さん)と一緒に、ママ友から誘われたこどもの日イベントに出かけておりましたので。

 父親は孤独だ。でもその孤独が哲学を鍛えることになるし、それがいろいろ教える基になるんだと、自分に言い聞かせたこどもの日だった。かき氷を食ったのは桂にある中村軒。季節のイチゴ氷はとても美味しかった。いい日だった。

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Friday, May 03, 2013

憲法記念日

 祝日の今日、昨晩遅くまで起きていたにもかかわらず、長男の起床とともに一日が始まる。休みだから遅くまで寝ているという理屈は通用しない。

 で、朝ごはんを食べ、洗濯物をたたんだりしていた。僕がたたんでいる時も生後10.5ヶ月の長男はおとなしくなどしてはいない。お父さんがなにか面白いことをやっているに違いないと思うのか、近くにずり寄ってきては、たたんだ服を片っ端から散らかそうとする。それを排除してはまたたたみ、たたんでは排除する。その繰り返し。効率が悪いったらありゃあしない。

 でも、長男が近寄って来られないように別の部屋に閉じ込めておくのはイヤなのだ。興味あるものに近づくのは正常なことで、喜ぶべきことであっても迷惑がることではない。多少作業効率が下がっても、数枚の洋服を何度もたたみ直すことになっても、それはそれでいい。ちゃんと長男が成長しているということなのだから。

 なぜ連休に僕が洗濯物をたたむのか。奥さんはなぜしないのか。という声は挙るのだろうか?挙ったって気にしない。たたむのは好きなのだ。好きなことを僕がやって何故悪い。長男がたたんだ服を散らかすなら楽しみが増えるというものだ。それに、連休は家族の連休であって僕だけの連休ではないのだ。奥さんがそれで楽が出来るなら、それこそ奥さんの連休スタートというものである。

 そんな連休後半初日は憲法記念日だった。時節柄憲法改正論議が喧しく、もはや改憲は前提のように進んでいる。この問題はなかなかに奥が深い。憲法論議はいろいろな憲法学者が論議を積み重ねてきて、新しい論議は出来ないくらいにガチガチになっていると聞く。その割に僕を含め国民の多くは憲法についてほとんど知らない。9条くらいだろう条文を知っているのは。今96条の改正を自民党が狙っているということだが、96条もあるのかと驚くくらいだ。97条以降もあるのか、それも知らない。仮に96条で終わりだとして、9条と96条以外に94条もあるわけだ。それを知らずに改憲もクソもないだろうという気が正直している。一度きちんと読んでおきたいと思った。

 では、読んでなくてわかっていないなら黙ってろということなのかというとそうではないと思う。戦後67年もの間とりあえず平和に暮らしてくることができた。その平和な国の根本原則である憲法を変えるということに怖さを感じたとしてもまったく不思議ではない。今の憲法を変えないといけないとするならば、何故今のままではダメで、変えることによってどのようにこの平和と繁栄がさらに平和で繁栄な国につながっていくのかということを、改憲主義者は説明する必要があるのだろうと思う。「アメリカから押し付けられた憲法だからダメ」というだけでは説得力などまったく無い。ましてや今回の96条からの改正という手法は、ルールの根本をなし崩しにしようというもので、本質的論議というより技術的戦略に過ぎない。それは邪道だと思う。誘拐犯が子供に「おもちゃ買ってあげるから付いておいで」という時のおもちゃそのものだ。おもちゃに釣られてついていくと、その先にあるのは誘拐だ。そういう怖さを僕は感じる。もちろん善意でおもちゃを本当に買ってくれるおじさんもいるかもしれない。でも親なら「その人が本当におもちゃを買ってくれる人なのかを慎重に見極めなさい」とは教えない。普通は「知らない人についていってはいけません」だ。僕もそう教わってきた。だから、よく知らない改憲論議には最初から嫌悪感を覚えるのである。おもちゃを買ってあげるというおじさんが本当に善意だけで言っているというのなら、親を含めて説明を十分にすべきなのである。説明が十分にされて、それでもなおまともな人はついていかない。それをついてこさせるくらいの丁寧な説明が必要なのであり、それは今の改憲論議ではまったくなされていないと僕は思うのである。

 何事もそうだが、変わっていかなければ生き延びることは出来ない。その変化が改憲を必要とするものなのか、それ以外の変化で十分なのか。そこもちゃんと判断されるべきだ。判断するのは、僕だ。これを読んでいる普通の人だ。政治家だけではない、日本国民すべてが等しく考える義務がある事柄だと思う。

 連休後半初日、僕はとても幸せな気分で過ごすことができた。生後10ヶ月半の長男との暮らしはとてもスリリングでエキサイティングでピースフルなことだ。その長男と1日ずっと一緒でいられるというのは幸せそのものである。その1日が洗濯物をたたんだり、それを邪魔されたりすることだとしても、僕は素晴らしいと感じている。この幸せな時間が少なくとも長男が生きている間くらいまでは続いてもらわなければ困ると思う。憲法を変えるというのは、それに資することなのだろうか。その確信が今の時点ではまったく持てない。

 確信を持てないのは一体何故なのか。単に僕に日本国憲法についての知識が欠けるからなのか。それとも現在の改憲推進の動きが本当に邪道でそれを的確に感じ取っているからなのか。そんなことをちゃんと考えるには、憲法記念日という今日は一番ふさわしいのかもしれない。

Thursday, May 02, 2013

ハードディスク

 連休の合間の平日はなんか調子が狂う。なんでだろ?リズムがいつもと違うような気がしてならない。

 なので、オフィスの掃除を結構真面目にやった。かなりスッキリして嬉しい。部屋が片付くのはいつも気分良いものだが、どこにあるかわからなかったものが偶然見つかるというのが特に嬉しい。今回発見されたのはハードディスク。ノートパソコン(MacBook Proだけど)を買い替える時には必ずといっていいほど内臓のHDを自分で交換する。Appleでやってもらうとメチャ高だからだ。買った時点で一番大きなサイズのHDにするわけだが、そうすると入っていたHDが余る。その余ったHDの分も込みで自分交換の方が安いのが面白いところ(しかも中を開けるのは結構楽しい作業)で、余ったHDにケースを買って外付けとして利用。ポータブルHDの出来上がりだ。

 しかしまあ最近はポータブルHDというモノ自体があまり利用価値が無くなっている。USBのメモリスティックが結構な容量だし、Dropboxやbox(キャンペーンで50GBのスペースをいただいた。でもまだほぼ使わずに放置してある有様)があるから、通信環境さえ確保していればそこに放り込んでおけばいい。そして近年の仕事で通信環境が確保されない状況は考えにくい。必然的にポータブルHDとして再生した元内臓HDは再び使われないHDとしてどこかに行ってしまっている。

 それが、見つかった。たいしたものは入っていないだろうと思って見てみたら、どうもポータブルHDというよりも保存用のHDとして利用していたみたいだった。中には古いプロモーションビデオの数々。これはいい。思わず取り込んでMP4に変換して、いくつかをYouTubeチャンネルにアップした。古い映像なので見ると少々恥ずかしいものもある(音楽的に古さがあるのと、昔は映像の加工にものすごい時間がかかっていたので、多少の不満も時間的な要因のために我慢していた部分があったから。もちろんセンスの問題もある)が、まあひとつのネタとしてアップという考えもあるし、その恥ずかしい部分も含めて歴史なのだ。

 結果的にいつもとはちょっと違う仕事をすることができたわけだが、そうするとHDというものに再び興味が出てくる。で、調べてみた。もう3年以上HDを買ったりしていなかったのでこれは興味深い。どんどん安くなってしまっている。

1T以上の2.5インチハードディスクいろいろ

 ノートに内臓用の2.5インチHDが、1TBで8000円しないとは。かなりビックリだ。時代は変わったなあという気がする。僕が遅れているだけなのだろうか?まあ時代は徐々にSSDに移ってきているみたいだが、まだまだアレは高いし、容量の方が僕には必要な気がしているから、このHDの安さはかなりの魅力だと思う。


これなんかもかなりいいと思う。ウエスタンデジタル結構好きなんだよなあ。

 しかしついでに調べてみたら、外付けなら2TBでも1万円しないのか。

2TB以上の外付けHDいろいろ

 こうなってくるとちょっと考えるな。いや、今すぐに買い替えたり追加したりはしないんだけれども(緊急必要性がないので)。目下の課題はいくつか見つかった80GB程度の外付けHDの扱いについてだ。それをまたつないで使うということはまず無い(USB1.0の仕様なので)から、そこからデータを新しいHDに移し替えて、破棄させていただくのがもっとも正しいことなんじゃないかという気がすごくしてしまっていて…。